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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2010年2月号

2010年2月号 (2010/02/15) 夢写し

インダイアツーバ親和会 早川正満
 年を取ると皆さんも同じだと思いますが、夜中に目が覚めるとなかなか眠れない日が続くことがあります。でも、若い時と違って、朝になって頭が痛いという訳ではないので、ついつい見過ごしてしまいます。でも、困るのはそんな時、悩み事を思い出したり、悔しい出来事を思い出したりして、鼓動を早めてしまい老いを駆り立てるようなことがあります。まるで坂道を転げるように悪い方、悪い方へと考えがちになる事です。
 そこで私は最近、老壮の友の川柳に参加させて頂き、老後の暇な時間が無くなり喜んでいる次第ですが、その製作時間がこの目の覚めた時間で、私の場合はまだ眠っているような、夢の中という感じなのですが、この時間帯に自分でも「これは良い」と思える川柳が泉のように湧き出てくるのです。
 ただ困ったことに目が覚めるとすっかり忘れている事です。そこで、ベッドに入る前にベッドの横に白紙とペンを置く事にしました。夢想(むそう)の中で出てくる川柳を手と紙だけの感覚の中で書いて写していくのです。目が覚めてみると、もちろんなぐり書きですが半分ぐらいは拾い出せることが出来ます。私はそれを「夢写し」と名付けました。それを川柳日記と記した手帳に清書して、私の川柳制作は完了します。
 俳句、短歌を行っている人も、昼間、うまくまとまらなかった句を「夢写し」の形で完成させてみませんか。朝の目覚めにすこぶる良いおまけが付いてきます。
 では、その中から三つばかり紹介します。
初日より親ばかぶろにつかりけり
息子(こ)の情(こころ)うれしさについ酒二つ
妻病みて有りがたきを知る常の日々
すり足で老いの貫禄(かんろく)晦日(みそか)行く


私のお正月

ナザレー老壮会 波多野敬子
 今まで大晦日に年越しそばを食べなかったことは一度もなくお寿司を作ろうかといえば、刺身があるからいらないだろうという訳で。
 食生活にも世代の変わりを感じた年初めでした。私は年ですから一歩も二歩も引いた身ですから、口出しはしないようにしていますが、主人が亡くなって八ヵ月。初めての正月。ちょっと寂しいなという気持ちも無きにしも非ずです。
 でもまぁ、アルゼンチンにいる三男が子供連れで来てくれて、賑やかに和やかに、取りたくない年をまた一つ貰いました。
 よくまあこれまで生きられたなと思いながら、毎日をありがとうと感謝しつつ、家業の一端をになっています。
 皆さんの今年一年のお幸を祈っています。


人生はやり直しが効く

サンパウロ中央老壮会 安本丹
 人生はやり直しが効かないのだから、若いうちに勉強、恋愛、仕事などに励めというのが今までの決まり文句だった。しかし最近は平均寿命が延びたので、この教訓は改めなければならない。最近は定年退職が六十五歳や七十歳まで延びたが、ブラジルでは職種または勤務年限によっては五十代、あるいは四十代で既に年金退職する例さえ見られる。最近訪伯した目野原重明先生や、昇地先生のように、彼らがもし百歳またはそれ以上まで生きるとすれば、現役時代と同じか、または倍以上の時間が余るだろう。その時間をいかに有効に利用するかが今後の課題だろう。若者との根本的な違いは、退職者は年金や貯金があるので、金の心配をしたり、仕事や学校がないので、成績や成果に気を使う必要がないことだ。従って勉強やボランタリー活動などに時間を使わなければ損である。そこで自分も新しい語学の勉強を始め、また仏教関係書あるいは昔は嫌いだった理数系の本などを読み始めた。外国旅行やボランタリー活動も増やすつもりであり、若い人に負けないような気概だけは持っている。
 ただし、高齢になれば肉体的、精神的な衰えはどうしようもなく、若者と争っても無駄である。また退職者が経営学を勉強しても、現役の部課長として活躍することは出来ないだろう。それでも会社の経営が悪化したため、元の社長や会長が呼び戻された例もあるし、最近では八十歳を過ぎてから三十代の女性と一緒になった佐藤常蔵さんのような例もある。従って生涯現役や老いらくの恋も決して諦めるべきではない。同郷の水戸出身者が書いた本によれば、彼は見初めた女性と話す勇気もないまま、戦前にキューバへ移住した。
 そして二十数年ぶりで故郷に帰り、偶然にその女性と会ったところ、彼女も彼が必ず自分を迎えに来てくれると信じていたという。彼女を後から呼び寄せるため、一旦はキューバに戻ったものの、太平洋戦争の勃発により、十年近くも音信不通となった。終戦後にようやく帰国し、めでたく彼女と結婚することが出来た。ブラジルでも、ある女性から、それと全く同じような話を聞かされてびっくりしたことがある。これらの感動的な話は間接的に読んだり聞いたりしただけだった。ところが最近自分が知っている女性が三十年越しの恋を実らせたという話を聞き、真に実感がわいたものだ。相手の男性は三十年前にブラジルに三年間勤務した後に帰国した。彼には妻子があるにも関わらず、彼女はその後も連絡を取り続けた。その後家族との関係がどうなったかは知らないが、現在彼は定年退職してブラジルに住んでおり、他方彼女は長年待ち続けた甲斐があり、ようやく憧れの男性とゴールインできた。この話は正に人生はやり直しが効くという好例であろう。そこで自分も未だにブラジルの若い女性と恋をする夢を捨ててはいない。


