移民百年祭
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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2010年8月号
2010年8月号 (2010/08/02)
コッパ・ド・ムンド(W杯) ブラジル敗(やぶ)れたり!
サンパウロ中央老壮会 中山保己
六月十日開幕したサッカーのコッパ・ド・ムンド(W杯)南アフリカ大会の八強戦(準々決勝)でブラジルはオランダと対戦、前半先制の一点をあげたが、後半早々に不運なオウンゴールで返され、さらにファルタ(反則)から逆転され、オランダの勝利となった。
これでブラジルの出番はなくなり、交通が止まり、商店が閉まる臨時フェリアードも消えてしまった。ブラジル中が呆然となった。
今回のW杯は、いつになく盛り上がったようだが、理由を考えると次回のW杯開催地であることとデジタル放送に切替えの薄型テレビの普及が大きかったのではなかろうか?
日系人は日本代表の試合を応援し、対カメルーン戦に一ゴールの勝利を喜び、オランダに一×〇で負けたが、まだ望みをつなぎ、対デンマーク戦を三×一の快勝に気をよくした。本田、遠藤のシュートに陶然となった。十六強に進出した日本は、パラグァイとの試合にねばったが、遂にPK戦で敗れてしまった。
さて、日本が去ったので、私たちの応援は当然ブラジルへと倍加して向った。八強戦の相手チリを三×〇と楽勝し、決勝までの期待感は膨らんだ。がしかし、ブラジルはオランダに負けて、がっかり。監督デゥンガのベテラン重視が前大会と同じように失敗したのだ。
それにアップで見るとロビンニョやカカーの中心選手に非常な疲労感が伺えた。若手選手の投入が必要だったのだろう。
また、国内試合はもちろん、今回のW杯を見てつくづく思ったのは、なぜ、もっと電子機器を利用しないのかということ。陸上・水上競技などは速さを何十分の一秒まで計測するのに、フットボールにかぎっては、審判は人の感覚に頼っている。ことに押し合い揉み合い混乱したときは、映像を険討して判定すべきだと考える。今大会でも、ゴール内に落ち跳ねて出たのをゴレイロ(キーパー)がとったり、ゴールの前で頭で合わせたのをオフサイドといって無効にしたりして(ブラジルも被害者 )となった。テレビでもアナウンサーたちが問題の場面を繰返し見せて、不満を表明していた。
私は出来るかぎり日本、ブラジル以外の対戦も見ていて、どちらかに応援すると俄然興味が増して面白くなる。まったくコッパの期間中は落ち着かない。妻も「折角テレビに映してくれているのだから見るべきよ」と、競技を楽しんでいる。
準々決勝は、アフリカ最初の八強戦進出のガーナはウルグァイにPK戦で敗れた。八強戦の一つ、対ドイツ戦でアルゼンチンは四×〇の屈辱的な点数で惨敗を喫した。
エスパニヤ(スペイン)、パラグァイ戦は双方がペナルティーという失敗の珍事。最後はエスパニヤ勝利。
準決勝、オランダ対ウルグァイ戦は、オランダが三×二で逆転を許さなかった。ドイツ対エスパニア戦は、終始エスパニアが押して、ドイツは精彩(せいさい)なく、防戦一方で敗北。
三位決定戦。ドイツとウルグァイが互角に戦ったが後半ドイツに凱歌が上がった。
七月十一日十五時半よりの決勝戦はエスパニアとオランダの間で争われ、両軍とも初の大会優勝をかけて戦いは延長戦の終り頃、エスパニアのゴールが優勝の瞬間となった…。
W杯の一か月間、競技にいくたの名場面が生まれたが運営は一大難事業であったろう。
次のブラジル大会を考えるとき当事者たちの胸中はいかばかりか。巡りきた機会を完壁に運用されることを私たちは祈るのみだ。
昆虫のいろいろ
サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
◎蝿(ハエ)
コーヒー樹に欠かせない金肥は買えないので、肥採り養鶏をしていた頃の蝿ときたら、まるで息が詰まるばかりの大群であった。風邪で鼻が詰まり口で呼吸をしていると、蝿が口中に飛び込むなどは珍しくなかった。
