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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2009年7月号

2009年7月号 (2009/07/02) 夫婦愛

レジストロ春秋会 大岩和男
 この頃、古い本を読む機会が多くなった。先日は山本勝造さんの「ブラジルに四十年」と「ブラジルに四十一年」の二冊を続けて読んだ。二冊とも山本勝造さんが今井さんに贈られたものを、先輩の今井さんが私に下さったものである。
 山本さんはレジストロ産の紅茶をブラジルに広めた人であり、「バタタ(馬鈴薯)の山本さん」とも呼ばれ、文協、援協、商工会議所等の理事を歴任。日本カントリークラブの万年会長も務められた人だ。
 また、東北伯のレシフェにサドキン電球会社を興した人でもあり、日系企業家の最高峰を極めた人と聞いている。
 その有名な山本さんが晩年、奥さんに先立たれた。子宝運のなかった山本さんは当然、一人暮らしとなった。喜怒哀楽(きどあいらく)を分かち合い、六十年も一緒に生きてきた奥さんに先立たれてしまった。茫然(ぼうぜん)自失(じしつ)。「なすべきを知らなかった」と書いておられる。
 衣食住、一切を見てくれていた人が突然居なくなった。今までは着る物、食べる物の一切合切(いっさいがっさい)奥さん任せで、外に出て働くだけで事足りたのが、すべて自分一人の身に降りかかってきた。
 が、それ以上に身にしみて感じたのは、仕事から帰ってきても誰も居ない。「お帰りなさい」「お疲れ様」の一言もない寂しさ、侘しさであると連綿(れんめん)と綴っておられる。
 子供が一人もなかったという山本さんにはそれが極端であったろうと思われる。
 山本さんの奥さんは胃がんの手術後、自分の死を予知していたかのように死衣装を用意して入院していたというくだりがある。
 さらに最期の時はしゃっくりが止まらず、武田医師に教えられた手当療法を施行。奥さんの胸に手を当てて彼女の好きだった歌を何曲も何曲も繰り返し歌ってあげたという。奥さんはそれを聞きながらスヤスヤと眠りに入り、そのまま永遠の眠りについたという。亡くなった奥さんも死を意識することなく、夫の山本さんも亡くなる人の苦しみを見ることなく死別したということは、阿吽(あうん)の呼吸の合ったお二人なればこそ、と思われる。葬送曲を歌って永遠の別れをしたということは初めて聞いた話である。
 それを読んだ後、山本さんの本を下さった今井さんとお会いする機会に恵まれた。レジストロに自分の家を今でも持っている今井さんは時々、サンパウロに来て、数日間、その自分の家で過ごされるのを常とされている。
 親友の小野一生さんの計らいで、ペスケーロ・ウニオン(ウニオン釣堀)で会食を共にした。
 この今井さんも数年前に最愛の奥さんに先立たれ、山本さんと同じように一人暮らしなのである。「レジストロの大きな家に一人暮らしではなお寂しいから」と、息子や娘さん達が自分達の住むサンパウロの街に高級アパートを買ってくれた。移ってみたが一人暮らしに変わりはない。衣食は全て隣に住む娘が一切見てくれるので、心配はない。冷蔵庫は奥さんが生存中となんら変わりなく何時も一杯で何も不自由することもない。
 でも、どれだけ物が豊富で不足はなくても「家内の居ない寂しさは覆うすべがない」というのである。
 しかも週に二回も三回も夢に現れて、生前と同じようにあれこれと話し合う。それが目が覚めて夢であった時の「寂しさ、うつろさは言いようがない」という。
 今井さんは言う。ある人は人間死んだらそれきりでおしまいで何も残らないと言う人も居るが万物の霊長(れいちょう)である人間にはやはり霊魂(れいこん)というものがあり、たとえ肉体は滅んでも、目には見えない崇高(すうこう)なものがあることを絶対に信ずるというのが、今井さんの持論であった。
 これは体験した者でなければ、到底(とうてい)理解(りかい)出来ないだろう、と話された。
 前述の山本さんのかかれたものと相通ずるものであり、深い深い夫婦愛の現われだと思う。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(23) 戦後派作家の鬼才 三島由紀夫
 雑誌「文芸」誌が企画した質問への回答で、三島由紀夫は現存する好きな男性、女性は共に「なし」、好きな歴史上の人物が「二・二六事件の将校」としていることは、後年の割腹自殺を遂げるに至った彼の思想の純粋さを証明するものであろう。特攻隊帰りの青年達が、焼跡でデカダンスに陥っていたころ、アメリカかぶれの前向きの民主主義建設に和合し切れない青年達は、初期の三島のうちに何ものかの代弁者を見出していた。ニヒリズムを秘めた妖美と知的造型力とは、彼を一時代の偶像たらしめたことは事実である。
 東大法学部に学び、大蔵省に入省したというエリート官吏コースから、九ケ月で作家に転向した。幼い頃から早熟な才能を開花させ、一六才で同人誌に「花ざかりの森」を発表、二四才で自らの少年期をモチーフにしたとされる「仮面の告白」によって作家的地位を確立した。ほかに代表作は「禁色」「鹿鳴館」「金閣寺」「午後の曳航」「豊饒の海」等だが、「永すぎた春」「美徳のよろめき」など通俗的な作品もあり、「潮騒」はみずみずしくて初々しい青春文学の傑作だと思う。
 彼はまた実生活の上では「約束墨守」を身上としており、西欧的な合理主義者であった。そして、ほかの文士のように不摂生な生活に陥ることを固く自らに禁じていた。
 戦後派作家の鬼才とされ、古典主義の傾向を示すとともに知的かつ饒舌な文体を駆使して強烈な美意識を表現、ノーベル文学賞の対象にも候補にあがったほどだが、余りにも優等生すぎるし、共感できるところは少なかった。
 昭和三三年結婚、晩年はナショナリズムへの関心を高め、四二年に自衛隊に体験入隊、翌年には憲法改正を主なスローガンとする「楯の会」を結成している。評論家の言によると、時代感覚の鋭敏さを誇った三島は、一九六〇年代以降の経済成長が日本的精神性の喪失をもたらすであろうことを(正に日本は彼の予見したとおりの道を歩んだが)おそらく予感していたに違いない、と云う。
 戦前天皇制の復活不可能性が、逆に不可能に賭けるという道を三島に選ばせた。天才であるが故の悲惨で孤独な最期を遂げざるを得なかったのか、凡才の我々には到底はかり知れないところである。四五年十一月二十五日、自衛隊市ケ谷駐屯地総裁を襲い、自衛隊員の決起を促す演説ののち割腹自決、四五才だった。


