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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2008年11月号

2008年11月号 (2008/11/08) 家内の四十九日忌を終えて

サンパウロ中央老壮会 内海博
 今、この事を書くかどうか、ためらいながら書いています。
 それは埋葬の時のこと。私が少年の頃、ある古老から聞いた話です。その古老の話は、S氏二十七才、最愛の奥さんは二十二才の若さで亡くなり、いよいよ埋葬、お棺が三尺深い墓穴に収まった時、突然、S氏は奥さんの棺桶の上に飛び降りて、驚く人々を見上げて「俺も死ぬ。一緒に埋めろ」と叫び、両肘を張って頑張るので、上から引き上げようとしても、人間、逆さまになっては力が入らない。いろいろと説得したが、耳を貸さない。二十分余りの説得でやっと外へ出たが、興奮の為、言葉もなく、会葬御礼は代理の者がやってその場はなんとか収まったという。世に心中という事がありますが、解るような気がする私は、少年の頃に聞いたこの話しをずっと忘れないでいました。
 後年、家内にこの話しをしたら、笑ってそんな事出来る訳が無いといいます。「俺はお前が先に死んだら実行してやろう」といえば、「私たちはそんな事より、絹子の為に一日でも長く生きたい、生きなければならない」と障害者である娘を思う言葉に終るのでした。
 長崎の永井隆博士はその著書「この子を残して」の中で痛烈なまでに原爆を憎み、あってはならない過ちが、罪の無い子を道ずれにする悲しみを世間に問う作品を残しています。悲惨さは違いますが、親が子供を思う心に変りはありません。家内は「この子を残して死ぬことは出来ない」が口ぐせでした。風邪を引いたりして休んでいると、口をつくのが毎度、この言葉でした。それがまた別の時は「死ぬ時はコロリチッンと死にたい、美しく、人に迷惑掛けないで、死にたい」が願望のようでした。
 私は妻の埋葬の時、古い話を思い出し足が震え、実行に移す機会を見ていましたが、ふと対面にいる娘を乗せた車椅子が目に入り、ハッと吾れに返りました。この子の為に頑張らなければいけない。この子の為の「本命」を見失って実行に移す心と、二つがうずまいていて、暫くして、会葬御礼を述べる頃、声は上ずって、しどろもどろ、その言葉は支離滅裂であったと思います。納棺の時、胸の合掌の所へ「ありがとう。安らかに。ひろし」と短文を納めました。言葉では言い尽せませんが、この一言に全てを託しました。埋葬。向こう側の娘は誰かに話しかけられていて、解っているのだろうか。「母の死」をどのように受け止めているのだろうか。毎日の暮らしの場所が違っていたので…。
 それから一週間して施設を息子、嫁、孫等と訪ねましたら、意外と落ち着いていて、吾々の心配は徒労(とろうでした。やはり施設にお世話になって皆に可愛がられているので、それが良かったようです。私のことは息子、嫁、孫が掃除・洗濯・飯炊きにとよくやってくれています。運転も「車の事故を起こさないように」という皆の忠告を受け入れて、今は二十二才になる孫に任せる事にしました。
 家内は最後の土曜日は希望の家の古着売りの奉仕で頑張り、日曜日は父の日で孫と楽しく食事。その晩もよく休み、月曜日朝六時に起き、七時に朝のカフェをして、九時頃「あぁ何だか肩が凝る。マッサージに行こう」と言い、「この間貰った森山さんの名刺どこへやったかな」等とつぶやいていました。
 その時、弟嫁の文子さんが電話をしてきて、「姉さん、肩が凝るのなら私がもんであげましょう」と言って、肩をさすってもらって気分も良くなり、食事をしてしばらくしてまた、気分が悪くなり、タクシーで救急病院へ急行しました。
 十二時過ぎには気分も治り、手当ては充分尽されたようでしたが、「今夜は様子を診るから一晩UTIにおくように」ということで、すべてを病院に任せて、午後四時、私達は帰宅しました。しかし十一時に息子から連絡があり、「午後八時に亡くなった」との知らせを受けたのです。これが決別のすべてで、あとは皆様ご承知の通りでございます。
 余りにも突然の出来事に呆然自失。何もできず、息子と息子の嫁兄弟が葬儀一式滞りなくやってくれました。有りがたく思っております。葬儀、法要に際しましては、ご多忙中にも拘らず、沢山の方にお参り頂きまして誠に有難うございました。


