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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2009年5月号

2009年5月号 (2009/05/07) これぞ日本の妻

レジストロ春秋会 大岩和男
 終戦後、マニラにおいて開かれた元フィリピン派遣(はけん)軍司令官本間雅晴氏の軍事裁判に本間夫人も召喚(しょうかん)させられました。
 夫人は大変優遇(ゆうぐう)され、特に婦人看護中尉(ちゅうい)と、親切な憲兵大尉が世話をしてくれました。十八人の証人の最後に夫人が法廷に立ちましたが、少しも卑屈(ひくつ)なそぶりを見せず、しとやかな内にも凛々(りり)しい態度で、堂々と証言されたそうです。
 「私の主人は米国では『人にして、人に非(あら)ず』と申されているようでありますが、私はその妻である事を誇りとするものであります。
 私は二人の子供を持っています。娘は今、十九歳になりますが、いずれは家庭を持つことになりましょう。その時の彼女の夫は本間のような立派な人を選ぶ事でありましょう。
 また、私の息子は今十六歳でありますが、父・雅晴のような立派な人物に育て上げるのが私の義務(ぎむ)だと信じています。」
 被告席(ひこくせき)で静かに妻の証言(しょうげん)を聞いていた本間さんは思わずハンカチを顔に当てました。
 判事(はんじ)や検事(けんじ)の中にもその場にいたたまれず、法廷(ほうてい)外に出て、涙をぬぐう人もありました。聴衆(ちょうしゅう)の中にも忍び泣きの声が聞こえました。
 一時間に余る訊問(じんもん)後、婦人が法廷の外に出ますと、待ち構えていた憲兵(けんぺい)大尉(たいい)は駆け寄って夫人の手を握り「奥さん、私は今まで本当の日本婦人の、誠の姿を知りませんでした。貴方の今日の証言は十人の大使の証言よりも、百人の名士の証言よりも、日米間に真の理解を与えます。本当に良かった、良かった」と、涙を流して喜びました。
 しばらくすると、今度は看護中尉が飛んで来ました。この女中尉は初め本間夫人付きを命ぜられた時、剣もほろろに「日本婦人の世話なんて、まっぴらよ」とはねつけたそうですが、いつの間にやら夫人に化せられて、すっかり仲良しになりました。
 その女中尉が姉妹のように抱きついて夫人を優しく労(いたわ)りながら「良かったですね。良かったです」と泣き続けたという事です。