農田源行氏のこと

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
 書棚を整理していたら、その頃盛んだった弁論会の古い賞状が出てきた。押し広げて巻末を見ると、審査員の署名がある。それに多羅間鉄輔氏、農田源行氏、その他、一騎当千の強者の文字が並んでいる。
 多羅間氏はブラジルを離れ難く、離職後、リンスに二百アルケールの珈琲園を経営していた。この方には弁論会などで時折お会いしていた。農田源行氏はリンス奥で二十余万本の見事な珈琲六年樹の農園を作り上げていた。
 我が家はその近くの分耕地に働いたことがあり、当時耕地には三十余家族がいた。農田氏は巨漢(きょうかん)剛力(ごうりき)で、我々が陸上競技に熱中している折に現れて、ひょいと競技用の砲丸を掴むとまるで馬糞を抛(ほう)るようにして九メートルも飛ばした。その記録は砲丸投げの選手と同じくらいの距離だった。
 また、氏はカマラーダ(日雇い)使いの名人であり、日曜日にはピストルの試射(ししゃ)などをしたが、その命中率(めいちゅうりつ)は彼らを感服(かんぷく)させた。
 相撲では黒人二人を同時にかからせて、それを苦もなく叩き伏せた――と言う。
 氏の娘さん農田チタ氏はリオの医大を卒業したが、当時のコロニアの女医一号ではないか、と言われた。またその養子である農田哲氏も知名な眼科医(がんかい)で、帰省した折に夜学にポ語を教わった事がある。
 農田氏はどうした心境の変化からかその後、七十歳になってからその珈琲園を手放して、麻州ロンドニアに転出した。そして、趣味(しゅみ)の狩猟(しゅりょう)に明け暮れた。その狩猟というのは、常にオンサ、鹿、カピバラという大物ばかりの豪壮(ごうそう)な物のみだった。そして若い頃、ピストルの名手だっただけに老いても狙った獲物(えもの)から弾が外れた事はなかったという。
 そしてある日のこと、運転していたジープが泥濘(でいねい)にはまり込み独りで他に手段が無いまま持ち前の強力で持ち上げている時に、心臓(しんぞう)が破れてその多彩(たさい)な人生に幕(まく)を引いた。
 日本でも現代の政治家は昔に比べて四流とよく言われているが、コロニアの指導的立場(しどうてきたちば)にある者が総(そう)じて小粒(こつぶ)になった――という声を聞く。
 昔の日系にはこの農田氏、前述の多羅間氏、間崎三三一氏、弓場勇氏のような清濁(せいだく)を併せ呑む人物がこのノロエステのみでもこれほど割拠(かっきょ)していた。
 今年は移住百年を越えた。この節目の年にこうしたスケールの大きな先駆者(せんくしゃ)を偲(しの)び、その人となりを記録し、思い起こす事が大切だと思う。


