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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2009年6月号

2009年6月号 (2009/06/01) 一週間遅れの母の日

ピニェイロス親睦会老壮部 中川浩巳
 私たち親睦会老壮部では五月十七日、一週間遅れの母の日に五十嵐副会長、貞弘先生にお出で頂きました。母の日当日はどの家庭でも御祝いされますので、一週間遅らせて第三日曜日を私たちの会の母の日と決めておりました。
 近頃はあちこちで色々な催しが多くなり、体一つでは両方には行けず、欠席者が多くなります。時間を遅らせながら、昨年よりも少ない出席者六十八名で例会、誕生会、そして母の日のお祝いという順番で行われました。五月生れの人は十二名ですが、今月は六名だけそれも毎月女性が多いのに、今月は女性一名、男性五名で始めました所、五十嵐さんが「今日は私の生れた日です」と話され、一同驚き、早速一緒に誕生祝をして頂いた訳です。この偶然も不思議に思いました。七名の方にプレゼントを渡し、その後、後藤会長の乾杯の音頭で昼食に入り、時間的にもお腹も空いた頃、しばしの間、美味しいお弁当に声もなく舌鼓を打ってもらいました。今まで母の日のプレゼントはワカメや春雨などでしたが、先般、カンピーナス交流旅行に参加しました際、洗剤をプレゼントしておられたのを見て、私たちも早速見習い洗剤にしました。
 昼食後は貞弘先生のギター演奏で懐かしい歌のメドレーに耳を傾けているうちに踊りの準備も出来、池本先生の踊りのお弟子さんたちの舞、団体舞踊と続き、フォークダンスにカラオケとなりました。最後に再び貞弘先生のギター伴奏で全員が大合唱。次々と歌っていくうちに「♪同期の桜」になったのです。その時、私は急に母の姿が眼に浮かびました。戦争の末期頃、西の空が真っ赤に焼けた夕日の中に只、一機だけ黒く飛行機が見えました。しばらくすると右と左に一機ずつ。またしばらくすると一機だけ夕焼けの空の中に消え行くのを母と一緒に見ていました。その時母は私に「頭を下げなさい。あの飛行機は帰って来ないのよ」と言って、母のほほに涙が流れていたのを不思議に思い「なぜ涙が出るのだろう」と子供心に思ったことが一瞬に思い出されました。母の横顔とかすりのもんぺ姿がまざまざと思い出され、はっと気が付くと、「♪同期の桜」は終ろうとしていました。私は気を入れて、司会の役をし、次の歌を歌いましたが、後ほど大人になって、片道分だけの燃料で敵地に向かった特攻隊のことを知りました。母のあの時の涙の訳もようやく分かったのですが、たった一曲の歌「♪同期の桜」で母の涙からもんぺ姿まで目の前に蘇ったのが不思議で仕方ありませんでした。
 大合唱はしばらく続き、その後は私たち特製のリッファの抽選に入り、当たる人は何度も当たり喜ぶ人、残念がる人それぞれでした。最後は全員で大きな輪となり、炭鉱節を踊って賑やかに締めくくりました。貞弘先生、五十嵐さん、ご参加下さいまして本当にありがとうございました。
 一週間遅れの私たちの母の日に参加して下さった五十嵐さんがお誕生日であった事と貞弘先生の「♪同期の桜」で急に母を思い出した事、本当に不思議な母の日でした。帰宅後に考えますと五月十五日は母の命日であった事に気が付きました。改めて母の供養をしたいと思っています。
 なお、貞弘先生には帰国されましてからも健康に注意されましてお元気で暮らされます事を会員一同、心からお祈り申し上げます。二年間ごくろうさまでした。


