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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2010年5月号

2010年5月号 (2010/05/15) 三木八重子さんの四十九日法要に参列して

アチバイア清流クラブ 仲正雄
 会場に飾られた三木八重子さんの笑顔の大きな写真は、ランで一面に飾られ、菊の大鉢や、真白な菊の切花でさらに飾られて、ニメートルほどの大チョウチンで両脇がかためられ素晴らしい祭壇でした。二百席の椅子がほぼ埋め尽くされた。
三木八重子さんの両手が、今にも動き出しそうに思われた。と言うのは教え子達がサンパウロより、バスで全員来られて、先生と合唱すると言うのです。これじやあ、思わず先生の両手が上がりますよねえ。老ク連の会長、副会長も参列されておりました。
 三木八重子さんの反響は物凄く、これは彼女の人望がなせるわざと思われます。会場に遺作が展示された、墨絵の行灯や焼き物、コーラスの写真の前に大勢集まり、懐かしそうになんだかんだと話あっていた。八重子さんのコーラスの素晴らしいジェスチヤー等があらためて評価されたようですね。
 八重子さんのお家庭は、一人息子さんは日本に、一人娘さんはアメリカ、当ブラシルは二人だけで、親戚は一人も居られないそうです。今年は結婚四十四年めです。
 八重子さんの突然の旅立で、御主人の路生氏は、天涯孤独となってしまいました。過日三木邸を訪門したら、広いサーラに笑顔の八重子さんの写真が、ピアノの上、机の上、テレビの前と四枚も飾ってあり、ビックリして見ていると、御主人が十枚作り各部屋に飾り付けていると言はれました。御主人
の、心境たるや計り知れないものを感じました。
 三木路生氏よ、これからの人生頑張ってください。単純過ぎますが、外に言葉が見つかりません。


イザベラちゃん事件

サンパウロ中央老壮会 中山保己
 二〇〇八年三月二十九日夜に発生した「イザベラちゃん事件」の公判(こうはん)が、ほぼ二年後に開廷(かいてい)した。テレビ・新聞の報道に目を通し、自分なりにまとめてみた。
 三月二十六日夜半「イザベラちゃん事件」の判決が出た。被告アレシャンドレ・ナルド二は実父で、三十一年一カ月と十日、同じく破告アンナ・カロリーナ・ジャトバーは継母で、二十六年八か月の判決だ。
 夜中でもサンターナ裁判所(さいばんしょ)周辺に集まっていた三百の市民は判決が伝わると歓声をあげ花火を打ち上げた。
 二十二日月曜日から開始された裁判に連日マスメディアの報道が続いた。テレビのタ方の放映は、どのカナル(チャンネル〉も裁判に集中。新聞は特集し、詳細に報道した。
 犯罪(はんざい)の起こったアパートの模型(もけい)まで作ってあった。人形を使ったガレージ、アパート内のシムラソン(模擬実験)をテレビは繰り返し放映した。寝台に乗り窓から落とす場面、床の血痕(けっこん)、その他。検察の微に入り細を極める状況証拠(じょうきょうしょうこ)は絶対だったし、破告人(ひこくにん)弁護士(べんごし)も空想のでっちあげでは反撃(はんげき)は絶望(ぜつぼう)的だった。
 そして結審に向かったのだ。裁判はジュラード(陪審員ばいしんいん)裁判で、七名の陪審員が選出(せんしゅつ)され、女性四名、男性三名が参加した。全員が有罪と判定している。
 陪審員もなかなか大変だ。期間中は外部との接触(せっしょく)を禁じられ、宿泊は裁判所内のかなり窮屈(きゅうくつ)な部屋であったという。やはり外と隔絶(かくぜつ)されていたイザベラちゃんの実母アナ。カロリーナ・オリヴェイラさんは心身ともの圧迫となり、疲弊困憊(ひへいこんぱい)し、証言供述(しょうげんきょうじゅつ)が中止になったこともあった。
 裁判所の外で報道機関と、検察(けんさつ)、弁護士らが出入時に群集と押しあい揉みあい、被告弁護人が罵倒(ばとう)され小突(こづ)かれる場面が映された。内部の取材は出来ないので、新聞は法廷(ほうてい)見取図(みとりず)を掲載している。傍聴席(ぼうちょうせき)より前方を見て、正面に判事(はんじ)席、左に検事席、右に書記席。手前左側右向きに陪審員の長い席が二列あり、前列に三人、後列に四人が着席。右側に奥から被告人席二つと、弁護人席が陪審員席と向き合っている。真中の広間に椅子がおかれ、裁判官の方を向いているのが証人席だ。
 この裁判はサンパウロはもとより、他州からもいや外国からも注目を集めていた。毎日のように凶悪(きょうあく)犯罪が起こっている現在、この幼女一人の殺害事件が、何故にこうも社会の関心を高めているのだろうか?
 中流階級に発生した犯罪に対する興味と、常にうやむやになるこの国の裁判に断固(だんこ)処罰(しょばつ)を要求する市民の声に押されたメディアの報道が相まって、異状(いじょう)なまでに盛り上がったのだ。市民の意識の底には常に正義を求めてやまないものがある。
 不公平な裁判に抗議(こうぎ)する機会を、いつも市民は狙っていたのだ。
 裁判状況を報道するテレビの放映中、被告人が泣いた、というテロップが流れた。一般が鬼畜(きちく)と認織している被告であれば、人聞並の涙は、いったい何であったのか? 現在の境遇(きょうぐう)を悲しんでの涙か? 娘の死を傷んでの涙か? 真実に対する悔悟の涙であったのか? もし一瞬といえども、真実の涙であったなら、まだわずかでも救われる思いがするが…。
 一応、実母は判決に納得したというが、しかし、「娘は帰ってこない」とも言い、新たな悲しみのはじまりでもある。イザベラちゃん事件の一審(いっしん)公判は終った。


