移民百年祭
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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2010年11月号
2010年11月号 (2010/11/12)
ヨーロッパの旅 リレーエッセー
寝耳に水のスイス旅行
サンパウロ鶴亀会 井出香哉
八月五日の夜、末`妹が「スイス行きにあなたの申し込みをしてお金も払ったからね」と電話をしてきた。
若い頃は外国にあこがれたが、今は言葉の違う他国に行きたいと思わないし、テレビで世界中が見られるので国内旅行しか考えていなかった。寝耳に水の話でピンとこないまま、てんやわんやが始まった。妹に連れられて旅券の申請に行き、旅行社で持っていく物や金額を聞いたりと忙しくなった。虎の子のポウパンサ預金を引き出しに行くと、長年放りっぱなしにしていたので、凍結されている。娘とどれくらい持っていくかで侃侃諤諤(かんかんがくがく)。やっと金額を決めて銀行に行き、凍結を解除してもらってお金が引き出せた。旅券もできたし旅の用意も整った。
こうして、のろまな鈍亀(どんがめ)の私の波乱(はらん)含みの旅が始まった。
まず、Tさんと私が飛行機の座席を自分たちのだと思って座っていたら男の人が来て何やら言うが分からないでいたら「いいよ」と後ろの席に座った。どうやら彼の席だったらしい。
パリは行も帰りも雨だった。パリから飛行機を乗り換えて待望のジュネーブに着いた。百四十メートルも水を噴き上げる噴水。満々と水をたたえたレマン湖を中心に国連等の官公庁や大会社の建物が威容を誇り十五、六世紀の建物が大事に残されていて、今も役所や音楽祭などに使われている。驚いたのはレマン湖にそそぐ河の表面は河だが、河口の地下には千五百台の車を収容する地下駐車場があるそうだ。
市内は落書きもゴミもなく水はアルプスの雪が地中を通って濾過されて出てくるので、水道水を飲んでも大丈夫なので、毎日水筒に入れて出かけた。着いて二日目と三日目にアルプスに登った、と言っても登山電車とケーブルカーとゴンドラだけど、これがすごい断崖絶壁をガタンゴトンと登って行く。ケーブルカーは垂直に近い崖を揺れながらギシギシと登る。途中から氷山が見え始める。初めて見る氷河の偉容(いよう)にワァッと言ったきり声も出ない。これを見ただけで、スイスに来た甲斐があったと胸が熱くなった。昨日はモンブランがきれいに見えたが今日のマッターホルンは雲で頂上が見えなかった。
山の上にも電車やバスの沿線にも黄色や白い小花や竜胆(りんどう)の花が咲いていたが国花であるエーデルワイスは時期が早かったのか、見つからなかった。トルメルパッチの滝は有名らしい。洞窟(どうくつ)の中を滝が流れ落ちていて、ところどころ岩の裂け目から盛り上がって落下する滝が見える。洞窟内の階段を前から引いて後ろから押してもらいながら必死で登ったので、滝を見るどころかゴウゴウという音を聞くだけだった。私は早速この滝にプレスタソン滝と命名をした。聖市で引いた風邪がぶり返したのと、軽い高山病と階段の難行苦行で、その夜はうなりながら大いびきで同室のTさんは眠れなかったらしい。
グルイエルは小さな町だけど有名なグルーイエルチーズはこの町で作られて、世界中に輸出されている。バスで走ると山の方は板家でハイジとお爺さんが住んでいるような家が見える。家の庭や街路樹にリンゴが植えてあり、赤い実がなっている。ブラジルなら青い小さなうちに盗られてしまうけれど…と思いながら眺め、スイスからオーストリアへと向かった。
ドイツ、リヒテンオーストリア、メルヘンの旅
サンパウロ中央老壮会 栗原章子
ドイツ、オーストリアはメルヘンの国。目が覚めるような鮮やかな緑に覆われた小高い丘に点在するとんがり屋根のかわいらしい家々はおとぎの国を髣髴させる。映画、『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台となった地。そして、ディズニーランドの『眠れる森の美女』のお城のモデルとなった白壁の美しいお城。このお城は、中世に憧れ、私財を投じていくつもの城を建て、最後は家臣によって、精神病という理由のもと幽閉され、謎の死を遂げた孤独な狂王ルードヴィヒⅡ世(一八四五年~一八八六年)によって建てられたという。
