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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2010年3月号

2010年3月号 (2010/03/08) 森は水の貯蔵庫、そして養老の泉

インダイアツーバ親和会 早川正満
 普通、水の貯水庫と言うと、湖とか池を言うが、森は銀行に置いているお金で、湖や池にある水は財布のお金という違いがある。
 近頃よく耳にする世界の大陸内部(大きな雪をいただくような山脈から離れた場所)のセッカ(=旱魃)は、その湖や河に絶え間なく流入する水源の森を無くしていったからである。
 日本のような島国は海から常に水(雨)の供給があるが、大陸の内陸部ではブラジルの雨図を見ていると分かるが、南から北上した雨足は(これは雨量は多いのだが)多くは海にそれてしまっている。内陸部に潤う雨はアンデス山脈やアマゾナスから下り、回り込むようにして入り込むことの方が多く見られる。その貴重な雨を財布だけでなく、銀行の定期(森)にしっかりと置いておくことが大切だと思う。
 サンフランシスコ川も、三十年位前は舟が安心して通れたのに、今では浅瀬を気にせねばならない。最近、よく木を植えて森を作っているなど新聞で騒がれているが、あれは森ではなく、いくら数が多くても林で、私がここで言う森はまったく別の物だ。
 最近、タピライに息子の運転で行った。助手席に座って、景色をのんびり見られるようになって気付いたのだが、ソロカバからタピライの山頂を通っていると、山の合間に森が点在。いや、森の合間に畑が少しずつある風景を見ることが出来る。大農業者や企業家、大学出のインテリから見たら、何と時代遅れの風景と見るかもしれないが、今よく言われる環境改善の糸口があることに気付いていないだけである。
 良い治世者はその森を守る者に免税、継ぐ者には相続税免除等、優遇すべきだ。あの森から少しずつ出た良質な水は、やがて下って下の方にある都市の水を供給し続けているのだ。
 最近、私の農場でも日系三世の人が水耕栽培をやっており、井戸水が不足したので貯水池の水を使ったために汚染の恐ろしさを知らされる事件があった。これは後で掘抜き井戸で地下水を利用して解決したが、魚が泳ぎ、水草が青々している池の水でも、汚染しているのである。
 ブラジル、中国、インドのように人口がどんどん都市に集中している国々では、今ある川や湖の水がますます汚染される傾向にある。
 この水を少しでも改善して人々に供給することが出来るのだろうか? そのカギも森が教えてくれる。ブラジルでは私の見る限り、カンピーナス方面では川の水を直接取り入れそれを洗浄処理しているのだが、これでは湖や泡の水がこれ以上汚染されるとお手上げとなる。
 そこで、森から教わったことを基にした計画を一つ提案しよう。ブラジルは幸い起伏のある土地で、河や湖に隣接した一段下がった所に人口湖を作る。川と人口湖の間に百米以上の人口森を作る。三十米下に木や竹の炭、石灰岩など、水から毒を掴み取る物を集めて川からの水の通り道にする。その上に植える木は植物学者を動員して、塩分を吸い上げるようなシダの草から化学工場の汚染までろ過するものを見つけ数多く植え、幅五百米の森を作る。一見のろまなやり方に見えるかもしれないが、百年は十分使える。そのろ過した水を洗浄処理するなら、費用も少なくより安全であることは間違いない。
 日本でもヨーロッパでも病気を治療できる霊水があると言うが、その上に必ず森がある。そこに存在する自然の神が長年かけて創った薬が水と一緒に泉として出てきて、病気を快方に向かわせているのだ。森はそういう水だけでなく不思議なものをいっぱい抱えた貯蔵庫でもある。そこから出た水が汚染されずに最初に落ちた滝が養老の滝と言うのだ。
 今年、七十五歳になる私の老体の健康管理は、このような水を朝一番、コップに一杯飲むことで始まる。神社に参る前にする清め水のように胃腸を清め、この一日色々な物が口から入っていくのに対して、その準備をするのだ。一日の終りにはこの水を温泉と同じように価値のある日本風呂にしたり、明日への活路に繋げるのだ。
 あなたが今、農場を持っていて、そこに森や泉があるのなら、子供達の助けを借りて、歌の文句ではないが「戻っておいで君の休む場所に。戻っておいで、羽を休める所に」のように移住した自分達の家族の故郷を作ってはどうだろう。老いた親を田舎に置いて、核家族で、日本や都会に長く居ては、いくらお金が出来ても今度は自分達が老いた時、子供も同じように親を捨て、離れていくだろう。もしも今、親を見ている兄弟が居るならば、常に心を繋がらせる事だ。血が繋がっていても心が通わない肉親関係は他人より始末が悪い。夫婦は血が繋がらないが、心が通じていれば兄弟より一生の伴侶となれるのだから、このような思いでいると自然と家族が団結し、養老の泉を守り自分達のルーツをたとえ混血になっても遺志を継いでくれると思う。
 本当の森は山火事になっても火を拒む不思議な力を持っている。自然環境に関する色々な問題を今、発見したように語る多くの先生方と常に自然と対峙し、あるときは共存し、水を崇めるように大切にして来た農業者とは大きな差があるように思えてならないので、一筆認める事にした。森は造る物にあらず、森は守る物である。


