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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2010年12月号

2010年12月号 (2010/12/09) 亡き夫の指示

レジストロ春秋会 宮本美都子(九五歳)
 主人があの世に旅立ってから二年目にそれまでやっていた店も閉めました。その時、私の母も同居しておりました。子供たちが「こんな広い二階建ての大きな家に年寄り二人だけで住むのは危険だから、どこか子供たちの近くにこじんまりした平屋の家は無いものかと探していましたが、思うような適当な住処(すみか)もなく困り果てておりました。
 その時、息子が「僕の所の物置を整理して、新しく立てたらどうか」と言ってくれました。良い事に気が付いたと、私は大賛成でしたが、娘たちが「あんな場所は狭くて住めるものではない」と反対したので、その話は中止となり、私は諦め切れずに日夜一人で悩んでおりました。
 そうしたある夜の明け方、私の寝ている部屋に突然サッーと涼しい風が吹き込んで来て、私の髪を左右に静かに撫で回すのです。「まあ!」何と気持ちの良い事。ふと気が付くとそこには今は亡き夫の顔が覗いていて、「静かに、しずかに」と呟きながら、ジッーと私の顔を見つめて「お前は今、自分の住屋の事で悩んでいるようだが、それは心配ない。長男パウロの物置を整理して新しく建て替えたら母と二人でのんきに住めるし、運動のため、掃除婦や炊事人の手を借りず、誰に遠慮もなく自分の思う通りに仕事ができる。こんな幸せなことはない。『老いては子に従え』という諺(ことわざ)もある通り、子に従って、一日でも長生きする事だ。」と、言ったかと思うと、煙のようにスーッとたちまち消えてしまいました。私は大声で「待って、待って!」と叫びながら足をバタバタさせて後を追いました。その目の前には広々とした花畑があり、美しい色々な花が咲き乱れていました。小さい寺院があり、亡き夫はその中にスーッと姿を消してしまいました。私は「一緒に行きたい」と大声を出したので、そばに寝ていた母が目を覚まして「何を待って待ってと足をばたつかせているの」と起こされ、「あっ、夢だったのか」と目が覚めました。
 「亡き夫が夢の中に現れて素晴らしい指示をして下さったのよ」と母に一部始終を話しました。時計を見ると午前三時三十分でした。
 翌日、そのままを書き記して、早速娘たちに話しますと、互いに顔を見合わせ信じられないような面持ちでしたが、亡きパパイが心配のあまりママイの夢に現れて指示して下さったのだから、間違いなしと、みんなが快く賛成してくれ、早速、建築技師に場所を見て頂きましたら、「あぁ、大丈夫。長屋式に作れば二、三人はゆっくり住めるし、二階建てにすれば、一家族も十分住めると言われ、「善は急げ」とただちに建築に着手しました。
 幸い天気にも恵まれ仕事も順調に進み、二か月後には完成。さっそく母と二人で新居に移りました。息子の家とは二メートルも離れておりませんから何かと好都合です。年寄りの二人暮らしですから、毎日菜食でした。母とカーマ(ベッド)を並べて手を握り合って、母の若い頃の昔話を聞きながら自然と眠りにつく楽しい毎夜でした。
 母が亡くなった日は日曜日で、朝から素晴らしい天気で澄み切った青空の日でした。娘がサンパウロから来ていて、孫が「今日はサンパウロへ戻らなければならない。今日は暖かいからお風呂に入れてさっぱりしよう」と、孫と談笑しながら風呂に入り、着替えをした途端孫に抱かれたまま何の苦しみもなく、眠るように神に召されて極楽往生でした。
 亡き夫が他界して二十七年。今も昨日のような気がして、霊界に旅立ってからも未だにこの世に生きている愛する者たちを思うあまり時折、霊となって現れて来ているのかと思う時、亡夫が指示して下さった言葉が生々しく耳に残り日々思い出しては懐かしく、永遠に忘れることはできません。
 最後に天国に召された多くのご先祖の方々のご冥福を心からお祈り致し、終わらせて頂きます。