そこで薬剤を皿に積もって置くと、忽(たちま)ち一升(いっしょう)ばかりの蝿のむくろが溜まる。すると大蟇(ひきがえる)小蟇が現れてそれをむさぼり食べる。蝿が死ぬる薬剤でも強靭な蟇どもには胎の虫を下す効用はあっても、命に別状はなく、まさに「蟇のつらに水」(小便ではない)で、シャーシャーとしている。
◎猩々蝿(ショウジョウバエ)
同じ仲間でもショウジョウバエは体長二ミリのごく小さい茶色で、味噌、醤油、酒などの発酵物が好きで目と尻が赤いので、この名がある。
猿が木の実を集めて木の洞などに貯えたのが雨露で発酵して猿酒になる。昔、山伐りをした折にもこの猿酒にはお目にかからなかったのは残念である。
でも桑の実、ジャボチカーバの実が落ちて、倒木の凹などで発酵している事があるので、それを「猿酒」と創造してみたりした。
この「猩々蝿」は遺伝学研究の材料である。
◎放屁虫
放屁虫は身に危険が及ぶと尻から火花が散るような音と共に凄い悪臭のある気体を放つ。この一発で敵を撃退するが、その放屁が鍬や掌に付くと、そこが白っぽく熱くなる。
野菜の除草などしている時、この放屁虫に出くわすと、棒で突っついて何発も放屁させて、腹のものを全部空費させて面白がり、鍬仕事をさぼって、父に叱られた思い出がある。
◎蟻地獄
アリジゴクはうすばかげろうの幼虫で、軒下や物置小屋の土間の乾いた砂を跳ね上げて、擂鉢穴(すりばちあな)を作る。この虫は頭がスコップ形でこれで砂を跳ね上げ、蟻や子虫が堕ちるのを待って捕食する。
そして二年ぐらい居て、砂の中に繭(まゆ)を作り、蛹(さなぎ)となり、ある期間をおいて、姿も優美な「うすばかげろう」に成る。
◎優曇華(うどんげ)
うすばかげろうという虫に似た「優曇華」は、草色のなよなよとした体に四枚の薄絹の羽を持ち、草蜻蛉(くさかげろう)とも言う。
うどんげはその卵で板屋の柱の上部やサッペぶき屋根の垂れ下がった先に卵を産みつける。細い二センチほどの糸の先に白い小さいのが十ほど付いている。
仏教の経典の中に「天竺(てんじく)の国にうどんげという木があり、三千年に一度花が咲き、そのときに仏が世に出る――」とある。
◎蝉(せみ)
蝉の雌(メス)は腹の先の産卵(さんらん)管から植物の根に産卵する。卵から孵(かえ)った幼虫は地中深くもぐって、根の樹液を吸って五年から十年も生きる。
我々のミナスのコーヒー園もこの蝉の害を受けているが、これはセラードの原始林を伐り尽くしたので、寄生する幼虫が鞍替(くらが)えしたのである。言わば、環境破壊の罰を受けたのである。
この幼虫は穴を出て、羽化して蝉となるが、鳴くのは雄(オス)のみで、雌は唖蝉で鳴かない。
ギリシャの詩人が「蝉の生活は幸せなるかな。彼らは声鳴き妻を有す――」と詠んで、女性の長舌を皮肉っている。
人生色々
インダイアツーバ親和会 早川正満
私の片耳の鼓膜(こまく)は、旧満州の太子河(タイシコウ)に八歳の時、持ち去られた。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」に遼陽会戦の場面で、秋山好古騎兵団の誘導で、黒木軍がロシア軍の遼陽要塞(ようさい)に対しての会戦前に太子河を渡り、本渓湖(ホンケイコ)あたりから側面攻撃を仕掛け、日ロ戦争の陸での勝敗の激戦地となった所にあった大河、それが太子河であり、私もその河で水遊びをし、事故で片耳となった。
父は終戦までこの本渓湖で満州国警察官をしていた。終戦の一、二年前はロシア相手の特務警察だったので、C級戦犯となり、日本にやっと引き上げても多くの同僚は復職できたのに父は出来ず、まったく別世界と感じる庶民の生活に苦労したようである。
でも、私服で特殊ベルトに拳銃を差し入れ、「今晩は帰れないぞ」と言って出かけていく父は、シネマの一場面を見るようで、息子として父を誇らしく思ったものである。
後年、父に「あの時の四、五年の事でも書き残したら、他人には書けないドラマが残せるのではないか」と、勧めたが笑っているだけだった。決して物が書けない父ではなかったのだが…。
