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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2010年1月号

2010年1月号 (2010/01/06) 新年の御挨拶

老ク連会長 重岡康人
 新年明けましておめでとうございます。
 日系老人クラブの皆々様におかれましては、二〇一〇年の新春をめでたく迎えられたこととお喜び申し上げます。
 昨年はアメリカで発生した大不況が世界に拡大しました。「アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪をひく」と申しますが、祖国日本も大変な不況となり、ブラジルからの出稼ぎ者の三分の一が帰国せざるを得ない状況となり、一時は大変でした。でも現在は、かなり落ち着きを取り戻しており、安心致しております。大資源のあるブラジルでは大した影響もなく、今では徐々に良くなりつつあるので大いに期待しているところです。
 昨年の移民百周年記念として、連合会の庭に建立されたお地蔵様には、毎日、数十人のお参りがあり、お花やお賽銭(さいせん)が上がり、会員の皆様の守り神として慕われ、愛情と慈悲(じひ)をもって、常に見守って下さいますので、サンパウロ市の名所の一つともなっております。
 顧みますと、私も老ク連のお世話になりまして、早くも十年が過ぎました。この間、色々な事がありましたが、常に理事の皆様や会員の皆々様のご支援とご協力により、浅学非才の私を支えて頂き、今日に至り、感無量。衷心より厚く御礼申し上げます。
 今年は改選の年となりますので私は休ませて頂きますが、もし不肖の私に出来ることがございますれば、健康の許す限りお手伝いさせて頂く所存でございますので、何卒、宜しくご配慮下さいますようお願い申し上げます。
 今年からは新しい体制の元に二世、三世、四世の育成に励み、時代と共に益々の発展を祈念致します。
 年頭に当たり、全伯日系老人クラブの一層の発展と会員各位のご健勝とご活躍を祈念致しまして、一言、ご挨拶とさせて頂きます。


年頭所感

(在日本)全国老人クラブ連合会会長 斎藤十朗
 新年あけましておめでとうございます、
ブラジル日系老人クラブ連合会の会員の皆さまには健やかに新しい年を迎えられたことお慶び申し上げます。昨年、日本人移民百周年のイベントでは、老入クラブの皆様が、ブラジル全土において活躍する姿が紹介され、日本にいる私たちにとって大変誇らしく感じております。
 これまでに至った先人のご努力とそれを受け継ぎ、ブラジル社会において確固たる信頼と地位を得られた皆様にあらためて敬意を申し上げますとともに、日本・ブラジルの友好関係発展の懸け橋となられたことに対し心から感謝と御礼を申し上げます。
 さて、今年で第三十八回となる全国老人クラブ大会を古都奈良県において開催いたしました。大会は二日間の日程で行われ、初日は五つの研究部会に分かれて活動事例の発表や協議を行いました。また、二日目は老人クラブ活動の発展にご尽力いただいた個人・団体を表彰する式典が開催.されました。今年の大会を通じて感じましたことは、元気な高齢者が地域社会の様々なところで活躍いただいていることであります。
 健康づくりの一環として「健康ウォーキング」に取り組み、体の弱い仲間を誘って一緒に歩き、その活勤の輪を次第に広げる事例やレジ袋を断り、マイバックの持参を推進する「もったいない」運動など、時宜を得た活動が知恵と工夫によって行われております。
 また、北海道を会場に行われた高齢者の祭典「全国健康福祉祭」では、竹細工や藍染めなど、高齢者による手作り作品の実演やコーラス・舞踊・ダンス・寸劇などの出演にシルバーパワーを発揮しております。いずれも行動する高齢者の姿がそこにあります。
「老人クラブの魅力とは何か」を考えて見たときに、活動が日々を多忙にし、頭を使い、身体を動かす健康づくりに繋がっていることではないでしょうか。老人クラブ活動は、介護予防そのものです。ブラジルの皆様も老人クラブの良さを大切にされ、健やかな長寿を実現されますようご祈念申し上げ、新年のご挨拶といたします。