アー、アリがたや

レプレーザ高砂会 原克之
 去る七月、私たち高砂会はサンロッケのセリンニャ、モンタニア、パルケ・スキーという遊園地へ旅行をし、楽しい一日を過ごした。
 途中、モア・インテルナショナル・ド・ブラジルの農場に寄り、見学させて貰った。そこの農場では化学肥料および農薬一切を使用せず果物野菜はすべて堆肥で育てたものであると言う。その堆肥は枯草、枯葉で作り、健康のために行っていると説明して下さった。
 そこで「私も昔百姓をしていたのですが、作物に農薬散布しなかったら害虫に葉を食われてダメだったが、ここではそんな事はないのですか?」と聞いてみた。すると「えぇ、それはありますが、害虫を食べる虫がいますのでその辺も研究しています」という答えでした。
 それはさておき、私が思い起こしたのは、虫が虫を滅ぼした話である。今から八十年前、私たち一家が日本からブラジルに移り来た昭和五年のことである。配耕されたのがモジアナのサンタ・ルシアというファゼンダ(農場)だった。そして私たちに与えられた家たるや煤(すす)けて天井まで黒光りのする古い家であって、おまけに南京虫の巣窟(そうくつ)であった。入居したその夜から南京虫の夜襲に遭い、長年、悩み続けることになった。
 私たちが契約期限が終わり、そこを引っ越して出てからも荷物の中に付着して共に引っ越して来て、行く先々でまた繁殖(はんしょく)するのだった。私たちはノロエステのカフェランジャ(コーヒー園)、サンタ・カロッタという所まで南京虫と一緒に引っ越した。ところが、ここでは小型の白いアブラ虫が増殖し始めた。するとその白いアブラ虫が私たちと長年連れ添ってきた南京虫を食い滅ぼしてくれたのだ。だが、第二の悩みの種となったのがその白アブラ虫。
 それがある日の事、家の裏山からザワザワと音を立てながらコオロギやバッタが転がるように逃げてくるのだった。どうしたのか? と見ていると、何と、何万匹という虫食い蟻(あり)の大群が押し寄せて来て、私たちの家をたちまち包囲して家の屋根にまで登って行き、そのアブラ虫の卵もひとつ残らず食い去ってくれたのだ。
 ようやくこれで長年にわたる虫の悩みは解決され、一件落着(いっけんらくちゃく)。蟻様のお蔭だった。アリがたや、アリがたや。これで虫が虫を退治した物語は終わりである。


いちごと花でお祭り

ナザレー老壮会 波多野敬子
 九月のことだが、第三十回アチバイアいちごと花のお祭りに土曜日の午後、息子に連れられて行ってきた。かなりの人で賑わっていた以前と違って、規模も大きくなって買い物客も多く、これを取り仕切った世話人は大変だったろうと思う。ご苦労様でしたと言いたい。
 広い会場を一回りして「あぁ、疲れた」と休んでいると、突然大きな太鼓の音が聞こえてきた。これから盆踊りが始まるとの事。櫓(やぐら)を見上げて驚いた。太鼓をたたいているのも笛を吹いているのもブラジル人。そして、唄う人は三人で一人は日系人、もう一人は老人で、最後の一人は老人の孫とも言えそうな少女のブラジル人。踊る人たちも半分以上がブラジル人。それに若い人が多く、楽しそうに踊っている。
 それと各国の民族舞踊なども結構、楽しませてくれる。この催しはブラジル人の間にちゃんと根付いているようだ。会場には博物館もあり、一見の価値がある。
 来年も九月にはまた参ります。どうぞ、老壮会員の皆さまも気晴らしにお出かけ下さい。また関係者の皆様、本当にお疲れ様でした。


老ク連バンザイ!

