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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2010年4月号
2010年4月号 (2010/04/10)
狐に誘拐された親娘
レジストロ春秋会 宮本美都子
今から八十数年前、モジアナ線のマキリーという耕地の原住民から、六月二十四日は焚火をする祭りの日で、火酒(ピンガ)にレモンと生姜を絞り込んで沸かして飲む。それは「ケントン」というと教えられた。
家長や青年たちは早速、裏庭に薪を山と積んで火をつけ、赤々と燃え上がる炎を見て、「これで日本酒があってさつま芋があったらなぁ」「あの焼き芋のホクホクはうまいだろうなぁ」と無いものを空想しながらお互いにお国自慢などをしていた。
するとそこへ一週間ほど前に引っ越してきた若夫婦が見え、ご主人のBさんが「僕たちも仲間に入れて下さい」と言う。「さぁ、どうぞ」と父が腰掛を勧めながら「私たちも話の種が尽きた所です。あなた方が以前住んでおられた耕地の珍しい話をお聞かせ下さい」と頼んだ。
若夫婦は目を輝かせて、待っていたかのように話し始めた。
「あまりに不思議な話なので、皆さん信用されるかどうかと思いますが…」と言う。全員が何を話すのかと耳をすますと、「私たちが住んでいた前の耕地に新移民の方で、夫婦と八歳位の女の子と三人暮らしの家族がいた。毎日、奥さんが三人分の弁当を作り、主人のKさんよりちょっと遅れて娘と一緒に持っていく習慣であった。
ところがいつも午前九時頃には来るはずなのがその日は十時になっても十二時になっても現われない。Kさんは心配になって日本人の仲間に事情を訴えた。皆は仕事を辞めてコーヒー園の中をくまなく探しましたが見つからない。夜になってKさんは殺されたか、何者かに誘拐されたに違いないと半狂乱状態になった。人に使われていては、仕事を休むわけにも行かず一同相談の上、二、三人が組になって交代で園内はもとより原始林の中、果ては近隣の耕地まで探したが行方は分からなかった。Kさんは仕事どころではなく、まるで夢遊病者のようで皆の心配も一方ならぬものがあった。
そして行方不明になってちょうど八日目。コーヒーの実を集めに回るカロセーロが発見したのである。馬車馬が突然止まって「フーッ、フーッ」と荒い息をして一歩も前に進まない。見ると前方のコーヒーの木蔭越しに真昼間だというのに、生まれたままの姿の親娘が前部だけを木の葉で隠して立っているのである。カロセーロは腰を抜かさんばかりに驚きながらも見ると一週間前に行方不明になったあの親娘の日本人と判別できた。とっさの機転で、コーヒーを入れる麻の空袋を親娘にくれ、馬車に乗せ『ジャポネース』と皆に叫んで知らせた。
麻袋に首だけを出した人間が異常な格好で馬車に座っているわけだ。そのうち、娘が父親の姿を見つけて「お父ちゃん、私とお母ちゃんよ!」と大声でよんだので、一同「ハッ」と気が付き、父親は「生きていたのか」と人前も気にせず親子三人で抱き合って泣き、周りの人の涙を誘った。カロセーロが親切に家まで無事送り届けてくれたので、日本から持ってきた珍しいものをお礼に渡した。
翌日はちょうどに日曜だったので、皆がご馳走を持ち寄りKさんの家に集まり、お祝いをした。
その席上、年輩者が『あんたたち二人は一週間もの間、どこを彷徨(さまよ)っていたのか?』と尋ねると母親が『いつもの道を歩いていたのだが、いつの間にか迷子になって、原始林の中を歩いていました。そのうちに日はとっぷりと暮れ、真っ暗闇になってしまい、ガサガサと獣の歩く足音に娘は怯えて泣くし、途方に暮れていた。