新年のご挨拶

在サンパウロ日本国総領事 大部一秋
 新年明けましておめでとうございます。
 二〇一〇年の年頭に当たり、謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
 「ブラジル日系老人クラブ連合会」は創立以来様々な事業に活発に取り組んでこられ、
貴連合会機関誌「老壮の友」についても創刊以来休むことなく刊行されておりますことに心より敬意を表します。
世界の多くの国々が急速に高齢化社会を迎える中、長寿先進国であるわが国においては二〇〇九年の「敬老の日」現在、百歳以上の高齢者は四万人を超え、ここ在サンパウロ日本国総領事館管内においても八十五名の長寿の方々がおられます。
今日ブラジル生れの日系子弟がブラジルの各分野で活躍し、社会の中で存在感を示しているのは高齢者の皆様方がこれまで豊かな知恵と貴重な体験をもとに営々として築いてこられた基盤があったからであり、その基盤は、ブラジル人の日系人に対する確固たる信頼感に結びついていると思っております。
 多人種、多文化にありながら共生を誇りとするブラジルは、天然資源も豊かでBRICSの一員として今や世界の注目を集めております。日伯関係においても近年、日本人ブラジル移住百周年を契機として大きく盛り上がり、また、ブラジルがデジタルテレビの日伯方式を採用したのをはじめ、数多くの分野で日本企業による投資が行われる等、2国間の結びつきは堅固なものになってきています。そうした中で日系人の方々が果たされる役割は今後、ますます重要になるものと確信しております。
 更に皆様ご存じの通り、二〇一四年にはサッカーのワールドカップ大会が、そして二年後の二〇一六年には南米大陸最初のオリンピックがここブラジルで開催されることに決まり、世界から注目を集めているところであります。これは今後ブラジルが二〇二二年の独立二百周年へ向けて黄金時代を築いていくであろう前兆であると感じています。
 このように世界の中でますます重要な存在となっているブラジルに対して、ブラジル日本移住百年の歴史の中で培ってきた深い日伯の相互信頼の関係を一層緊密化、強化する上で日系人の方々が果たされる役割はますます重要になっていくものと確信しております。
 そのような観点から貴連合会の会員の皆様におかれましては、どうか今後ともご健康に留意されまして、後進の良き模範として、また日系社会の指南役として引き続き、ご指導賜りますようお願い申し上げ、私の年頭の挨拶と致します。


年頭のご挨拶

国際協力機構(JICA)サンパウロ支所長 千坂平通
 新年明けましておめでとうございます。
ブラジル日系老人クラブの皆様方におかれましては、健やかな新年を迎えられたことと、お喜び申し上げます。
 さて、日本からブラジルに移住された方々は、戦前、戦後を通じ約二十五万人を数えますが、戦前移住者のほとんどの方々は農業に従事しながら、子弟の教育に勤しみ、今日の日系社会の基礎を築かれました。先般、開催された日本人ブラジル移住百周年記念式典では、日本人及び日系人は、農業分野で多大な貢献をし、ブラジル人の食文化を変えた等多大な賛辞のお言葉を頂戴しました。このことは、皆様方日本人移住者一人ひとりの献身的な努力と弛まぬ研鑽があったからこそ、勝ち得た評価であり、これらの方々の貢献がなければ、今日の高い評価を受けることは出来なかったと思います。そして、現在ではブラジル移住の歴史は百年を有し、日本人移住者の子孫は百五十万人を越え、世界最大の日系社会を築いています。
 一方、今日のブラジル経済に目を向けますと、二〇〇八年の世界ランキングでサンパウロ市は、GDP(国内総生産)三千八百八十億ドルで世界十位となっていますが、あるコンサルタント会社の調査では、サンパウロの高成長は今後とも継続し、二〇二五年には七千八百二十億ドル、世界六位になると予想されています。さらに、ブラジルは将来的には南米諸国の間でトップの座に君臨するとも言われています。このような予測が成り立つ背景には、ブラジル国民一人一人がブラジル社会を良くしようと考え、良く学び、良く働く人々が増えたからこそ、今日の繁栄があり、また将来があるのではないかと思つています。
 人種のるつぼと言われるブラジルにおいて、今後の日系社会は百周年記念事業で得た日系ブラジル人の高い評価と信頼をさらに発展させるため、今後とも日系人としての自覚と誇りを持ち、農業分野のみならず、弁護士、医者、大学教授、企業経営等あらゆる分野で大きく活躍されることを祈念します。
 最後になりますが、ブラジル日系老人クラブ連合会の会員の皆さんには、今日の日系社会の基礎を創られた皆様のご苦労に感謝申し上げますと共に、ご家族の繁栄とご健勝をお祈りし、ご挨拶に代えさせていただきます。