トラホームに悩まされた戦前移民

アチバイア清流クラブ 纐纈久雄
 私等一家十名は冬が長く雪の多い北海道の農業に見切りを付け、常夏の広大な国ブラジルに移住しようと思い立ちました。戦前、日本政府は海外移住を奨励(しょうれい)し渡航船賃を援助していたので父は早速移民会社・海興の札幌事務所へ行きました。そして移民の話を聞き、ブラジル農業家族移民の手続きに必要な書類と説明書を持ち帰ったのが昭和十一(一九三六)年十一月の末頃でした。
 移民の規定の中で、まず目に付いたのが家族構成で、五十歳未満の家長夫妻に十二歳以上五十歳未満の同伴者が一名以上(働ける者が三名以上)あること。次には十年以上の農業経験のある家族である事などでした。
 必要書類は次々と出来ましたが、その中で地元警察署の指定医による健康診断書(けんこうしんだんしょ)は家族の内九名は出来ましたが、母だけはトラホームの瘢痕(はんこん)が残っているので出来ませんでした。当時、ブラジル当局は伝染病トラホームの持ち込みを警戒(けいかい)していてその検査を厳重(げんじゅう)にしていたからでした。
 母は村の医院に通いトラホームの瘢痕の治療に専念(せんねん)しました。ある程度良くなり、指定医の健康診断書が出来たのが翌年の四月頃で、早速海興の札幌事務所に申し込みそれがしばらくして認可され、昭和十二(一九三七)年六月二十四日、神戸出航のブラジル移民船らぷらた丸に乗るようにとの通知を受け取りました。
 私等一家は六月十三日、故郷の駅で大勢の見送りを受けて出発。途中、東京の母方の伯父宅に一週間滞在して、東京見学をしましたが、その間に末の妹、当時一歳が発病したので、予定のらぷらた丸には乗れなくなってしまいました。
 海興の東京事務所に行き事情を説明して、次の移民船ぶえのすあいれす丸に変更してもらい、七月二十二日、妹と母を伯父宅に残し、神戸の三宮駅の近くある神戸移住助成会(こうべいじゅうじょせいかい)の寮へ行き、入居させて貰いました。この寮はトラホームの治療、その他の事情で一時、神戸に滞在し、自炊しながら格安に生活できる施設で、六、七家族が入所してトラホームの治療に通っていました。
 寮の支配人の話では、治療には時間がかかるので大抵三ヵ月以上滞在して、ブラジル
移住した家族が多いようでした。中には一年以上も治療にかかった人もいるそうです。トラホーム患者を故郷に残して移住した家族もあり、また、南洋や満州へ移住した家族もあったそうです。
 東京に残してきた妹も全快し、母と共に神戸の助成会の寮に着いたのが七月中頃で、それから間もなくお世話になった寮を出て、神戸の移住収容所へ荷物を持って到着しました。収容所内で医師の診察を受けましたが、母もどうやら検査が通り、全員合格し、出国手続きも終って、収容所内で政府の海外移住支度金(したくきん)が十二歳以上の全員に五千円が支給され、家長にそれぞれ渡されました。この支度金は海外移住の奨励の意味で支給された物で、当時の五千円は大卒の初任給(しょにんきゅう)の価値がありました。
 移民達は必要な手荷物だけを手元に置き、其の他の荷物はまとめて船艙(せんそう)に積み込みました。船室は三等で甲板の下にあり、船の前からA室、B室、D室の三室で、各室に上下二段のカーマが並んでいて番号が付いており、私等はB室でした。C室は特別三等で、再渡航者(さいとこうしゃ)、呼寄の移民で、自費(じひ)移民でした。
 こうして、ブラジル移民約九百名が乗船したブエノスアイレス丸は、予定通り昭和十二年(一九三七年)七月二十二日午後四時、大勢の見送りを受けて神戸港を出港。インド洋廻りでブラジルへ向けて旅立ちました。
 船中ではトラホームの瘢痕の治療が続けられ、その人数は母を含めて案外多いようでした。この治療はサントス港に着くまで続けられていました。四十三日の長い航海の後、九月四日早朝サントス港に着きました。
 上陸前、船内で健康診断があるので一同甲板に集まると、ブラジルの医師や係員が船に上って来て、男女別に並べて簡単な診察をしたが、トラホームの検査だけは厳しいものでした。船内では前もってトラホームの瘢痕のある人を船内のトイレや風呂場に閉じ込めて隠しましたが、それだけ人数が足りないので、診察を終った人が船室に下り、後ろから甲板へまた上り、列に並んで二度診察を受けて人数を揃えました。こうしたからくりは毎回ですから、係員や医師には謝礼(しゃれい)が贈られているから知っていて知らないふりをしているのだ、と船員が話していました。
 医師の診察(しんさつ)も終り、昼食後上陸した私等移民は、汽車に乗りサンパウロの移民収容所に着いたのが、その日の夕方でした。収容所に四日程滞在し、配耕地先(はいこうちさき)の出迎えに伴われてそれぞれ別れていきました。
 戦前移民がトラホームに悩まされた事実。また、一時期であったかもしれませんが、日本政府が海外移住奨励金を支給(しきゅう)した事実も忘れ去られてしまうと思われる現在です。私は体験者としてブラジル日本移民の歴史の一隅(いちぐう)に残しておきたいと思って書き綴(つづ)りました。