その時、初めて私たちは狐に騙されたと気が付き、しばらく神に念じておりましたら、先の方に灯りがボッーと見えてきて『あぁ良かった。人家がある』と思ってその灯に向かって急ぎましたが、行けども行けどもその灯には辿り着けず、どれほどの間、灯を追いかけて歩いたか。今まで真っ暗闇だったのが、急にパッと明るくなり、様々な花が咲き乱れた美しい広々とした庭園に出た。立派な御殿があり、その中から二、三人の美しい女の人が出て来て私たちを招き入れた。野良着姿が入るのは恥ずかしいと自分の服を見てびっくり。美しい花模様のドレスを着ていたのだ。色々な珍しいご馳走を頂き、きらびやかな服で着飾った人たちが入れ替り立ち代り歌を歌い踊りを披露して飽きることなく過ごした。長いようで短い一日だった。
ふと、気が付くと、親娘共々一糸まとわぬ生れた時の姿そのままの裸で原始林の中を歩いていた。あまりにも恥ずかしいので、木の枝を折り、前だけを隠して歩いているうちに、見覚えのあるコーヒー園に出てきたところ、あのカロセーロに助けてもらったのだと説明した。
皆、黙って聞いていたが、先の年輩者が「それにしてもあんたたちが行方不明になってから八日目ですよ」と言うと、親娘はびっくりして「一日中ずっと明るくて、寝た覚えもないから、そんなに日が経っていたとは知らなかった」と答えた。それにしても、色が白く肉付きもよく、美しくなってきたのは不思議だ。どんなご馳走を食べたのかい?」と尋ねると女の子が「五目御飯、うどん、味噌汁、おやつは黒饅頭。その他色々変わったものを食べたよ」と言うのを聞いた小父さんが「あぁ、そうか」と膝をポンとたたき、笑いながら「判ったよ。ご飯は牛糞、うどんはミミズ、黒饅頭は馬糞。味噌汁は牛や馬の小便」と。小父さんは「牛や馬の排泄した物を食べたからこのように美しくなったのだ」と大真面目に話すので一同は腹を抱えて大笑いした。
Bさんが「皆さん、僕の話を聞いてくださってありがとう」と言われ、一同、急に我にかえって大拍手。その晩は夜通し狐の話で持ち切りだった。
明け方、焚火も残り少なくなり「我々もこれから狐の夢でも見るか」等と冗談を言いながら引き上げた。夜空は一点の雲もなく、美しい月が私達の幸福を見守るかのように下界を照らしていた。その時、一筋の星がスッーと流れ、私は思わず父にしがみ付いた。今もあの時の事を鮮明に覚えている。
三木先生との思ひ出
モジ中央日会老人部 西丸俊子
三木先生が亡くなられてより、もう二ヶ月が経とうとしています。
私と三木先生の出会いは、八年前にモジ老人部の例会に先生をお招きして、コーラスや体操の指導をして頂いたことが、最初の出会いでした。
その後、本部の第一会計をしていました時、事務局よりツッパンの福寿会の例会に援協の福祉の先生と三木先生の三人で訪問して欲しいと言われました。
私は老ク連本部の運営他、福祉の先生は健康管理衛生等、そして三木先生はレクリエーションの指導です。まだ、JICAからの派遣の先生が来られる前のことです。
天候に恵まれ、長距離バスで出掛けました。途中、三木先生が海苔に包んだ大きいおむすびを三つ出して下さり、大笑いしながら美味しく頂きました。ツッパンでも会員一同と合結び。充実した一日を過し帰りました。
老ク連の旅行で二回、先生のご主人様ともご一緒でき、珍しいお話を聞かせて頂き、楽しい思い出ばかりです。その旅行の時、バスの中で「千の風になって」の有名な歌の指導、合唱をしてくれました。私はこの歌を練習していることを話しましたら、夜、ホテルの部屋にわざわざ教えに来て下さりました。他のカラオケも同じことで、先生の指導を受け、さすがだと感銘を受け歌うようになりました。
その後、「千の風になって」を習いたくて、三木先生の火曜日のコーラス教室へ行ったこともあります。忘年会でお会いしますと、懐かしく声を掛けて下さり、心打ち解けて話をしてくれました。
突然のご不幸、残念で致し方ございません。静かに三木先生のご冥福をお祈り申し上げます。
グラマードの旅
サンパウロ鶴亀会 井出香哉
孫の夏休みを利用して、リオ・グランデ・ド・スールのグラマードに行って来た。
コンゴーニャス空港から飛行機でわずか一時間半。ちょうどリベルダーデから我が家へ帰る位の時間でポルト・アレグレに到着。市内見物をして紫陽花(あじさい)の町グラマードへ向かう。
