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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2009年9月号

2009年9月号 (2009/09/16) 新老人から一言

インダイアツーバ親和会 早川正満
 同じ老人会の集まりでも海外での日系老人クラブでの楽しみは、日本では考え付かない事が多くあり、思いがけない事が悩みの種になる事もある。
 我が親和会も二か月に一回集会の機会を持っている。日本食の弁当やたまに会える友人との会話を楽しみに集まってくるのかと思い、よく観察してみると、日本語が聞ける、日本語で話ができる、そして、身体の変調を日本語で聞き、答えてくれる人がいる。同じ会員で小出パウロさんというお医者さんがいるし、薬の事なら日本の薬の事までよく知っている薬局の元主人、山本さんも同じ会員だ。たぶん、この辺に集会の魅力の鍵があるのかも知れない。
 なぜなら、新老人の入会が少しずつだが、あるのだから…。
 当地の日会も婦人会も日本語学校のPTAもブラジル語中心になって久しい。考えてみると、日本語のみの世界は、かつては農業組合の部落会というのがあったが、今では老人会のみとなってしまっている。
 日系の年寄りは一世はもちろん、二世、三世になってもそこに日本語の世界があるから集まってくる。当然、日本食、日本的な娯楽面が付いている事も承知して…。
 では、日本での老人会指導の方法を取られている日本直来の先生方の指導が喜ばれているのかと言うと、そうとも見えない? ずいぶん多くの人が何か戸惑いを覚えてウロウロされている。
 私も二十三歳で渡伯して五十一年、一度も日本に帰っていない一世だが、NHKの落語では思わず笑いが出るが、若い人々の漫才はテレビの画面は笑いに包まれているのに、私の頭の笑いのセンサーは反応しない。これは自分達では気が付かないうちに、特殊な日本語の世界が海外、それも地方都市に出来上がっているのかも知れない。
 サンパウロやその近郊の日系集団地の知識人はよく「それは今、死語になっていますよ」等と言われる。でも、遠く地方におり、日系の少ない地区にいるのだから、現代の日本語からずいぶんと外れた日本語でも良いのではないか! その日本語の香りを求めて集まってくる人が現にいるのだから…。
 この頃、日会の会員で、非日系人でも葬式の時に日本人と同じように香典を持ってくる人がいる。この何となく暖かい日系コロニアの集まりを我々は育て、育んでいきたいと思う。
 我が親和会も色々な人生を歩み来て、終盤に心の友の集団を見つけたと集り来るような会にしたく、新老人の仲間が知恵を出し合って頑張っている今日この頃である。


