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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2010年6月号

2010年6月号 (2010/06/05) 小畑博昭氏の御逝去を悼む

老ク連相談役・スザノ福栄会 杉本正
 十九日の朝、「老ク連事務局から、『小畑さんがお亡くなりになられました』との電話がありました」と家内から聞かされて、愕然となった。
 三月、イッペランジャ老人ホームのダリア祭で、小畑さんのご子息に「父上にはお変わりはないね」と聞きますと「至って元気です」との返事を受けていたからで、その僅か二か月後にお亡くなりになられるとは…。
 老ク連から葬儀には松平、小坂、上野理事等と私が赴いた。霊安室に入り、今は亡き小畑さんとお会いしたが、安らかで眠っておられるかのようなお姿で、しばらく佇んでいるうちに思わず「貴方の人生は、援協を通じて、福祉一筋でした。さらにいつも日系社会の高齢者の幸せを目的に、全霊をかけてこられました」と人前も憚(はばか)らず、言葉が出てしまう。安らかなご冥福をお祈りし、お別れをする。
 ひるがえって、老ク連に対して小畑氏は、結成当初から本会が軌道に乗るべく、老ク連の目的、発展に思いをこめて指針を示して下さった。
 常に本会の活動のあり方に深い関心を持たれておられた御人であった。
 本会が今日の如く運営が軌道に乗り、活動も支障なく行われ、JICAからボランティアの派遣も得ることができるようになったのは、一重に氏が本会の充実、発展にと、弛まざる大きな力添えをして下さったからこそ実現した事。
 改めて、亡き小畑氏に感謝と御礼の辞を謹んで申し上げ、安らかなご冥福を祈念しつつ、拙き弔詞に代えさせて頂く。合掌


老ク連思いだった小畑氏

前老ク連事務局長・サンパウロ中央老壮会 上原玲子
 元援協事務局長の小畑博昭氏が急死されたと聞いて、あヽもうあの声が聞かれないのだと切ない思いでした。 老人クラブは援協の小畑氏等によって作られ、独立した後も関係が深かったので、氏の在職中は私も何かと指摘されたりして、一寸怖いような存在でした。しかし退職されてからは、親身になって相談に乗って下さり、それは老ク連直属でないのに、こんなに色々頼っても良いのだろうかと思う程でした。
 私が初めてお目にかかった時、名乗りますと「おヽ大原麗子がきたぞー」と、当時大変美人で有名だった女優の名前を言われるので、私が「一字違いだし、れいの字が麗(うるわ)しくない分、ちゃんと違って姿は似ても似つかないです。」と言いますと、「いや、ブラジルの大原麗子で充分通じるぞ」と大変な冗談を言い、その後もお会いする度に「おおはられいこさん」と姓名で呼ぶ等、ユーモアも多い方でした。
 私が老ク連に入った時は、先輩に当たる職員が一人もいなくて、役員には「事務職として必要だと思うことをやってください」と言われただけなので、自分のすることに自信の持てなかった私にとって、小畑さんは全てに見本でした。座っておられた背後の戸棚には書類がきちんと整理されていて話の途中ですばやく出て来るし、少しの間違いも必ず確かめるし、いつも驚くほどの記憶力で話が進むのでした。人間相手の福祉に関しては実に優しく面倒を見る反面、文章や礼儀・規律などには大変厳しく、何度か注意もされました。老人週間の相談会などの時も、テーマに添って筋の通るようにとか、依頼する方に失礼のないようにとか、うっかりしている事は必ず突かれました。
 氏は老ク連を身内の様に思われていたので、過剰(かじょう)になった事もありましたが、ともかく親身で、先般の老ク連三十周年記念誌の編集なども、身体も本調子でないのに古い書類を丹念に探したり、わざわざ関係者を訪ねたりして原稿を仕上げて下さり、お蔭様でほとんど間違いのない記念誌となり、一同大変感謝したものでした。
 コロニアの生き字引である氏には、もっともっと長生きして助言をして欲しかったと大変残念に思います。偉大なる先輩に対し心からご冥福をお祈りいたします。


小畑さん、ありがとうございました

サントス伯寿会 三上治子
 新聞を見て、小畑先生の訃報を知りびっくりして、涙しながら功績を読みました。
 本当に昔から老人福祉の事を考えて下さって、また、ホサア教会から黒木牧師様と毎月伝道に私のおりますサントス厚生ホームへおいで下さいまして、色々と神様のことも教えて下さいました。本当に長いお付き合いでした。
 惜しい方の急逝でしたが、素晴らしい御生涯でしたね。ありがとうございました。謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。


