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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2011年1月号

2011年1月号 (2011/01/19) 新年の御挨拶

老ク連会長 五十嵐司
 新年、明けましておめでとうございます。
 会員の皆様、ご家族お揃いでよい年をお迎えのこととお喜び申し上げます。
 新世紀を迎えてから早くも十一年、そして在伯コロニア暦でも百三年目となり、月日の経過の速さを感じます。この数年はアメリカの金融危機に端を発する世界的な財政混乱と消費の縮小の余波を受け、日本の産業界そして当ブラジルにもしばらく不況の影響がありましたが、ようやく立ち直りつつあり、当国ではかえってその政治・経済の上で安定性と将来性が他国から認められて企業進出の増加など、前途に明るさを感じる昨今です。
 母国日本ではここのところ尖閣(せんかく)諸島、北方四島、そして拉致問題等、周囲の国々との難問題を抱え、ブラジルでは考えられないような深刻な悩みに苦しんでいます。
 今日までの百年間、私たちコロニアの発展にいつも温かい気持ちで援助して下さいました日本の同胞にこれからは励ましの声援を送りたい気持ちで一杯です。
 昨年は老ク連クラブ員の事故や不幸などもありましたが、諸先輩方のご配慮、関係諸団体のご援助、そして会員の皆様のご協力のおかげで平穏無事に運営することできました。創立三十五周年などの行事も滞りなく行うことができ、有難いことと感謝しております。
 私事で恐縮ですが、昨年は五月に北端のカナダそして九月には反対の南端アルゼンチンを訪問し、いずれの地でも日本から移住され、現地で生活している方たちのお話をゆっくりと聞く機会がありました。
 こちらの生活と比較しながら聞いていて、あの第一回移民船笠戸丸が出発した一九〇八年に作られた青い鳥の童話を思い出しました。
 それは青い鳥を探すことにたとえて、理想の地を夢見るお話です。色々と比べてみると気候も人の心も暖かいブラジルが矢張り一番良い所のようで、私たちの青い鳥はブラジルにこそいるということでしょう。そしてその中でも同じ思いを持つ仲間のいる老人クラブに集い、喜びも悲しみも共にして生きていくのが最高の幸せではないか、としみじみと感じた次第です。
 全国各地のクラブ員の皆様の益々のご多幸を祈念して、年頭のご挨拶と致します。


年頭所感

(在日本)全国老人クラブ連合会会長 斎藤十朗
 新年あけましておめでとうございます。
 ブラジル日系老人クラブ連合会の会員の皆さまには、健やかに新年を迎えられたこととお慶び申し上げます。
 日本では縁起の良い初夢として、「一、富士 二、鷹 三、なすび」と言われますが、皆様はどのような初夢を見られたでしょうか。
 二〇一四年のワールドカップ記念大会に続き、二〇一六年にはオリンピックの開催が決定して、国民の皆様は夢を膨らませて、その日を待ち望んでおられることでしょう。世界から注目され、それに応える努力によって、さらに貴国が発展されますことを期待しております。
 さて、日本社会は昨年所在不明の高齢者が各地で見つかるなど、無縁社会が大きな問題となりました。老人クラブが創設された歴史を振り返ると、戦後の復興の中で、高齢者の存在感が薄く、社会から孤立する状況がありました。身近な人たちが声を掛け合い、ともに楽しみ、学び、生きがいを持った生活の実現が老人クラブ創設の原点でありました。
 皆様がご存じのかつての日本は、決して豊かとは言えない暮らしの中で、人々が肩を寄せ合い、励まし、助け合う社会が日本の誇るべき姿でありました。しかしいまや日本社会は大きく変容しています。
 わたしたち高齢者が住み慣れた地域のなかで安心して暮らすためには、年金・医療・介護の公的な制度のみならず、地域の人々の絆を深め、一人の不幸も見逃さないといった住民同士の助け合いの仕組みを再構築する必要があると考えています。
 幸い日本は元気な高齢者がさらに増加することが予想されています。人は最大の資源です。この豊富な人的資源が活かされたときに、私たちの求める幸せな社会を手に入れることができると信じています。今後ともブラジルの仲間とともに、高齢者パワーに自信と誇りをもって老人クラブ活動に邁進して参りたいと存じます。
 年頭にあたり、貴会の一層の発展と会員皆様のご健康とご活躍を祈念いたしまして新年のご挨拶といたします。


