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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2018/12/14)
2009年4月号

2009年4月号 (2009/04/02) 悼む人

インダイアツーバ親和会 早川正満
 映画で賞を取ってから、皆に知られるようになった天道荒太氏の「悼む人」。実は日系社会には、移住の始まりの百年前から(植民地等、奥地にあっては)この悼む人は存在していた。もちろん現在も。
 職業とする僧侶ではなく、同じ同行の移民者で、ただ、お経の一行が唱えられるだけで遺族と共に遺体に対して悼んできた人々。それは移民僧。この言葉は「のうそん」誌の俳壇に見た「花まつり在家のままの移民僧」から頂いたが、実はこの作者・須賀得司氏も、私も、現在の移民僧で、今もコロニアの内で存続している。
 現代人(金や学、地位を得た人)には、死後の世界の存在や想像を莫迦(ばか)にする人が居るが…。
 ちょっと前に家で一人で居る時、気分が悪くなり、やっと自力で病院に行き、死の手前までいった経験をしたという人が、先日、親和会員の葬儀に参列した。その折、「早川さん、貴方は葬式や葬儀屋に詳しいようだから聞くのだが、葬儀屋というのは、金を十分払っていれば、私の死後、例えばブラジルで許されるなら『散骨(自然葬)』で、後で誰の世話にもならないようにしたいのだが…」と、訊いてきた。
 「貴方のご家族は?」と訊くと「妻も皆、日本へ行っていて一人です」「でも、娘さんはカーザ(結婚)していましたね」「はい」「そちらの親戚は?」「はぁ。それは親戚ではありますが…」「では、いざというときの友人は?」「???」。
 そこで私は一寸話をした。「誰も自分の葬式は出来ない。葬儀屋だって生きている人間が一人責任者として立ち会わなくては、法律国家内では動けないでしょうね。なんなら、老人会に入りませんか?会の仲間なら先に行く人を今日のように悼み、自分の番が来たら、まだ此の世に在る仲間が悼んでくれますよ。」と言ったら、納得したようでしたが…。
 「♪千の風になって」という歌が大ヒットしてから、現代人はますます墓の(親の墓の存在まで)価値観に変動が起きたようだ。私の義弟は皆一世だが、二人の義弟は親の死から四年目だが、妹さえも墓参りに来させない。
 このようにもし貴方が供養に対して冷淡であったら、その貴方の姿をいつも見ている貴方の子供たちが例えドトール(医者や学者)になっても、供養や優しさをもってくれるだろうか? 仮に貴方がぽっくりと死なず、要介護の状態になったり、また意識がハッキリしていて身体だけが不自由となった場合のことを考えてみよう。子供たちの冷たい態度を怒る前に気付くべきだ。すべては貴方の行いが撒いた種の結果なんだと…。
 日本人は中国伝来の儒教の「魂魄(こんぱく)(=たましい)」思想に染まっているので「魂」が抜けても、「魄」が骨に宿っていると考える。だから先輩たちの追悼を行うのだ。その音頭を取るのが「悼む人」なのである。
 私も移民僧の一人であるから、お経の後に何か話を、と言われる時があるので、常に一つ二つは準備しているのだが、その話をしてこの悼む人の話を終わりたいと思う。
 仏教では良い人も、悪い事をした人も、死ねば皆さん「仏さん」と言われるように聞こえるが、それは違うのである。死んだらすぐあの世に入れるかと言うと、それも違うようだ。死んだら見える位置だが、先にゴールの線。此の世とあの世の境があるように思われる。此の世に有って「魂魄」を悼めれる人は自力でその境を越えられるが、自力で越えられない人も此の世で悼んでくれる身内、知人がいれば、その力に支えられて越えられるようだ。では、それも無い人は「魂」の形で此の世に留まるという。これは大変な苦だと思う。それを見捨てられなかったのが「アマゾンの読経」の藤川辰雄氏だ。
 我々年寄りは、素直な気持でお互いを悼む人になろう。「終りが良ければ全てが良い」と言われる。
 人生の終盤になって、不満があるなら、それは貴方の撒いた種なのだ。早く懺悔してしまいなさい。そして、最後の坂道を仲間と楽しく過ごせたら、貴方の人生は全て良かった事になる。