年頭に際して

ブラジル日本文化福祉協会会長 木多喜八郎
 ブラジル日系老人クラブ連合会会員の皆様、「老壮の友」をご愛読の皆様、新年あけましておめでとうございます。
 二〇一〇年の新春を迎えるにあたり、ブラジル日系老人クラブ連合会の皆様の今年のご健勝を心よりお祈り申しあげます。
 私儀木多喜八郎は昨年四月皆様のご支援によりブラジル日本文化福祉協会の第十一代会長に就任致しました。就任以来無我夢中で文協の改革と質の向上に邁進してきまして、それなりの成果は上がったと自負しております。新しい年を迎えて会長職の重さを一層自覚し身を引き締めたところでございます。
 今年も文協の体質改善、躍進に向かって全力をつくす所存でございますので、旧年にましてブラジル日系老人クラブ連合会の皆様の温かいご支援をブラジル日本文化福祉協会に頂きたく心よりお願い申しあげます。
 ブラジル日系老人クラブ連合会の中核をなす機関誌が「老壮の友」であり、一九七四年の創刊以来一回も休刊することなく発行されてきたことに、改めて敬意を表するものであります。毎月二千部もの機関誌が発行され、ブラジル国内はもとより、中南米各国、日本にも配信されていることは、如何に愛読者が多く支持されているかの表れであります。
 機関誌に寄せられました投稿文を拝読いたしますと、投稿者お一人お一人が楽しい、にがい、苦しい経験を子に、孫に正しい日本語で伝えたいとの気持ちが切実に感じられて、頭が下る思いでございます。親が子に、孫に正しい母国語を、歴史を伝承してゆくというあたり前のことが、機関誌を通じてブラジル日系老人クラブ連合会で実践されていることは非常におおきな意義をもつものと思います。
母国日本では高齢化による社会現象が問題視されておりますが、ブラジル目系老人クラブ連合会の日頃の活躍を拝見しますと、当地ブラジルでは日本での社会問題は存在しないとの感じをうけ年を重ねた暁に誰しもかくありたいと願う理想の姿を見る思いが致します。
二〇一〇年の年頭に当たり重ねてブラジル日系老人クラブ連合会のご活躍と、機関誌「老壮の友」のご発展を衷心より祈念いたし新年の挨拶と致します。


年のはじめに

サンパウロ日伯援護協会会長 森口忠義イナシオ
 新年あけましておめでとうございます。
 ブラジル日系老人クラブ連合会の会員の皆様にはご健勝にて二〇一〇年の新年を迎えられたこととお慶び申し上げます。
 昨年は日本人ブラジル移住百一年目で、二百年に向け出発した年でありました。各地の日系団体では、その点を視野に入れて、それぞれ、今後に向けて取り組まれたと思います。
 ブラジル日系老人クラブ連合会におかれましても、各クラブの、会員同士の交流・親睦をはかる恒例行事、多種に亘る教養活動、レクリエーションをますます活発に展開されました。日本では、老人クラブの活動のテーマとして、「元気な高齢者」を掲げておりますが、ブラジルの日系高齢者は日本の高齢者以上に意気盛んで、若々しいといわれております。老人クラブの活動は、健康の維持、社会性の維持、精神的に若さを保つ上で、欠かせない存在で、元気な高齢者の存在は広く社会に貢献していることであり、関係者皆様の情熱、努力、皆で仲間ともに元気で暮らそうという、お互いを思い合う熱い思いに深く敬意を表します。
 援協の名で知られている当サンパウロ日伯援護協会は四つの老人施設を経営しており、また、福祉活動の中で、高齢者に関る活動が一番大きなものとなっています。援協では今後、増える高齢者問題に出来るだけの対処をしていこうと、昨年、福祉センターを建設しましたが、本年度はこの福祉センターを高齢者のためにいかに有効に活用していくか、関係者一同、真剣に取り組む年であります。
 貴会と援協は、お互いに高齢者に関る活動で、高齢化が進む日系社会において、ますます必要な存在になっていくことは必至です。共通の活動に鑑み、お互いに、より一層の交流・協力体制が必要とされると思います。その関係が、高齢者活動の充実につながればと期待するものであります。
 年頭にあたり、ブラジル日系老人クラブ連合会の一層の発展と会員の皆様のご健康・ご活躍を祈念いたしまして、私の新年の挨拶とさせていただきます。


年頭に望むこと

ブラジル日本都道府県人会連合会会長 与儀昭雄
 一年の計は元旦にありと申しますが、ブラジル日系老人クラブ連合会が新年号機関紙「老壮の友」を発刊されるにあたり、ブラジル日本都道府県人会連合会を代表いたしまして、皆様へのメッセージを申し上げます。
 世界的な景気後退の中で、いろいろ大変な一年でしたが皆様方にはつつがなくお過ごしされたことと思います。
 日本では少子化に伴い、高齢者に対する福祉などが社会問題となっております。ブラジルに移住された方は戦前、戦後を通じて約二十五万人といわれ、今ではその数は五万人を切っています。そしてブラジルで生まれた二世のかたがたでも、高齢者は多くなっているのが実情です。
 ブラジル日系老人クラブ連合会は一九七九年、ブラジル在住の日系在宅高齢者の老後生活の充実を目的にされ、この中で会員相互の親睦と相互扶助、生きがい増進のための文化・体育活動、福祉活動やその他の行事に参加しておられることは、いつも老人クラブ大会、カラオケ大会、芸能祭、ゲートボール大会など見させていただいて、心強く感じております。
 貴連合会は傘下に四十九の支部があり、クラブ会員数は一万人を超えるとのことで、会員は一世だけでは無いでしょうが、一世から二世、そして三世、四世へと活動がこれからも末永くブラジル日系老人の心の支えになることは間違いありません。この組織がブラジル全土に広がり、名実ともにブラジルの日系老人クラブの連合会になることを祈ります。
 終わりにブラジル日系老人クラブ連合会が、今年もますます発展され、皆様方の心豊かな生活と明るく活気ある社会作りに貢献されることを祈念いたします。