「老壮の友」をテーブル新聞に

インダイアツーバ親和会 早川正満
 私の文章が「老壮の友」に掲載されるようになって、まだ間もないが、私の文中で「○○に感心あり」と遠方の面識のない方からお便りを頂いたり、久しぶりに町で会った知人から「○○さんが亡くなり、そのお子さんからもう読む人がいないからと、私に回して頂いた『老壮の友』に貴方の文が出ていて読んだわよ。久しぶりの日本語の文章だっただけでなく、知っている人の文章という事で嬉しかったわ」など。
 老人会の友の反応より、会の外、コロニアの外側にいる人からの反応が強いのが意外だ。
 その人々の共通点は伴侶が二世か非日系人で普段の会話では問題ないが、日本文学や日本語で物事を掘り下げるとなると、家庭内で孤立して、年を重ねるにつれ、外に仲間を求める感情が高まってきているように見受けられる。
 邦字新聞があるではないか?と思うかもしれないが、年間の新聞代がアポゼンタドリア(年金)の一か月分では、その人々の家庭内の立場から考えて購読が無理な話なのではないだろうか?
 また、この傾向は、戦後、独身青年で来て、非日系と結婚したり、小学校や中学校の途中で子供移民で来た一世の人々、それも都会や日系集団から遠く離れた人々に多く見られるようだ。
 日本語が読めるだけにその思いは年を取るにつれ強くなると思われる。
 「老壮の友」のように一か月に一回で、この人々には良いのです。一ページをコロニア回覧板として、地方にいる同胞に壁新聞ならず、日系人の集まる店のテーブル新聞として置くのはどうだろう?
 老人クラブ外の仕事だが、それも向こう十年ぐらいのことだが、領事館の仕事の一環を手伝うような行いなのだから、これが大きな話題となり、成功したら老ク連の歴史の一ページを作る事になると思う。
 日系コロニアの中心、トップにいる人たちも本当にこれからの日系コロニアを考えるのなら、地方にいて、まだ日本人でいる人々の、それも年老いた人々の事も考えてやって欲しいと思う。