その後の一人ぐらし

サンパウロ中央老壮会 内海博
 ずっと昔「咳きをしてもひとり」という川柳が話題になった事が有るが、外出から帰って鍵を開けても一人。朝おきて炊事場に立っても一人。家内が亡くなって一年半、何も彼も一人だ。
 「お一人の暮らし慣れましたか?」と事情を知っている方から声をかけて頂く事があるが、一人ぐらしは慣れるも慣れないもない。ただ空しいばかりだ。
 その厨房に立って、将棋の常用語に「手順前後」が有るが、厨房でもこの手順前後がたびたび有る。そして二重処理能力を問われる小事件が起こる。何か始めるとまたすぐ別の事をする。前の事を忘れる。二つや三つの事を平気でやれると思ってやるが失敗する。手順前後と二重処理能力は一人ぐらしに欠かせないものだ。
 「男子厨房に入る」を書いてから「オイ、その後はどうしてる?」ときいてくる友人もいる。
 一度書いたら、その後を書かないのもまずいと思って書き足しをしよう。
 お気に入りの写真が飾って有る仏檀に、毎朝、先ず水を換える。牛乳を温めて供える。そして香を焚く。今は線香ではなくジャスミンやカネーラや変わったお香が楽しめる。
そして仏檀に今日の予定や何かを話しかける。晩に帰って、その日の出来事や自分のやった事など話していると、何か胸に迫るものがある。
 息子は十五キロほど離れた所に住んでいるので、週に一度くらいの割で電話をしてくれるし、何かある時には外食にも誘ってくれる。
 掃除、洗濯は嫁の家政婦が、毎週火曜日にやってくれる。自動車は老来危険があるとの忠告を受け入れて、二十三歳になる孫にやってしまった。どこかへ行くときは息子が連れて行ってくれる。車をやった時には、必要な時は孫が何でもやってくれる約束だったが、週日は仕事だ、週末は彼女とのデートだ、で思うようにはいかない。
 「まだ仕事をされているんですか?」ときかれる。仕事という程の仕事ではないが、下本八郎の所へ週二回か三回、日本語の新聞を読みに行って、世間話しをしたり、一回二時間ばかり過ごす。何かあったらメモをしたり、人に話しをするにはこちちも注意したり、気を付けたり、多少は頭を使う事もあったりで、老化にも役立っていると思う。
 また日本語の手紙の代筆、宮内庁への挨拶、首相へ建言の代筆、郷里和歌山へ春秋の挨拶といろいろある。下本が議員を辞めても縁が切れた訳では無い。一度出来た交際の輪は、簡単には切れないので残りの仕事があるものだ。
 「一人暮らしは何かとお寂しいでしょう」と御誘いを頂く事が多く、昨年は旅行をする機会が有り、岩手県人会のリオデジャネイロ観光やレジストロの灯篭流しやポッソス・デ・カルダスの温泉旅行などにも参加した。老人クラブも何かと催しが有るときには、お誘いがあるので、出来るだけ参加するように心掛けている。
 まだ日本には従姉妹(いとこ)が東京と岩手にいるので努めて便りをするようにしている。群馬県勢多郡には亡き母の一番下の妹、樺沢朝生が一九一一年生まれ九十九歳の長寿を保っているが、今一番の希みはこのおばさんの存命のうちに訪日できたらと思っているが、八十七歳という自分の年令からも一人旅が難しくなるので実現にはいくつかの間題解決が要ると思う。後は天命を待つしかないと思っている。