日系コロニアの現状について思う事

カンピーナス明治会 小林謙三
 移民百年祭も無事に終わりました。思えば戦前移民は長い間、筆舌に尽くせぬ苦労をしながら、二世三世に高い教育を受けさせ、その世代は今は立派に成人して、ブラジル社会の各方面で活躍する時代になっています。
 一世の老人たちは長い間の苦労が報われて、今は功なり、名遂げて恵まれた安楽な余生を過ごしております。ゲートボールやカラオケなどが人気で楽しんでおり、それに文句を付ける気は毛頭ありません。しかし、開拓の厳しい苦闘に耐えて、共に助け合い励ましあった仲間であり、開拓前戦の戦友であった人々の中には人生に付きものの運、不運もあるでしょうが、多くの成功者が出た反面、病に苦しみ、あるいは家庭の事情で不幸な境遇の人がいるのも事実です。そのような人に自業自得だから仕方がないと見て見ぬふりしていて良いものでしょうか?同じ同胞として最後まで助け合い、励ましあって老後を生きることを考えるのが人情というものではないでしょうか。
 その方法は多岐にわたると思いますが、一つは各地の老人会は率先して地域の老人ホームや憩いの園その他の老人保護施設を団体で定期的に慰安訪問を行い、見舞い品を贈り、一品料理で共に歌ったり思い出話をしたり慰め合う事ができればいいと思います。
 老ク連では、毎年歳末助け合い募金をおこなっておりますし、各施設への慰問なども行っております。また地方の老人クラブもそれらに協力しておられる事と思います。
 ところがこのようなことに見向きもしない人たちもおります。特に若い世代は、あれは一世の年寄りの人たちのする事であるから自分たちには関係ない事であると無関心で寄り付きません。老人たちはまた、若い世代の人たちが何を考え何をしたいのか全然知りません。これでは世代間の断絶は深まるばかりです。この悪弊は打破しなければなりません。
 この助け合い運動は、一人老人だけのする運動ではなく、老いも若きも男も女も参加できるものであって、コロニア各地の日系団体がその場、その地域でこうした運動を展開すれば、コロニアに喜びの声が沸き起こり活気が蘇るのではないでしょうか。
 そうすれば自ら心も一つに繋がり、世代間の断絶も埋まり、日本文化伝承の日本人の持つ美しい心も次世代へと伝わっていくのではないでしょうか。
 さらにもう一つ加えれば、昔はよくコロニア各地で運動会や演芸会が催されたものですが、あのような催しは家族間の融和が深まり、地域の一体感が強まり、みんなに元気が出て士気が高まったものですから、ぜひ、復活したいものと思います。