母の日

レジストロ春秋会 宮本光子
 今月は母親にとりまして、一年に一度の嬉しい月「母の日」のある月です。五月の第二日曜日は万国共通の母の日だからです。これはアメリカのある片田舎の一人の少女が亡き母を偲んで、人々を招いて母の好んだ白いカーネーションの花を飾って、その徳を称えたのが始まりと聞いております。
 この日は、白人のお母さんも黒人のお母さんもインドのお母さんもエスキモーのお母さんもみんな同じように「お母さん、ありがとう」と分け隔てなく感謝されるのですから本当に楽しいではありませんか。
 「お母様、誠にありがとうございました」。
 せめてこの一日位はしみじみと自分を生んで下さったお母さんを偲び、思い起こして好きであったものをお供えしたり、元気でおられたら何か喜ばせてあげようとする事は、人間として美しい行いではないでしょうか。
 私も子供が大勢いおりまして、母の日には一日中、子供たちをはじめ、甥や姪から祝福の電話がかかってきて、また家にも来てくれますので、家を留守にする事は出来ません。誠に有難いもので、毎日を楽しく感謝感謝の連続で暮らさせて頂いております。


母の日に当たり

サンパウロ中央老荘会 内海博
 私の母は喜寿の祝いの日まであと三か月という時に冷蔵庫の扉をあけてその前で倒れ、夕刻七時に帰ってきた弟に発見されて、すぐ救急病院へ運ばれたが、頭を長時聞冷やしたためか昏睡(こんすい)から立ち直る事なく、百日あまりして、遂に目覚めることなく亡くなった。
 この母の生前元気なころは厳しいほど、口うるさくて周囲の者を困らせたが、その口うるさい一言一言は後に思い出すとためになる事も沢山有った。
 「髭は朝晩それ◎髪は一日三度以上くしけずれ◎歯は朝晩より食後良く研け◎手は機会ある毎に良く洗え。特に爪さき爪根の汚れ、肘のうちまで気をつけよ◎目の運動、目が口程に物をいう。鏡にむかって自分の怒れる顔ふくれ面不機嫌な顔を知れ。四十を過ぎたら自分の顔の責任を取れ◎服装はシャツのえりもとやズボンのシントの中心、ポケットの物の入れ過ぎ、上衣の袖ロズボンの裾。腰回りの緩み、見えていない下着の清潔さ◎靴の爪先の剥がれたの、かかとの片減り◎動作は歩き方、座わり方、かがみ方、見られている後ろ姿、宙に浮いた高椅子の鞍のうら◎話し方は早口になるな。決してでしゃばるな。相手を押し付けた話し方は止せ◎一応聞いてからゆっくり話せ。暗い話し方や泣きを入れた話し方は止せ。やわらかく明るく歯ぎれ良く。声は高からず低すぎず解りかりやすく区切りよく、相手の目を見て話せ。服装動作話し方に気を配り、親しまれる人になれ。或る年になったら原色の着衣や強い香はさけろ。
 「母の日が来ると繰り返してみるが、この年になっても十分の一も実行できていないことを恥ずかしく思うが、この書いた物を見るだけでも母が私を見守ってくれているような思いにふける事が出来る。
 母は他の弟妹にはこんなに厳しくはなかったように思う。長男という事への責任という気配りがあったのだろう。今年も母の日が来る。欠かさない事の一つだが又墓参りをしよう。もう母の亡くなった年より十年も長く馬令を重ねているのに只々恥ずかしい思いである。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(21) 若者の讃美と支持 太宰治
 少年、青年時代から一貫して太宰治の愛読者だと告白するのは、何かうしろめたいような気がするのだが、やはりその事実を否定することが出来ない。家の事情で狭いアパート住まいとなったため、大半の蔵書を整理することを余儀なくされたが、太宰の著作二〇冊と堀辰雄の一〇冊は捨てるにしのびなかったものである。