腕白少年の改心

レジストロ春秋会 宮本美都子(九四歳)
 これは小学校時代の思い出話です。茹だりそうな十二月の日中、急いで登校する途中のことでした。突然、横道から一人の少年が飛び出してきました。私は「アッ!」と驚き、立ち止まりました。
 何とその少年は学校では嫌われ者の少年だったからです。これは困った、逃げる事もできず、後退しながら、私は度胸(どきょう)を決めて「Kさん、今日はよいお天気でひどい暑さですねぇ」と声を掛けました。
 少年は今まで女の子に一度も声など掛けられた事はないので、不思議そうに私を見つめて「当たり前じゃないか。十二月は一番暑い最中だ。分かりきった事を言う奴があるか」とえらい剣幕(けんまく)で私を睨(にら)み付けるのでした。
 その少年は私と同級生ですから「昨日、先生が下さった宿題はやってきましたか?」と恐る恐る聞きました。彼は「あんな難しい問題なんかできるもんか。白紙のまま返す」と言うので、「白紙のままなんか出したら先生に叱られますよ」と言うと「俺はいつも先生にお目玉を頂いているから、叱られるのは平気だよ」と言うのです。
 「そんな無茶は言わないで、まだ時間があるから私のでよかったら写しなさい」と、鞄から答案用紙を出しました。彼は無言のまま俯いてしまいました。「さぁ!」と、答案紙を突きつけると彼はしぶしぶ草の上に座り、写し始めました。
 私は彼の側に行って、「もし、私のが間違っていたらごめんなさいね」と、彼の肩をポンと叩きました。K君は書き終わってホッとしたのでしょうか。「あぁ、よかった。どうもありがとう。これで今日は先生に叱られないだろう」と言うので、私は「何言っているのよ。先生に褒められるわよ」と言うと、K君のその時の嬉しそうな表情。やはりK君は悪い人ではなかったのだ。周囲の人たちの責任だったのだとつくづく思いました。
 「Kさん、今日のことは内緒ですよ」と念を押して、打ち解けた話をしながら学校へ行きました。
 いよいよ授業が始まり、先生が「昨日の宿題をしてきましたか?」と聞かれると、K君が真っ先に「ハイッ!」と手を挙げました。
 先生はその答案を見て、不思議そうにK君の顔を見ていましたが、「今日の算数の答えは満点だ」と先生はニコニコ笑いながら「この調子でこれからは多いに頑張って一生懸命勉強するんだよ」と励まし、K君の肩を叩きました。
 その時のK君の嬉しそうな顔。今もあの時の様子が思い出され、忘れられません。「ハイ、先生よく分かりました。今日からは何事も一生懸命にやります。先生、ありがとうございました」と言う。K君の態度を見てホッとしました。その翌日から、K君は始めて私の名前をさん付けで呼ぶようになり、「昨日はありがとう。僕は今まで人さんに褒められた事はなかったが、昨日は生れて初めて先生に誉められた。これからは友だちとも仲良くして頑張って勉強をするぞ!」と嬉しそうに跳ね回っていました。
 休み時間が三十分あり、男子生徒は野球をしていました。いつもK君は仲間外れでしたが、それ以来、友達もでき元気よくバットを振り回して、本当に楽しそうでした。
 ある日、先生は私に「K君は何がきっかけであんなに改心したのか不思議だ」と仰られました。そこで私は意を決して「先日、先生がK君を褒めてやったのが覿面(てきめん)に効果があったのですわ。今まで先生はK君に一度も笑顔を見せられなかった。それが先日の優しい褒め言葉の一言で心が明るくなったのです。先生、失礼な事を申し上げて御免なさい」と詫びながら申し上げました。
 「いやぁ、貴方達の言うとおりだ。先生も反省するよ」とあっさり仰られ、私たち女生徒は思わず笑ってしまいました。
 私は家に帰ってこの事を両親に話しました。両親は「それは良い事をした」と喜び、「その気持を忘れずに立派な社会人になるようにこれからも愛を目標に進みなさい」と諭(さと)され、心が引き締まりました。
 その後、K君一家は農業に見切りをつけて、レジストロの町に出て、うどんの製造を始めました。昔の事ですから、手回しの小さい機械一台で作るうどんの乾燥は日の当たる家の外に針金を張り、それに作ったうどんをぶら下げて、太陽と風を利用して乾かすのです。ですから雨が降ると仕事は出来ませんでした。それでも日本式のうどんはまだ珍しい時代で、注文に応じきれない程でレジストロの名物になりました。
 数年続いた名物も交通の便がよくなり、サンパウロ方面その他からさまざまな乾燥うどんが大量に入ってくるようになって、小さな手作業製造では対抗するすべも無く、とうとう廃業の止む無きに至りました。その後、K君一家はサンパウロに出て、それぞれの道を歩みました。
 あれから四十余年、懐かしいあの当時の「カンポ・デ・エスペリエンサ」小学校の第一期生は二十人余り居た筈ですが、大半はサンパウロやその他に移転されてしまいました。当地にも十数人が残っておりましたが、次から次へと天に召され、あの腕白小僧で思い出深かったK君も四、五年前に亡くなったそうで、第一期生は私只一人になってしまいました。
 ただただ天国に召された多くの方々のご冥福を祈るばかりの今日この頃であります。
合掌


珈琲の歴史

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
 珈琲が歴史に登場してから、一千年になる。その後、数百年間の記録が無く、明確になったのは四百年後であるという。
 バグダットの医学者がエチオピアの原生林から奇妙な木の実を発見したのは、前記の如く一千年前で、それが珈琲だった。
 十六世紀、トルコやシリアのイスラム教徒がこれを儀式に用いるようになった。
 一四五四年頃、アデンの僧がエチオピアを訪ね、病気になり、この珈琲を薬用にした所、顕著(けんちょ)な効果があったので、世評に上った。それは焙煎(ばいせん)して濾(こ)した物ではなく、滓(かす)と共に飲み下したとの事。
 その後、珈琲が薬用としてでなく、嗜好(しこう)物として飲まれるようになったのは、ニ百数十年後のことであって、それよりブラジルの珈琲の歴史が始まる。
 珈琲が仏領ギアナに移植されてからブラジルに試植されるようになったのは、一七二七年で、本格的に栽培され、産業となったのは十九世紀に入ってからである。
 パラーの長官がブラジルとギアナの境界調査のため、アマゾン地域の事情に精通(せいつう)した一軍人を現地に派遣(はけん)。その軍人がギアナのフランス総督夫人に気に入られ、一千粒の珈琲の種子と五本の苗を与えられた。
 それがパラー州に植えられたのは、一七二七年で、その五年後に七アローバの珈琲がポルトガル王室に送られた。
 そしてそれがリオ周辺に広がり、コルコバード山の麓(ふもと)からサントス・ズモン広場にかけて三万本の珈琲園が出来た。
 その後、パライーバ平原に広がり、珈琲産業はブラジル経済の新機軸(しんきじく)を生んだ。
 一八三七年から三八年度の珈琲輸出はブラジル財政を維持し、一八八〇年の生産は世界生産の五六・四%を占めるに至った。
 パライーバ平原の栽培が衰退(すいたい)すると、サンパウロ州に移り、カンピーナスからリベロン・プレットのテーラ・ロッシャ(赤土)地帯に大規模な珈琲耕地が現れ、その隆盛(りゅうせい)に伴って、サンパウロ州の鉄道が何本も建設された。
 日本移民が導入されたのは、この珈琲園の奴隷(どれい)廃止(はいし)に代わる労働力としてであった。
 その労働力として、十一歳で渡伯して、八十歳まで珈琲作り一筋に生きてきた者として、感慨(かんがい)を持ってこれを綴った。