息子健介が遺していったもの ③ 「健介の生い立ち(一)」

サンパウロ中央老壮会 徳力啓三
 健介は一九七〇年五月二日に私が父親、女房の洋子を母親として我が家に来てくれた。生まれて三か月が経っても光を追わず、どうやら目に異常があるように感じられ、あちこちの眼科医の診察を受けた結果、網膜のそれも丁度焦点を結ぶ部分に剥離が起こり、左目はぜんぜん見えず、右目がわずかに見えるだけの超弱視であることが分かった。
 私は一九六六年十一月に結婚し、一九六七年一月に着伯、と同時にブラジル・ヤンマー社で働き始めたが、いつかはアマゾンへ再移住しようという学生時代の夢は胸の中で燃え続けていた。着伯後四年が経ちチャンスを狙っている矢先のことであった。
 今想うに、目に障害を持つ健介が私どもの元に来たのは、自分の体を犠牲にしてアマゾン行きを先に延ばさせようとしたのではないかと考えられる。確かに健介の目の治療のために、健介が生まれてから三年から四年の間、何とか目が見るようになるようあらゆる治療を、ブラジルで一番進んだサンパウロで試み続けた。
 一九七五年九月、着伯後九年が経とうとしていたが、なんと私の夢であったアマゾンの一画にヤンマー社が七万二千ヘクタールもある大牧場を購入しそれを運営する計画が持ち上がった。大会社の資金をバックに、税制恩典をフルに生かしたアマゾン開拓の壮大なる実現に、私は目も眩むような気持ちであった。会社の中にはサンパウロより二千百キロメートルも離れた山奥に好んで行くような社員は一人もおらず、私は弱冠三十六歳で大農場の総支配人に抜擢された。一九七六年三月喜び勇んで新しい任地に赴いた。「さあやるぞ」という若き血たぎりたちて、あの頃の心いきたるやすごいものがあった。
 健介は弱視とはいえ、周りのものも気付かないほど元気で、スポーツにも、学業も人に負けずに頑張っていた。新任地は広大な牧場、一年半かけて本部を作り、人間が住めるだけの町作りをした。本部施設が整った一九七八年八月家族をサンパウロより呼び寄せ、農場内での生活が始まった。その頃、健介は八歳になっていたが、農場の中を元気に飛び回り、木登りをし、馬に乗って遊んだ。家の周りにあるパパイヤの実が熟れ始めるとトッカーノがそれを食べにくる前に、健介は両手両足を幹に絡め、上手に木に登ってゆき、パパイヤの実をくるくると回しながらもぎ取り、下で待つ私にポイと投げたものだ。
 残念なことに平和な農場の生活は、土地の不法侵入者らの無法な暴力の前に潰えた。私のアマゾン開拓の夢も五年間の必死の努力の結果もいっぺんに潰されてしまった。
 一家全員が怪我もなく、サンパウロに引き上げられたのは幸運と言わねばならない。夢は敗れたが、命まではとられず、元気に元に戻れたのはやはり大企業がバックにあってのこと、アマゾン開拓は徒手空拳では出来はしない。一九八一年一月には、サンパウロに引き上げ、再びヤンマー社の営業にもどった。
十歳になっていた健介は、サンパウロに戻ってからも、普通の子供と少しも変わることなく、柔道に、卓球に、サッカーにどんなスポーツにも順応し、目が悪くて困ったことなどないようであった。目の方は強度な弱視で治療方法もないまま、健常者にまけず、どんなことでもこなした。勉学の方も、読むのに時間が掛かっても、一度読んだら一発ですべて覚えてしまう習慣を培っていったようだ。
農場での私は、自分の夢の実現につ走り、周りの意見を聞かない暴君になっていたかもしれない。夢ばかりを追い求め、仕事のみにまい進していたようだ。サンパウロに戻った私は、大いなる反省をし、その頃より最高道徳を勉強しはじめた。
 一九八六年ブラジルモラロジーの理事長、ドクター森の診断で、健介は神経腫瘍の病を持っていることが判明した。生まれついての弱視の上に、更に奇妙な病気の持ち主となった。何万人に一人と言う難病で、これまた治療方法の確立していない現代の奇病である。この頃はまだ初期の段階で、体にこぶのような腫瘍が出来ているに過ぎなかったが、一九八八年ごろには、脳内にも腫瘍が出来ていることが判明した。
 健介は一九八九年、商業高等学校を卒業、予備校にもいかないまま、USP(サンパウロ大学)とPUC(キリスト教大学)を受験した。受験を済ませたあと、腫瘍の検査のために日本の脳外科専門の医者に診てもらうために飛行機に乗った。受験の結果は日本に知らせてきたが、PUCは合格、USPは不合格となった。USPはわずかの点数が不足していたようだが、目が悪く試験問題を七〇%位しか読めず、残念であったという。
 この頃私の仕事の方は社長室室長となり、アマゾン地域での製鉄所の建設計画を進めていた。再びアマゾンでの仕事ができるチャンスがそこまで巡ってきていたその折に、健介の第一回目の脳外科の大手術が待っていた。【続く】(「倫理の会」会報より)