サンパウロ中央老壮会 新井知里
 自分が老人クラブの会員になるなんて、思ってもみなかったことである。それが歳月は容赦(ようしゃ)なく進み、五年ほど前に習字を習いたく訪れたのをきっかけに会員になった。
 思えば「老人」という言葉にひっかかりがあった。せめてカタカナで「シニアクラブ」としてくれたらと思ったが、ちょうど居合わせた会員の人にそのことを話すと「老人なんだから、何が悪いの」といとも簡単にはねのけられてしまった。だが、なかなか納得できない。友人たちに入会したことを大きな声では言えそうにもない。
 そう思いつつも習いたかった習字に夢中になっていった。若松先生も助手の纐纈先生も一度に四十人ほどの生徒に一生懸命教えて下さる。仲間たちはみんなこの時間を楽しんでいるようだ。
 昔、少女の頃、習字を習いたくても「ソロバンと二つはダメだ」と行かせてもらえなかった習い事にこうしてゆったり、のんびりした気分で行けるのだ。そう思っていると、だんだんとクラブの名前など気にならなくなった。
 これから向かう人生は大切な老年期なんだと開き直ると、このクラブに通う人たちが人生の達人に見え始めた。そうこうして通っている間に二年半前から同じ金曜日の午前中に同じ先生の百人一首の書道教室が始まった。これは一回に一首解説して、変体仮名で習い筆で清書する教室である。毎回一首ずつ習い七四番まで進んだ。百首まで先生も自分たち仲間も元気でありたい。
 朝八時半には家を出て、バスとメトロで行くから大変だが、若者たちで満員の通勤車に一人重い習字道具を下げて、優雅な世界に行くのもなかなか乙なものである。八十七歳の友も満員のメトロに乗って来られる。
 息つめて百人一首筆で書く
 変体がなの雅な世界
 この教室は十二、三名の集まりだが、何となく自分が知的人間になったような気がするから不思議である。
 そうこうしている間に私はどうしてもこのクラブにポルトガル語教室を作ってほしいと思った。三十年も日本語を教えていた身は、ブラジルに暮らしていても日本村に身を置いて生きてきた感じである。長男の嫁も日系ではない。次男の所も三世だ。これではいけない。元事務局長の上原さんに相談して、良い先生が見つかり、教科書も探した。理事会でお願いして承諾も得た。あとは電話で生徒を集めることだ。十人ほど集まって教室を開けた時の感激は忘れることができない。
 今年こそポ語習得とノート買う
 古希を過ぎても胸踊りたり
 本当に今度こそ習う時だと、習っては習っては身に付かなかった会話としてのポ語に向かうこと一年半。岩崎ルリカ先生のエネルギーと生徒の幾つになっても学ぼうとする熱気に今はクラスが3つにも増えた。バンザイである。先日、習っていると少し自信ができるのか、遠くに住む長男の嫁とおぼつかなくても電話で話が通じた。
 人には学びたいとき学べなかったことがいくつかある。このクラブに入会したことでどれだけの人が喜んで生活しているか考えてしまう。会費も授業料もどこよりも安いと思う。とにかく、このクラブは私にとって気取りのいらない大好きな場所である。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(36) 大阪弁の魅力 田辺聖子
 当代きっての売れっ子作家の一人だと言っても過言ではあるまい。とにかく、読んでいて面白い。大阪弁を主体とした文章がよくマッチしているし、畳み込んでいくように軽快な物語の筋が運ばれ、会話のやり取りがまた調子が良くて心地よい文章の流れが、読者を飽かせないのである。ちなみに「大阪弁ちゃらんぽらん」では〝ああしんど〟〝「あかん」と「わや」〟〝「あほ」と「すかたん〟〝えげつない〟〝チョネチョネ〟〝けったいな〟〝こまんじゃこ〟〝しんきくさい〟〝ねちこい〟等々の言葉の使い方を細かく事例を挙げて解説、大阪人の生活臭が感じ取られる一篇となっている。
 何しろ二五〇冊もの著作があるというのだから驚かされるが、中年女性やオフィス・レディをテーマにしたものが多く、ヒロインはなべて自己を分析して賢く、職場や恋愛、家族というシビアな人間関係の中で前向きに生きている。深刻なテーマでもどこかに笑いがあるのが田辺作品だ。「言い寄る」「ダンスと空想」「猫も杓子も」「朝ごはん抜き?」「風をください」「窓を開けますか?」「夜明けのさよなら」「女の日時計」「甘い関係」「貞女の日記」「私的生活」等々。私には「夕ごはんたべた?」という辛口のホームドラマがことのほか面白かった。下町の開業医・吉永三太郎氏の家庭は内ゲバの危険にさらされている長男、高校を中退した次男が相次いで起こす不詳事件の数々、深刻に書こうとすればそれなりの作品にもなろうか思えるテーマを、ここでは淡々と記し、ある意味では子供を突きはなしているところが新鮮である。「欲しがりません勝つまでは」は、作者の十三才から十七才までの青春を回顧したものだが、彼女の文学少女ぶりがありありと浮かんでいて興味深かった。
 このほかに、女流作家の伝記風な俳人・杉田久女の生涯を描いた「花衣ぬぐやまつわる・・・」(昭和六一年、女流文学賞)、歌人・与謝野晶子をテーマにした「千すじの黒髪」、また古典にも造詣が深いようである。ほか。近作ではマンションで悠々と自由気ままな生活をエンジョイする七六才の歌子さんの、わび、さび、枯淡の境地などどこ吹く風と好き勝手に生き抜く「姥ざかり」「姥ときめき」「姥うかれ」の連作シリーズも、読んでいて彼女の思いきりのいい言動にすっかり共感し、魅了させられてしまった。
 大阪市出身。写真館を営む家に育ち、昭和二二年に樟蔭女子専門学校を卒業。三八年には「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)」で芥川賞を受賞して作家としての地位を確立。一大転機となったのが、三八才の時妻を死別し四人の子供を抱える開業医の川野純夫と結婚したこと。即ち、週刊文春に十五年間連載された好エッセイ「カモカのおっちゃん」シリーズ誕生のきっかけでもある。
 半世紀にわたる作家生活を支えてきたのは、読者の「面白い」というほめ言葉である由。やっとサガンを抜く女流作家が日本にも現われた、と評されているが、これは
少し褒め過ぎ、というより作家としての持味が異なるような気がする。ともあれ、今後も末永く面白い小説を書き続けて、読者の期待に応えてほしいものである。