新しい年を迎えて

老壮の友歌檀選者 渡辺光
 短歌愛好家の皆様もお変わりなく、お元気で新しい年をお迎えになられた事と存じます。
 毎月投稿される方たちに誠に申し訳ないことですが、紙面の都合で余裕がなく、読み辛い事と思います。
 お忙しい中、投稿される方のために一首でも多く紙上で発表されたらと思いますが、三首と規定されておりますので推敲を重ねて作品をおよせ下さい。
 紙上で掲載される際に、従前より作品の順位を決めて発表されていたように思いますが、私は序列を決めて掲載することは致しません。到着順に掲載しております。
 ベテランの方は常時に上位にある事は当然で、趣味として最近始められた人なども居られますし、そういう人達はいつも下位の序列で掲載されることになるでしょう。
 序列が潜在意識にあるとトップに掲載されないと自分の作品は駄目なんだと思いたくなるでしょう。選者もそれぞれ好みがあるでしょう。花鳥風月を好む人、生活詠を好む人等々、それぞれです。
 コンクールの場合だと、必ず順位を付けなくてはならないのですが、当紙に毎月発表される投稿者の作品は、上手、下手の技術的評価ではなく、日々の自分の生活の中での心の動き、即ち感動を三十一文字に表現することですから、短詩形自分史ではないでしょうか。
 そう考えると順位など考えなくても良いと思います。
 伝統的な美しい日本語を学び続けることに日本人としての意義があるように思います。そして次の世代にまで継承されるべく努力したいものです。
 ベテランの方たちの作品を読み、自分の作品は駄目だなど思われる方もその時点ですでに上達されているのだと思います。
 私も勉学途中ですからアドバイスなどおこがましいと思っていますが,選者の立場からではなく皆様と同様に学んで行きたいと思って居ります。今年も宜しくお願い致します。


新年のご挨拶

(在日本)『百歳万歳』編集長 植松紀子
 明けましておめでとうございます。
二〇一〇年の新しい年を皆さまとともにお祝いしたいと存じます。
旧年中はブラジル日系老人クラブ連合会の会員の皆さまに『百歳万歳』をご購読頂きありがとうございました。
皆さまのクラブ活動に、生きがい作りに『百歳万歳』がお役に立てていることは嬉しく存じます。
昨年の日本は百年に一度という不況に見舞われて、元気がありませんでしたが、秋には政権交替という大きな「チェンジ」があり、高齢者に対する施策も変化するのではないかと注目しているところです。
そんな中、元気なのは老人クラブで活躍する高齢の皆さんです。全国各地の老人クラブでは様々な工夫と努力で会員の笑顔がこぼれる活動を展開しています。
しかし、一方では会員の減少、老人クラブの解散の波もなかなか歯止めがかからない状態であることも確かです。
昨年九月の発表では日本国内で百歳以上の人が四万人を超え、百歳まで生きるのは当たり前のようになっている日本です。長寿をまっとうできる時代になったことは嬉しいことです。
長寿国ニッポンとしては、世界の長寿の先輩として高齢者がいきいきと暮らすさまを世界に示す必要があります。そして、日本の若者たちにも高齢期の生き方の手本となり、後に続く人たちに高齢期もまた素晴らしいものだと感じてもらえたらと思っております。
ブラジルに生活する皆さんの多くも「若いときは苦労もあったが、高齢期の今はとても幸せ」と感じていらっしゃると聞いています。今年もお互いに励ましあい、学びあって充実した日々を送っていただけるよう願っております。
毎月届く『老壮の友』を楽しみに拝読しております。芸能祭、スポーツ大会、交流旅行のニュースはもちろん、読者の方々の投稿など興味深く読ませていただいています。
ブラジル日系老人クラブ連合会の皆さまにおかれましては今年も健康に留意され、楽しく、生きがいのある日々を過ごされますよう、遠い日本の空の下より願っております。