蜂の子飯

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
 我が家の玄関の天井に「幸運の蜂の巣」と言われる提灯蜂の巣が小さな出入口を下にして五、六個ぶら下っている。
 その中の二個は古い空巣で、所々破れてお化け提灯そのままである。また、裏口に据えた洗濯機の上の天井にも四個の幸運の提灯蜂の巣が下がっていて、その内の二個もまた破れ果ててお化けとなっている。
 「幸運の蜂の巣」と謂(い)われるが、別に我が家にそのような兆しは無かった。だが、不運にも遭わなかった。それで「触らぬ神に祟りなし」で、提灯蜂を怒らせないようにしているので、刺された事もなかった。
 昔、リンスの父母の家から別れて、奥地に
耕地を買って女房と赤ん坊一人、トランク一つを提げて入植した。そのコーヒー耕地にはコロノ用のコロニアがあったが、前の地主が町住まいだったので余った家など無かった。ただ大きなサッペ葺き屋根の稚蚕小屋があった。周辺には久しく蚕飼いをしないまま、再生林さながらに桑が茂り、辺りは昼も小暗いほどだった。
 その小屋にトランクを解き、板を並べただけの寝床(ねどこ)をしつらえ、煉瓦(れんが)を積んだだけの竃(かまど)を作って住み着いた。
 ある日、夕餉(ゆうげ)時、サッペの垂木(たるき)から三匹のガンバが白い貎を見せたし、ある日の昼には小さな蟇が尿を飛ばしながら逃げる後から大きな錦蛇が追って行った事もあった。
 少し離れた崩れかけた大きな養蚕小屋には何十とも知れぬ蜂の巣が下がっていた。
 ある日、妹と義弟がこの耕地に遊びに来た。物好きな彼は金網の篭(かご)を作って、それを被り、雨合羽に身を固め、長い棹でその巣を叩き落してくれた。そしてその巣から一升もの蜂の子を捕って「蜂の子飯」を炊いてくれた。僕は貧乏育ちの「如何物食い」で、兎、河豚(=カピバラ)、タツー、タマンヅアー、蜥蜴(とかげ)まで墾家のご馳走として賞味したが、この「蜂の子飯」は初めてで、お蔭で七十五日、長生きすることになった。
 先日、村の養鶏家のTさんが火事を出し、不幸にもガラージ(駐車場)兼物置小屋が全焼した。原因はお婆さんが鶏卵箱に巣食っていた蜂を焼いたからだった。
 幸い危機一髪のところでカミニョネッテ(トラック)は出したが、何百と積んであった鶏卵箱とそのバンデイジャ(トレー)や餌の袋、皮肉なことに消火器などが焼けた。
 原因は「幸運の蜂の巣」を焼いたからだったが、「火事の焼け肥り」という事もあるのでそのどちらになるかは今の所誰も分からない。