新年のご挨拶

在サンパウロ日本国総領事 大部一秋
 二〇一一年の年頭に当たりまして皆様に謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
 「ブラジル日系老人クラブ連合会」は、創立以来会員相互の親睦を図るのみならず会員の皆様の生きがいにつながるような活動の推進に積極的に努めてこられました。また老人週間、芸能祭、スポーツ活動など恒例となりました数多くの事業に取り組まれ、今やブラジル日系社会の大事な団体のひとつに発展されました。これまでのご尽力、ご貢献に対し、心から敬意を表する次第です。
 今日、多くの日系二世、三世、そして四世の方々がブラジルの様々な分野で目覚しい活躍をされており、ブラジルの発展に大きく貢献されておられることを心よりうれしく思っております。
 これはひとえに一世の皆様方がブラジルに移住されて以来、異なる文化、風土、習慣の中で日々忍耐強く努力され創意工夫をされながら、生活の安定、社会的地位の向上、そして子弟の教育に長年にわたり力を注いでこられた結果であると思います。
 私は、二〇〇九年一月当地に着任して以来、この二年間、約六十に及ぶ市、四十以上の日系移住地等を訪問し、多くの日系人の皆様とお会いし、お話をさせていただく機会に恵まれました。どの地においても皆様方が日本人としてあらゆる困難と闘いながら負けじ魂を発揮し、道なき道を開いてきたという誇りを持ち、常に後に続く若い人の育成に心を砕いておられることに深い感銘を受けました。
 本年、日本人のブラジル移住の歴史は百三年目を迎えますが、日系社会においては世代交替が確実に進んできております。そのような状況の中で日系社会の将来を考えますと、日本文化の継承が重要な役割を果たしていくものと考えており、そのためには皆様方の豊かな経験や知識、また知恵に裏打ちされた助言が益々必要となってくるものと確信しております。
 近年、ブラジルは中国、インド、ロシアと並ぶ新興国として国際社会の中で急速に存在感を増し、大きな注目を浴びてきています。二〇一四年のワールドカップ、二〇一六年のリオ・オリンピックといった国際的行事を控え、二〇二二年の独立二〇〇周年へ向けて、ブラジルは今大きく飛躍しようとしています。
 日本とブラジルの関係についても、特に経済を中心としてここ最近大きく盛り上がってきています。六〇年代、七〇年代に次いで、第二の黄金時代の様相を呈し始めています。今後日伯間では、経済、政治、文化、社会などあらゆる面で重層的な交流が拡大していくものと思います。そうした状況の中で、日本とブラジルの架け橋である日系人の皆様の存在は益々重要なものとなってくると考えます。先人の開拓者たちや皆様が築かれた土台の上に皆様の若い後継の子弟たちが大きく羽ばたいてブラジルの国造りのため、また日伯友好関係の前進のために貢献していかれますことを心より願います。
 最後に、ブラジル日系老人クラブ連合会の皆様におかれましては、どうか今後ともご健康に留意され、楽しく明るい満足の日々を本年も悠悠とお過ごしになられますよう心からお祈り申し上げ、私の年頭の挨拶とさせていただきます。