へそ出しルック

JICA日系社会シニアボランティア 貞弘昌理
 こちらに来て目に付いたこと。なんと女性の「へそ出しルック」の多いことに驚いた。
若い女性のほとんどと言ってよいくらい「へそ出し」だ。それも、かっこいいおへそならまだしも、どれもこれもボテ~として、お世辞にもかっこいいとは言えない。
 あのゴルフの宮里藍ちゃんのようにゴルフのパターを振り上げた時にチラッと見える、何とも言えない若々しい健康的なおへそなら見たいと思うが、今まで見かけたことがない。「妊娠何ヶ月?」と言いたくなるようなおへそばかり。それも、お尻まで見えそうなくらいまでズボンをずり下げている。おへそを出すために、いや、男性の目を引くために、若い女性は涙ぐましい努力をしているのだ。おじさんたちも、その辺は分かってあげないとね。
 ところで、何でへそ出しルックが流行るのだろう。ファッション? そうかも知れない。みんなでやれば怖くない。でも、お腹を冷やすのは良くないですよ。あの寅さんの格好を見たら分かるでしょう。確かにかっこ悪いです。でも、健康にはとても良いです。そうなんです。格好にとらわれてはだめ。みなさん、健康第一にして、へそ出しルックをやめて、腹巻をしましょうよ。でも、若い女性のへそ出しルックは、やっぱりええですな~。
先日、寒~い日でした。いっぱい着込んでもやっぱり寒い。事務の人に言ったら、「あるよ。売れ残ったのが一つだけ。安くしとくよ。」さっそく半値で買って付けたら、とっても暖かかった。ちょっと小さくてきっいけど、ま、いっか。寝る時に、椅子の背もたれに無理矢理伸ばしてかけておいた。朝起きたら、ちょうどええ按配に伸びていた。いい買い物だった。ちょっとかっこ悪いけど寒さに良い腹巻、健康に良い腹巻、ええですよ腹巻は。


息子健介が遺していったもの ⑦ (終)