老後の福は創るもの

インダイアツーバ親和会 早川正満
 老後の幸せは老人会仲間からとか。それまでの徳からの贈り物と思っている人がずいぶんおられるようだが。私は老後以前より注意して自ら創るものと思っている。
 日本とブラジルは背中合わせ。昔、井戸掘りをしていると、ブラジル人の友人が「おい、お前は日本への道を付けているのか?」と冗談を言われたように、時間は一緒。たった丸半日の差があるだけだが、同じ動・植物でその大きさの違いに驚かされる。
 昔、カンピーナスの先、ジャガリウーナで借地して、トマト作りをしている折、クニャード(甥)と近くの大川で釣りをしていた時、彼が一米(メートル)余りのナマズを釣り上げ、「ナマズのお化けだ!」と言って、外すのも、料理も私にさせた覚えがある。
 四十年前、今のシチオ(耕地)に入植した頃、母が蕨(わらび)を見つけたと取ってきた。そのあまりの大きさに手をちょっと出せなかったが、妻と色々な灰汁(あく)抜きを工夫し、味噌漬けを作った時、日本がずっと近づいたような美味しさにビックリした思い出がある。このサマンバイアはゆうに二米を超す林のような大きさであった。
 自宅の裏山に二株のバンブジガンテ(大竹)が植わっているが、その太さは直径二十センチはある。その竹の子収穫と灰汁抜きを考案(こうあん)したら、日本の孟宗(もうそう)竹に負けない味がし、パルミットの代用品も出来た。妻は二世だが、これを収穫したらすぐに塩漬けにして一年中食べられるようにして我が家では必要な時、時季外れでも竹の子の色々な料理が食卓に上る。
 妻も年を取ってから、この国の食材を使って日本食を作り、自分の身内にも頼られる幸せを見つけたようだ。
 私も移民僧として、また、一世として出来るだけ二、三世の知人、親戚の手助けに幸福を見出している。
 日本国内だけの人より、移住者だからこそ人生の味が濃く、量も多い老後の幸を作り出せる環境に感謝している。貴方も今日から創る工夫をしてほしい。でも、老人の一人住まいはいけません。必ず一、二人はその幸を語れる人を横において下さい。


名画友の会

サンパウロ中央老壮会 中山保己
 老ク連の「名画友の会」は毎月第二、第四土曜日に開催されているが、参加者は三十人から五十人。遠い昔見たのをなつかしく思い出し、また見損なったのを楽しく見る。
 上映は十二時二十分より、中間の休憩時間をはさんで、先に日本映画、あとに外国映画をかけて、なかなか見応えのあるもので、主催者の苦心もしのばれるプログラムだ。
 映画の批評・鑑賞など出来っこないが、自分が感じた部分を記してみたい。「雪夫人絵図」の小暮実千代は、美しく魅力的だが、少し〃なよなよ〃し過ぎていたように思う。
 アメリカ映画「エルマー・ガントリー」の筋で、布教に成功するとたちまち英雄で、失敗するとあっという間に転落する。それを何回も繰り返す。つまり民衆の熱狂度合いが、右へ左へ激しくゆれる性向で、アメリカの国民性を見る思いがして怖いなと感じた。
 毎回、第一部が終ったあと休憩時間となり前のメーザに拡げられた「ご馳走」を食べ、お茶を飲み、雑談でしばし。各自入ってきたとき名札をつけるので誰彼とすぐわかる、この名札は便利だ。
 すし、おこわ、ちらし、その他いろいろ。「有志の持ち寄りです」と主催者の弁。
 「これが一番楽しいですね」という人。それに「年をとると食べることが最高です」と応ずる者。主催者に、内心わびつつ談笑。
 アチバイアから一人で来る九十一歳翁、この映画会以外に老ク連の各種教室に出席し毎日出掛けるという女性、いずれも心身の壮健さには脱帽である。
 名画友の会の目的である映画鑑賞以外に、会員の親睦にもなる集いも、主催者側の狙いではなかろうか。大変有意義なことだ。


今の日本は偽造ラッシュ(上)