新年のご挨拶

国際協力機構(JICA)ブラジル事務所所長 芳賀克彦
 新年明けましておめでとうございます。ブラジル日系老人クラブの皆様方におかれましては、すがすがしい新年を迎えられ、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。旧年中は、当国際協力機構(JICA)の事業に対し、ご協力を賜り、心より感謝申し上げます。
 近年は天候異変や災害などが続き明るいニュースばかりではございませんが、日系老人クラブの皆様方の活動方針は、元気で楽しみながら長生きすることと伺っております。世界情勢が不透明な昨今ではございますが、どのような状況であっても元気で楽しく生きることを心に留めて実践していくことは、大変すばらしい考えであると思います。ブラジルへ移住され、異文化の中で長く生活していくことは、大変なご苦労であったと感じ入るところですが、それら多難を乗り越え、社会的生活基盤を築き、かつ人生を楽しむということを実践されておられる皆様方に習って、今後も楽しく力強く事業に取り組んでいくつもりでおります。
 JICAとしましては、移住者の方々への支援として日系社会シニアボランティアを派遣する等今後も日系団体への貢献を目指しております。今後ともJICA事業に対するご理解とご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。最後になりましたが、ブラジル日本人移住一〇三年目を迎えるにあたり、貴団体及び会員の皆様、そしてブラジル日系社会のますますのご発展をお祈りし、ご挨拶とさせていただきます。


年頭に際して

ブラジル日本文化福祉協会会長 木多喜八郎
 「老壮の友」をご愛読の皆様そしてブラジル日系老人クラブ連合会会員の皆様、新年あけましておめでとうございます。
二〇一一年の新しい年を新たな気持ちでお迎えの事と存じます。二〇一一年が人類の限りなき繁栄と、世界が平和であることを期待したいものでございます。
平素よりブラジル日本文化福祉協会に対しまして暖かいご支援を頂きまして誠にありがとうございます。本年もよろしくご指導ご鞭撻を頂きたくお願い申し上げます。
さてブラジル日系老人クラブ連合会と聞きますと、まず思い浮かびますのが、老人とお呼びするには誠に失礼な、元気溢れる精神的には若者と呼ぶに相応しい集団としての存在感でございます。事実日々の活動を拝見しておりますと一層その感が強く、年を重ねた暁に誰しもが、かくありたいと願う理想の姿を見る想いが致します。
このブラジル日系老人クラブ連合会の中核をなす機関紙が「老壮の友」であることは言うまでもないことです。一九七四年の創刊以来一回の欠号もなく発刊され、現在では毎月千八百部の多くがブラジル全土はもとより、日本、中南米の読者に読み継がれていることは誠に輝かしき歴史の積み重ねと言うべき慶事であると思っております。
「老壮の友」誌を通じて日本語による会員間の相互啓発を行なうことは、日本語離れが何かと話題になる昨今においては貴重なことであり、常に研鑽を続け向上してゆきたいとの各自の思いが一つとなり継続との快挙に結びついているものと思います。
日本語は日本の文化、伝統芸術を学び理解する手段としてだけの存在ではなく、日本人の精神構造を理解するにも不可欠の語学であると思います。
この貴重な日本語で書き、読み、話す会員の皆様の更なる精進と、ブラジル日系老人クラブ連合会の一層の活動を期待しております。
年頭にあたりブラジル日系老人クラブ連合会、会長五十嵐司様はじめ会員の皆様の今年のご多幸、機関紙「老壮の友」のご発展を祈念しまして新年の挨拶と致します。


新年のご挨拶

サンパウロ日伯援護協会会長 森口忠義イナシオ
 新年あけましておめでとうございます
 ブラジル日系老人クラブ連合会の会員の皆様にはご健勝にて新しい年を迎えられたこととお慶び申し上げます。
 昨年は老人クラブ連合会は三十五周年を迎えましたが、記念式典や第一回地蔵祭りの開催、会員増加活動等、節目の年にふさわしい充実した年であり、会員の皆様のバイタリティ、熟意にあらためて敬意を表します。
 さて、日系社会も移住一〇三年目を迎え、日本同様高齢化が進んでいるのはご周知の通りです。ブラジルの各国社会の中でも日系社会は一番の高齢化率ではないかと考えられます。
 高齢化の進む社会において、私共サンパウロ日伯援護協会は社会福祉と医療事業を行う福祉団体として高齢者問題は他人事ではなく、大きな課題として真剣に取り組んでおります。その点で、老人クラブ連合会は私共援協にとって心強い存在であり、大きな期待を寄せております。
 日本では、老人クラブの加入者の減少、或いは老人クラブの解散など活動の弱体化も聞いています。ブラジルでもその様な現象があるとも言われていますが、前年度はその問題に取り組み、積極的にPR活動を展開されたことは時宜を得た活動といえましょう。
 現代社会では娯楽が溢れ、知人、友人と集うことがなくても一人でも退屈せず、苦もなく過ごす機会が増えました。社会との交流も薄れがちになります。
 私共としては、お互いに集まり、各自の力を出し合って老人クラブの活動をすることで、喜びや悲しみ、生きがいを分かち合い、老後をより健康に、より充実したものになるものと思います。
機関紙「老壮の友」の発行はもとより、教養教室の充実した老ク連の活動は今後ますます必要とされ、期待されています。
 貴連合会のますますのご発展と会員の皆様のご健勝を祈念して新年のご挨拶といたします。