当国生まれに大和魂を説く虚しさ

サンパウロ名画倶楽部 田中保子
 苦労した(自分ではそう思っている)一世の背中を見て育っているから、多少はブラジル生まれの娘にも大和魂があると思い込んでいた親の私が、ある日、愕然とした。
 当国生まれの娘があるコンクールに出品した作品が等外も等外。親の私が見てもとても昨年のチャンプの作とは思えぬ物で、思わず「どうしてこんな物を出品したのよ!恥ずかしいと思わないの」と、声を荒げてしまった。
 平然として娘曰く「一生懸命やった結果だから恥ずかしくないよ」「でも貴女は去年の一等だったでしょ。悔しいんじゃないの」「皆さんが上達した証拠でしょ」「少しは日本人としての意地がないの?」「どうしてよ。私は日本人の子供だけれど生まれも国籍も当国でござんす」「情けないと思わないの」「これは私の問題でお母さんが気を揉むことはないの」「でも、育てたのは私だから責任を感じます」「私は大人ですから、お母さんが責任を感じることはありません。ご安心下さい!」
 嗚呼、私の大和魂は何処へ行ってしまったのでしょうか。


混乱と苦悩にあえぐ世相

サント・アンドレ白寿会 宮崎正徳
 近年九・一一同時多発テロに始まるイラク戦争では死者は既にイラク一万人、アメリカ兵は五千人、イラク一般国民は実に六十万人とも百万人とも報道されています。
 また、世界各国で頻発(ひんぱつ)する紛争とテロ、核兵器拡散(かくへいきかくさん)の問題も深刻です。さらには環境破壊から来る今日の世界的な異常気象をはじめ、百年に一度といわれる世界経済危機、これらがもたらす貧困(ひんこん)、食糧不足、価格の高騰(こうとう)により、全世界で飢餓(きが)に苦しむ人の数(栄養不足人口)は十億人に上ると言われます。そのうち餓死(がし)者は毎日四万数千人、年間千五百万人から千八百万人にも及ぶそうです。
 一方、日本では毎日毎日報道されているおぞましい悲惨な事件や事故。さらに悲しいことに警察庁の発表によりますと、一人暮らしの方の孤独死をはじめとする年間の変死者数は実に十五万五千人に上り、その多くは死因不解明のまま葬られているのだそうです。政治、経済、教育、医療、年金、雇用、福祉問題などなど、その混乱と惨憺(さんたん)たる有様はまさに目を覆うばかりであります。
 厳しく過酷(かこく)な日々の生活、世の中を覆う重くて暗い空気、将来・未来への言いようのない不安。これを憂(うれ)い嘆(なげ)かない者は一人もいません。
 今の日本の法務局に幾つの宗教が宗教法人として登録されているかと言うと、実に十八万だそうです。
 今の日本人はあまりにも宗教観念がなさ過ぎると思います。今の日本の若者は結婚式はキリスト教の教会で式を挙げ、葬儀は仏教のお寺で行う人が多いようです。また、年間の自殺者は三万人以上で、お隣の中国は日本の十倍だそうです。その隣のロシアは毎年百万人の人が自殺しているそうです。
 今日の日本及世界の混沌(こんとん)とした現状を見る時、その混乱と不幸と苦悩の原因はすべて邪義邪宗の謗法の害毒にあり、その邪義邪宗の謗法を断たなければ、真の幸せも平和も訪れてこないのであります。
 私は本当に正しい宗教は、この宇宙に太陽が一つ、月が一つであるように一つであることが正しいと思います。また、日本語という文字は実に良いですね。一を止まると書いて、正(ただしい)という字になります。その心はどこに行っても正しいという事は一つしか無いという事ではないでしょうか。