サントアンドレ白寿会 宮崎正徳
 日本で毎年暮になるとその年を象徴(しょうちょう)する文字が決定され、墨書(ぼくしょ)される。それが昨年は「偽」だという文字で、なんとピッタリかとつくづく感心しました。
 皆さんも記憶に新しいところでは、豚肉の加工(かこう)食品を牛肉と偽(いつわ)って売っていた事件から始まり賞味期限(しょうみきげん)を偽ってラベルを取り替えたり、再加工して販売していた事件や品種、食材の産地を偽っていた事件。
 それが「不二家」とか「赤福」とか、日本国内でも歴史のある超一流銘菓または「船場吉兆」などの超一流の料亭など、多くの国民に信頼されてきた、また誰もが知っている老舗(しにせ)がニセモノを扱ってしまった。そんな事をしなくても、十分にやって行けただろうに…と思われるような名家だっただけに驚きや嘆きの声も大きかった。
 昨年はそういう偽造の発覚の多い年で、姉歯秀次という建築士の耐震偽造事件でマンションの強度を偽装し、建築費を安く上げた事件で「亡国(ぼうこく)マンション」という本が出るほど話題を呼んだ。
 これらを概観(がいかん)すると、日本の偽装事件は単に去年今年の問題ではなく、もっと根が深いことが分かる。また、発覚したのは氷山の一角であって、日本全国、政界も同じである。日本国で半世紀も続いてきた自民党の福田総理も辞任。今の日本国内の組織の上に立つ指導者たる者が至る所で偽装が行われているのでないかと疑心暗鬼(ぎしんあんき)に駆られているのではないか。
 偽装の元は言うまでもなく「欲(よく)」である。儲(もう)けるためにルール違反をするのである。大相撲でも時折「八百長(やおちょう)」の報道がある。これは試合内容の偽装販売(ぎそうはんばい)である。八百長が事実とすれば、客も損害を蒙(こうむ)る事になるが八百長をしない相撲取りはたまったものではない。これは相撲だけではなく、スポーツ全般に言えることで、八百長や不正がまかり通っていればスポーツそのものが成り立たない。
 オリンピックでも時々薬物の不正使用の報道があるが、その対応の厳しさには粛然(しゅくぜん)とさせられるものがあり、それがオリンピックの評価の高さにも繋がっている。
 今回の食品の偽装に対しても、処罰そのものは妥当なものの、報道による過剰な反応の為、会社が潰れるのでは…と、取り沙汰(ざた)された所もあった。潰れないまでも、偽装が発覚した損失は偽装のメリット払うかに超えたものだったろう。
 また偽装が発覚した時の対応もいかにも偽装をしそうな姑息(こそく)な姿勢で、はじめは「当事者の一存で…」と現場に責任を押し付け、あるいは「やむを得ない状況で…」と、セクションの長の責任にして、会社ぐるみを否定し、どうにもならなくなってから、経営陣が「お騒がせしてすみません」とか「今後は二度とこういう事態を起こさないように」などとまるで過失(かしつ)ででもあったかのように言い訳に終始している。
 おわびの段階に至っても全く「不正」な精神というものが分かっていないのである。不正を行った経営者は自分の会社の儲けしか頭になかったのだろう。だから賞味期限を偽っても食べた人が気付かない程度ならば、誰にも迷惑をかけていないと思っていたのではないだろうか。しかし賞味期限はおいしく食べられる、食べても安全だというと品質表示の基準である。つまり、会社が客に対して保証した約束なのである。また例えば不二家のお菓子なら子供に食べさせても大丈夫だという伝統が与える安心感があったろうし、赤福ならば、お爺さんお婆さんの代からのお土産だという信頼やぬくもりがあったに違いない。
 そういうすそ野の広い国民の信頼を裏切ったのである。さらにスポーツほどではないにしても、同業他社に与えた損害も少なくはない。それよりも何よりも従業員を不正に加担させ、創業以来、営々と築きあげてきた先達の苦労を無にし、かけがえのない自分自身の良心に背いて不正に手を染めた代償は極めて大きなものがある。(つづく)


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(22) 浪漫的放浪者 檀一雄
 檀一雄といえば、私達の年代の者にはやはり「リツ子・その愛」「リツ子・その死」(昭和二五年)が最も身近な作品として強く印象に残っている。戦後、自己の従軍経験と亡妻、遺児の生活体験を私小説ふうに綴った作品で、両者で作者は文壇復帰を果たし、また一般にも広く読まれた。昭和二五年には「長恨歌」「真説石川五右衛門」で第二四回直木賞を受賞してからは、中間小説も数多く書くようになった。
 檀は山梨県に生れたが、父の転職に従って東京、福岡、久留米、足利と転々とした。足利(栃木県)時代に実母が四人の子供を残して若い学生と出奔した傷心が、彼の文学志向を決定的なものとした。
 中学、高校、大学の十二年を通じて学校生活は全く嫌悪の的だったという。東大経済学部在学中二二歳の時、処女作「此家の性格」(昭和八年)を発表、太宰治、尾崎一雄らと相識り、佐藤春夫に師事した。「日本浪漫派」に発表した「夕張胡亭塾景観」(一〇年)は、芥川賞候補となり、一二年に処女作品集「花筐」
を発刊した。太宰治は「檀君の仕事の卓抜は極めて明瞭である。過去、未来の因果の糸を断ち切り、純粋刹那の愛と美とをぴったり正確に固定せしめようと、前人未踏の修羅場である」と論じているが、この処女作集にあふれた「美しい魂の告白」は檀文学の最も良質の部分を明らかにしている。
 その後すぐ応召し、以来軍隊生活と満州、中国の遍歴の旅を重ね、合わせて約一〇年間の沈黙が続く。「小説・太宰治」(二四年)
「青春放浪」(二五年)はその青春時代の交友や情熱や放浪の事実をかなり忠実に記録している。文学的恩恵を受けた友人として、檀は太宰と保田与重郎と坂口安吾をあげている。そして以降、女性と放浪の旅が、その文学的活力源となっているかのようである。無頼派作家の一人で放浪と流転の人生の中で、独特のロマンチシズムと哀愁あふれる繊細な作品を書き続け、独自の境地を開拓した。ほかの作品には「白雲悠々」「夕日と拳銃」などがある。
 絶筆となった「火宅の人」(三八年)は女優恵子との情事を含めて、放浪、酒、女など奔放に生きた人生を振り返った自伝的な作品で、読売文学賞、日本文学大賞を受賞、ベストセラーともなった。しかし、本人は自分の本能のおもむくままに、自由にはばたいたという信念はあるかも知れないが、家族はたまったものではなかろう。並みの人に送れる人生ではない。「奔放な生活記録が文学となり得る最後の文士」(河上徹太郎)と評される所以だろう。
 昭和五一年に六三才で永眠、女優・檀ふみは娘である。