年頭に寄せて

ブラジル日本都道府県人会連合会会長 与儀昭雄
 一年の計は元旦にありと申しますが、ブラジル日系老人クラブ連合会が新年号機関紙「老壮の友」を発刊されるにあたり、ブラジル日本都道府県人会連合会を代表いたしまして、皆様へのメッセージを申し上げます。
 老人クラブ連合会は、昨年創立三十五周年を迎えられこれを契機に、会員倍増キャンペーンを進められ、またブラジル老人クラブの歌「熟年賛歌」の歌詞の募集や、エンブレムの募集など新しい発想のもとに、「日本語で話し合って楽しく過そうよ」と呼びかけられたことは、これからの高齢者に対する新しい生き方と思います。
 ブラジルに移住された方は戦前、戦後を通じて約二十五万人といわれ、今ではその数は五万人を切っています。そしてブラジルで生まれた二世のかたがたでも、高齢者は多くなっているのが実情です。
 ブラジル日系老人クラブ連合会は一九七五年には八十五のクラブが参加する連合会となり、この中で会員相互の親睦と相互扶助、生きがい増進のための文化・体育活動、福祉活動やその他の行事に参加しておられることは、いつも老人クラブ大会、カラオケ大会、芸能祭、ゲートボール大会など見させていただいて、心強く感じております。
 会員は一世だけでは無いでしょうが、一世から二世、そして三世、四世へと活動がこれからも末永くブラジル日系老人の心の支えになることは間違いありません。この組織がブラジル全土に広がり、名実ともにブラジルの日系老人クラブの連合会になることを祈ります。
 終わりにブラジル日系老人クラブ連合会が、今年もますます発展され、皆様方の心豊かな生活と明るく活気ある社会づくりに貢献されることを祈念いたします。


新たな年の幕開けに

(在日本)『百歳万歳』編集長 植松紀子
 新年あけましておめでとうございます。
 二〇一一年の幕開けをブラジル日系老人クラブ連合会の皆さまとともにお喜び申し上げます。
 日本の高齢化はますます進み、高齢化率は世界一。百歳以上も約四万五〇〇〇人となり、百歳も珍しくないというような時代となっております。そうした中で、ニュースでもご存じだと思いますが、昨年は百歳以上高齢者の不明問題が大きく社会問題化した年でした。お隣のお年寄りが生きているのか死んでいるのかさえ分からない社会……。みなさんがご存じの古き良き日本の風習、隣同士が助け合うという、暖かな地域は影が薄くなり、隣は何をする人ぞという国となってしまっているのです。
無縁社会、孤独死という問題も今の日本の大きな問題となっています。世界一の高齢社会の先駆者としてはずかしいことです。もう一度親子、ご近所の「絆」を結び直す必要があるようです。
老人クラブも年々会員が減り、各地の老人クラブでは加入促進について努力をしています。その成果が上がっていないところがまだ多いのですが、会長や会員一同が力を合わせて会員の増加に転じているところも増えつつありますので希望をもって進んでゆきたいと思います。
老人クラブは地域の仲間が集まって、お互いに健康を支え合い、生きがいを持ち合って豊かな高齢期を歩むために大事な、大事な組織です。「この地域に老人クラブがあってよかった!」と地域の人たちが思えるような老人クラブづくりができれば素晴らしいと思います。
ブラジル日系老人クラブ連合会の会員の皆さま、今年もどうぞ健康に留意され、お仲間と共に楽しく活き活きと毎日を過ごされますよう。そして地域の方々のために役立つ存在になりますよう、遠い日本の空の下で願っております。