今の日本は偽造ラッシュ(下)

サントアンドレ白寿会 宮崎正徳
 優れたアイデアにより一世を風靡(ふうび)した著名(ちょめい)な料亭がその欺瞞(ぎまん)により崩壊(ほうかい)するという事件が発生しました。
 帝王学(ていおうがく)の欠如(けつじょ)、商人道を無視して起こした事件です。でたらめな経営で何億もの負債(ふさい)を抱えたまま店を閉鎖(へいさ)した大阪に本店のある「船場吉兆」という高級料亭です。
 吉兆とは文化功労賞も受けた故、湯木貞一氏が一九三〇年に創設した料亭です。
 湯木貞一氏は、立身伝中の人物です。湯木家はもと広島藩士(はんし)。祖父が武士を廃業(はいぎょう)して牡蠣(かき)船を開業(かいぎょう)。父は料亭をはじめ、氏は十六歳の時、父のもとで板前修業に入りました。二十四歳の時、茶道に興味を持ち、茶懐石(ちゃかいせき)を料理に取り入れ、料理の品格を高めることを考え出しました。
 三十歳の時、独立し、「御鯛茶処吉兆」を開きました。なんと開店当日の客は0人。しかしその後、次第に評判が高まっていき戦後一九七九年には東京サミットで他の有名料理店を押しのけ、日本料理担当店として午さん会の料理を提供したことで世界的にその名が知られるようになりました。
 その結果、氏は昭和五十六年、長年の日本料理向上への貢献が評価され、紫綬褒章を受章。昭和六十三年には料理界から史上初の文化功労賞を受賞し、同年、湯木美術館を設立しました。氏は松花堂弁当の創設者でもあります。
 そして平成九年四月七日 九十七歳という高齢で亡くなりました。まさに日本料理界の第一人者としての成功を収めた人でした。
 今回のみっともない営業内容が明るみに出て、ついには閉鎖に追い込まれたのは、料亭五社の中の船場吉兆です。
 まず昨年十月二十八日、船場吉兆が運営する福岡市の「吉兆天親フードパーク」で売れ残った五種類の菓子のラベルを毎日貼り直し、消費期限もしくは賞味期限の表示を偽装していたことが発覚しました。
 四日後の十一月一日、同店で販売していたお総菜のうち、消費期限・賞味期限が切れた食材を別の「吉兆天親店」に流していたことが発覚しました。
 その結果、十一月二日、大阪の各百貨店では吉兆の製品の取り扱いを見合わせるようになりました。
 その一週間後の十一月九日、船場吉兆本店で九州産の牛肉を「但馬牛」、ブロイラーを「地鶏」などと表示を偽装していたことも判明しました。
 ついに十一月十六日、大阪府警察生活環境(かんきょう)課は不正競争(きょうそう)防止法違反(いはん)容疑(ようぎ)で、本店ほか各店関係各所の強制(きょうせい)捜査(そうさ)に入りました。
 本社はもちろん湯木社長宅、専務(せんむ)宅、事務所など十二か所です。湯木社長も任意で事情(じじょう)聴取(ちょうしゅ)されました。情けないのは湯木社長ら店の幹部(かんぶ)の対応です。「自分たちは何も知らなかった」「偽装の件は業者が地鶏と偽(あやま)って納入(のうにゅう)した」「産地偽装の件は現場の仕入れ担当が勝手にやった」とシラを切り続けたことです。
 しかし経営者の関与の証拠が出てきてしまい、これ以上嘘は通らないと観念したのでしょう。十二月十日、湯木佐知子女将ら取締役が会見を開いて、経営陣の関与を認めました。この時、女将が長男の取締役に記者の質問に対する返答内容を小声で指示し、長男もその通りオウム返しに応える様子をマイクが拾い、女将は「ささやき女将」として一躍有名になりました。
 この女将は故・湯木貞一の三女に当たる人です。三代目ではなく、まだ二代目で親の苦労が分かっている年代です。なぜこんな恥知らずなことに手を染めたのでしょう。
 そして本年一月十六日、船場吉兆は大阪地方裁判所に民事再生法適用を申請し、受理されました。結果、佐知子女将が新社長に就任し、他の役員は全員辞任しました。負債総額は約八億円とのことです。
 一月二十二日、船場吉兆本店の営業を再開。支店関係は閉鎖しました。何とかこの不祥事を切り抜けられるかと思っていたところ、なんと、今度は客の残した料理を他の客に提供していたことが判明しました。五月初めのことです。昨年十一月、営業休止を余儀なくされた時まで湯木正徳前社長の支持で常態化していたとのことです。高いお金を頂いて提供した料理です。しかも客の前に置かれた料理には当然会話中のお客の唾(つば)が飛んでいます。そのようなものを客が食べないからといって、それを他の客にまわすなど絶対に許されないことです。ご丁寧に食べ残しの料理は客の中でも末席に座っている人に出したとのこと。ここまで客を侮辱(ぶじょく)すれば言語道断(ごんごどうだん)です。いくら理解のある客でもここまでされたら嫌になるでしょう。雪崩(なだれ)を売ったように客足が遠のき、遂に五月二十七日、船場吉兆は閉鎖廃業に追い込まれました。
 一連の報道を見ていて感ずることは、佐知子女将を始め、経営陣の不誠実さです。人としてどんなに賎(いや)しい恥ずかしいことをしたかという反省が余り見えません。女将の廃業決定の記者会見で、想定問答集を見ながら「暖簾の上にあぐらをかいていた」との言葉には絶句あるのみです。
 料理人としてのプライドがあり、品位ある生き方をする者なら、決してしては成らないことをしたのです。
 結局、料理人としてのプライドもなく、利益のためなら、違法・不法・使い回し、何でもござれと突っ走ってしまったのでしょう。
 とんでもないことをしてしまった人間として、商人として恥ずかしいことをしてしまったという反省が感じられません。事業を拡大しすぎた結果、収益の増大を計らざるを得なくなり、健全な 常識を見失ったのは一種の頭破七分の姿です。廃業は当然の.結果なのです欲望が身の破滅を招いたとも言えます。
 五月十四日付朝日新聞の声の欄に「お金を頂いた物を再利用はだめ」と題して、主婦の来栖十四子様が「船場吉兆の使い回しは呆れるばかりです。主人は五十数年前、東京で一流と言われる料亭で働いていました。その時代から吉兆と言えば一流の上に超が付くところだと聞かされてきました。超一流の吉兆なども偽を重ね、最後は身の破滅」。(おわり)