私たち家族は両親と長男の私を頭に子供五人の七人家族であった。一九五八年十月「チサダネ号」でブラジルに渡った。
船中では中国人の事務長と意気が合い、彼は日本語ができ、父は中国語ができたので、支那事変の時の上海上陸作戦で蒋介石精兵軍と一つ丘を挟んで対決した話は、日時を合わせると、事務長は向こうの下仕官で、実質の戦闘指揮を取り、父は日本側の下仕官で同じ指揮を取っていたのであった。父が「貴方たちは実に強かったですね」と言えば、「貴方たちもしつこいほどよく粘りましたね」と移民船とは思えぬ語りがあったのである。そして彼から漢詩を学び、船中で多くの自作の漢詩を書いていた。
実は同船者に元県連会長の網野弥太郎君が居るのであるが、ブラジルに最初に定着したのが同じプロミッソン。彼は商店、私たちはカフェザルの農業にと、生活は別々であったがお互いに二世の妻を貰い、その妻たちの縁から遠縁とつながっていくのだから人生は不思議なものである。
満州から日本へ帰り十年、ブラジルに渡って十年してから現在地に定住した。両親はここで九十一歳と九十歳まで生きて亡くなり、来年は共に七回忌を迎える。
戦前移民の先輩たちは子供たちへの人間教育がしっかりしていたので二世の妻は父母や小姑のわがままによくたえ、最後まで面倒をよくみてくれた。そのお陰で息子たちは自然に私たち老夫婦と同居し生活を共にしてくれている。
実は私は父の二十一歳の時の子で、近年まで兄弟だと思っていた人もあり、息子は私の弟だけだと思っていたようだ。それだけに父の人生の回想の中に私は大きく存在していた。
終戦の夜、本渓湖から三頭だての馬車で鞍山まで脱出。それから汽車で大連に出ようとしたがすでに不可能で、鞍山に一年あまり潜伏(せんぷく)した。その時私は「大地の子」の陸一心と同じ歳で、子供ながら大人の、人間の素裸の世界を見たような思い出がある。それだけにブラジルでの仕事や生活の苦労は堪えなかった。
ただ、父母と回想を共にするだけに父母に対してわがままを言う妹や義弟との絆の糸は切れている。そして、妻に対してはありがとうを言い続けてきた。すぐ下の妹とだけは、父母亡き後、うまくいっているし、子供同士、いとこ間はうまくいっているようである。
人生には色々な波が常にある。ただ、それをどううまく乗り切るかが、その人としての価値が問われるのではないだろうか。
愛読した作家たち
名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(33) 女流社会派の第一人者 山崎豊子
初めて読んだのは「二つの祖国」(昭和五八年)だったと思う。在米日系人コロニーの状況が極めてリアルに綿密に描かれており、ブラジルの日系社会に対比したりして終始関心をもって読み終えた。特にカリフォルニア日系人強制収容所内での出来事はかなりショッキングだった。本書はNHK大河ドラマとしてテレビ化されて「山河燃ゆ」とのタイトルで、松本幸四郎、三船敏郎、津島恵子、島田陽子等が共演した見応えのある力作だった。
「不毛地帯」(五〇年)「大地の子」(平成三年)と並んで戦争三部作とも称されている。
他の二作とも映像化され、「不毛地帯」(五一年、山本薩夫=仲代達矢)はシベリア抑留の描写などもあり、経済の繁栄とともに良心を失いつつある日本の精神的不毛をテーマにしたもの。
「大地の子」(テレビ、上川隆也)は敗戦直後に祖父と母を喪い、妹とは生き別れになった戦争孤児の波乱に満ちた物語で、何れも好評だった。
その取材や資料調査の綿密さには定評があり、女流社会派作者としても人気が出た。
山崎はほか「白い巨塔」(四〇年)では尊厳であるべき医学界に渦巻く欲望と打算を徹底的に追求し大きな社会現象を巻き起した。本作もすぐに映画化(山本薩夫=田宮二郎)され、同年のベストテン一位(キネマ旬報)となり作品も大ヒットした。