綿菓子

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 孫を連れてプライア(海岸)へ行った。
 青い空に白い雲。
 言い古された文句だが、本当にそんな感じで白い雲が水平線まで並んでいる。
 綿を千切って放り投げたような。その千切り方も色々あって厚いのや手で丸めたようなのや細いのや、見ていると面白い。
 子供の頃に行った縁日の綿菓子屋を思い出した。
 向こう鉢巻のおじさんが丸い大きな鉢みたいな物のハンドルを回すと蜘蛛(くも)が糸を吐くようにフワフワと幾つもの糸が出てきて天人の衣か蝉の羽みたいになったらクルクルと棒に巻き付けて「ハイッ」と渡してくれた。
 どうしてこんなにふんわりとした綺麗(きれい)な羽衣(はごろも)が出来るのかと、不思議で仕方が無かった。
 指でつまんでそっと引っ張り、口に入れるとすぐに溶けてホカーと甘さが口中(こうちゅう)に広がって儚(はかな)い感じがした。
 今はプライアでもこの暑いのにピカチューのぬいぐるみを着たお兄さんが長い棒に綿菓子を幾つも突き刺して売っている。
 孫にせがまれて買ってやるが、プラスチコの袋の形に固まったのを大きく千切ってパクパクと食べてしまう。
 私の子供の頃は、今のようにお菓子も無かった所為か、蚕(かいこ)の繭(まゆ)のような綿菓子をかぐや姫や天女の羽衣になぞって、そっと大事に食べたものだった。
 今は美味しいものが一杯あって、綿菓子などは珍しくないかも知れないが、それにしても今の子供には夢がないと、バアちゃんはなげいたのでした。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(25) 山岳小説の創始者 新田次郎
 戦後間もなく発表された藤原ていの「流れる星は生きている」は空前のベストセラーとなった。
 筆者は昭和一四年に気象学者・藤原寛人と結婚して満州に赴任、同地で終戦を迎えた。夫を残して子供二人を連れて満州より引き揚げ、帰国後遺書のつもりでその体験をもとに著したもの。藤原も一年余の抑留生活を送り、帰国して気象庁に復職、六年間は富士山測候所で山岳気象観測に従事した。
 夫人の著作に刺戟されたこともあり、週刊誌の編集者の勧めもあって小説に取組み始め、昭和二六年「強力伝」で「サンデー毎日」百万円懸賞小説に投稿して入選、三〇年(下半期)には同作品で直木賞を受賞し、作家・新田次郎のデビューを果たす。これは富士山の強力・小宮が五〇貫もある花崗岩の風速指示盤を背負って白馬山頂に登るが、無理がたたって死んでいくというもの。筆一本での生活になかなか踏み切れずに四一年まで勤めを続けていたので作家としての出発は四〇才を越えていた。
 その後、山を愛する四人の男女の恋愛感情のもつれを描いた「縦走路」、大正から昭和初期にかけて超人的な登山家で山岳界に勇名を馳せて、日本アルプスを単独行した加藤文太郎の伝記「孤高の人」、若い気象観測所員の厳しい生活と友情を描く「蒼氷」、登攀不能と言われた谷川岳衝立岩が征服されるまでの実録小説「神々の岩壁」等を次々と発表し、山岳小説という新しい分野を開拓した。中でも「チンネの裁き」「消えたシュプール」などは山を背景にしたミステリー小説として異色な作品であり、新鮮味が感じられる。だが、新田本人はどうしてか山岳小説家と呼ばれることを大変嫌っていたそうである。
 このほか、新田は「ある町の高い煙突」などの青春ものや少年小説なども手がけている。また、「アラスカ物語」は日本人でエスキモーの救世主と称されるようになったフランク安田の波乱の生涯を描いたものだが、力作だった。堀川弘通監督で映画化され、ヒーローには北大路欣也が扮していた。「八甲田山死の彷徨」は日露戦争の前夜、厳寒の八甲田山中で過酷な行軍が強いられ、指導系統の混乱から一九九名もの犠牲者を
出した実話を小説にしたもので、これも森谷司郎監督で映画化(高倉健)されている。
 晩年には時代小説にも手をそめるようになり、四九年には「武田信玄」で吉川英治賞を受賞している。五五年に心筋梗塞のため六七才で急逝、死後新田次郎賞が制定されている。「国家の品格」を著して評判をとった数学者・藤原正彦はその次男である。


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