深悼、三木八重子先生


四十年来の友を喪う

サンパウロ中央老壮会 上原玲子
 二月三日朝、老ク連から三木八重子さんの死を知らされた時は、息が止まり、三年前の烏山先生に次いで、何故前途有望な若い先生が逝ってしまうのかと、恨めしい思いでした。
 三木さんはコチア青年若夫婦移住で、最初は奥地に入ったので、東京都庁勤務の彼女にとっては大変な生活だったらしく、私の居たアチバイアに移って来た時は「ブラジルでもこんなに食べ物が手に入って本当にうれしい」と大喜びでした。私達夫婦が出た後、私の兄の家で働くことになり、私の住んでいた部屋に住むようになった不思議な縁でした。
 アチバイアには日本からの新来青年も多く、花嫁さんも結構たくさん来ていましたが、毎日の農作業や大勢の青年達のご飯作り等に追われて、近くに住んでいても行き会って話す事など思いもよらないのが実情でした。そんな時、偶然にも花の出荷の車に同乗して、一緒にコチア病院に行ったことがありました。私は幼い息子の診察に、三木さんは妊婦検診だったのです。
 いつもは言葉も解らないので、病院について運転手さんに放り出されると、不安に駆られ用事だけ足して帰りの車を待つのですが、その日は一緒にお昼を食べ、日本やブラジルの暮らしなどのおしゃべりをして、日頃の苦労も忘れて本当に楽しいひと時でした。私達は歳も近く、隣の県出身で、同時期に東京で勤めていたので話は尽きなかったのです。ブラジル到着以来数年の間、病院以外はどこにも行ったことのなかった私は、三木さんの次の検診の頃、私にも病院行きの理由が出来れば良い等と、不坪(ふらち)なことを考えた位でした。
 それ以後は各々の夫次第で、三木さんの方は色々の習い事に生来の多才が生かされて、何でも出来る先生として、方々でレクリェーション・墨絵・手芸・コーラスなどの指導に当たって来ました。そして先生の欠けていた老ク連のコーラス部にも迎える事になったのです。
 家から一時間半以上もある所を毎週火曜日に来てくださり、九十歳も混じる老人会のコーラスだというのに、非常に美しく上手なグループに仕上げて下さり、もし文協で行われる合唱祭に順位が付くのだったら、必ずや上位入賞は間違いないだろうといつも思ったものでした。本当にこれからずっと歌の好きな人達に生きがいを与えて下さる筈だったのにと、残念で残念でなりません。
 家族思いで脳梗塞(のうこうそく)後のご主人のリハビリを、医者に注意される程やりすぎた八重子さんですが、葬儀会場で涙を流しながらも来訪者に気を配っているご主人を見て、少しは安心したのではないかと思いました。しかし、あの時お腹に居た長女がアメリカから飛んできて、泣き続けながらすっかり変わり果てたお母さんの額をなでているのを見て、何と世の中は無情なのかと慰める言葉もありませんでした。
 遺されたご家族が一日も早く立ち直って欲しいと思いながら、八重子さんのご冥福をお祈り致します。


神様に物申し上げ候

アチバイア清流会会長 仲正雄
 三木八重子さんの突然の不幸について。あの元気な彼女はもういない。大声でジェスチャーたっぷりに、笑顔絶やさずにしなやかに揺れながら指揮をとる彼女は、文協の大講堂でも先生と生徒が一体となり立派なコーラスだった。
 今でも大講堂を揺るがす、大拍手が目に浮かぶようだ。二度と観られない残念だ。八重子さんは、お墓には居ないだろう。きっと元気良く両手を広げて大空を舞っているんだろう。四、五名に減ったコーラス会員を二十五名にも増やした。彼女の指導手腕はどこから来ているのだろうか。天性の明るさと、聡明さ。何事も体当たりでぶつかる。それに研究心の旺盛さが八重子さんを作り、人を引き付けるのだろう。
 清流マージヤン会でも覚えるのも早かった。感も良し、女らしからぬ手を作るし、憑(つ)いている時は、調子に乗り、いつの間にか、彼女のプレイに巻き込まれ、たじたじとなったことがある。十人の女性軍のトップで、初心者には丁寧に指導していた。大きな手が来ると、ソワソワしながら、騒ぎ始め、大声で笑ったり緊張気味の会場を和ましていたし、お茶やカフェを配って歩いたり、マージャン会の花だった。
 清流書道会でもトップの書き手だった日本の三耀書道誌の墨絵部門では最高賞を獲得していた。やがて清流クラブで墨絵指導をお願いしようと考えている矢先の事故だった。
 神様よ天国にお呼びする順序があるのでしょうかね。神様よ、年も若く、必要な指導者を何で選んだのかとお恨みいたします。神様よ、何とかならなかったのでしようか。残念。