日本人名の街路の多いレジストロ

レジストロ春秋会 大岩和男
 レジストロは日本人の町として知られているだけにルア(街路)に日本人の名前がたくさんある。
 もちろん、ブラジルだからブラジル人名が多いのは当然であるが、それに比較しても日本人の名前が目立っているのである。
 私の住むルア・ドトール・コーキ・キタジマもその一つである。
 このルアに住むことを非常に光栄かつ誇りに私は思っている。
 先般、在外選挙に行った時、係員に住所氏名を問われて答えた所、「日本人の名前の住所ですね」と云われ「どういう方だったのですか?」と聞かれたので、北島弘毅氏の来歴を聞きかじった知識内で説明した。その人は感心して「そういう偉い人の名前のルアに住まれることは幸福ですよ」と云われ、嬉しさと何となく誇りがましさを感じた。
 北島弘毅医師は、レジストロ植民地開植初期から海興の嘱託(しょくたく)医として、活躍された北島研三医師の長男であり、お父さんの遺志を継いで正式な医者となった。弘毅氏は植民地はもとよりその周辺近隣の在住者には、日系、非日系の分け隔てなく医療を施し、その相談相手となって種々の病気に対処し、処方された方であると記録書で読み、また古老の方々から聞かされた。
 ここに一挿話がある。
 会社側と土着のブラジル人有力者の間に土地の係争問題が生じ、会社側はどうしてもその土地を手に入れねばならぬ事情があったが、訴訟は不利であった。ところが、そのブラジル人はこう云ったそうである。「俺は会社には意地でも絶対に売らぬ。しかし、ドトール・北島になら、無償ででも差し上げよう。ドトールはリベイーラ沿岸の神様だからな」と。
 いかに北島ドトールが尊敬されていたかの一つのエピソードである。その徳と熱情、誠実さがレジストロを中心にその周辺に住むすべての人たちに親しまれ、仰がれた所以である。
 なればこそ、街路の他に第二部のカンポ・デ・エスペリエンサ州立小学校の校名にドトール・コーキ・キタジマの名を冠して、その名を永久に留めているのである。
 その他にこの御二人のお医者の手足となって植民地の為に尽力なされた高野留七薬剤師、助産婦として奮闘(ふんとう)なされた鷲見しげ女、測量士の大野正一氏、前地七郎、那須野喜平治氏、隅田清治氏、杉ノ下ジョー氏など、夭逝(ようせい)された先駆者諸氏の名前も付されており、バイロ(区)によっては日本人名の一郭もあるくらいである。最近になっては州道であるレジストロ・セッテバラ間の道路にセッテバラの重鎮だった平出延平氏の名前が冠せられた。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(29) 若狭が文学の原点 水上勉
 昭和三九年に発表された内田吐夢の「飢餓海峡」は同監督がその映画人生の総決算として演出した執念の大作であり、戦後の数多い日本映画の中でも傑出した作品の一つであろう。ストーリーはサスペンス劇仕立てなのだが、数奇な運命に生きる犯人の姿と、娼婦という虐げられて生きてきた善意の女性、それと執念深く犯人を追求する老刑事のからみとが絶妙であり、戦後の世相の一断面が見事に浮き彫りにされている。
 また、「五番町夕霧楼」(三八年、田坂具隆)
は貧しい木樵の娘・夕子が京都の遊郭の娼妓となり短かい生涯を自ら絶つまでの悲劇を描いた佳作である。二作は何れも水上勉原作のものなのだが、両者とも水上文学の特徴を極めてよく表わしている。
 昭和三二年に「点と線」で社会派推理小説ブームを巻き起した松本清張に刺激されて、水上も「霧と影」「海の牙」(昭和三四年)、「耳」「巣の絵」「火の笛」「爪」(三五年)「眼」(三七年)「薔薇海溝」(三八年)などを次々と発表して世に出た。その後、郷里の若狭地方を舞台にした悲しい運命に泣く日陰の薄倖の女性を描く「越前竹人形」「越後つゝ石親不知」(三八年)「波影」「あかね雲」(三九年)「湖の琴」(四一年)等で多くの女性フアンの胸を熱くした。これらは全部映画化されている。
 福井県の貧しい宮大工の家に生れた水上は、幼時に寺の徒弟となって苦労を重ねた。
戦後は上京して宇野浩二に師事し、「フライパンの歌」(二三年)でデビューしたが、その後約一〇年間文学から離れて洋服の行商など三〇種以上の職業を経験した後、社会派推理小説家として再出発した。三六年には自らの僧侶体験をもとにした「雁の寺」(これも映画化)で直木賞を受賞して文壇での地位を確立する。作家活動に入ったのは比較的遅かったが、次第に伝記、歴史小説などにも手を拡げていき力作を生み出した。主なものに「宇野浩二伝」(四三年、菊池寛賞)「一休」(五〇年、谷崎潤一郎賞)「寺泊」(五二年、川端康成賞)」「良寛」(毎日芸術賞)「北国の女の物語」「古河力作の生涯」「金閣炎上」など多数。
 なお、水上は次女が脊椎破裂症という難病であったこともあって、「くるま椅子の歌」(四二年)を著すなど、身体障害者の問題に関心を持ち続け、日本の社会福祉福祉の遅れを告発する発言や文筆活動もしばしば行なってきている。平成一六年九月、肺炎のため八三才で死亡、死後旭四が贈られている。


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