アルプスの山娘が出てきそうな三角屋根の家。窓には花が咲き、パラナ松が傘のように葉を広げる。どの道も両側は紫陽花が私の背丈よりも高く、私の顔より大きな花をびっしりと盛り上がるように重ねている。一人歩けば、いささか萎(しな)びて薹(とう)が立っているが花の妖精になった気がする。
ナタールの飾りもそのままで、通りという通りが星のようにピカピカ光ってきれいだ。ナタールのディスフィーレ(パレード)が最後の夜なので、見物に行く。パパイ、ママイ、子供のノエル(サンタ)がスケートに乗って踊りながらやって来る。その後に、小人、天使、熊、巨人、山車、ノエルの馬車、トナカイと一時間も続いた。
昼はあちこち見物に山の中を走る。どこへ行くにも山の中を走る。サンパウロにはもうこんなに木はない。ガリバーになったつもりでミニパルケ(公園)を見る。一つの町が建物も汽車も人、動物、火山、皆小さくて可愛らしい。カラコの町ではショコラッテ・コン・ピメンタの舞台になった家を見る。テレビでは大邸宅だと思ったが、案外、こじんまりした家だった。
面白かったのは買い物ツアーだ。靴、マーリャ、革製品と奥様方は張り切り、哀れな旦那様方は頭が痛くなったようだった。今夜は悪夢にうなされるだろうとぼやきながら、ベンチに座って待っている。製品の割に値段が高かったので買い物をした人は案外少なかった。クリスタル工房は豪華さに目を見張ったが、壊すと弁償(べんしょう)しなければならないので、バッグやカメラが引っかからないように気を使わねばならず、早々に外に出た。庭に大きなアルボレ・デ・ナタール(クリスマス・ツリー)があって、これが全部ガラスで出来ている。孫に触らないようにと注意する。
ドイツ人の町へ行くと、民族衣装を着た男女が鳴り物入りで出迎えてくれる。大きなソーセージ、バタチーニャ(じゃが芋)、シュクルッチ(キャベツの漬物)などドイツ料理で昼食。その間にも皆、引っ張り出されて踊る。
森林公園で滝やマテ茶の木や水車を見て、イタリア料理。美味しいけれど体がだんだんに重くなり、財布は軽くなる。うっそうと茂る木々の間をゴツゴツした岩山に沿って徐行しながら降りて行く。やっと降りた所にちゃっかりとペダージオ(料金所)があったので、思わず笑ってしまった。それからまた山の中を走る。百合、野菊、蕨(わらび)と目を楽しませてくれる。山の中なのにカルピ(草刈り)がしてあるので、誰がしたのか?と思うと、プレフェイトゥーラ(市役所)の服を着た人が五、六人働いていた。やはり観光地だと感心する。
最後にマリア・フマッサ(蒸気機関車)に乗りに行く。ガタン、ゴトンと揺られながら汽笛を聞いていると、ブラジルに着いてサントスから乗った薪を焚いて走る汽車を思い出して懐かしかった。グラマドで一番大きなビーニョ(ワイン)の工場では見上げるようなでかい樽がずらりと並んでいるのに度肝を抜かれた。
瞬く間に時は過ぎ、お金は飛んで行き、私のへそくりはスッカラカン。でも、良い旅だった。
愛読した作家たち
名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(30) 日本の文豪 夏目漱石
明治以来、数え切れないほどの作家が輩出したが、文豪と呼ばれるにふさわしい存在はごく少数にとどまるだろう。漱石と森鴎外の二人と、志賀直哉、谷崎潤一郎、川端康成等が辛うじて資格を有するくらいのものであろう。
漱石の文学が社会のあらゆる階層、職業、年齢の人々から愛読されているということは、それだけ素人向きだとも言える。作品そのものが話術の面白さに溢れ、話題が豊富で強い説得力があり、甚だ健康的、且つ庶民的である。登場人物が余りに観念的に過ぎて血が通っていない、との評があることは事実だが、しかし懸命に前向きに人生を考え、逃避することなく戦って進む姿は魅力的であり、単なる教養や知識だけでは人間はちっとも賢くはならないことを示唆してくれるところが、漱石文学が人々の共感と親愛感をよぶのであろう。
