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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2008年12月号

2008年12月号 (2008/12/06) 拝啓、赤木様

ツパン寿会 林ヨシエ
 初めてお便りを差し上げます。このたびはサンパウロより「県連ふるさと巡り」の旅行の途中、ツパンにて一泊なされ、その節、私宅にお立ち寄り下さいまして、誠にありがとうございました。本当にうれしく、心より感謝致しております。
 また、お手紙とその節、写しました写真を送って頂きまして誠にありがとうございました。ありがたく受け取らせて頂きました。このたびの旅行は何日間の旅行でしたでしょうか? リベロン・ピーレスからは赤城さまのほか大勢の方が参加されたのですか?今の気候は暑くもなく、寒くもなく調度過ごし易い気候で旅行には持ってこいの陽気でしたね。でも遠距離の旅行ですから、お疲れになられたことでしょう。
 赤木様とは「老壮の友」の紙面を通じて面識を頂いております。かねてより一度お会いしたいものだと思っていた矢先でした。それにしてもこんなに早く実現できるとは夢にも思っていませんでした。ご訪問を心より感謝致します。
 本当にこの度は奥様もご一緒に寄って頂き、嬉しく思いました。私はこんな体でどこへも行かれませんけれど、出来ましたらまた、お越し下さいませ。お待ち致しております。
 今年も残すところ後わずかとなりました。赤木様をはじめリベイロン・ピーレスの男性の皆様方の脳裏には早くも今から「来年の母の日にはどんな御馳走に挑戦しようか」と案を巡らせておられる事とお察し致します。
 昔より「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」と申します。来年の皆々様のご活躍を遠方より楽しみに応援致しております。
 末筆にて失礼ながら、奥様にもくれぐれもよろしくお伝え下さいませ。


父の思い出

レジストロ春秋会 大岩和男
 昭和の初期、ブラジル移民華やかなりし頃、当時としては高齢であったはずの五十八歳でブラジル渡航を決意した私の父は、生まれながらの農道に徹した人だった。父はよく「土地を守れ」「作物を作る前に土地を肥やせ」と口やかましく言った。エンシャーダで畑の草を刈り取ったものを道に捨てると「藁一本でも自分の畑に入れよ。道に捨てるとは何事だ」とずいぶんひどく叱られたものである。
 実際父は、道路に馬糞や犬の排せつ物、枯れ草などを見つけると必ず畑に掻き入れて見せるのだった。そして「百姓の本分は作物を作る前に畑を作ること。そのために土地を耕すんだ」を常に口癖にしていた。さらに「作物は雑草が生えたから鍬を入れるのではない。絶えず土を動かしてやることによって、稲でも綿でも他のあらゆる作物がよく育ってくれるのだ」とも諭されたものである。
 後年、太陽光線が植物の成長に不可欠なものと知り「なるほど」と合点したが、その当時は少年期でもあり反抗心ばかりが先立ち、その真理を理解することができなかった。
 特別に学問があったわけでもなく、平凡な父であったが、農民道に徹底した人で、二宮尊徳翁を縮小したような父であった、と今にして忍ぶ今日この頃である。
 次にもう一つ。これは移民としての宿命とも言うべき子弟の教育問題である。私の父は「おれは十分な教育は受けられなかった。しかし、いくらブラジルに来たからとて、お前にはできる限りの日本語を教えるのだ」と言って、営農には有利な新しい良い土地を契約したにもかかわらず、日本語学校がないことを知ったとたんに契約を破棄し、違約金を払って解約。正式な日本語学校のある所を選んで引っ越し、学業適齢期の私を日本語学校に通わせてくれたのである。ちょうどその頃は準戦時下で、ブラジル政府が外国語教育禁止令を発布して、たとえ正式公認されていていた学校でも外国語はすべて全面閉鎖されるという極悪な状態に置かれた。
 幸いなことに私たち一家が住んだ地区は、青年会幹部の並々ならぬ犠牲的奉仕の分散教授の実施により、たとえ寺子屋式と言われようとも「尋常小学の課程を修了せし事を証す」と日本語普及会発行の卒業証書を頂くことができたのである。それ即ち、父そして母の理解ある措置があったればこそと、感謝の気持ちでいっぱいである。
 特にブラジルに来たばかりの六、七年目のことだったから、経済的には最も苦しかった時代にもかかわらず、学校のことといえば教科書一切は言うに及ばず、勉強に必要なものは他の物は差しおいても優先的に買ってくれた父だった。コンパス、分度器、三角定規数種と三人の兄弟が使ったこともないものでも買い整えてくれたものだった。
 私が五年生の時、学芸会があり、選ばれて「国史の話」と題した、天孫降臨の神代の昔から神武天皇の御来征により、橿原の宮において第一代天皇のご即位の例から皇統連綿百二十四代の昭和の御代までの治績、二千六百年の日本の国史の大要を約十五分にわたって全校生徒約百人、父兄姉百人ほどを前に朗読した時は一番父が喜んでくれた。