新しい年を迎えて

川柳教室指導者 柿嶋さだ子
 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 年頭に当たり、老ク連の皆様方のご多幸を心よりお祈り申し上げます。
 月日が経つのは本当に早いものです。文字通り「光陰(こういん)矢の如し」で、今年から二〇一〇年、二十一世紀も二桁の時代に入りました。
 老ク連に川柳教室が開設されましてから、一年足らずと日もまだ浅く、川柳の要素がようやく理解されてきたような段階ですが、老壮の友十一月号に早川正満さんが書いておられますように、読者の心に伝わるような佳吟が初心者の作品にも若干目立ってきています。
 川柳はよく笑いの文芸、風刺の文芸といわれますが、あくまでも人間性、社会性を主眼とした人間社会を描写する文芸ですので、その範囲は無限の広がりを持っています。
 代表的な感情表現である「喜怒哀楽」に当たるいくつかを拾ってみても「喜」は気持ちよさ、気晴らし、おかしみ、歓喜。「怒」は腹立ち、八つ当たり、歯ぎしり。「哀」には悲しみ、寂しさ、もの思い、傷心など。「楽」には快楽、楽しみ、手軽、事も無く、といった言葉が浮かんできます。
 このようにそれぞれの語の周辺には強さと弱さ、賢さと愚かさ、明と暗、善と悪といった方向や程度の異なる人間の百様百対(ひゃくようひゃくたい)を見る事が出来ます。
 川柳はこうした人間の様々を素材とする詩であり、また、川柳は人間の多様(たよう)性を描く文学文化も豊富に享受しているのです。
 漢字、かな、外来語の表現ができ、その伝達も五・七・五の短さとリズムを長所として、携帯電話、インターネットまで移りゆく文明に対応したまさにこれからの世紀に相応しい文芸であるといえましょう。
 実年を過ぎますと何となく怠惰(たいだ)になって、何事にも消極的になりがちですが、広い視野のもと色々な分野でそれぞれの趣味を生かしながら、悔いの無い人生をエンジョイしたいものです。
 新しい年を迎えて、川柳句会にも少しずつ活況が期待できるのではないかと思っています。
 皆様の益々のご健康とご活躍を祈念いたしまして、年頭のご挨拶に代えさせて頂きます。


「ぼさっ」と大歓迎

絵画教室指導者 森田冨久子
 もう新年である。何と一年の早く過ぎ去る事か。子供の頃はもっともっと一年が長かったように思う。
 年を取るごとに一年が早く終るように感じる。そして、思い出の多くなる事、多くなる事。いろいろな事を思い出しているうちに時間はドンドン過ぎていく。思い出に語りかけ、自分で返事をし、あの時、こう答えていたらこういう風にしていたら、こうなったであろう、ああなったであろうと、独り言を言っていると静かに時間は過ぎてゆく。
 昔、爺さんや婆さんが窓から何十分も外を眺めて暮らしている姿を見て退屈なのかしら、それとも何か考え事をしているのかしらなどと考えたことがあったけれど、今、思えば、いまの私のように自分と話をしていたのかも知れない。ああしたらこうなったであろう、こうなったら面白かっただろう等、幾通りもの人生が生れ一つひとつの人生をそれなりに考えるとまた別の人生を歩いているような気になり、はっと現実に戻ると、とんでもないほどの時間が経っていたりする。
 頭の中でああだ、こうだと考えている色々な人生も数えると人間は幾通りもの人生と時間を過ごした事になり、人生八十年と最近は言われるようになってはいるが、考え方によっては百八十年位生きているのと同じではないかとすら思われる。「ぼさっとしているな!」等と言う人も居るけれど、案外、この『ぼさっ』が人生に色を付け、楽しく豊かにしてくれているのかも知れない。
 また、現実の人生で叶えられないようなものも、ぼさっとした頭の中で実現させるのは、誰に邪魔になるわけでもなく精神的にも叶えられない事が叶えられて、心がスカッとして非常に良いように思う。
 欲求不満などという言葉も半分ほど消えてしまうのではないだろうか。『ぼさっ』大歓迎である。
 今年もこの『ぼさっ』の中で構図の考えを練り、色を想像し、好きな絵を描き、良い一年を過ごしたいものです。


虎年を

民謡教室指導者 纐纈蹟二
 昔は寅年生まれの女性を娶(めと)ると相性(あいしょう)が強くて、亭主が参ってしまうと云い、縁が遠かったそうである。現在はそんな話は通用しない。
 民謡の一節に「世の中は好いた同志で暮らしやんせ ハイ何時までもオ」とあるが、まったくその通りである。
 気の強い女性は寅年でなくても沢山いて、家庭を上手に切り盛りしている。
 この間の句会で「良き妻、良き母、良き女」の一句があり、私も互選で頂いた。十二支の第三番目が寅年で、すなわち虎年である。
 浪曲などで母里太平が秀吉公の朝鮮出兵で彼の地の竹藪の洞穴から出てきた大虎を名槍日本号にて仕留めんと突き出した。それを大虎が槍の千段巻きをぱっと押さえてじりじりと寄って来る。太刀を抜く間合が取れない。そこへ後藤又兵衛が来て、「日本号と俺の槍を取り替えるならば、助けてやるぞ」と云う。太平はなかなかうんとは云わないが、大虎の息が顔にかかるまでに近づくと、「助けてくれ」と叫んだ。間を置かずに又兵衛の槍が煌(きらめ)いて、虎を突いた。手負になって、大虎は逃げ失せて、又兵衛はまんまと名槍を入手した、とはまったく出来すぎた様な話である。
 日本では猛獣といえば熊ぐらいで、毒蛇も蝮(まむし)一種という、その点は恵まれた国である。
 武士が陣太刀の鞘を虎の皮で装飾している絵を見た事もある。一級の敷物は虎で、その次が熊の皮だったらしい。だから「虎は死んでも皮残す。人は死んで名を残す」等と云った。それほど日本にはいない猛獣虎なのに馴染みは深い存在だったのである。大昔、アジアにはライオンが居たそうだが、喧嘩は虎の方が断然強くて、駆逐されてアフリカ大陸に退避したそうである。強いものの象徴(しょうちょう)に龍虎という言葉がある。龍は蛇のようだが角があり、四肢にするどい爪を有して、雲を呼び空を飛ぶ想像上の猛々しい動物であるが、虎は実在の猛獣である。
 日本人には親しまれた猛獣で、絵で見る雷神は虎の皮の褌(ふんどし)をしている。鬼の親方も同様である。
 小児の玩具(がんぐ)の張子(はり)の虎は愛嬌がある。寅年の絵葉書も凄みのある虎はなく、愛想の良い虎ばかり描かれている。我が老ク連も虎のように強く、消えなんとする伝統文化を末永く伝えていきたいと祈念して、幸多き寅年を過したく思う所存である。