年寄りの雑感

バレットス寿楽会 岩本みずほ
 日本人の間で型通りの挨拶の後、かける言葉も見つからないような深い戸惑いを感じると「欧米人(ブラジル人)ならなぁ」といつも思います。ブラジル人の間では、たとえ見知らぬ人でもすぐに昨日のサッカーの試合の結果が話の種になり、これとて友人でもないのに声高に二人で話していたのが、いつの間にか四、五人になり、贔屓のチームを弁護し合っています。そんな風景をイヤというほど見てきました。
 それだけではありません。ブラジル人はいともかんたんに、ごく当たり前のように肩を抱く。手を握る。抱きしめる。体に触れて、言葉では言い表せない思いを伝えるという振る舞いなどは日本人にはなかなかできないでしょう。日常的に抱擁とかキスという習慣のない日本人には躊躇するというかんかくがあるのではないでしょうか。
 さて、ここで触れる、触れられないというこの違いはいったい何なんでしょう? 夫婦になれば自然に触られるかも知れませんが、日本人には「いい年をして」という感覚が先行して、なかなかそれができません。ただ単に手を握り触れられているというだけで嬉しくなり、安心と慰め、時には励ましとなります。そうしたことが自分の年など気にしないで暮らし、長生きできることに繋がると思います。
 長生きと言えば、どんな仲よし夫婦にも大きな関門があります。それは考えるのも辛いのですが死別です。これを経験した人に「どのような心構えをもてばよいのか」を聞きたいと思いますが、「縁起でもない」とそんな事を聞ける人もいないでしょう。
 独身、結婚(離婚)、死別と誰でもいつかは「おひとりさま」になるのです。でも生きていかなければならぬことには変わりはありません。生きるためには食欲と性欲をも欠かすことが不可欠なのは論を待つまでもありません。
 ここで食欲はともかくもうひとつの欲の禁欲を強制するのは時として不可能でしょう。一度ならずも夫婦生活の経験者が殿方にせよ貴婦人せよ、まったく無くなるというセックスレスの悩みについて、安心して語り合う場というのは大切だと思います。性というデリケートな話題について、語り合う場を作るのは当地の老人クラブの目標ではないようです。
 助平でそんな底辺的なことを、と思うかも知れませんが、大事で真面目なことだし、現に私たちの身の回りに一人で寂しく過している寡婦(やもめ)はいないでしょうか? 生きているんですから、死ぬまで欲望があるのは恥ではないと思うのですが、人間という名の動物はその欲を表現せず、ひたすら隠しているのではないのでしょうか? 
 ただ高齢者の性生活は、個人差はもちろんのこと、男は男性ホルモンが極端に減るだけだから、怠慢で気が弱くなり、定年後の夫婦をみると、大抵奥さんの方が強くなり、私たちクラブの月例会合におでましされるのも実にご婦人方の多いのもある種の意味があるのではないでしょうか。
先にシニアボランティアの与古田先生の来訪を受けましたが、高齢者の性生活を、取るに足らない問題と思ったのか、専門外か、全然触れなかったばかりか私たちのクラブを幼稚園と勘違いしてチィチィパッパチィパッパの遊戯を手ほどきして教えてくれたのです。
また、ある教団では女は何事にも「ハイハイ」と、旦那に黙って従えば家庭が円満になるのだと教訓していますが、その教団の女性が最高責任者となり、世の男を座布団にしてしまったそうです。このように男はホルモンに作用されて頭(双方)が騰がらなくなるのはチトばかり悔しいことと思いませんか? 話が脱線してしまいましたが、ご勘弁願います。これも老化の所為としましょう。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(31) 歴史小説に新境地 司馬遼太郎
 司馬の力作「竜馬がゆく」は昭和三七年から四一年までの五年間、「産経新聞」の夕刊に連載され、戦後の歴史小説を代表する作品に数えられている。おそらく、今までに描かれた歴史小説の中でも最も多数の人々から愛読されたものであろうし、その影響で坂本竜馬の熱狂的なフアンが続出し、時ならぬ竜馬ブームを巻き起こしたものだった。確かに竜馬は維新史の奇蹟と言われるだけあって、幕末に輩出した志士、英雄の中でも傑出した存在である。
 司馬の歴史小説の大半は実在した歴史上の人物を取り上げたものだが、大別すると幕末と戦国時代を舞台にしたものとなろう。
 幕末維新ものでは「燃えよ剣」(土方歳三)
「歳月」(江藤新平)「世に棲む日々」(吉田松陰、高杉晋平)「花神」(大村益次郎)「峠」(河井継之助)「殉死」(乃木希典)「坂の上の雲」(日露戦争)「翔ぶが如く」(維新前夜)「胡蝶の夢」(松本良順)など。戦国時代では「国盗り物語」(斎藤道三、織田信長)「
新史太閤記」(豊臣秀吉)「関ケ原」(徳川家康、石田三成)「播磨灘物語」(黒田如水)
「夏草の賦」(長曾我部元親)「功名が辻」(山内一豊)「尻啖え孫市」(雑賀孫市)「箱根の坂」(北条早雲)などである。
 ほか、短編も少なくないが、主なものでは「酔って候」「最後の将軍」「幕末」などがあり、「新選組血風録」と「豊臣家の人々」は連作短編とも称すべきもの。また、フィクションでは「風の武士」「風神の門」「上方武士道」「妖怪」。中国を舞台にしたものに「韃靼疾風録」「項羽と劉邦」等がある。
 司馬は大阪市生まれ。昭和一六年に大阪外語大蒙古語学科に入学、昭和一八年には学徒出陣で満州へ赴いた。戦後は新聞記者生活を送った後、三四年に「梟の城」で直木賞を受賞して作家となる。豊富に集められた史料を充分に咀嚼して自在に操り、その培われたユニークな史眼で歴史上の人物を浮き彫りにしていく。あたかも作中人物が我々の前に存在するかのような気分にひたらせてくれる。それに文中に頻繁に表われてくるエピソード、横道にそれた余録がまた面白くて、甚だ示唆に富んでいる。司馬遼太郎という筆名は、「史記」を著わした中国の歴史家、司馬遷に遼かに及ばず、という意味らしい。
 歴史小説に新境地を拓き、独特の語り口と「司馬史観」と呼ばれる人物、歴史解釈で説得力があり、同人の作品で歴史の面白さを教えられた者は数多い。なお、軍隊生活を体験したことは、司馬の歴史観に強い影響を及ぼしている。「街道を行く」で日本文学大賞を受け、平成五年文化勲章を受章、八年に他界。死後その業績をたたえて司馬遼太郎賞が設けられている。