何しろ全部が名の通った名作揃いなので選ぶのは大変だが、まず代表作「吾輩は猫である」は日本の近代文学では例外とも言うべき小説の形をとった風刺的な文明批評と言えようが、猫に仮の姿を託して人間一般から神を論じ、芸術、文化にメスを入れて批評する快作である。全篇に落語の伝統的な影響が濃厚に見られる作者特有のユーモアが文脈をいきいきとさせている。「坊っちゃん」は作者は一週間でこの物語を書き上げたというが、登場人物はすべて善玉、悪玉に単純に分けられた簡潔で痛快極まりない作品である。まず文の調子の流れが絶妙である。
「三四郎」は青春文学として現代にも通じる新鮮さがある。熊本から上京して大学に入学した三四郎の前に老母の住む淋しい田舎、広田先生や野々宮さんの属する学問と研究の集団、美弥子やよし子に囲まれた華やかな雰囲気と三つの世界が出来た。三四郎は次第に美弥子に惹かれていくが、彼女は三四郎を愛しているのか、からかっているのか曖昧な態度をとりながら他の男に嫁いでいく。「天地開闢以来類のない」と作者自らも認めている「草枕」は山の温泉場に遊ぶ青年画家が、鄙びた宿で才智に富んではいるが、奇矯な振る舞いをする女性に逢い人情を超越した交渉を続ける中に一幅の画の構想が成る、というものだが、「非人情の世界」を具象化したものと言われている。漢籍に造詣の深かった作者があらゆる語彙を自在に駆使して読者を桃源境に誘い込む。
「こころ」は極めて倫理的な小説である。先生は嫉妬のために親友を死なせてしまう。
その罪悪感のゆえに自ら好んで孤独の生活を送り、妻の温かい愛情も弟子の若々しい敬愛をも生きている限り素直に受け入れることが出来ない。遂に彼は罪を告白して自殺するのである。
漱石は晩年には人間のエゴイズムや知識人の苦悩にテーマを求めるようになり、遺稿の「明暗」(未完)では自然に従いエゴイズムを捨て去った生き方「即天去私」の境地を求めた。この師の周りには、その人徳を慕って数多くの愛弟子が集まり、漱石人脈を形づくっており、彼等は後年第一級の学者、文化人に育っているが、興味深いことに作家として大成した者は皆無である。
大正五年一二月、胃潰瘍のために四九才で永眠した。
奇妙な親子?
サンパウロ中央老壮会 坂口清子
あ~、うめえ~。なんともけったいな事に、犬の乳を飲んで幸せそうな猫のミーコ(と名付けた)。
アクリマソン公園で見つけた時は、目が開いたばかりと思われる幼さ。家に連れ帰り、小皿にミルクを入れてやっても飲むすべも知らない様子。どうしたものかと戸惑っている私の側で猫という異種動物を興味津々の体で見ていた犬のシュシャ(四才、狆(ちん)の一種)の腹の下に突然飛び込んで、乳首に吸い付いたのが事の始まり。
このシュシャは子供を産んだことも無く、乳が出ているわけでもない純粋な乙女。そのシュシャはびっくり仰天。仔猫を振り払って、サーラ(部屋)の隅に逃げて行った。私もシュシャ同様びっくり仰天。仔猫を抱き上げ、無傷を確かめホッと一安心。そしてシュシャは…と見ると、サーラの隅から何とも言えない戸惑いの表情でこちらを伺っている。
えっ? 何? ひょっとしたら…の思いが駆け巡り、静かにシュシャを呼んでみる。恐る恐る側に来たシュシャを抱き込み、仔猫を添わせてみる。仔猫はヤッターとばかりに乳房にむしゃぶりついていった。シュシャは身体を硬くして自分の乳房に吸い付いている仔猫を睨み付けていたが、しばらくすると前足で仔猫を抱え込み、慈しむように舐め始めたのだ。
とは言え、乳の出ていないシュシャの乳房では腹の太る筈もなく、仔猫は小皿に入れてやったミルクを咽びながらも不器用に飲んでいたが、二、三日程してシュシャが何となくふっくら。あれ!肥えたのかな?と思いきや、何と乳房がパンパンに膨れ、本当に乳が出始めたのである。
それからというものの、仔猫は小皿のミルクなど見向きもしなくなり、もうシュシャにベッタリ。写真のごとく成長しても乳離れせず、何とも奇妙な親子となった。
あれから十五年の月日が流れ、この二匹ももう天に召されましたが、向こうでも奇妙な親子で幸せに暮らしているのかも知れない。
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