田中家の犬達

百人一首の会指導者 田中保子
 娘が三歳の頃、夜勤明けの夫が仔犬を抱いて帰ってきた。フワフワした茶色の毛で二ヶ月ぐらいか。コロコロして可愛い犬で、娘は大喜び。早速「コロ」と名を付けて、一日中一緒に遊んでいた。このコロを連れて、二度も引越しをしている。以来、我が家は四十五年間、一日も犬がいなかった日は無く、今日まで共存を続けている。
 家で生れた犬。貰った犬。押し付けられた犬。拾った犬。その間、約十五年間シェパードの仔育てを内職にしていたので、年間十数匹の仔犬を育ててきた。思い出しながら数えたら、二百匹以上の犬をこの手にした勘定となる。
 繋いでもすぐに鎖をきって逃げる「カピ」。板作りの小屋をバリバリと壊してしまう「全学連」。生れた赤子を土の穴に埋めてしまうバカ犬「ソブリンニャ」。知人にあげた「コリン」と「チャン」は近くの友人宅に二匹でトコトコと遊びに行っては帰れないと騒ぐ犬。ドーノ(主人)が車で迎えに行くまで門口で啼いているとか。
 郊外に売られて行ったシェパードのドーノは写真を度々送ってよこしたが、美しく育った一歳の頃、「盗まれた」と、電話してきた。思わず「グワルダ(ガードマン)を付けたら?」と、笑ってしまった。
 「日光」「月光」と名付けた仔犬を遊ばせながら、鮪(まぐろ)の味噌漬を焚火のオキで焼いていたが、皿を取りに行った二、三分の間にペロリと食べられ、ポンポコ腹で寝転んでいる仔犬を叱る事もできずに笑ってしまった事もある。
 多産ナンバーワンの「ポニー」は多い時は八匹から十二匹の仔を生むので、半数を母乳とママデイラ(哺乳瓶)で交替するのだが、この時は家族総出で、自称「動物嫌い」の夫も駆り出された。悪妻愚母の見本「メリー」。猛母「ウエンデイ」。プレイボーイ「モル」は約一ヶ月行方不明の後、全身、傷だらけでヨタヨタと家にたどり着き、大瓶のヨードチンキを振り掛けるほど。全治後は長生きした。
 法律事務所の番犬として出稼ぎに行った「タンゴ」。日曜学校の先生から戴いた黒い毛の「ルル」は借家住まいから原っぱの真ん中に建てた家で思いっきり走り回れたのが仇となり、近所のシャカレイロが仕掛けた毒団子を食べ泡を吹きながら私の腕の中で死んだ。
 シェパードの「大伍郎」は脱走常習犯。あちこちの早朝出勤者から度々怒鳴り込まれ「ぶち殺してやる」とはじきを持って叱られた事もある。この男のカミさんが飼っているプードルの仔を二匹も押し付けられ、あまりに小さかったので、エプロンのポケットに入れて育てた。時々、出稼ぎから帰る夫とイザコザを起こしたりもした。「お母さんに触るな!」と犬が吠えれば、「オレのカミさんだ。文句あるか!」と夫も吠えていた。セパードの仔は約四十日ぐらいすると、業者が引き取りに来るのだが、その時は涙がこぼれる。
 寝たきりになった「モモ」は私の帰宅を待っていたように二声啼いて死んでいった。
 現在同居?の犬達も全部娘が持ち込んだ犬である。悪戯(いたずら)がひどいのでお婆さんから「山に捨てて来い」と叱られた生徒に「貰って下さい」と泣き落とされて預かった「ラボラドール」。帰国するので、と押し付けられた「狆(ちん)」。
 当分、私は犬係婆で過ごす事になりそうだ。


