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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2009年8月号

2009年8月号 (2009/08/11) スザノ歴史の一齣記

スザノ福栄会 杉本正
 私たちは意外と住んでいる町、あるいは部落内に歴史的なものがあっても疎(うと)いこともあるようです。ですから、知っていても別に無駄(むだ)にはならないだろうとの思いでスザノの史実を記してみます。
 スザノはブラジルでの歴史的な地として記載されています。また、名称ビーラバルエル地はスザノからリベロンピーレス町に向かってインジオ・チビリッサ街道十一㎞の地点ですが、私宅から二㎞の距離で、「スザノ地発祥(はっしょう)の地なり」と記されています。
 皆さまもご存知の如く、一五六〇年頃、有名なバンデイランテ探検隊がブラジルに上陸し、ミナス州に向かって宝石、金鉱を求めて行く途中、このスザノのバルエルに辿り着き、ここを宿泊所として住居を構えたとの事でした。
 さらに隣の村オーロフイノ地あたりに砂金があったらしく、「発掘(はっくつ)した廃墟(はいきょ)が残されている」と記されていましたが、近くなので確かめてみればよかったとの思いをしたもの。
 以後、年月を経てサントス港から上陸されてきた人たちは既に小町として存在されているこのバルエル地の宿泊所に立ち寄って宿泊し、サンパウロの町に行ったとの事で、当時の交通の大切な要所とされ、宿場(しゅくば)町として栄えたと記されている。一時は四百家族からの外国人が居住したとあり、さらに教会を中心として、雑貨店、材木店から小劇場、はたまた娼家も幾軒かあったと伝え記されています。
 当地に教会が建てられたのは、一六六〇年で、「フランシスコ・サルバドール・バルエル氏によって建てられた」とあり、名はカッペーラ・ピエダーデと名付けられたとの事です。
 どこの教会にも守り神が祀られているとの事ですが、当教会には守り神の名は記入されておらず不明ですが、歴史の専門家であれば何とか探し出す事ができるのではないでしょうか。なお、当地をビラ(村)バルエルと言いしは、多分、教会を建てた人の名を付けたものと想像します。
 教会には一八二〇年に発行されたラテン語の聖書や教会の敷地を作る時にピニョン松を切って割った処、幹の中心から正十字架が出てきたので、住民を驚かせたと言われ、教会に祀られてあると記されていました。
 約三十年前の事になりますが、友人の大浦氏とバルエル地の事について調べることがあり、教会の管理者に聖書や十字架を見せてもらいました。聖書には発行日があって、間違いなしと見ましたが、十字架については疑うわけではありませんが、お互いに半信半疑ということで、思いを合わせたものでした。現在でも祀られてあるかどうか…。
 さて、これより史実による記事から外れまして、私が現在の土地に入植した頃のバルエル地は私の所から山を越えたところにあり、三十から五十家族内外が散在して住んでいる小さな村でした。バルエル地の地形は山に囲まれた傾斜地(けいしゃち)で大きな石山があり、かつてはバルエルと言えば「あぁ、石山か」と言われるほどでした。
 従って、畑作地としては不向きな土地です。当時、学校はスザノ町のみでその頃のブラジル人たちは教育されておらず、何かを栽培する能力や考え事をする訳ではなく、生活状態はただ自分の所有地から薪や炭焼きをして収入を得、後はお定まりのフェジョン(豆)、とうもろこし、マンジョッカ芋とごく僅かな果物を植えての自給自足だったわけです。
 その頃、奥地で生活していた日本人の方が子供の教育問題や将来の事を考えてか、サンパウロ近郊に移転して来る人が増えてきて、バルエル地にも多少の耕作地はありますから一九四〇年頃には日本人三十家族ほどが入植されたものです。そのお陰でブラジル人たちは雇用されることとなり生活も向上したものです。
 ですが、その日本人達もなぜか戦後は見切りを付けて、また移転され、現在では三家族が残って野菜栽培をしているようです。
 毎年九月末に教会を中心としての祭りが催されています。いつ頃から行われてきたのか不明ですが、先に記しましたように教会が建てられたのが一六六〇年ということから、祭りはかなり以前から行われているのではないかと思います。
 私が移って来ました時は十五歳の子供で、何か歌を歌いながら通っていく人を唯珍しく見たものでした。今にして思うと、当時、ほとんどの人はスザノ方面からの信仰心の厚い人たちがこぞって、守り神とする御神体(ごしんたい)を捧げあいながら十㎞はあるバルエルの教会まで歩いていく姿だったのです。
 当時すでにリベロンピーレス町まで州道が開通(一九二七年頃)されていましたが、途中から旧道に入ってバルエルに行くわけで、三㎞の勾配(こうばい)がある山道を越えていくのは随分と難儀(なんぎ)な事だったろうと思います。昔の人たちは歩くことは一向に苦にならなかったので、私たちもよくスザノの町まで歩いたものでした。もっとも、車を持っていなかったから仕方が無かったのです。
 現在は乗用車の時代ですが、それでも祭りには車を利用せず、昔からの如く、信仰者や一部の参詣者は子供たちに至るまで、朝早くから歩いて教会に赴いています。他所は知りませんが、ちょっとした特色の参詣成りと思っていますが…。
 時代の流れとは言い難いのですが、教会に対しての敬虔(けいけん)さは薄らいでいるとの事。致し方なしとされています。
 今まで小さな村であったバルエル地は一九八五年頃に難儀とされていた山が切り崩され、なだらかな街道が通り、交通も激しくなりました。さらにロッテアメント(区画)され居住者も増え、今では昔の様相はすっかり変わりました。教会を中心とした祭りの内容も大衆の参加を目的に娯楽場を整え、賑やかな催しとなって、遠方からバスでやって来るほどです。今ではスザノ郡内の定着したお祭りの一つとなっています。
 かつて教会を中心とした小さな村の名残は改修されながらも増築もされず、位置も変わらず、昔のままの小教会のみでしょうか。
 お暇があれば、五百年前の宿泊所として栄えた往時のバルエルを偲び、お越し頂く事も一考かと存じます。