母の思い出 「手打ち蕎麦」

レジストロ春秋会 大岩和男
 私の母は明治初期の生まれで、義務教育も無かった時代なので、全くの無学の人でした。
 しかし、自分が無学のため、不自由で肩身の狭い思いをした分私には「絶対に日本語の勉強をせよ」と、学校の教科書は言うに及ばず、ブラジルに来て間もないコロノ借地農で経済的には苦しい時代にもかかわらず、勉強のために日本語学校にも通わせて頂いた。お陰で今日まで日本語を忘れずに感謝しておる次第です。
 私の母は女四人、男四人の子福者でしたが、上の方が女子ばかりで、下のほうに男子が三人も続き、かく云う私はその末子なので、幼い頃の呼び名は「末ちゃん」と呼ばれたぐらいである。「末っ子、末ちゃん、バッチのバケゾウ」等とよくからかわれたものでした。
 長女、次女は早くから働きに出て、家計を助け、また早く結婚したため母は長い間、家事一切を一人で切り盛りしていました。
 そのせいか、たまには母が「お前が女の子だったらなぁ」と嘆くことがあり、そういう母を見て、炊事や洗濯を幼少時代の頃はよく手伝ったことを覚えています。
 住む家と耕作地が離れていた頃は、母は毎朝早起きをして私を学校に送り出し、五人分の弁当をそろえ、それを担いで三キロぐらいはある畑まで持って行き、その上、畑仕事をしたのです。
 今にして思えば、ものすごい頑張り屋で、明治の根性の塊(かたまり)のような気丈な母だったと思うのです。
 その母の思い出に手打ち蕎麦(そば)があります。手打ちうどんはブラジルに来た当時からすでに作っていましたが、蕎麦は蕎麦粉が自分の家で作れるようになってからようやく出来るようになった物で、、特に大晦日(おおみそか)の年越し蕎麦は、良い一年を送れた感謝の表わしであり、新しい年を迎えるために欠かしてはならないと母は自ら蕎麦粉につなぎのパン粉を混ぜながら練り合わせて作ったものです。「足を洗ってこい」と言われ、洗っていくと、メーザ(テーブル)の上に練り粉が広げられ、その上に布巾がかけられていました。「上に乗って踏め」と言うので、何回も折り返しては踏んで練り伸ばす。母はそれを手頃に千切って、手で伸ばし、さらに麺棒で伸ばす。仕舞いにはそれを麺棒に巻いて両手で抱え込むようにして手前に引いて、トントンと心地よい音を何回か繰り返していると満遍なく綺麗に伸びそれを五センチ位の幅に折り畳んで独特の日本包丁でこれまた正確な幅にキチンと切り揃えるのです。それを茹で上げると出来上がり。用意してあった特別な蕎麦つゆにつけて家族で年越しを祝うのでした。
 母亡き後は、市販の蕎麦で続けていましたが、日本就労などで途切れ、あのトントンという母の手打ち蕎麦の音のみが年末になると蘇(よみがえ)る今日この頃であります。