チリの旅

サンパウロ鳥取熟年会 遠藤タケシ
 この九月に二回目のチリ旅行へ行ってきた。南米はABCだと言うが、私はCABだと思う。
今までアルゼンチンには三回ほど行ってきたので、なお、そう思う。
 チリ  日本と同じように人間性がきちんとしており、地理的条件、治安、気候、町の美しさが素晴らしい。特にメトロや銀行、焦点の中などは清潔だ。これはやはり政治、行政の違いだと思う。
 首都サンチアゴは人口約二千九百万人。標高は四百メートル、地中海性気候で凌(しの)ぎやすい。一日で夏春冬が巡ってくるように感じる。その上、アンデス山脈の足下にありとっても美しい町である。果物、ブドウ酒、美人の多さに感嘆。海岸のヴィア・デ・マール・バールパライゾで泳ぎ、太平洋と花を見て美味しい食事をして…。その後、すぐにアンデス山脈(三千三百m)に登れば、雪の上を歩いたり、スキーもできる。男性的な山々の自然美の中、百五十㎞の行程だ。
 食事では米はほとんど食べず、エンパーダー(肉とマッサーの焼いたもの)、パステイロン(肉とトウモロコシの焼いたもの)、パン(イースト菌なし)、バタタフリッタ(フライドポテト)とお茶が中心である。そのせいか、特に太った人は見かけず、健康的な人ばかり。
 チリ人の豊かな生活は銅の御蔭のように思う。外国を見ると、自分自身も見えてくるように思う。皆さんもぜひ、旅をしよう!


「びっくり!」ブラジル(続)

JICAシニアボランティア 与古田徳造
☆左右上下
 老ク連への通勤路では道路を横断する時、左見て、右見て、さらに上を見て渡るようにしている。
 というのは、ピイラピチィンギ通りの交差点に高い大きな大王椰子が三本等間隔で植えられていて、どれも天を突きぬくかと思うほどの高さである。
 ある朝、出勤時にその椰子の葉(枝?)が歩道に落ちてきたのである。幸いにもそこを歩いている人がなく、ケガ人も出ずにホッとしたのだが、私はたまたま天を仰いでいたので難を逃れたという次第である。
 その大きな椰子の葉(枝)は五キロぐらいはあろうかと思われる大きさで、もしも人間の頭上に落ちたら、それこそ命取りに十分である。
 それ以来、そこを通る時は、左見て、右見て、さらに上を見て歩くようにしている。
(注! 先生、下を見るのもお忘れなく。穴あり、犬の糞あり、ガラクタまでありますよ!)


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