新年に思うこと

川柳教室指導者 柿嶋さだ子
 新年おめでとうございます。月日が経つのは本当に早いもので、文字通り「光陰矢の如し」です。
 目標を新たにして正月を迎えたのもついこの前のような気がしますが、早くも一年が過ぎ、その一年を振り返る過去となりました。
 思えば人はこの「終わり」と「始まり」の繰り返しの中で人生の旅路を歩き続けていくのでしょう。
 年始と言いますと、おのずと「門松は冥土(めいど)の旅の一里塚(いちりづか)、めでたくもあり、めでたくもなし」という言葉が浮かんできます。
 人生はこの積み重ねた一里塚の合計数のようにも見えますが、その数は数学的な意味よりも、何を選び、何を捨て去るかの毎日の選択の大切さを思い出させてくれます。
 毎日の過ごし方によって、人の生きる道が決まり、人生の総合評価となるように思われます。
 皆さまにとって、新しい年がより良き年でありますよう、心を込めてお祈り申し上げます。


愛国心

ブラジル書道愛好会会長書道教室指導者 若松如空
 書道教師はお坊さんと同じで、週末に仕事が多い。とりわけ、日曜日は忙しい。
 私は朝、フェイラ(青空市)へ行くことが多いが、NHKの大河ドラマが八時半に始まる。これはどうしても見逃せない。そこで、家を七時半に出て、フェイラの中を駆け回って、一時間で家に帰る。時々「デバガル・ジャポネス(日本人、ゆっくりしろ)」と怒鳴られる。
 坂本竜馬はすごかった。そして、さらに坂の上の雲は血沸き肉躍る思いだ。私がブラジルへの渡航を決心して、外務省で渡航費の貸し付けをお願いして、平身低頭した若い日を思い起こす。
 昭和二十八年まではアマゾン計画移民以外の呼寄移民には渡航費を貸してくれなかった。パウリスタ新聞移民という特別枠の考慮でやっと許可が下りた。呼寄移民への貸付第一号であった。
 翻って、最近のNHKのニュースにはがっかりさせられることが多い。中国漁船の衝突事件と、その後の弱腰外交。北方四島へのロシア大統領の訪問にしても、日本の外務省が取りやめを要請したにも拘らず、「自国の領土への訪問だ」と、強行されてしまった。歯ぎしりをしながらテレビを見た邦人は数多いと思う。
 情けないと嘆くばかりだ。また、若人の覇気(はき)の無さには呆れる。「安心、安全」という標語は奥様だけの言葉ではない。危ない事は何でもダメというのはすでに世相化してしまっている。「君子危うきに近寄らず」と言うが、君子ならいざ知らず、雑兵までが浅瀬も渡りきらない。まして、海外など行きたがらない。写真と手紙でしか
相手を知らないまま海を渡った花嫁移民の心情など、到底理解できないだろう。
 二十五年も前の事だが、私が帰郷した折、農業高校から招かれて、ブラジルの話をしたことがあった。中学の同級生で高校の教師をしていた友人を訪ねて、何を話したらいいか相談した。その時、ブラジルの日本人が如何に日本を愛しているか、日本の隆盛を願っているかの話をしたいと言ったのだが、彼は同意しなかった。「愛国心」という言葉は教壇では禁句だというのだ。教育界は左派勢力に支配されていて、君が代は斉唱しない、日の丸は掲揚しないのが普通だと述べた。
 私は彼の忠告に従わずに「海外へ出ろ。そうしたら、日本がどんなに良い国か分かる」と熱弁をふるった。世界で一番美しい旗は日の丸だと言いたかったが、同級生の顔が浮かんできて踏みとどまった。この左派勢力の教育界の支配が長期に及んだのは、日本にとって不幸であったと言わざるを得ない。国を愛する心の大切さが忘れられてしまった。
 最近、韓国のブラジル進出が顕著だ。自動車はヒュンダイ車が急増している。電気製品に至っては韓国のオンパレードだ。そして、ショックなのは、広州アジア大会の結果である。日本の金は四十八個、韓国は七十六個だ。大差である。しかし、韓国も苦しい時代があった。経済危機が深刻化して、国際通貨基金の支援で再建が計られた時、財政赤字の縮小、給与制限など、基金の厳格な条件を受けなければならなかった。国民はIMFという標語の下で、献金運動を展開し、金の指輪や首飾りを差し出したという。危機を救おうとする愛国心の現れだ。この話を聞いた時、私はそのうち日本を追い越すかも知れないと思った。その予感が現実になろうとしている。
 日本は今、極めて重要な局面にある。財政赤字は総生産の二倍に達してしまった。年度予算は歳出が九十兆円で、歳入が三十六兆円。三千六百レアイスの月給取りが九千レアイスを使っている勘定になる。そんな家庭が存在しうるのだろうか。赤字の増加は何年も続きそうだ。
管首相は国民にこの状況を知ってもらって、消費税を上げる計画を示したが、選挙では民主党の大敗という結果になった。しかし、政府も言論界も窮状を国民に知らせる勇気を持たねばならない。これに応えて国民が忍耐に忍耐を重ねる生活をして、始めて再建が実現されよう。行動を起こさせ、我慢に耐えるエネルギーを作るのは祖国愛である。
 先日、この会報の和歌の欄で、三世のお孫さんがアメリカへホームステイへ行って、ブラジルの国旗で迎えられ、涙を流したという歌が載っていた。コロニアの子弟は健全である。喜ばしい限りだ。