九月二十一日にバスでドイツ領の「黒い森」へ向かう途中、ティティゼー湖に寄る。快晴に恵まれ、湖の周りに咲いている色も鮮やかな花に見とれる。
美しいティティゼー湖の風景とは一変して、鬱蒼とした森に囲まれ、荒々しく水しぶきを上げるレノの滝も神秘に包まれてすばらしい景観だった。ここにも人魚姫の伝説があるという。
滝が流れ落ちるすぐ下までボートで行き、急な階段を登って展望台から見下ろす滝は目がくらみそうだったが、黄葉した木々から眺める滝には心が洗われる思いがした。
そこからまたバスに乗り、車窓から黒々と続くモミの木が密集した森を眺めながらカッコー時計がある広場に着き、そこの主人からカッコー時計の構造を説明された。
カッコー時計の家の周りもモミの木が密集していて、グリム童話のヘンゼルとグレーテル(ポルトガル語訳ではジョンとマリア)が今にも出てきそうな雰囲気。そこから少し離れた観光名所では、名物のケーキ(floresta negra)を食べた。ブラジルで食べるのとは違い、生クリームがいっぱいでほんのりとラム酒の味がし、とても美味しかった。
翌二十二日、リヒテンシュタイン公国へと向かう。城は期待に反して、もう少しお手入れが必要じゃないかしらと思わせる外観。そこから、オーストリアのチロル地方へと行き、スワロフスキーのクリスタルを見に行く。
夕方、ミラベル宮殿を見学。宮殿前の花が咲き誇っている庭園を通り、『サウンド・オブ・ミュージック』のシーンにもあった門をくぐり、古典音楽の巨匠、アマデウス・モーツアルトの生家や何年間か住んだとされる建物を見学した。ヨーロッパでよく見かける屋根だけが別になった一続きの五階建ての普通の建物だった。音楽家はどの時代も冷遇されたのであろう。例え、子供の頃から天才と持てはやされたモーツアルトでさえも金銭的には恵まれない生涯だったのであろう。
プラハの八月
名画友の会 田中保子
九月二十四日、旅行に出て十一日目。ホテルで朝食後、ザルヅブルグを後にする。今までのゴツゴツと聳(そび)え立つ山々と違い地平線に見える山々は丸みを帯び、沿道の耕地はなだらかな丘陵(きゅうりょう)となり、よく整地されている。玉蜀黍(とうもろこし)や粟様の作物が収穫を待つばかりの状態になっていた。小雨の中を国境に差し掛かる。
スイスで購入した免税品と両替えの注意を受け少々緊張する。何事もなく、チェコスロバキアに入国。スイスフランをコロンに替えた人、ドルをユーロに替えた人など様々。一〇〇ドルが一七三〇コロンになったが、高いのか安いのか、金銭感覚がマヒしている。
途中の小さな町で軽食。どこでもサンドイッチ、カフェが通じてすぐ提供される。夕方、早めにホテルに到着。おそろしく厳(いか)めしい国会議事堂みたいな建物に少々驚く。四つ星ホテルとの由。
翌二十五日。朝食の食堂は上下とあり、我々は下級食堂。いささかカツンとくるが止む無し。ポルトガル語の上手な現地ガイドに引率されてプラハ見物。ユダヤ人街、革命者ヤン・フスの広場、旧市庁舎、プラハ城、五百年もかけて建てられた大聖堂にはノッサ・セニョーラ・アパレシーダ像も祀られてあった。帝政時代の王宮を見物。エピソードを聞く。三十体の聖像のあるカルロス橋を渡る。車は通れない。大統領官邸の衛兵の交代を見る頃はくたびれ果てて小休止。ガイドのセニョーラは歩き慣れていると見え、達者なものだ。厳めしく聳え立つ城壁にうっすら半月が出る頃、ホテルに着く。今度は立派な食堂でディナー。
十三日目、プラハから約三時間ほど走った山間の温泉保養地に向かう。あいにくの雨ふりで興をそがれる。
総ガラス張りの建物の中央に七十二度の熱湯噴水があり、ちょっと変わった形のコップを買って、七十度から二十度まで四段階に分けた温度の温水を飲む仕組みになっていた。おっかなびっくり飲み比べする。このリゾートはヨーロッパ中の上流階級の人々や有名人が保養に来る由。温泉は必ずホテル内にあり、一般大衆用プールなぞは無し。金がモノを言う場所。夕食は民族舞踊ショーで、地元の食事を味わう。ビール、ワインなどは飲み放題。珍しい楽器とボリュームいっぱいの女(じょ)の司会でカナダ、米国、ロシア、ポルトガル、ニュージーランドなどの人々が一堂に集まり楽しい二時間を過ごした。