心からご冥福をお祈り致します

前JICAシニアボランティア 貞弘昌理
 今、私は悲しみにくれています。
 とても惜しい先生を亡くされて老ク連にとっても私にとっても大きな痛手となっています。
 施設訪問にご一緒したり、お家に伺ったり、お別れコンサートでは「小さな日記」を指導してもらったり、それを持ち歌にしてあちらこちらで発表したりと、とてもお世話になりました。あの歌は私がブラジルに残してきたものの一つです。非常に残念です。三月の終わりに帰国コンサートを致します。三木先生を偲びつつ「小さな日記」を演奏させて頂きます。
 心から先生のご冥福をお祈り致します。


三木先生に贈る詩

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
お早う 声が聞こえたときは
十歩も前を颯爽(さっそう)と歩いていた
元気一杯だった
あなたはもう居ない

さわやかな歌声が まだ耳に
コロコロと笑う顔が まだ目に
焼きついているのに
あなたはもう居ない

自分が間違った時
首をすくめて 照れていた姿が
今も思い出されるのに
あなたはもう居ない

私達は二度と一緒に歌えないけれど
二度と会えないけれど
決してあなたを忘れない
あなたは私達の胸に
今も生きている


ありがとう三木先生

香山和栄
 二月四日、アチバイアのパルケ・ダス・フローレス墓地は、抒情歌(じょじょうか)「夏の思ひ出」の景(けい)のようでした。青空には白雲がゆっくりと流れ、先生の棺(ひつぎ)にはプリマベーラ(=筏かづら)を始め、色とりどりの美しい花がいっぱいで、沢山の人々が名残を惜しみました。 筏かづらの花に棹さし永久の旅 和栄
 旅路の御平安を心からお祈り致します。合掌

鈴木文子
 あの日の衝撃は生涯忘れることはないと思います。運命と言うにはあまりに理不尽です。
 あの日、先生はいつにも増して熱心に指導して下さいました。羽織の裏地をリフォームしたツーピースを着て、それがとても似合っていました。
 お料理の上手な方で、時々、お手製のお菓子を持って来て下さり、忘年会もご馳走が楽しみでした。陶芸、切り絵等など趣味の広い方でした。
 でも、何と言っても素晴らしかったのは、コーラスのご指導でした。「御座(おざ)なりに歌わないで下さい。心を込めて歌って下さいね。」「悲しそうな顔をしたら、悲しそうな声が、楽しそうな顔をしたら、楽しそうな声が出ますから」と言って、本当に表情豊かに、百面相のような顔でお手本を示して下さったものです。
 いつもニコニコ顔で、でも、厳しい時もあり、手を取り足を取り、噛(か)んで含めるように教えて下さったものです。
 これからも先生の残して下さった心や思い出を大切にして歌い続けたいと思います。先生、天国で見てて下さいね。先生、ありがとう!

花岡睦子
 先生とは旅行業務で知り合い、同年齢の事もあって友達付き合いでした。つい先日、パスポート更新のための写真の事で大笑いしたのも嘘のようです。とても信じられません。人生の無常を感じています。

栗原章子
 指導の的確さと朗らかな笑い声がいつまでも耳に残っています。残念です。

徳武たきよ
 明るく気さくで優しく接して下さいました。とても残念です。

鈴木紘子
 本当にもうびっくりしました。私は入部が浅いのですが、とても良い指導だったと思います。

前林紀子
 とても面倒見がよく、指導に熱が入っていて、思わず一生懸命付いて行きました。このショックは当分続きそうです。

野中美登里
 明るく分け隔てなく指導して下さり、感謝しておりました。一人ひとりの人間性を尊重してくださったこと、終生忘れません。

高畑好子
 先生の真剣さについてきました。あの日の買い物に付き合ったのが最後だなんて、信じられません。ご冥福を祈ります。

奥田幸恵
 とても作詞の意味を大事になさっておられました。また、曲の感じを表現することの大切さも繰り返し教えられました。時々間違って大笑いになったこともありましたね。器用に絵や墨絵を画かれ縫ぐるみを作られ可愛い猫ちゃんを下さいましたね。とても残念です。