 「選ばれてあることの恍惚と不安と、二つわれにあり」(「晩年」)。この自惚れの強さは並みはずれている。彼とは仲間でもあった坂口安吾は太宰を評して「親兄弟、家庭といふものにいためつけられた妙チキリンな不良少年」と言っているが、キザで気取り屋でひがみっぽく、自虐的で飲んだくれという一種の性格破綻者であり、こういう鼻持ちならぬ男を友人に持ったら悲劇である。
 昭和二三年に三九才で亡くなった太宰は、その短かい生涯に五度にも亘って自殺を企てている。第一回は四年で二〇才の時実家で多量のカルモチンを飲み昏睡状態、第二回は翌五年(二一才)にカフェーの女給・田辺あつみと鎌倉でカルチモン心中、女は死んで彼は命をとりとめた。一〇年(二六才)に鎌倉山の中腹で縊死を図るも未遂、一二年(二八才)に群馬県の谷川温泉で同棲していた小山初代とカルチモンによる心中未遂、そして遂に二三年六月には山崎富栄と玉川上水に入水してとうとう昇天してしまうのだ。この間腹膜炎をおこして鎮痛のためにバビナールを使用し、爾来その中毒に悩むことにもなった。
 太宰の作家活動は昭和八年から一三年までの前期、一三年から二〇年の終戦までの中期、以後の後期と三つの時期に大別されている。デビュー作である「思ひ出」(八年)については「自分の幼時からの悪を飾らずに書いておきたいと思った」と語っているが、感受性のまさったかなりデリケートな作品である。「晩年」(一一年)では既に斬新な文体と話術を駆使した奔放な可能性を秘めた彼の才能ははっきりとうかがわれていて興味深い。中期は太宰の生涯で最も健康的な毎日を送った時代であり、彼の文学的、芸術的才能がのびのびと発揮され開花している。特に短編に抜きん出たものが多い。「満願」「富獄百景」「女生徒」「駆け込み訴え」「走れメロス」「東京八景」「新ハムレット」「右大臣実朝」などである。中でも終戦直前に連日の空襲警報の中で執筆を続けたという「お伽草子」に私は最も惹かれるのである。日本人なら誰でも知っているお伽話の中に、太宰は自己の人生観、芸術観、倫理、思想、体験の全てを投げ込み渾然たる芸術を作り上げたのである。「カチカチ山」はその中でも諷刺と笑いとそしておそろしい人間洞察と真実とが入り混じった傑作である。
 このあと短編では「親友交歓」「トカトントン」ヴィヨンの妻」などが優れている。ほか、随筆紀行文である「津軽」は彼にとって懐かしい津軽の風土と素朴でやさしい人柄に心を開くことによって、作者のいい面が素直に出ている告白の書であり、読む人の心を打つ佳作である。
 太宰文学の魅力はその文体にある。しゃれていて間の取り方がうまく、描写は端的、ユーモアの混淆が絶妙でいわゆる「道化の精神」に溢れている。一種の天才児なのだろう。太宰の良き理解者であった亀井勝一郎は彼の道化の意識の裏には表裏一体となっている罪の意識が潜んでいることを指摘している。地方の旧家であり大地主の子であることのひけ目から、農民を搾取する側の罪悪感、昭和初期の共産主義運動の勃興期に加わり、堪え切れなくなって裏切ったことに発した罪悪感、女との心中で自分は助かり相手を死なせたことへの罪悪感、同時に彼の肉親をことごとく裏切ったという罪悪感までが加わる。こういった絶望の中から太宰文学は生れたものと説く。
 太宰の代表作は「斜陽」(二二年)「人間失格」(二三年)とされているのだが、前者はともかく彼の自伝的要素の強い「人間失格」は体質的についていけない。それにしても、今もって新しい太宰フアンが生まれてきているという現象は、青春期のハシカみたいなものとも思われるのだが、やはり命がけで文学に取り組んだ太宰の作品には読者を感動させる力が潜んでいるのかも知れない。