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑯ 私小説の達人 尾崎一雄
 日本文学のジャンルには私(わたくし)小説という一つの流れがある。日常茶飯事の身辺雑記的な作風は評論家すじからは冷遇視されてきたものである。伊藤整の分類法に従うと、葛西善蔵を草分けとする牧野信一、嘉村磯太、太宰治、田中英光らの流れを破滅型、志賀直哉を源流とする調和型の作家に滝井孝作、網野菊、尾崎一雄、外村繁らが並んでいる。両者の中間に位置する者に上林暁、木山捷平らがいる。
 見方によっては面白くもおかしくもない平凡な物語なのだが、私は決して嫌いではなくむしろ愛読者の方である。中でも尾崎一雄に惹かれているが、ほか上林暁の「薔薇盗人」「聖ヨハネ病院にて」などに表現されるどんな苦境にあっても人の善意を信じ強く明るく己の生活を守っていこうとする意志の強さに救いを感じるのである。
 さて尾崎一雄は「暢気眼鏡」(昭和八年)により一二年上半期の第五回芥川賞を受賞して作家としての地位を確立した。これは無名作家の結婚前後の経緯を描いた極貧物語とも言えるものだが、ヒロインの宮原芳枝(尾崎夫人がモデルと言われる)の天真爛漫の性格は日本文学に創造されてきた凡百の女性像の中でも最も愛すべきキャラクターと言えよう。打算というものがなく間抜けなところもあるが、底抜けに明るく疑うことを知らない聖なる無邪気さを持つ女性が彼女である。何より貧乏にちっとも屈託せず、うす汚い下宿屋暮らしもむしろ楽しく感じ、自分の着物を抱いての質屋通いをも苦にせず、夫を信頼してやまない姿に読者は心を癒される思いがするのである。
 尾崎一雄は神奈川県出身、中学時代に志賀直哉を読んで文学を志し、のち志賀の門下生となる。昭和二年に早稲田大学を卒業したが、折りからの世界不況で苦しい徒食生活が続いた。当時はプロレタリア文学の興隆期にあたり、「私どもの書く小説はブルジョア文学の亜流で、存在価値がないどころか悪存在である」と左翼陣営が騒ぎ立て大勢の作家も左傾したのだったが、「私は左傾することは出来なかった。さりとて泰然と書いてはいても、悪かったね、書かなけりゃいいだろうと不貞腐れた」と開き直るような芯の強さが尾崎にはあった。
 昭和一九年、胃潰瘍の大出血で倒れ、諸病併発し重患のうちに終戦となった。この時の死との対決で死をだましだまし生きる方法を体得し、「生存五ケ年計画」を危惧しながらも更に生き伸びたのであった。既に志賀直哉の影響を脱したのちのユーモアとペーソスを備えた作風が特徴となってきており、更に大病後は心境小説で達観の境地に達していた。「虫のいろいろ」(二三年)は身の回りの虫たちの生態の中に、作者自身の死生観を込めた作品であり、数種の外国語訳もあり、好評だと言われている。「まぼろしの記」(三六年)では更に心境に深味が見られ、死生観を突き抜け死後の境地に入っている。
 また、昭和初期の文学青年群像を描いた「頼い春」は作者初めての長編小説で、見事な青春文学になり得ている。五三年には文化勲章を受章し、日本の近代文学史上に特異な地位を占めているが、五八年に八三才で永眠した。