八月に想う

サントアンドレ白寿会 宮崎正徳
 私は昭和十三年七月十三日に今の中国満州の奉天市で生れました。奉天市での記憶はやっと七歳になって、日本語学校に入学できた事がとても嬉しかった事です。
 軍部勤めの父はとても厳しく一筆したためた手紙を封筒に入れ「これを先生に渡しなさい」と、言われての小学校の入学でした。そうした中、第二次世界大戦は益々激しくなり、私の家族も父の転勤でテツレイという田舎町に移りました。
 そこで母が肺結核(はいけっかく)になり、まだ、ペニシリンもない時代で母は結局二十七歳の若さでこの世を去りました。私は八歳、兄は九歳でした。
 それから一週間後には、父に召集令状(しょうしゅうれいじょう)が届き、戦地へと行く事になりました。
 父は残された兄と私に「絶対(ぜったい)に死ぬんではないぞ。生き延びろ。この戦争(せんそう)が終ったら、父も必ず生きて帰ってくるから」と言って、戦地(せんち)へと赴(おもむ)きました。
 その後、私たち兄弟は無順(ぶじゅん)という工業都市に移りました。この都市は満州でも有名な炭鉱(たんこう)の町で、日本学校もあり、やっと学校へも通えるようになり、友達もできたと思いきや終戦。
 終戦と同時に学校は八千人のロシアの軍隊にのっ取られ、我々日本人は日本に帰ることもできません。駐屯(ちゅうとん)しいているロシア兵は日々、悪い事ばかりするようになり、私と兄はまだ九歳か十歳ぐらいでしたが、自分を守る為の闘いとなりました。
 夜になると子供たちだけで五人一組で防弾(ぼうだん)チョッキを着て、手も顔も黒く塗って、ロシア兵の駐屯している所へ夜襲(やしゅう)をかけました。行くと誰かがやられる事もありましたが、学校でも私たち日本人の敵(てき)はロシアだと教育されていましたから必死でした。
 そうこうしているうちに父が無事、戦地から帰ってきました。ですがひどい栄養失調(えいようしっちょう)で、元の身体に戻るまで大変でした。丸一年経って昭和二十一(一九四六)年八月、ようやく日本へ帰国する事ができました。
 長崎の佐世保に着いた時、母に子供の頃、満州で「これが日本だよ」と絵本で教えてもらったことを思い出しました。小さな緑色の島々がきれいだったことを今でも覚えています。
 こんな私も今年七月十三日で無事に七十一歳になりました。よく今まで生きてきたと思っています。