ロテリア・エスポルチーバ詐欺

セントロ櫻会 大志田良子
 恥をしのんでしたためます。さる三月の事です。私はビラ・マリアーナのSESCに行くべく歩いていました。すると、田舎風の小太りの白人女性に声を掛けられました。ロテリアの一等当選番号ビレッテを見せて、「自分はモジから出て来たのだけれど、イデンチダーデや色々な物を忘れてきた。如何したら良いか」と問いかけてきたのです。私も知らないからと其のまま歩いていると、私の腕をつかんで大きな声で泣き出したのです。
 そこへ車から立派なモレーナの中年女性が降りてきて、如何したのかと聞いて来たのです。事情を話したところ、「そんな大声でルア(通り)で泣いてないで、車に入りなさい」と云うのですが、私は用事があり、その場を離れようとしたら二人で車の中に入れて、家に送ってあげるというのです。車の女性は大変詳しく「二人の保証人があればCAIXAでこのバクダイなお金がもらえるはず。この人のために二人で助けて上げましょう」と言うのです。二人がグルの詐欺師だとは全然疑いもせず、まだ泣きじゃくる女性が可哀想に思い、この大金をこの人が本当にも貰えたらどんなに嬉しい事かと其れのみが頭に浮かび、車の女性は、受け取るには保証金が必要だと言うのです。
 そして自分は「いま銀行から五千レアル下ろして来るから待って」と言うのです。私は車から降りて「帰る」と言うと、絶対におろしてくれず、腕をつかんで放さないのです。
 女性は手に五千レアルを持って来て、私にも「家からカードを持って来て、銀行からおろして貸してあげたらよい。勿論、この人がCAIXAから貰ったら返して貰う」と言い、当のおばさんは泣きながら「お礼をあげる」と言うのです。私は未だ詐欺と気づかず言う通り、去年、娘が日本から来た時に貰った一千ドルと銀行から三千レアルをおろして持っていったら、「電気料の領収書もいる」というのでアパートに取りに戻りました。車はアパートの横通りに止めてあったのですが、領収書を持って行って見たらその車は立ち去っていません。其の時、初めて詐欺だと気付きました。詐欺女は本当に涙を流し、また車持ちの女性の口のうまさに今更ながら驚いています。
 結局、すべてがおろかな私のやった事なので誰も攻めるわけにゆきません、主人にはゴメンナサイと手を合せて詫びた次第です、人生最悪の日でした。どうぞ皆様も絶対に私のようなバカな事にめぐりあわないよう願ってやみません。


思い出す!あの時の大失敗 ①

【ズルはダメ】
 六十年ほど前の村民運動会のこと。妹をおぶって走る競争に出場した。走る人は目隠しをし、おぶさった人は走者の頭を走る方向へ向けて合図をして導き、口をきいてはいけないという競技。
 誰に入れ知恵されたか覚えてないが、目隠しの手ぬぐいを上と下から折って真ん中を一枚にしておくと、透き通って見える仕掛けを教わった。
 これで大丈夫。いよいよスタート。一斉に走り出す。八歳の私には四歳の妹は結構重い。妹も走る方向へ私の頭を動かすなんてとても出来ない。でもかすかに見える。「良かった。一番だ」と思ったとたん、手ぬぐいがはずれて落ちてしまった。
 誰かが飛んできて手ぬぐいを縛り直してくれた。全然見えない。妹も必死に小さな手で頭を動かそうとするが、さっぱり動かず判らない。走れない。結局ビリ。
 今でもゴールした時の妹の泣きそうな顔を思い出す。可哀想だった。ズルはいけません。このときの教訓は今でも肝に銘じています。(山口)

【余裕があれば…】
 二十数年前、農林省の招待で日本へ講演に行った時のこと。
 東京から佐賀まで新幹線で行こうと道を急いでおり、ちょうど通りかかった駅員に「○時の新幹線に乗りたいのですが、間に合うでしょうか」と尋ねたところ、その人は「オッ!急げば何とか・・走りましょう」と、それーっとばかりに私の先に立ち走り出した。体格の良い人で、私は必死で後から走った。すると、「早くしないと間に合わない。自転車で行きましょう」と自転車を借りてくれた。これがまた大きな自転車で、彼は猛スピードで走り出したが、私は小柄なので尻を振り振りギッコギッコと引き離されながらもやっとの思いでこぎまくり、ようやく駅に着いた。
と、今度は新幹線のホームまで長ーい階段を彼は二段おきに飛び走る。私もゼーゼー言いながら、死に物狂いで駆け上がり駆け下りる。彼は私より早く着いて新幹線の運転手に待っててくれと言い、「早くー、早くーお客さん」と大声で叫んでいる。やっとの事で転がりこんだ途端に発車。
 心臓が破裂しそうだった。あの苦しさは今でも忘れない。でもお陰で無事、講演には間に合うことができた。それにしても親切な駅員だった。
 この時はもう一つ大事な書類を電車の中に置き忘れ、最寄の駅まで取りに行った。そうしたら駅員に叱られたというおまけもある。ブラジルの田舎者の失敗談である。(桜井)


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