日系二世と百周年

名画なつメロ倶楽部 阿部志郎
 移民百周年もいよいよ終ろうとしている。日系コロニアはこれを一世最後の式典と言っているけれどわれわれ二世の側からみれば、これは単なる一区切りにしかすぎない。百五十年、二百周年を記念できる後継者が育っているのか。派手に騒いで後は忘れてしまうようなお祭り騒ぎなどいらない。まず後継者を育てよう。時は今だけではないのである。
 昨日があったように明日があり、明後日があるのである。一個人たるを問わず、一国家たるを問わず、一番大きな問題は何であるかを考えてみるがよい。問題はいかにして剛健なる後継者を育てるかにある。
 文献によって辿ることのできる六千年の人類史には二十一の文明が栄えたとある。どの文明もその最盛期には巨大な世界帝国を築いたけれども、すべて滅び去って今は跡形もない。どの大帝国もその初めは艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越えて国力を蓄え、隣国を圧倒してきたのである。そしてその繁栄の頂点に達した時、後には苦労を知らぬお坊っちゃんしか育たなかったのである。どの大帝国も今までバカにして問題としていなかった敵に滅ぼされたのである。祖国を守るために剣を取って、馳せ向かう後継者が育っていなかったのである。
 祖国の栄光の歴史も文化もこれを伝えることのできる者は育っておらず、簡単に忘れ去られたのである。
 日本の古代民族、縄文人は現在のアイヌ民族であるが、彼らも遅れて大陸から渡ってきた弥生人に北と南に追い退けられた時、この民族の栄光の歴史も文化も伝承できるものは育っていなかったのである。