選挙雑感

サンパウロ中央老壮会 西沢てい子
 「美しい町づくり」をモットーにして、市長再選を目指す今の市長さんのお陰で、あまり省みられなかった私たちの地域も大変良くなりました。
 大通りに面した商店の古い看板は法令によって軒並み取り外され、新しい規制通りのシンプルな物に作り直され、町並みは明るくすっきりとなりました。
 また、大通りに沿った歩道も全部掘り起こして修理され、見違えるようになり、歩きやすくなりました。ただし、予算の都合で片道だけなのは残念。
 通りに沿って所々にある広場も次々と手入れされ、風通しが良くなり環境も改善されました。
 私の家の前に三角形の小さな広場があります。五十年前、某宗教団体が当時珍しい枯山水を模した小ぢんまりとした日本庭園を作って市に寄付してくれたものです。大きな石をアチバイアの山から運んできて起重機で吊り上げて配置され、とても風情のある庭でした。珍しさもあり、大勢の人が訪れて写真を撮ったり、ベンチにかけて一時を過ごす、家族の方々の憩いの場所ともなっていましたが残念ながら三年位して問題が起こり、手入れもせず雑草がはびこり、荒れ放題となってしまいました。
 ただ街路に植えられた金鳳樹(きんぽうじゅ)、パイネーラ、濱椰子、ブルメリア等は立派に育って大樹になり、季節毎に花を咲かせてくれています。
 今年七月初め、区役所から大勢の人が来て、広場の修理を始めました。枯山水を模した小山の土や大石も掘り起こし、カミニョン(トラック)六台で運び去り、歩道の周りにあった水溜りもアスファルトで整備され、広場の中を縦横に歩道を作り、向こう側へ行くのも楽になり見違えるようになりました。
 今年の選挙運動は町を汚さない厳しい法令が出され、今までのように塀という塀に候補者の名前を書いたり電柱に宣伝ビラや幕を張ることも車でのスピーカー宣伝も禁止され、静かで住民には喜ばしいことです。ですが、候補者の方達や印刷所には気の毒なことだと思います。一方、大量の紙や宣伝費用などは節約になったのでしょうか?
 先日、知人から誕生祝の招待状が一人ずつの宛名で息子と娘達に届けられました。日時は十月四日、夜。場所は文協会館。ボーロとガラナで踊ったりカラオケをして楽しみましょうとの文面です。よくよく、聞いたら選挙運動だそうで、一石二鳥のやり方には感心してしまいました。
 当日は八百人収容の会館は満席となり、招かれた人たちは主に二世、三世 の日系人で多くは旧知の仲なので、話も弾み、ご馳走も食べ放題、飲み放題。歌って、踊って、大賑わいで時を忘れる思いでした。
 そして誕生日を主催されたデプタード(議員)は当選され、市長さんもめでたく再選されました。


生前葬

名画なつメロ倶楽部 田中保子
 あまり耳慣れない言葉ですが、私は三十数年前に参列しております。
 移民養成機関の大先輩の夫人が生きながら葬式をするとの通知があり、どういうことかいな?と、首を振りながら新教の教会へ出かけました。
 先輩諸兄姉から我々新来者まで多数参列して、プログラム通り、賛美歌を歌い、聖書を読んで、参列者は白菊を一本ずつ祭壇に供えました。
 ご本人は正面やや横に黒いワンピース姿で立っておりました。
 散会後のカンカンガクガクを再生しますが、誰一人として、賛成者はおりませんでした。
 曰く「何でよ!」「ばっかにしている!」「少し狂ってるんね」「ほんと、死んだ時はどうするんよ」「また、香典持ってくの?」「涙流す人、いなかったね」「でも、笑うわけにいかない」
 御本人に直接聞いたら、「私の葬儀に誰が来てくれるか、自分の目で見たかった」とのたもうた。
 数年後、本当に亡くなった事がご主人の名で通知があったが、宿六は「もう行かん」とおかんむり。私も参列しなかった。
 前例があるそうですが、義理のある方、忙しい方もおられるでしょうし、同じ人の葬儀に二度参加するのは如何なものでしょうか?


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