移民から移住の間

インダイアツーバ親和会 早川正満
 「のうそん」誌刊行者の永田久氏が最近、移民と移住の使い分けは誰の心情と都合で変えられたのだろう?と、なかなか興味ある話を書かれていたので、私なりにこれに関連する話をこの紙面を借りて書いてみたいと思います。
 ハワイ移民、ペルー移民、もちろん、ブラジル移民も当時の日本国としては、海外に民を働きに出し、日本に送金してもらうのが狙いだったが、現代のように個人意識で多数の出稼ぎをするわけにもいかず、特に国家間の話し合いとなると、一事日本の民を貴国に移し、働かせていただくと言う事で移民という形が出来たと思われる。
それが、日本国が中心になり、民族協和(みんぞくきょうわ)を旗印(はたじるし)に建国(けんこく)した満州国(まんしゅうこく)に日本人を多量に送り出す必要性から、今度は日本国の考えだけで、日本人を満州国に移動させる行為が移住という言葉が生れたと思われる。現に、当時、満州にいた人々の多くは金を儲けても日本に帰る考えはなく、建国に夢中で、満人とも鮮人とも協和精神は充実していたと思われた。
 戦後、海外からの引揚者(ひきあげしゃ)と人口増加で、国は民の仕事作りが追いつかなくなった時、外国の余裕があるところを求め、国内の共倒れを避けるために移住を決行したのだと思います。その中に海外経験のある引揚者とその子弟(してい)が多くおり、あの辛かった引き上げの時を忘れる思いで、完全移住をして来たのだと思います。
 永田久氏が見つけた「移民と移住」の間には、多くの歴史とドラマがいっぱい詰まっているのですね。これから我々がしなければならないのは、日本色が国際社会に溶けるのではなく、はっきりと横糸に日本色が残るよう、賢く行動しなくてはならないと思います。


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