愛すべき小動物

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
◎象亀
 爬虫類(はちゅうるい)の中で亀ほど人に親しまれているものは少ないが、これは幼児に「浦島太郎」や「兎と亀」の物語を聞いて育ったせいであろう。
 亀は世界中で二一〇種と類多く棲息(せいそく)しているが、いずれも古生代に現れた爬虫類の子孫で、現在も同じ体形を持ち続けていると言われる。
 Y農場では、低いセメント囲いの中にドーム形の甲羅(こうら)の亀亀を四五頭久しく飼っている。囲いの中には野菜の屑やマモンなど入れてあるが、陸に棲む亀は水に棲む肉食性と違って、菜食性なのである。
 この象亀は折には春情を兆(きざ)すらしく、固い甲羅を打ち合って、愛の表現をするので、微笑ましい。

◎針鼠
 ハリネズミは食虫類に属し、体は丸く、体長二〇㎝ほどで全身鋭い針毛に覆われている。
 昔、耕地で生活をしていた頃、軒近くで番犬が悲鳴を上げていたので行ってみると、この針鼠を襲ったらしく、口の周りに何十本となく刺さった針毛の毒に苦しんでいる。
 そして近くの枯れ草の中に針鼠は倒れていたが、何十年の耕地生活の間でこの山獣を見たのは、後にも先にもたった一度だけだった。
 犬の口の針毛はアルカッチ(ペンチ)で抜いてやったが、針毛の毒は残るらしく、この犬はその後、老い込んで番犬の用をなさなくなった。
 針鼠は「蝟」とも書き「蝟集」という言葉がある。意味は「針鼠の毛のように、身の回りに物事が一度に多く集まること」をいう。

◎ガンバー
 「鼠に似た貌(かたち)と毛のない尾を持ち、猫より少し大きい夜行性哺乳動物。体毛が黄がかった白色」とブラジル季寄せにある。
 昔、養鶏をしていた頃、初生ヒナ、中ビナ、成鶏まで何度もこのガンバーに襲われた。鶏が騒ぐとすぐ懐中電灯を持って出て照らすと、ガンバーは眼が眩んで立ち尽くすので容易に討ち取ることができ溜飲(りゅういん)をさげた。
 ある時は、討ち取ったその腹から五、六匹の仔が躍り出たことがあった。胎児は早期に出産して、腹にある育児袋の中で育てるのは、カンガルーと同じである。


与古田先生の沖縄話 ④ 「結婚式」

 沖縄の結婚式の最大の特徴はその余興にあります。何しろ芸能の島ですから、芸達者な人たちのかくしげい大会にはやがわりします。
沖縄の結婚式の余興は「かぎやでふう」で始まり、「かちゃーしー」 でお開きが定番です。
 そのほかの余興としては古典芸能や琉球舞踊、エイサーや空手演舞など沖縄色豊かなものから、マジックショーやらマツケンサンバ、ダンスショーやSMショー…は、やりすぎですが、それに近いことまでやります。
 それが全て「素人」さんだから凄いです。そして、その練習の熱の入れようもハンパではありません。
 会社では「すみません、結婚式の余興の練習があるのでお先に失礼します。」と言って、仕事を切り上げるのオッケーです。
 ところによっては「いつまで仕事してる!はやく練習行きなさい!」と、周囲に激励の言葉までいただけるといった具合です。
 お祝い事では、うちなーんちゅは本土では考えられないくらい気合が入ります。決して義務感ではなく心から祝福し、楽しんでいるところがうちなーんちゅの良いところです。
 もうひとつの特徴は招待客の多さ!です。
 新郎側百人、新婦側百人は特に珍しくありません。千人も集める人もいます。親戚やら会社の人やら、高校の友人、大学の友人、恩師、近所の方々、政治家の方々…誰が親戚なんだかわかりません。
 そして、余興の時間も長く、招待客が積極的に舞台に出たがるものですから、幹事も止むを得なかったのでしょう。三時間くらい有ったんじゃないでしょうか。後半はグダグダでした。
 さすがに最近では千人もの結婚式はありませんが、いまだに「あの人を招待したらこの人とこの人も呼ばないと・・・」と、なかなか少人数にはならないようです。
 うちなーんちゅは他人の幸せ大好きな民族なんでしょうね。 (「沖縄ちょっと昔話」幸作さんブログより)


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