こまぎれ集

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
 文章を書いていると、一編の読み物としては舌足らずのこまぎれで、どこにも発表できない物が色々と溜まってしまう。でも、捨てるには惜しいので、それを集めてみた。
◆三多
 多く読む、多く作る、多く工夫するの三つを「三多」と言い、すべての文芸上達の必須の心掛けと思う。
 俳句が判りかけて、他人に何とか見せられ、俳誌に発表できるくらいのものを一万句は作らないとならぬ――と、自信では信じている。多くを作るとその中に珠玉の句が混じるようになる。
 文章も三、四百編創作しないと筆がなめらかにならない。
 現代はテレビ、ビデオ、カラオケ、映画その他と面白い娯楽が多いので、余程の物でないと読んで貰えない。
 人に読まれない創作など無意味、不要のものと言うほかない。
◆辛抱
 「おしん、家康、隆ノ里」というのがあった。大根飯(=大根七・米三のご飯)もろくに食べられないで、口減らしのため、奉公に出された七歳のおしんが皮舟に揺られて、舟に酔いながら「おかあちゃん…」と叫ぶ。ビデオの場面に涙したもので、これは世界中で鑑賞されて感動を呼んだと言われる。
 それに「鳴くまで待とう」の家康。糖尿病で昇進が遅れた晩年の横綱、隆ノ里が辛抱の代表であった。 
 おしんの時代には辛抱で貧しさにも耐え抜き、終戦後の物不足の時には勤勉で国を復興させた日本人である。その辛抱を忘れてはならない。


思い出す!あの時の大失敗 ②

【飼い主はだれ】
 十歳ぐらいの時の事です。学校で友達四、五人と机の上に地図を広げ、頭を寄せ合いペチャクチャ、ペチャクチャ大声で何かを相談していたのですが、その時ポトンと机の上に何かが落ちました。
 お互いにアッと言ったきり一瞬シーン。シラミだったのです。しばらくして皆で顔を見合わせてゲラゲラと大笑い。あの頃は皆シラミがいて、DDTかなんかを頭に真っ白にかけられ乱暴な駆除をされたものです。お互いにシラミを落としたのは自分かもと思ったのでしょう。でも、あれは多分、私のシラミ。
 次の日は母に髪を梳いてもらってから登校しました。(近藤)
【屈伸運動は大丈夫?】
 昨年、日本に帰った時のこと。日本は今でもトイレが和式だけのところがある。
 ホテルなどは皆洋式だったが、町のデパートなどは和式の他に洋式が一つある所もあった。
 だが、場所によっては皆無。でも和式は昔から慣れているので、あるデパートで大して考えもせず飛び込んだところ、用が済んでも膝が痛くて立ち上がれない。困った。その辺に手はつきたくないし、周りには掴まる所もない。やっとの思いで何とか起き上がれた。
 これから日本に行く膝痛のある皆さん、膝が痛くなくても慣れていない方は、便器をよく確かめてから使用されることをお勧めします。(中西)
【腰バックの失敗談】
 もう何年も前の話だがポシェットの出始めの頃、娘の白い布で作ったポシェットを借りて、青年団の前で話をした。
 青年ばかり五十人くらいが集っていた。すると、どこからともなくクスクス、ククククと笑い声が聞こえる。その声が次第に大きくなって、とうとうゲラゲラ笑いなった。どうしたのか? 皆の目線で、はたと気がついた。
 腰に付けたポシェットを見て笑っていたのだ。それには白に青色や桃色の水玉模様が入っていた。腰の前に付けていたものだから、ちょっと垂れ下がって、ちょうど女性の下着(パンティー)のように見えたらしい。(貞弘)
【空き巣狙いじゃありません】
 日本に住んでいた頃、鍵を部屋の中に置いたままロックして外出してしまった。
 夕方、子供と帰って来て、家に入ろうと思ったが入れない。子供はぐずぐず言い出すし、ひょっとしたらとお勝手の小さな窓を開けてみたら開いたではないか。
 早速、いやがる子供を肩に乗せ、足の踏み場所を教え、流しから入らせ、鍵を開けさせた。(戸塚)


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