氏家邦子
 教え方が上手でしたね。新しい曲でも何べんでも繰り返しうたってくださりいつの間にか覚えてしまう。今はがっかりして、気落ちしています。

井尻春美 ・ 仲一子
 ショックで悲しいです。嘘であって欲しいと思っています。楽しい授業をありがとうございました。

上原よし
 定年退職して、老ク連を訪ねた時、隣室から聞こえるコーラスに誘われて入部しました。生来、音楽に無関心だった私が皆とともに歌えるようになったのは、先生のご指導の賜です。生涯尊敬いたします。

田中保子
 悲報を受けた時は信じられなくて、何べんも聞き返しました。どんなに無念だったかと思うと、胸が痛みます。美しい花に囲まれ、大勢の会葬者に惜しまれながら昇天された先生。千の風になってご遺族と私達コーラス部員を見守って下さい。部員一同心からご冥福をお祈りしております。

遠藤菊子
私のような老齢な人にも気を使い、いつも「座って良いです」と言われていました。一昨年の合唱祭には、私が高齢だからと、舞台の上で大きな花束を頂きました。私はその写真をいつも卓上に飾り眺めております。
 突然の不慮の事故とはいえ、残念でたまりません。先生のご家族の悲しみはいかばかりかと、お察し致します。
 師逝きぬ 突然の訃報 秋惜しむ

村松ひさ子
先生のご葬儀に参列させて頂きました。
 背の高い先生でしたのに、小さめの柩(ひつぎ)の花の中に眠っておられました。
 その日の夜、私の夢の中に、先生は薄いピンク色のブラウスに明るいグレーのジャンバー・ドレスで現われ、私達が往復使用したバスの中を、後から前に向かってゆっくり歩いて、ドアから出て行かれました。お顔には笑みをたたえておられました。「ああ、先生は私達がお別れに行ったことを喜んで下さっているのだ」と思いました。御冥福をお祈り致します。

坂口清子
 唄う時は目をしっかり開けて! お腹に力を入れて! 感情を込めて唄うのよ。分かるわね!
 先生と云うより、友達のように接して頂き、いつも笑いの絶えない楽しいコーラス教室でした。
 年齢から見れば、私たちももうすぐ先生のいらっしゃる世界に行きます。その時はまた、よろしくご指導下さい。(ヤメテヨー、また覚えの悪い清子さんに悩まされるの~)って、云わないで下さいね。しっかり練習して行きますから。

花土淳子
 先生とのお別れがこんなに早く来るとは誰が思ったでしょう。
 私たちのコーラスは先生が前もって各パーツをテープに吹き込んでこられ、それを家でよく聞いてから練習に入りました。
 私は音符を見て、すぐに声に出すことは難しいのです。(他の人は違うと思いますが)。先生の歌を聞いて、先生の指揮をする指先を見て覚えてきました。
 先生は「こっちを見て」「コラッ、おしゃべり止めて」と時には厳しく指導したり、また、老女の声の限界を知っていて、「気持ちで歌うの。お腹から声を出して」「ダメッ、もっと気持ちを込めて」と励ましてくれ、そして上手に出来ると「ほら、出来たじゃないの。その調子、忘れないでね」と褒めることも忘れませんでした。
 あの日、私は先生の声を本当に素晴らしいと聞き惚れていたのです。
 昨年の忘年会の日、先生は自分でお作りになった人形を沢山持ってきて、机の上にパッと広げて「好きなのを持っていって」と言われたのです。二センチほどのマスコット人形でした。髪は毛糸で胴の部分に日本着の端切れが使われていました。私はピンクの髪で薄緑の麻の葉模様の服を着ている人形を選びました。見ていて飽きのこない人形だなと思っていました。今、人形は飾り棚のチョコレートの空き箱の中からいつも私を見ています。先生の人形は優しくて可愛くて愛おしくて…。見ていると、先生との楽しい思い出が尽きることなく浮かんできて、涙が自然に流れてきます。人形は今、私の宝物です。
 さようなら、三木先生。でも、先生は私の胸の中にいつまでも居て下さいます。飾り棚のあの人形と共に…。


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