息子健介が遺していったもの ③ 「健介の生い立ち(二)」

サンパウロ中央老壮会 徳力啓三
 次男の健介は自分の人生計画を余程ぎりぎり一杯に組んだものと思う。
 何故ならばこの当時磁気共鳴装置(MRI)はブラジルに二台しかなく脳内の撮影はまだブラジルでは不可能とされていた時代であった。私の親戚に脳外科医がいて、日本の最高の技術で検査してやるから「日本に連れて来い」という。渡りに船、この縁を活かし日本で検査を受けることが出来た。その上にもろもろの幸運が健介にはついて回り、私の故郷、松阪の済世会病院で三重大学医学部の脳外科教授の執刀で脳腫瘍の摘出手術を受けることになった。二十余時間の大手術で運良く命拾いしただけでなく、八カ月に及んだ療養期間中に日本国籍を取得し、国民保険の適用を受けられるようになった。
 その上にケースワーカーさんの薦めで障害者手帳の交付まで受けられるようになった。当時ヤンマー社でサラリーマンしていた私の給料では考えられない日本での治療がこのような形で実現出来た。
長い療養の後、ブラジルに帰ったが、術後の後遺症が出て、大学に復帰する状態ではなく退学せざるを得なかった。
 一九九三年にヤンマー社を退職した私は、有機コーヒーの日本向け販売、輸出の仕事に取り組み始めていたが、健介は不自由な体になりながらも私の共営者となり、コーヒーの焙煎を日本で習得し、当地の日系土産物屋さん向けの卸販売を始め、順調に販売を伸ばしていった。
 しかしこの仕事も脳内の腫瘍が再度大きくなり、一九九六年二回目の大手術を受けた。術後のダメージは大きく、焙煎も出来ぬ体になった。
 働くことが適わぬ状態になったが、この頃、私の大学の先輩が作り始めたブラジル産のプロポリスが健介の健康に非常に有効だということから、土産物屋への卸と日本向けの小売販売を始めた。
 健介が「これは良い」という商品は順調に販売が進み、不思議な商感覚を持っていると私は感じていた。一九九九年になってアガリクス・エキスの新製品の販売のチャンスが巡ってきたが、これもまた健介いわく「これは良い」であった。体が動かぬ分、頭の方は鋭く研ぎ澄まされ、将来起こることを読み通していたのではないかと思う。
 二〇〇〇年に入って健介の聴神経には巨大な腫瘍が出来ていることが分かった。この頃になるとブラジルにも磁気共鳴装置が一般に普及し、当地での手術が可能になっていた。日本へ行くだけの体力の無くなっていた健介は、日伯友好病院で手術を受けた。手術は成功であったが、聴力は無くなり、右顔面の神経が切れ、見える方の目のまぶたが閉まらなくなった。十五分置きに目薬を差さないと、眼球が乾き潰瘍となり、視力喪失の危険性が生まれた。左目は生まれついて視力零であり、弱視の右目のみが唯ひとつの通信の手段となる生活が始まった。
 勘が鋭く、一度聞いたことは決して忘れない健介の生活はこうして一段と厳しい試練の中に入っていった。看護する周りの者も神経を尖らせ、可能性のあるあらゆる治療法を探すに努めたが、その殆どは無効に帰した。聴力、視力ともなくなれば、どのような生活が待っているかと考えただけでも恐ろしくなる。
 周りの者でさえそう感じるのに、本人はいかばかりであったかと思う。それでも本人はこの容態を受容し、十五分おきに目薬を差していた。
 二〇〇三年から〇四年にかけて、アガリクスの販売はピークを迎えた。健介にとって不自由な古い家の便所の天井が落ちたのはその頃であった。彼がそこを出た途端に大音響を起こしたという。危機一髪の差であった。健介の住み易いバイヤフリーの家を作ろうと家族会議で即決したのも、彼の差し金であったと思う。
 販売も忙しかったが、その中で新しい家は彼の動きやすさを中心に設計され、出来上がっていった。【続く】(「倫理の会」会報より)


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑰ 才女作家のはしり 有吉佐和子
 曽野綾子とともに才女と呼ばれた日本の戦後の女流作家を代表する一人である有吉佐和子の「複合汚染」は文句なしに面白く、知識欲を充たしてくれ、そして最後に慄然とさせられる不気味な読物である。分かりやすく、面白く書くことにつとめたという作者は、この本を「告発」でもなければ「警告」でもない、と述べているのだが、内容はかなり衝撃的である。昭和四九年に朝日新聞に連載されたこの型破りの小説を書くために一〇年にわたって三〇〇冊もの資料に目を通したそうである。大勢の人達に読まれた本書は翌四〇年のベストセラー(年間二位)となった。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」は公害への警鐘を鳴らしたバイブル的な存在であるが、「複合汚染」はそれを我々の日常生活の身辺に目を配って、さまざまな実例を具体的にあげて現代の病んだ社会をクローズアップしている。裏表紙には「工場廃液や合成洗剤で川が汚濁し、化学肥料、除草剤の濫用で土が死に、食物を通して有害物質が人体内に蓄積され、生まれてくる子供たちまで蝕まれていく」とうたわれている。
 抜群のストーリーテラーとして知られる有吉には、他にも「華岡青洲の妻」(四二年、二位)「不信のとき」(四三年、八位)「恍惚の人」(四七年、一位)とベストセラーを連発する流行作家の一人であった。特に「恍惚の人」では、日々悪化していく舅の老人性痴呆の介護に携わる嫁の苦しみと心の変遷が細かく描かれ、高齢者社会に伴う老人介護の問題という深刻な現代の社会的問題をいち早く取り上げている。
 父が銀行員で転勤が多かったこともあって、彼女は小学校五回、女学校五回の外地を含む転校を体験している。このことは彼女の人間形成期にかなりの影響を与えているものと思われる。生まれつき病弱で学校を休む日も多く、本ばかり読んでいたという。東京女子大卒、学生時代には歌舞伎に惹かれ演劇評論を志したらしい。昭和三一年に「文学界」に掲載された「地唄」が芥川賞の候補となり、文壇に登場した。同年には石原慎太郎の「太陽の季節」が受賞作となった。次回にも近藤啓太郎の「海人舟」に賞を持っていかれた有吉は、芥川賞は遂に貰えないまま、紀州の素封家を舞台に、明治・大正・昭和三代に男達を押しのけて生きてきた女の系譜を辿った「紀ノ川」、娼妓にまでなって男性遍歴を重ねる美しく淫蕩な母親の郁代を憎みながら、耐えずかばい続けて花柳界を生き抜く娘の朋子の母娘の運命を、明治末から第二次大戦後までの四十年の歳月のうちに描いた「香華」等で作家としての地位を確立していく。
 このほかの作品では「私は忘れない」、スターの座を夢見ながらチャンスを逃がした万里子の黒島への旅の体験を通して、離島の悲哀を描く。「海暗」、米軍射撃場に内定した伊豆七島の御蔵島の島民の苦悩と哀歓を描く。「非色」、終戦の時の異常な社会環境の中で黒人兵と結婚した一女性のその後の移り変わりを描いた異色の作品で、黒人問題を主人公の日常生活を通してかなり鋭く究明している。
 昭和三七年に神彰と結婚したが、二年後に離婚している。五九年、心不全のため急死、享年五三才。作家・玉青はその娘。