サンパウロ中央老壮会 徳力啓三
 人間は間違いなく一度は死ぬ。これだけは生れた以上、必ず巡ってくる人生の一大事である。いつどのような形で死ぬのか、誰もそれを知らないところが人生の妙味である。
 健介の場合は、耳も聞こえず、目も薄い。亡くなる三か月位前からは発音が乱れ、私には到底言葉として通じなくなっていた。健介の発音になれている妻でさえも半分が分からないほどになっていた。まゆみが一番慣れていたようだが、それでも筆談が多くなった。パソコンを使い、会話が出来るように設備したのもその頃であった。時が経ち、健介の手に振るえがきてパソコンのキーボードを的確に叩けなくなり始めた。
 このようにあらゆる通信手段が閉ざされていき、万一病院に入院することになったら一体誰が、どのようにして看護をするのかと心配した。おまけに十五分間隔で、目薬を注さないと、唯一つ残った外界との接触(せっしょく)器官である目も忽ちにして潰瘍(かいよう)を起こし視界ゼロになってしまう。
 胃ろうの手術を受けて以来、食物は口を通らず、水を飲んでもむせるばかりで殆ど飲めない状態になっていた。それでも健介は、毎日の日課を確実にこなし、朝は十一時ごろに起き、夜は十一時ごろにちゃんと就寝した。 健介からすると甥にあたるまゆみの子供、ダンが一歳位になり、かわいい盛りになっていた。自分が居なくなっても、ダンが家族の中心になるのを待っていたようにも思えるのだが、ダンが歩き始め、一家の中心になるころを見計らっていたようだ。「病院にいくのはこりごりだ。病院には入らない」と言い続けていたが、正に自分は皆に看(み)取られて家で死ぬと定見を持っていたように思う。
 人は心臓麻痺(まひ)か脳溢血(のういっけつ)で一挙に逝ってしまうのを楽とするが、これとても自分の意思で出来る仕事ではない。どのように死を迎えられるかは死が来るまで分からない。健介の場合は、本当に予想も出来ないまったく安楽な方法ではなかったかと思う。
 まさかと思われるかもしれないが、健介は首を横に振る力も無くなっていたようで、目ざめの時に胃から潰瘍状のものが噴出したようで、それを首を振ることなく真上を向いたまま受けたために気道を塞ぎ、それでなくとも弱っていた呼吸が出来なくなったようだ。
 痛みもなく苦しみもなく、誰にも迷惑を掛けることなく僅かの時間でこの世の生を閉じたのではないかと思う。自分に対しても、周りも者に対しても健介らしい、心やさしい逝き方でなかったかと思う。
 望み通り病院にも行かず、お医者さんや看護婦さん達にも迷惑を掛けず、家の者にも最小の手間で済むように自分の死に方をセットしたようだ。
 人はその死に方によって値打ちが決まるという。誰からも惜しまれ、沢山の人を悲嘆(ひたん)の淵に沈ませる死もある。全く誰からも何も言われない死もある。色々ある中でみんなの心をさわやかにし、惜しまれつつも大往生したと思われる死こそ本物でないかと思う。健介は幸せの種を誰もの心に播いてゆき、まだ若いと言われつつも自分なりの生を全っとうしたのではないだろうか。
 早くも彼がこの世を去ってから八か月が過ぎ去った。
 健介は今頃は何をしているのかしらと女房と良く話す。私達には向こうのことは分からないが、彼の方は好きな時にこちらの生活をのぞきに来て、「皆元気にやっているな」と全部見ているはずだ。私ら夫婦、兄弟達、甥のダン、沢山の友人知人、「皆幸せになれよ」と言っているに違いない。
 七回にわたって健介の思い出をつづりました。長い間、拙文を読んで下さって有難う御座いました。(終)


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑳ 最後の文士 高見順
 高見順の小説に初めて出会ったのは、文庫版の「如何なる星の下に」(一三年)であった。浅草という街に対する特殊な愛情が注がれている作品であり、お好み焼き屋に集まるレビューの踊子や芸人達を中心とした戦時下の庶民の哀歓(あいかん)が風俗詩的(ふうぞくしてき)に写し取られている。川端康成の「浅草紅団」、浜本浩の「浅草の肌」などを思い出させるものである。高見の処女作は「故旧忘れ得べき」(一〇年)であり、ゲロを吐くような気持で八方(はっぽう)破(やぶ)れの饒舌体(じょうぜつたい)を駆使(くし)した転向(てんこう)小説で、たまたま同年に設置された第一回芥川賞の候補作に推された。追いつめられたインテリの時代風俗を活写した傑作で、川端は強く推したが受賞作は「蒼氓」(石川達三)に決まった。同作は大正の終りに左翼運動に献身した無垢の若者達が、一〇年のちに頽廃(たいはい)と虚無に泥まみれになって生きる「左翼くずれ」のインテリの諸タイプを書き分けたもの。
 高見の文学を語る上ではやはりその出自である「私生児」という事実を避けては通れない。父親は永井荷風の父・久一郎の実弟で、坂本家へ養子に入った釤之助で高見は荷風とは従兄弟ということになる。ただ高見は荷風に会いたかったらしいのだが、相手は避けていたらしい。かれは「私生児」(一〇年)という短編まで書いているほどである。高見というとやはり説話体という手法が結びつけられるが、饒舌体とも称される文体には遂に馴染めずに終った私は彼の真の愛読者とは言えない。
 無条件降伏(むじょうけんこうふく)という未曾有の大動乱にあって、高見は久米正雄、川端康成らと貸本屋・鎌倉文庫を興し困難な時期を乗り切った。創作では自伝的長編「わが胸の底のここには」及び「深淵」を執筆したが、両方とも未完成に終っている。ほか「今ひとたびの」(二一年)「胸より胸へ」(二五年)「朝の波紋」(二六年)などの風俗小説を書き、そのいずれもが映画化されており、就中「今ひとたびの」(二二年、五所平之助)は竜崎一郎と高峰三枝子のコンビで作られたメロドラマの佳作だった。また「都に夜のある如く」「生命の樹」では中年男性の愛欲を中心とするものも手がけている。そして「いやな感じ」(三八年)は大杉栄虐殺の復讐(ふくしゅう)のために立って福井大将狙撃事件に加盟したアナーキストの青年を主人公にして、一人称で物語った長編に仕立て上げた力作である。主人公はのちに軍部に接近して右翼となり、舞台も東京、北海道、京城、上海などとあわただしく変転する中に、大正から昭和へかけて動乱する社会と時代が描かれている。
 また高見は詩人としても「死の淵より」を刊行して業績を示し、「高見順日記」は戦中、戦後を通して書き続けたもので、特に日本の敗戦直前の頃の描写は圧巻(あっかん)である。最後に特筆すべき事業として、伊藤整、稲垣達郎、小田切進らとともに日本近代文学館を創設、明治以後の近代日本文学関係の史料の収集、保存という難(なん)事業に成功したことが挙げられる。