皆で考えましょう

ナザレー老壮会 波多野敬子
 皆さんは蓑虫(みのむし)をご存知ですか?もちろん、知っていますよね。
 この虫が近年、我々の目の前から消えてきております。蓑虫だけでなく、無毒の蛇もカスカベルのような有毒の蛇もずいぶんと前から見られなくなっています。そして、蝶もトンボもキリギリスもコオロギも…。動物ではタツーなど数え上げれば切りがないぐらい今まで目にしていた物が居なくなっています。
 聖書の中のノアの箱舟では世界中のすべての種の保存のために一つがいずつ箱舟に入れるように神様が指示されたとあります。一本の草に至るまで何一つ要らないものは無いはずです。
 今はインターネットなどで世界中で話が出来る世の中ですが、文明と言うな名の下に消えていくものがある事を忘れているかのようです。
 乱開発による土地の荒廃や地球の温暖化、いろいろと理由は分かりませんが、今後、私たちはどうすればよいのでしょうね。どうか、皆さん、一緒に考えて見ましょう。


猫の日

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
 ペルシャ系の血の混じった親猫が老衰死して、すぐに後を追うようにして、白毛の蒼い眼のその仔二匹が揃って死んだ。
 狂犬の害を防ぐために野良犬を根絶しようと市役所が撒く毒餌を食べたらしい。
 我等には何人かの孫、曾孫がいるが皆遠く離れて住んでいるので、女房にとってはこの猫が孫代りだったから、それが急にいなくなると、家の中を寒風が拭きぬけるように淋しくなる。
 ある日、仕事の帰り道に啼いていた捨て猫の仔を拾ってきた。寝て丸くなると野球のボールほどの小さい仔猫で、これが育つかと思ったが、気の良い女房が挽き肉を混ぜた飯を朝昼晩と三度与えるのをよく食べて、七ヶ月ほど経った頃、何処の飼い猫にも負けないほど肥え太り、顎(あご)の辺りが二重になり、堂々(どうどう)たる貫禄(かんろく)の雄猫となった。名前はデブ。
 伸び上がった時、耳の先から尾の先まで、優に七十センチを超えている。まだ成長中であるから、もっと巨(おお)きくなるように、欲の深い女房はせっせと挽き肉を混ぜた飯を日に三度与えていた。
 普通の猫は「猫残し」と言って、どんなご馳走(ちそう)でも少しずつ残す性質を持っているが、この猫は祖先の掟(おきて)を無視して、どんぶりの底まで舐(な)めてしまう。
 女房の話では、我等二人前の量は簡単に平らげて、仔豚一頭は優に肥えるほどだと、感心したり、勿体(もったい)ながったり。
 この猫は飼い主が晩酌(ばんしゃく)のビールをコップに注いでいると、必ず膝(ひざ)に飛び乗り、ビッフェ(焼肉)を卑屈(ひくつ)でない声を出してねだる。猫は腹から臀にかけて何か詰めた? 結めたように肉が付いているので、なかなか重く、体温も高いのでこの頃の暑さではやせ細った老の身には応(こた)える。
 それでも主人は、人が好い女房に同化して、孫曾孫に甘えられたように、猫のねだるままに酒の肴を与えるのである。
 「それでは膝が汚れるのでは…」と心配する向きもあるが、どっこい汚れるのは、膝ではなく猫の方なのだ。
 飼い主は不精で不器用で、コーヒー、酒、しょう油などをしょっちゅう零(こぼ)すので、膝が常に穢(きたな)い。それが証拠に晩酌が済んで、膝を降りた猫は隣の椅子の座布団(ざぶとん)に座り込み、主人の膝に触れた肥え太った腹や肢を丁寧に舐めるではないか!
 拾って七ヶ月になるこの猫は、そろそろ思春期に入るはずで、股の間の男の象徴(しょうちょう)が栗のように固く膨らんできた。
 それでもこの猫は飼い主に似て品行方正(ひんこうほうせい)。雌の尻を追うこともなく、家の外にあまり出ようとはしない。おくてなのか、食欲ばかり旺盛なのである。
 では、物識りの諸兄は「猫の日」をご存知か?
 二月二十三日は皇太子殿下の誕生日で、将来の天皇誕生日であり、猫の日はその前日なのである。ブラジルには「小鳥の日」「動物の日」があるから、日本に「猫の日」があっても不思議はない。
 NHKの放送によると、猫の日を定めた理由が面白い。二月二十二日の二・二・二が猫の鳴き声のニャン・ニャン・ニャンに通じるので、そうなったとの事。
 にゃんとも子供じみた、合点のゆくような、いかないような、猫の狭い額に詰まった程度の知能発想ではないか。
 そして、これを書いている今が平成二十二年の二月二十二日、ちょうど「猫の日」であり、今、正午の二時である。もう少し待つと、二時二十二分二十二秒となり、これを数えると、「二」の文字が見事に十個並ぶことになる。


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