最終日、朝食後に荷造り。プラハ空港にて乗り換えてパリ着。イタリア行の一行と別れ一路サンパウロへ。イギリス生まれとかの大男の雷のようないびきを子守唄にぐっすり眠っているうちにサンパウロ着。外国人パスポートの列が長くて大分手間取り、荷物はもう出て、ガイドがまとめていた。ヨーロッパのごく一部ではあるが、整然とした古い町をたっぷり見てきたのに、落書きだらけのごちゃごちゃしたサンパウロが何故か懐かしく、自分でも可笑しかった。
悪夢を見たローマ
サンパウロ中央老壮会 上原玲子
かねてから見たいと思っていた、スイスの山々の旅行が発表された。ポ語の不自由な私は、付いて行く日本語のガイドが、人柄も言葉も特別に優れている知人だと聞き、考える余地もなく参加することにした。
出発前、折角パリまで行くのだからバチカンも見ましょうという誘いに乗って、ヨーローパは初めてというの希望者五名は、パリで皆に別れイタリアに向かった。今までお世話頂いたガイドとも離れ不安はあったが、私以外は皆ポ語も出来るので安心と言われ、皆について帰りたい心を抑えて二度目の出発となった。
然し不安は早くも的中して、ローマに着いても約束の迎えがなく、電話をしても通じない。人の少ない夜遅い空港で途方に暮れていたら、漸く好人物そうな運転手が現れほっとしたが、ホテルまでは遠く、ローマの中心部でも今までとは段違いに劣るホテルで、三人部屋で寝に着いたのは既に午前一時を過ぎていた。
次の日から一日半、多人種・多国籍の人達と大型バスに乗り合わせ、観光名所を回る。首に通信機、耳にスペイン語のイヤホーンを付け、目立たない色の閉じた傘を目印に掲げる現地ガイドを見失わないよう、必死になってついて歩く。その度に仲間もガイドもバスも変わるし、すごい人混みの中をどんどん歩いて行ってしまうので、感動している暇もない。昼食後の集合も直ぐ近くの筈が中々行きつかず、結局名刺にある事務所が移って、住所も電話も変わっていたことが分かり、余りの不親切、外国での怖さが身に沁みた。バチカン美術館などは、はるか昔教科書で見た数々の彫刻や絵画が、壁・床・天井・建物の外など至る所に施されていて、大きく色鮮やかで素晴らしいの一言に尽きる。特にコロシアムは歩いても歩いても掘りかけの柱や壁が延々と続き、余りのすごさに呆然となる。
団体観光の後は、バスで行かなかった馴染みの映画「ローマの休日」の名所、トレビの泉・スペイン広場・真実の口等を市内バスに乗って回ったり、買い物をする。どこも平日なのに、多くの人が石段に座ってなごんでいる。私達も本場のスパゲテイーやピッツァ、カフェーのソルベッテ等を味わってローマの旅を楽しんだ。
そして三泊した古いが由緒あるホテルに別れて空港へ。早くから入場券に指定された場所で待つが、係もいなければ掲示板にも何も書いてない。変だと思ったが他に大勢の人も待っているので、飛行機の整備でも遅れているのかと思ってひたすら待った。そして余りにも遅いと思って聞いた時には、もう既にゲートは閉め切られていて、要するに私達は乗り遅れたのだ。放送はしたと言うが、余りの騒音に言葉は聞き取れないし、まさかゲートが替わるとは夢にも思っていなかったので、実にショックだった。そして乗り継ぎのパリで四時間半くらい待つので、予定通り帰れるだろうと期待を持ったが、そんな生易しいものではなかった。
そして一番言葉が出来てガイドの経験豊富な彼女の大奮闘で、四時間後のローマからパリへの切符は買えた。しかしパリに着いた時は既に夜中の一時過ぎ、外にも出られず止むなく空港のベンチで夜明かしとなった。見るとそこかしこに多くのこじきらしい人物が椅子の上や陰で今夜の宿の用意をしている。恐ろしくて寝ることも出来ず、トランクを抱えて、寒いので色々の物を巻き付けて、見られもしない格好で一夜を送る。
朝五時から切符やブラジルへの連絡に奔走するが、ブラジルは夜中なので電話が繋がらず、四日後にしか切符は手に入らないと言われ、絶望感で一杯になる。既に血圧の上がりそうな人、疲労で倒れそうな人、頭のおかしくなりそうな人等切迫した状態になりかかっていたので、私達は荷物と切符にだけ気を集中させ、他のことは後で考えようと申し合わせた。旅行保険も今日で切れるし、第一言葉が分からないし、どうにもならないのだ。
結局はブラジルの各々の留守宅で切符を買って貰い、明日午前中のが予約出来そうだとなったので、夜になって近くのホテルを探し、少しの睡眠で翌朝早く又空港に引き返し、漸く本物の切符が手に入って、生きた心地がした。こうして漸く私達五名は帰ってきた。ローマなど行かなければ、余計なお金も使わず皆と一緒に何の心配もなく帰れたのに、とつくづく思ったが、私には今後のヨーロッパ旅行など考えられないので、素晴らしいローマが見られたのだからと、良い方向に思う事にした。しかしローマもパリも実に不親切だ。