老いを生きる

サントアンドレ白寿会 宮崎正徳
 インドの釈迦が成人に達するまで老病死の苦痛を知らなかったとは想像できませんが、それらを深く思い悩む人間だったことは確かでしょう。後年、釈迦が悟りを開いた後、四苦八苦の法門として明確に示されています。
 ところで老病死という苦痛の中で老苦と病苦、死苦は二つのカテゴリーに分けて考えなければなりません。なぜならば病苦と死苦は老若男女を問わず体験するものですが、老苦は老齢になった人しかわからない、実感できないことだからです。
 青壮年とって老苦は想像の世界にしか存在しません。現在、器具を使って老人の苦痛を体験する方法があるそうですが、その体験は老苦の内容というよりは、想像の追認のようなものです。身体強健な青年が、老人の苦痛を実感することではありません。
 老苦は単に肉体上の衰えだけではないからです。老人になって覚える各種の寂寥(せきりょう)感は青年の想像を超えるものです。今自分が高齢者になってしみじみ思うことは、もっと祖父母を、父母をいたわりの心で接するべきだったということです。そうです。一般的に老人とは弱者なのです。その認識をしっかり持たない限り、本当のいたわりの心は生まれないのです。日本では最近七十五歳以上の人を対象とする後期高齢者医療制度が導入され、様々な問題が噴出しています。
 また、冷静に考えなければならないのは、現在の日本の医療の現状です。一般国民は国民健康保険(国保)に加入していますが、この国保は現在膨大な赤字を抱えており、早晩この制度は破たんせざるを得ません。というのは、国民一人当たりの年間医療費は六十五歳未満なら約十六万円ですが、六十五歳以上になりますと約六十五万円になるとのことです。つまり高齢者が増えると医療費はうなぎ登りに増大していくのです。給付と負担の不均衡の拡大です。現制度のまま維持していくなら、保険金の引き上げはやむを得ないのです。すると、高齢化が進んだ過疎の市町村で大幅な保険料の引き上げをせざるを得ず、そうでない都市部との格差が大きくなってしまったわけです。
 新制度はこの不均衡をなくそうというものです。即ち後期高齢者は支援対象者とし、その医療費は税金で五割、現役世代で四割、残り一割を高齢者がすることにしました。
 今まで長男の扶養家族としてその国保を利用できた高齢者も今後は一人ずつ保険証が給付され、その収入に応じて一割負担しなければならなくなりました。高齢者にして多額の収入を得ている人はわずかです。ほとんどの人が年金しかありません。国はその年金から保険金を天引きすることにした為に国民の不満が高まってきたのです。
 高校、大学で勉強したければ授業料を払う。レストランで食事をしたければ料金を払うように医者に診てもらいたければ診療代を払うのは当然のことです。授業料や食事代と違うのは、前者はなくても我慢すれば済むことかもしれませんが、医療費は命にかかわることなので国民全員がその財力に応じて平等に払い、平等に見てもらえるシステムが理想です。
 今回、保険料は都道府県単位で一本化し、自治体間の格差是正を図り財政基盤を強化し、不公平を是正しようとしているので、国の方向性そのものは正しいと思われます。マスコミなどが問題にしているのは、①七十五歳以上は強制加入。②年金から保険料が天引きされる。③保険料を滞納したら保険証を取り上げられ、代わりに資格証明書が給付され、全額支払う(払えば九割返金)。④包括定額制(一定以上の医療費は払わない。よって病院は必要な治療も保険の範囲以上になる場合、本人が自費で払うことを承知しなければ治療できなくなる)という事です。これらも国保の場合と大差ありません。国保でも保険料を滞納すれば、保険証は取り上げられますし、保険のきかない治療を受ければ全額自払いせざるを得ません。膨大化する健康保険の赤字を縮小させるため、窮余の一策として今回の制度が勘案されたのです。
 確かに病院を一種のサロン、社交場代わりに使い、大して必要もない治療を受け続ける老人は顰蹙(ひんしゅく)を買っても仕方がありません。問題は誰もが絶対必要な治療を公平に受けられるかどうかです。そして保険料が資力に応じて公平かどうかということでしょう。実は一番の問題点がそれなのです。保険料は均等割と所得割により収入に応じて決定されます。
 一例をあげますと、ある市では年金七十九万円の人の年間保険料は一万千百六十円で残金は約七十八万円。一方、三百万円の人は残金二百八十五万円です。いかに低所得者層、弱者に厳しい状況かが理解できます。新制度は救済を一番配慮しなければならない弱者が最も苦しまなければならないようになっているのです。
 四月二十三日付け朝日新聞の朝刊の「声」欄に藤本久氏が『十五日、後期高齢者の保険料が容赦なく年金から差し引かれました。年金暮らしの私たち夫婦は、計算すると、今までの国民保険料より二人で年三万三千円以上も増えました』とあります。
 さらに悲惨な事件も起きています。わずかな年金から保険料を天引きされ、『もう生きていけない』と五十代の息子が高齢の母親を扼殺(やくさつ)した事件です。知らぬこととはいえ、同じ国民として何も応援できない自分を心から恥ずかしく思いました。老人をどう待遇するかで、その国の文化度が図れるといわれています。
 長年まじめに働き、国家の礎(いしずえ)を支え、現在の繁栄をもたらした老人には尊敬と安全な生活が保障されて当然です。国が貧しく、老人に報いることができないのなら、せめて国民全員が平等に質素な生活をすべきでしょう。母を殺(あや)めた人も周りが同程度に貧しければ、決してこんな挙には走らなかったはずです。他と比較してあまりの厳しさに深い絶望感に襲われたと思います。終戦当時の貧しさは皆が同じように貧しく、裕福な人なんていませんでした。今の時代は貧富の格差が大きいということが問題になっています。日本国民には耐え難い状況が生まれつつあるのです。