解釈の差

民謡教室指導者 纐纈蹟二
 私が六歳の時、我が家の祖父は亡くなった。嘉永生まれで八十一歳だった。隠居所で爺さんと寝起きをしていた私は、母屋の六畳で独り寝ることになり頼りない思いをした。兄たちは家庭を持って別居しているので、大きな家に両親と三人だけの暮らしであった。母の実家にも爺さんがいたが、母の実家も祖母がいなかった。私は末っ子でその爺さんに大変可愛がられ、「母が帰っても、お前は二、三日ぐらい居れよ」と言って、風呂も一緒に入り、食事も朝昼晩、従姉が運んでくるので一緒だった。その家の近くに一年坊主の友だちが二人いて遊んでいると爺さんが皆に菓子や飴玉を呉れて待遇が良いので長逗留したものだった。
 小学校の高等科の頃、学友らと剣道などをしていると、「今日は面白い話をするから来い」と爺さんに言われて、私たちは隠居所の部屋に入ってかしこまった。爺さんは禅宗臨済宗妙心寺派の末寺の檀徒総代であり、また、熱心で朝晩のお勤めを欠かさない。そして、泊まり込んだ時には波羅蜜多心経を覚えさせられて唱えたのであった。
 爺さんのお話も禅寺の出来事であった。ある大きな禅寺の和尚が風邪を引いて休んでいた。そこへ雲水の僧が来て、和尚と禅問答を所望して、本堂に来て座り込んだ。若い修行中の僧が「和尚は風邪で休んでおるので、貴僧の要望は引き受けるわけに参らず、後日にして欲しい」と伝えたが、頑として受付けず、本堂の隅で悠然として座禅を組んで動かない。その時、庫裏(くり)に近くの餅屋の隠居が餅を手土産に見舞いに来た。
 話を聞くと「日ごろお世話になっている和尚様に無理難題を言う雲水にこの俺が会ってやる」と和尚の衣と袈裟をつけると、ちょうど禿げていたので頭もつるつるでなかなかの和尚ぶりとなった。何しろ暇があると、和尚と囲碁の相手をする餅屋の隠居だけに動作も物言いも和尚そっくりである。
 本堂の真ん中に行き座って、目を半眼にして起きているとも眠っているとも分からない態でいると、雲水の僧は黙って座っていたが、何を思ったのか、拳を固めて、餅屋の和尚の前に突き出した。餅屋は半眼をパッと見開いて、両腕で輪を作ってみせると、雲水は人差し指を一本立てて見せた。餅屋はニヤリと笑い顔になり、片手を広げて見せた。雲水は指を三本出すと、餅屋の隠居は怒った顔で人差し指を目の下に持って行くと、あの頑固な雲水は静かに黙礼すると表に出て行ってしまった。