南部の殿様

健康体操教室指導者 戸塚マリ
 「南部の殿様、粟飯稗飯のどにひっからま~る干し菜汁」
 青森の民謡だそうで「のどにひっからま~る」が面白く、口ずさんでいたら、昔、そんな食事をしていたなぁと思い出しました。
 戦後、引き揚げて東京に住んでいた頃の事です。
 毎日、糅飯(かてめし)という何か混ぜて炊いたご飯かお粥。ふすまとか苦いさつま芋粉のパン。魚はすけとう鱈か鰯。それに菜っ葉でまったく殿様と同じ食料事情でした。
 昭和初期の青森、津軽の方はお米が取れたけれど、南部の常食は糅飯に菜っ葉や鰯だったそうで、そのおかげで病気にならず、それを「医者殺し」と言ったそうです。
 元禄の頃、江戸では皆、白米を食べるようになり、「江戸煩(わずら)い」と言って、ビタミンB1欠乏の脚気(かっけ)になる人が多く、白米の所為だとは気が付かなかったそうです。
 それで私も今頃気が付いたのですけれど、日本へ帰ってから、そう言えば、病気で寝込んだ覚えがありませんでした。
 中国大陸に住んでいた小さい頃は、かなり余裕がある生活でしたが、すぐに風邪を引いて熱を出し、脚気になったりしました。胸を悪くしては、学校を休む。最後には脳背髄膜炎の手術をして、痩せこけて日本へ帰国しました。
 その後、引き揚げてからの健康は、バレエを習っていたためかと思っていましたが、あの殿様食と適度な労働のお陰だったのです。こちらブラジルへ来てからも病気で休んだ事もなく仕事をしていましたが、一昨年、オートバイに跳ねられて、頭の手術をし、二ヶ月ぐらい休みました。
 自分の体力を過信していたのです。健康のためには、食事、運動、休養をバランスよくという事でしょう。
 これから年寄りの冷や水にならないように老人クラブの先輩方を見習って、ゆっくり元気に明るく今年は過したいと思っています。


ブラジルに来てよかった

ブラジル書道愛好会会長 書道教室指導者 若松如空
 数年前のこと、日本のブラジル学の権威(けんい)である堀坂教授とお逢いした時、「今のブラジルをどう思うか」と、質問された。「私が死ぬ頃には素晴らしい国になるね」と答えた。彼は国民の所得格差(しょとくかくさ)が大きすぎる事と、その結果としての犯罪の多発が難点(なんてん)だといっていた。私は所得の底上げが進めば、社会不安も減少すると反発した。少々我田引水(がでんいんすい)の傾向があるとは思うが、最近はことさらブラジルが好きになってきた。
 昨年の書道愛好会の書展に、私は太陽と土と水の字を古代文字で書いた三点一組の作品を展示した。これはある進出企業の社長が「温かい太陽があって、平坦で広大な土地に恵まれ、豊富な水量の河に囲まれているこの国では何でも作れる。こんな国は世界でも少ない」と述べたのに大いに同調して、書の作品にしたものだ。
 その昔、「こんな条件のいい国なのになんで物ができないのか?」という質問に対して、「プランタンド・ダー」という答えが返って来た、という一口話があった。「植えれば、出来るさ」というのは、植えないから出来ないんだという返事であるが、金がない、技術がない、意欲がないというのは過去の話である。
 現在では、大豆、砂糖、アルコール、コーヒー、ミカン、ジュースと世界屈指の農業生産国である。牛肉、鶏肉、果実、花なども注目される輸出が見られている。
 昨年の展示会では、「資源大国」という四字を書いた。畳一畳大の楷書作品である。力強い筆勢で書いたつもりで、自分でもまあまあの作だと思っている。これは鉱産物や原油の生産国として、世界の眼を惹きつけた 二〇〇八年度のブラジルの躍進(やくしん)を表現しようとしたものだ。バーレ・ド・リオドーセ社の鉄鉱石の輸出は日本向けに大きな実績を持つが、中国の工業開発による膨大(ぼうだい)な需要(じゅよう)の出現で益々存在が浮かび上がった。それにもまして、石油資源発見の話題はブラジルの将来を更に明るくした。
 私が来た頃にはブラジルには石油が無いとされていた。植木動力相がドラム缶の上で小躍りした漫画が新聞に掲載された時から、原油の生産は徐々に増加し始め、今は国内需要を一〇〇%満たした上、輸出国に変身しつつある。海底の油田は世界有数の埋蔵量である。
 昨年の世界的経済危機で、先進国が衰弱している中、中国、インド、ロシアと並んだ新興四カ国BRICSの中でもブラジルは政治的に安定した民主国として、投資の対象では目立った存在になった。ドルが入り過ぎて困る状況である。
 ブラジルに来て、良かったと思うのは私だけでなく、ほとんどの一世の感慨であろう。「お前は好きな処へ行って、好きなことをしてうらやましい」と旧制中学で首席だった同級生が私に言った。彼は東大から農林省へ入ったが、局長になれずに不満だった。私も今や七十九歳。男性の平均年齢まで来た。これから先は生きただけ儲けである。二〇一四年のW杯、二〇一六年のオリンピック開催がブラジルに決まったのは、ブラジルが世界の主要な国として認められた証なのである。
 ブラジルの発展する姿と合わせて、この催しを見られるのは、ブラジルへ夢を求めて渡ってきたものに与えられるご褒美であろう。冥土の土産に喜んで持っていこう。