ちょっと佳い話

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
 「御高著『桂山句文集』のご恵送たまわり誠にありがとうございます。十一歳で渡伯し、念腹先生の直弟として牛童子先生へと二代にわたる高弟の由「畑打って俳諧国を拓くべし」と虚子の励ましの句を、絵に描いたように精励刻苦、古稀になられた由、大慶に存じます。八十五歳 荒垣秀雄」。
 「夏草や兵共の夢の跡」の日本の美しい切手を貼ったハガキの絵は歌舞伎の「鏡獅子」である。
 荒垣先生は先に念腹先生著「木蔭雑詠選集」発行の折に多大の御協力を仰いだ。その時、僕の句『倒したる木に再びの蝉時雨』を褒めて頂いたことがあり、朝蔭誌に度々文章が載って親しみ深いお方である。
 ジャーナリスト、社会評論家として先生は朝日新聞の「天声人語」を担当。新聞コラム欄に新鮮なスタイルを開拓して広く知られていたが、先般、惜しくも長逝された。
 このように偉大な文芸の大先輩から頂いた前記のように謙虚な文面に感動した。ハガキ文として世に残るものと思い、大切に大切に所蔵している。
 ブラジル川柳の祖である堀田栄光花先生と僕ら一家は、戦時中に隣り合ってひっそりと住んでいた。その頃、村に川柳会は無く、先生は勝手違いの俳句会の仲間となって俳句を作っておられた。
 どういうことからかよく知らないが、「先生の長男が仲間と大喧嘩をして棍棒で叩かれた。当たり所が頭の急所だったのか、不幸にもそれが原因で亡くなった。
 早逝する子は大抵性格が良く怜悧(れいり)であるというが、その子は正にそうであった。
 「これはこの子のもって生まれた運命です――」栄光花先生はただの一言の怨みも口にせず、喧嘩相手の子を庇ったほどだった。
 渡伯してすぐにアメーバ赤痢で僕の次の子を死なせ、見も世も無いほど悲しんだ母は「まるで神様みたいな方だ!」と、信じられない顔で三嘆(さんたん)したものだった。
 「おっ、よく来た来た――」念腹先生は柔和な顔をほこらばせて、勝ち組の一方の雄、小林車山を俳句会の会場に迎え入れた。
 それまで先生に楯突いて句会に出なかった彼が五年ぶりに顔を見せた。先生は戦後の勝ち組負け組の争いなどケロリと忘れた笑顔で、硬骨実直(こうこつじっちょく)なこのホ句弟子を迎えた。
 「おっ、よく来た来た――」。この一言で一切の過去の確執を水に流してしまった度量が虚子の期待通りブラジルの新天地に「俳句王国」を打建てたのであった。
 「我々産青連は挺身隊を組織し、その下に盟友を置く。挺身隊は己々三百~五百羽の鶏を飼い、盟友はミーリョ(とうもろこし)を作り餌を自給する。全伯に二、三百人の盟友組織を作って、その利益を一つに統合してコロニアの文化創造に使う」。
 弓場勇氏は野球で鍛えた太い首に、よれよれのネクタイを横っちょに垂らし、産青連結成式に大熱弁をふるった。そして、その具体的で雄大な提案に当時二十四歳だった僕は仲間とすぐその足で奥ノロエステの弓場農場を訪ね、育雛と養鶏技術を習い、帰村して産青連の鶏を飼い始めた。
 そして青年会の会合を開き、その名を「産青連」と変える提案をして認められ、村人の一人の遊んでいる畑を借りてミーリョの蒔付けをした。だが、その構想は結局、世界大戦にブラジルが参戦したため、豪の中の野火の如く消失した。