私の心に残った100周年

★百周年ということで、イタペチ柿祭りには老ク会員全員で富士山を作りました。少ない予算をアイディアと工夫でカバーし、白い温室用のビニールで雪の頂を作り、国旗掲揚柱から四方へなだらかに吊り下げたのです。高さ一〇m、直径二〇mの霊峰が出来た時は思わず心の中でバンザイ。全員で成し遂げた達成感は得がたいものでしたが結構大変でした。(野村愛国)
★ロンドリーナの娘の所に行っていて、皇太子殿下に謁見する機会を得ました。九十一年の生涯で最高最良の年になりました。当日はとても寒い日でガタガタ震えながらお待ちしていたのですが、握手をして頂いた殿下の手の暖かかった事。今でもその笑顔を手の温もりを覚えています。(鈴木登志枝)
★今までになく忙しく充実した年でした。あちこちでお煎茶のお手前をし、ブラジル人の集まりにも何度か呼ばれ、ささやかながら日本文化紹介の一端を担(にな)っているという気がしました。(松酒喜美子)
★大書道展と大先生に直に会えた事。書を書かれている時の気迫がすごいと思ったねー。それと落語家がたくさん本部まで来てくれてよかった。草々兄さんには医者の都合で会えずに残念だったけれど…。(纐纈蹟二)
★祭典にも行けなかったけれど、皇太子様が御来伯されて嬉しかった。それと老クお地蔵様が出来た事も感激。(戸田房子)
★名もなく功もなく、普通に生きてきた。普段、見たり聞いたりすることの出来ない書や舞台、演奏、スポーツを百周年のお蔭で十分に堪能させてもらって感謝。(田中俊夫)


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