台湾梅の話

俳句教室指導者 栢野桂山
 昨年の十二月一日のニッケイ新聞に「第三十九回山本喜誉司賞(文協主催)の授賞式」の記事があった。今年、同賞を受けた方の中に台湾梅の栽培でコロニアに梅干をもたらせた孫河福さんの名があり、懐かしかった。
 もう四十年も昔の事であるが「台湾梅を作っている人がいる」と聞いて、著者はもの好きにもそのボツカツ近郊の孫[スンと発音する]さんを訪問し、その梅林を見学してその種にする梅を入手し、奥ノロエステの耕地の涼しい立ち木の下に蒔いた。
 奥ノロエステは暑いので、苗になるかどうか心配したが、ぽつりぽつり芽を出して、十センチ程になったので補植用のコーヒー苗を作るビニール袋に植え、大切に育てた。
 ようやく十センチほどに育った苗木を十二~三本、家の近くに植えた。「桃栗三年、柿八年」と言うが、桃に近いこの梅は三年目より生り始めたので、再びそれを蒔いて苗木作りに励み、それを方々に分けた。
 ボツカツの孫さんが台湾梅の元祖なら、著者は奥ノロエステの梅の元祖――ということになる。
 その後、子供等の教育の都合上、町に住居を移したので、耕地の経営が困難になり、その耕地を手放す事にした。
 そして町の庭に植えた一本の梅は年々雪虫のような花を咲かせて眼を楽しませてくれるが、一本のみでは受精せず、口は楽しませてくれなくなった。実のならない梅の花の枝を裁って来て、卓を飾り、それを肴にビールを飲んでた若い頃を思い出して、今、この文章を綴っている。
 そして、前記の受賞の事であるが、日系コロニアがブラジル人ではなく、他のコロニアの人に山本喜誉司賞を贈るという事はかつて無かった。孫さんは記憶に無いかも知れないが、かつて、御地を訪問して梅を戴いた一人として、改めて厚く御礼を申し上げますと同時にこの場を借りて、受賞のお祝いを申し上げます。


旅で出会った親切

コーラス教室指導者 三木八重子
リオ
 初めて父が訪伯した時リオに行きました。夜、ホテルを探しましたが、どこも空いていませんでした。主人が「バールMIKI」という看板を見つけ、「あっ、同姓だ。あそこで聞いてみよう」と。店は日本人の店ではなかったのですが、そこに居合わせたお客さんの一人が、「自分の空いたマンションをお使い下さい」と連れて行ってくださいました。次の朝、迎えに来てくださり、一日中、名所を案内して下さいました。お礼をと言いましたが、受け取ってくださいませんでした。何年か後、その店の前を通り、「もしかして?!」と思い立ち寄ってみると、やはり、彼は居られました。カイシャ、エコノミカに働いていて、家も近くでいつも来ているそうです。今考えてみればリオの一月は、観光シーズンで世界中の人達が来ているのでした。
御宿 友達との約束の時間よりだいぶ早くついてしまい、タクシー代の節約も兼ねて歩くことにしました。店で道を聞き、ごろごろとキャリアカーを引っ張って歩き始めて、しばらくすると、車がスーッと止まり、女の人が降りて来て、「目的地まで行くには、今からですと、暗くなってしまうから、この車に乗りなさい」と言うのです。心の中で(どうして知っているの?店には誰もいなかったのに…)と思うと、何と店の陳列棚の向こうで聞いておられたのだそうです。結局、乗せて頂き、僅かばかりのお土産を渡し、別れたのでした。
明日香村 あるお寺の、お土産屋さんの後ろで農産物の出荷作業をしている方と話していたら、「ちょっと待って」と家に入って行き、「これはここで昔から食べられている餅です。家で食べて下さい」と沢山頂きました。境内の中なのに、後ろには作物が植えられて、住宅もあってお寺のなのか、個人のなのか判らない。これが明日香村なんだなぁ~と、何とも長閑(のどか)なものでした。
シカゴ シカゴに着いたら、乗り換え便の時間を知らせてとの事、電話はすべてカード式で、若い娘さんにカード売り場を尋ねたら、カードを差し出して、「これをお使い下さい」とおっしゃるのです。お金を払おうとしたら「私、日本に帰りますので、もういらないのです」と言います。
 他にも、まだまだ沢山の親切を受けました。有り難いことです。


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