私とピカドン

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 八月六日、その日の朝、私は明日からの登校に備えて、防空頭巾(ぼうくうずきん)の繕(つくろ)いをしていた。学徒動員(がくとどういん)で行っている工場がやっとくれた三日間の夏休み最後の朝だった。
 母は末(すえ)の妹に行水(ぎょうずい)をさせていた。突然(とつぜん)ピカッと強烈(きょうれつ)な光が射(さ)して、「何だろう」と思った。すると光に続いてドーンと爆発(ばくはつ)の音と共に二階の窓ガラスが割れた。母は妹を濡(ぬ)れたまま横抱きに、私は縫い物を放り出し、跣(はだし)で外に飛び出した。
 近所の人たちも次々に飛び出して来たが、外はいつもと同じで白っぽい道に夏の陽が明るく射していた。みんな自分の家の前に爆弾(ばくだん)が落ちたと思ったらしい。
 それからが大変だった。毎日、大火傷(おおやけど)をした人たちが乞食(こじき)のような格好(かっこう)で逃げて来て、町の小中学校に収容(しゅうよう)され、母や姉など大人は看病(かんびょう)に行き、私は弟、妹たちの面倒(めんどう)を見た。
 この爆弾を人々は「ピカドン」と呼んだ。
 少し落ち着いてきてから工場へ行ってみたら、私が使っていた機械の上に大きな梁(はり)が落ちて機械は潰(つぶ)れていた。ぞっとした。
 もちろん、学校も潰れていた。学校は広島市のはずれにあったので、焼けてはいなかったが私の学校だけでも千人の生徒が死んだ。
 私はマリリアの郊外、松原高地で生まれ、九歳の時、一家で日本に帰り、広島に住んだ。翌年、第二次世界大戦が始まった。戦争が始まると、外国を知っていた父は都会は危ないとすぐに知人に笑われながらも広島市から三十キロ離れた町に疎開(そかい)した。姉と私は軽業(かるわざ)同然(どうぜん)の汽車通学をした。だから今でも満員のメトロに乗るのは上手だ。
 終戦もなかなか信じられなかった。戦争で死ぬのは当たり前と思っていたから、生き残ったのは亡くなった人たちに申し訳ないとしばらくの間、苦しんだ。今でも潰れた校舎、焼け爛(ただ)れた電車、瓦礫(がれき)と化した町を忘れる事はできない。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(24) 米軍の捕虜生活を体験 大岡昇平
 大岡昇平の「花影」は心打たれる稀有(けう)の恋愛心理小説である。数人の男達と交渉を持った末、ついには自殺に追い込まれていく、この上なく無邪気(むじゃき)で美しい一人のバーの女給の薄幸な生活と心理を端正な文体で典雅に描いた傑作である。このほか代表作の一つとされる「武蔵野夫人」も純粋な心理小説としてフランス的な物語の展開であ
るが、多少無理な設定が感じられる。もっとも武蔵野周辺の自然は良く出ていた。二篇とも映画になっているが、「花影」のヒロイン葉子を演じた池内淳子が情感のこもった名演を見せた。
 大岡の小説家としての出発は、自らの捕虜(ほりょ)経験をもとにした「俘虜記」(昭和二三年)が横光利一賞を受けたことによる。これは前半の何故自分は米兵を殺さなかったのかという感情の分析と、後半の俘虜収容所の日本社会の縮図(しゅくず)とみた文明批評から成っている。他に戦記ものとして「野火」「レイテ戦記」の名作がある。「野火」はフィリピンの戦線で敵に叩きのめされて病気になり、所属部隊から離れて唯一人飢えと病苦に耐えながら、原野をさまよう田村一等兵の異常な戦争体験を綴ったもの。「レイテ戦記」は第二次大戦で最大の激戦(げきせん)地となったレイテ島、そこには八万の日本人将兵が投入されその九七%が戦病死、そのレイテ戦の記録である。第一巻は米軍上陸からリモン峠の前哨戦(ぜんしょうせん)まで、第二巻はリモン峠の死闘と無益(むえき)な背梁山脈越え攻撃(こうげき)、第三巻には敗走が描かれている戦記文学の傑作(けっさく)。
 大岡は推理小説の愛読者でもあり、自らも「歌と死と空」「凍った炎」「最初の目撃者」などのミステリーを著しており、「赤毛のレッドメーン」(フィルポッツ)「すねた娘」(ガードナー)の翻訳も手がけている。特に「事件」(五二年)は日本推理作家協会賞を受賞、映画、テレビドラマ化されて評判になったものである。また、氏は昭和四七年には日本芸術院会員に推薦(すいせん)されたが、「捕虜になった過去がある」ことを理由に固辞(こじ)し、国家への抵抗を示して意地を通した硬骨漢(こうこつかん)でもある。本人の述懐(じゅっかい)によると「小説をやるつもりは全くなかった。むしろいい批評が書きたかった。自分は批評家になりそこなって作家になった男なのだ」としている。
 成城(せいじょう)在学中(のち京大卒)は家庭教師だった小林秀雄の紹介で知り合った詩人・中原中也らとも交流し、スタンダールの研究に取り組むようになり、「パルムの僧院」の翻訳(ほんやく)者としての業績(ぎょうせき)もある。昭和六三年、昭和天皇崩御の二週間前に七九才で逝去した。


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