また、「華麗なる一族」(四八年)では日本の産業全体を支配しているアンタッチャブルな聖域である銀行界にメスを入れ、それまで誰も挑戦する者もいなかった分野を切り拓いた。これも映画化(四九年、山本薩夫=佐分利信)されている。
続いて「沈まぬ太陽」(平成七年)では史上最大の死者を出した日航機墜落事故をテーマに、人の生命に直結する航空会社の社会倫理を鋭く抉りだして評判となった。
社会の暗部を好んでテーマに取り上げる彼女は、日本のバルザックとよぶファンがいる一方、盗作疑惑も過去に何度か指摘されている。参考とした資料を自分で咀嚼することもなく、ほとんど脚色せずに作品に反映させるのが原因らしい。なお、作品の多くがハッピーエンドに終らず、「悪は栄え、善は滅びる」との設定になっており、「小説と言えども、社会的反響を考えて、もっと社会的責任をもった終末にすべき」という意見も出て、「白い巨塔」で主人公の財前教授を医事裁判で敗北させる結末に仕立てている。
大阪市生まれで、京都女専国文科卒。毎日新聞社学芸部に入社、当時副部長だった井上靖の指導を受けて書き続けていた「暖簾」(三二年)で文壇にデビュー。三三年に「花のれん」で直木賞を受賞する。以後、大阪商人やさまざまな世界を生きぬく女性の姿を描いた「しぶちん」「ぼんち」「女の勲章」「女系家族」「花紋」などで作家としての地位を築いた。平成三年には菊池寛賞を受けている。
一期一会
「河童(かっぱ)こと、老門一郎さんより」
三年ぶりのサンパウロでした。今回も老ク連での公演では、心温かな応援を頂き、ありがとうございました。
河童のような頭髪に煤(すす)けた(?)着物。獅子頭を背負った旅人には前回も今回も「何者?」との視線を日系社会から投げ続けられてますが、日本全国、世界各地の祭りや宴、お祝いの席を訪ね歩いて演芸を披露している旅する河童であります。
これまでに訪れたのは四十か国ほど。初めてサンパウロに来た三年前も世界一周行脚の道途中で、ほとんど金銭を持たずに降り立ったアメリカ・ロサンゼルスを出発地に、メキシコ、中米各国、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、パラグアイと陸路をバスで移動しながら、宿や行きつけた飲み屋で踊り、地域の祭りを紹介され、珍しいと喜ばれて結婚式や学校訪問を頼まれたり、なかなか縁が見つからないときは荷を背負って歩き続け、道端で声かけられた人の家に上り込んで近所の人を集めてもらって門付けと、伝統ある旅回り芸能との二人三脚の旅は、どこへでも飛び込める自信と安心感に背中を押されます。
日本では「河童」と呼ばれるこの髪型で歩いていると、こちらでは「パァドレ ありがとう!」と握手を求められることが度々あり、最初は新手の物乞いかと思って警戒していましたが、神父さんと間違えてられていることがわかって苦笑い。飲み屋で酔っ払っても「パァドレ こんなところで何してる!」と言われる事がありこれもまた苦笑いです。 日本では粋な男の特権?お尻丸出しのふんどし姿も、こちらではそれは女性の特権だと言われて笑い話のタネになり、男が踊る女舞も「あなたはオカマですか?」との質問がきます。
世界中どこに行っても大ウケする「ひょっとこ」や「おかめ」、獅子舞に河童、どこでも踊りを喜んでくれる人たちに囲まれ、各地で手製の獅子頭を作って、好奇心いっぱいに集まってくる子供たちに踊りを教え、伝統や文化の豊かな日本人に生まれてよかったと思うと共に、世界の人たちに日本を紹介する旅を愉しんでいます。
初めて南米日系社会に出会ったのはボリビアの移住地。赤茶色の大地に広がる大農地を進んだ先に掲げられた「サンファン日本人移住地」や「めんそ~れ オキナワ移住地」の大きな日本語看板。ちょうど行われていたデイサービス訪問では「日本語でいいですか?」の問いかけに「わたしらスペイン語はわからない」の声を返され、宴席では「無いもんは作る」と意気込んでおられた南国移住地流の豪勢な日本食が並ぶ。 「昔ながらの近所付き合いや礼儀作法、教育方針は日本以上だ」と誇る皆さん。パラグアイの移住地でも「ここは日本以上に日本だぞ!」と自信満々に誇られて、日本から流れて来た旅芸人として向けられた挑戦状を返し続ける毎日でしたが、そんな自慢話をしながら大きな肉の塊とコーラを美味しそうに口に運んでいるお年寄りたちの姿はやはり南米で、それは面白可笑しくもあり。逆に日本語の漫画やドラマに熱中しながらスペイン語で遊ぶ子供たちを見て近い未来はどう変わっていくのかなぁと、とても興味深いです。