亡き友を偲んで

レジストロ春秋会 宮本美都子
 今から八十年も前の二月の事でした。朝、登校しましたら、担任の先生がいつもと違う浮かない顔をしておられました。そしてその先生が「皆さん、驚いてはいけません。あなた方のお友だちのKさんが亡くなりました」と言うのです。
 生徒たちは皆、お互いに顔を見合わせ、声を発する事も出来ず、まして私はKさんとは同級――。
 先生のお話では昨日、蒸し暑い日盛りの午後、馬車でお父さんと二人で家に帰るKさんにお会いしたそうです。Kさんは両手で腹を押さえ、歯を喰いしばっており、何とも言えない悲痛な様相で、お父さんに聞けば、一昨日の夕方、馬をパスト(草原)に放しに行って、謝ってその馬に腹を蹴られ、今、医者に行っての帰りとの事でした。
 何という気の毒なことでしょう。「『精々お大事にしてやって下さい』と言うと『先生、ありがとう。さようなら』。あの悲痛な叫び声。これがKさんとの永遠の別れになろうとは、神ならぬ身の誰が知ろう」と先生はそこまで仰って、声も詰まり両手で顔を覆ってしまいました。
 生徒一同は涙にくれるばかりでした。やがて先生は「今日は授業どころではありませんから、みんな家に帰りなさい。どうか、Kさんの冥福を祈ってあげて下さい。同窓生は皆さんでKさんの葬式に行って下さい」と仰しゃいました。
 Kさんは十二歳で私と同年でした。皆でKさんの家に行きました。家族の人の話では、親兄姉弟妹、先生、友の名を呼びつつ、安らかに昇天されたとの事。一同、涙ながらに会葬しました。
 亡きKさんの遺骨は静かにこれらの人々に送られて、レジストロの墓地に懇ろに葬られ、安らかに永遠に眠っているのであります。墓前に供えられた草花、ロウソクの光、線香の煙はいとも寂しげに立ち上り、私たちはひざまずき、両手を合わせ、Kさんの冥福を祈りました。
 空も曇りがちで亡き友の死を悲しんでいるように思われました。重い足取りで帰途についたのは、黄昏時でした。
 翌日、登校しましたが、亡き友の姿は無く、丸々と太った体格、パッチリした大きな目、何事にも動ぜずハキハキとした物の言い方、走る時は歯を喰いしばって握りこぶしを振り振り力走したあの勇ましい姿は永遠に消えてしまいました。Kさんの席はがらんと空いていて主を待ちわびているように見えるのも涙ぐましく、お友達のどの顔も沈みがちなのは無理も無い事でした。私も今年は九十四歳となり、少女時代の嬉しかった事、悲しかった事が昨日の事のように思い出されてなりません。新たに蘇る亡き友を偲びつつ。


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