言葉の分からないおばさん五人が困っているというのに、皆でアッチに行けコッチに行けと言うばかりで、案内一つしてくれない。日本とは段違いだと益々JALが恋しくなった。
我が家に着くと、出るときにはなかった紫の桔梗が五つも咲いていて、やはり自分の家に勝るものはないと涙が出た。残念ながら花のパリに二日も居たのに、こじきを見ただけで、エッフェル塔や凱旋門は飛行機の上から眺めだけの笑い話となった。
一期一会 「お供え物はホットケーキ?」 老ク連在住 浅井幸美さん
「先生、違います。それは仏壇に供える食べものです。」
ある日の日本語教室にて。
日系三世の女の子がこう言ってどうにも納得しません。それは『ホットケーキ』という言葉を教えたときのことです。「これはパンケーキのようなもので、日本本来の食べものではない」と説明するのですが、
「いいえ、私のバッチャンはいつも『ホットケーキ』と言っていました。それは、日本の食べものです。」
と頑として譲りません。
よくよく聞いてみると、彼女は『ホットケーキ』という言葉から、自分のおばあさんが『仏様』と言いながら仏壇にお供え物をしていた光景を思い出し、勘違いしていたということが分かりました。
現在、私は日本から渡伯し、日本語教師をしています。授業の折々、たったひとつの言葉を教える中でも、日系人の方々の日本への郷愁、愛情をひしひしと感じる場面があります。
冒頭の『ホットケーキ』ひとつからも、毎日毎日仏壇に向かっては、故人のこと、日本に残した親類知人のことを思い描くおばあさんの姿、そしてその後ろ姿から『日本の何か』をおぼろげながらも感じ取る孫の姿が目に浮かびます。
そして、そんな光景を想像するたびに、私は胸がいっぱいになるのです。
このように、日系ブラジル人に日本語を教えることを通じて、彼らが保持する日本の片鱗(へんりん)を感じる一方、これはブラジルならではと思わされることもしばしばです。
ある別の日系三世の姉妹に日本語を教えていたときのこと。
その日の課題は『~てしまいました』という用法を習得することでした。「車を買ったのに、盗まれてしまいました。」「花を植えたのにすぐ枯れてしまいました。」といった、いわゆる『被害や迷惑、残念な気持ち』を表す言い方です。
まずは私が例を挙げ、『~てしまいました』を使った文にするよう導きます。
「車を買いました。盗まれました。」
すると姉妹二人。
「車を買ったのに、盗まれてしまいました。」
おお、これはよく理解しているなと、続けて私からもう一題。
「花を植えました。すぐ枯れました。」
そして姉妹二人。自信たっぷり、私たちちゃんと分かっているわよ、とでも言いたげな表情で答えます。
「花を植えたのに、すぐ枯れてしまいました。」
授業が順調に進んでいるかどうかはお互いの雰囲気でよく分かります。どうやら今日の授業はうまくいきそうです。それじゃあ、こちらも負けじともう一題。
「掃除を始めました。友達が来ました。」
「……。」
おや? 二人から答えが返ってきません。これはどうも怪しい雲行きになってきました。二人はしばらく考えてから
「できません。」
とつれない答え。その文章は作れないと言うのです。
どこが分からないのか尋ねると、いや分かっているがつくれないのだと断固拒否。なぜなら友達が家を訪ねてきてくれることはとても嬉しいことだ、掃除も洗濯もどうでもいい、そんなのはせっかく友達が来たなら明日にすればいいじゃないか、だから『被害や迷惑、残念な気持ち』を表す文章にはできないのだ、というのが彼女たちの言い分でした。
『アミーゴ』を大切にする文化。家に人を招き、もてなす習慣。家族や友人、知人と過ごす時間が大好きな国民性。今日は今日、明日は明日という潔さ。日系人とはいえ彼女たちにはしっかりブラジルが染み付いていました。
日本語教師は言葉を教えます。その度に、生徒は教わった言葉を通じて、自分たちの国がもつ文化、家族の習慣、自分の考え・意見などを教師に教えてくれます。このやりとりが楽しみで、今日も私は教室へ向かっています。
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