「ここまで来たなら、ブラジル日系社会も見ておいで」と勧められてやって来たサンパウロ。 大昔、インドに向かったコロンブスがカリブの島々に到着したのをインドに着いたと間違えたという話がありますが、自分も早くも世界一周を終えて日本に帰ってきたかと錯覚させられたほどの日本。日本語は話せなくてもカラオケを完ぺきな日本語で歌い上げる若者たち。もはや日本人よりブラジル人のものになっている武道やアニメ。昔ながらにこだわり日本の事ばかりを話題にしてくれる御年輩。季節や地域性を気にせず、華やかな日本を集めた日本博覧会のようなイベントの数々。侘び、寂びや曖昧さを拭い去って、鮮やかな原色のようなブラジル流の日本は、前回も今回もとても刺激的です。
「若い世代に文化の芯を上手く伝承できていない」と危惧する声も度々聞きますが、日本を常気にしてくれている皆さんへの御恩返しに、自分たち旅回りのような、庶民文化を継承する者が度々訪れられるような環境を創って、南米日系社会に新しい刺激を持ち込めるようになればと思っています。
全国各地にいる、いると言われながら、なかなかその姿を現さない河童も人々が賑やかに愉しむ場所には必ず姿を現すそうです。またお会いしましょう! 感謝
沢庵談義
老ク連のコヂーニャ(台所)は、日によっては十人近くもの人が食事をしています。
ある日のこと、お弁当の沢庵をつまみながら山本さん「こんなにおいしい沢庵だけれど、匂いには参った事があったよ。お店の人がビニールに何枚も容れてしっかり口をしばって、ぜったい大丈夫というから安心してオニブスに乗ったところ、やっぱり匂うんだよねぇ。あっちの人こっちの人が鼻をくんくんさせ始めたね。しらーん顔して乗っていたけど冷や汗もの。早くバス停に着かないかと気が気じゃなくで、着いたとたん一目散に飛び降りたね。ところが、その後がまたおもしろいんだよ。運転手が車を止めてイスの下を一生懸命調べてるんだよ。何かあるんじゃないかとね。妻と二人で笑ったね」とまた大笑い。
さて、この沢庵のルーツだが、江戸時代の臨済宗の僧侶「沢庵和尚(おしょう)」が作り始めたと言う説が一般のようだ。山形県の上山町に流刑になった沢庵和尚に、近在のお百姓が高僧と聞いていろいろ野菜を持って行く。食べ切れず、捨てるにはもったいないとそれらを漬物にした事から「もったいない漬け」と言われていた。
許されて江戸に帰った後、将軍に馳走を所望された。しびれを切らすほど待たせた後に、この「もったいない漬け」を出すと、将軍は「うまい、うまい」と食べた。そこで和尚は「将軍様はいつも贅沢三昧(ぜいたくざんまい)をしているからこんな物がおいしく感じるのです。庶民はいつもこんな物しか食べられないのです」と諭したそうだ。それ以後、「もったいない漬け」が「沢庵漬け」になったという。
あの得も言われぬ匂いに負けず、もったいないの精神が生んだ究極の漬物が沢庵漬けなのだ。
昔ながらの方法で長期間漬け込んだ沢庵は、脱水された上に、カドのとれた塩分が加わり、発酵によって生じた酵素が含まれ、別の薬効が加わる。それは一言でいうと、体質を陽性化し、寒さに弱い人、太り気味の人、虚弱体質の人、疲れやすい人などに有効のようだ。
さて、話は老ク連に戻ってある人が「満州からの引き上げ船の中でもらった沢庵とおにぎりで胸がいっぱいになったわ。これで日本に帰れるんだって」と話せば別の人は「私は十二月の身を切るような冷たい水で祖母や母を手伝って大根を洗ったわ。母はあか切れだらけだった。ブラジルは天国よね」と話しは尽きません。
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