 若い修行僧たちや小僧たちはこの無言の問答が一体何を意味するのか分からず、和尚の危急を救ってくれたと大喜びをした。衣を脱ぎ、普通の姿になった餅屋の隠居は深いため息をして「あの雲水の僧は大した修行をしたご仁だよ」と言う。「どうしてか?」と一人が聞くと「雲水は俺がいくら上手に和尚様を真似ても餅屋だと悟っていた。それで拳を突き出して、お前ん所の餅はこのくらいの大きさだろう」とぬかした。俺は何をぬかすと、腕で輪を作って、「こんな大きな物だぞ」とやると、指一本立てて「一ついくらだ?」と言いやがる。そこで一つ五文だぞ、と手の平を出して振って見せると、指を三本出して、「高いから三文に負けろ」と言いやがる。そこで「バカ野郎、お前なんかに餅を売ってやれるか」とアカンベをしてやった。すると、大きな餅を安く買って食うつもりの当てが外れてさっさと表に出て消えてしまった、とは餅屋の隠居の弁であった。一同、そんなものかと合点したらしい。
 雲水はその後、修行道場の大きなお寺で無言の問答の話を僧侶仲間に話した。大和尚に問答を望んで頑張っていたら、風邪で伏せている人に見えず堂々とした貫禄のある方であった。自分は拳を出して「信念はいかに」と問うと、両腕で輪を作り「大海の如しだ」と答えられた。そこで「一生は?」と指一本出すと「五戒を守るべし」と言われた。そして、最後に「三界は如何に?」すなわち、「過去、現在、未来は?」と問うと、「眼下に在り」と示されて、浅学の拙僧では太刀打ちなどはできないものと早々退出したものだと語ったという。
 「知識と環境で、同じ動作でも解釈に大きな差がある」という爺さんの話を今も思い出して、新年に一文を草した訳である。


松の木町界隈

健康体操教室指導者 戸塚マリ
 移住して、四十年近くずーっとサンパウロの松の木町界隈に住んでいます。つまり、バイホ・ピニェイロスです。
 十七歳から踊りを教え始め、六十年も過ぎているなんてまるで夢のよう。今まで嫌だと思った事はないし、それに老人クラブの教室は本当に楽しくて、私は幸せ…と、こんな事を考えていたら、思い出しました。マルジナル近くの住宅での事です。
 細っこい身体で大八車を引き、小さな顔に黒縁の丸眼鏡、頭を白い三角巾でしばって、屑屋をやっていたマリアおばさん。毎日のように大八車を引き、元気で陽気で、おしゃべりな松の木町のマリアおばさん。
 皆に「何時も元気だね」「身体こわさないようにね」「出す物あるから後で家へ来て」と、声をかけて励まされ、おしゃべりしてるのを見ると私まで楽しく元気になりました。
 そのうち、私は引越して、五年くらい経った頃、ある日、ばったりとバールで立ち話をしているマリアおばさんに出会ったのです。大八車もないから「マリアおばさん、しばらくね。仕事止めたの」と聞いたら、彼女、私に「聞いてくれ」と仕事の出来ない訳をしゃべるわ、しゃべるわ。
 「私しゃ、まだまだ元気で仕事したいのに、子供たちが言うんだよ。『俺たち、恥ずかしいから、母さん止めてくれ』って。『私が屑屋やって何が恥ずかしいのかい』って言ったら、『いいや、母さんの面倒を見ないから、母さんがまだ屑屋やっていると言われるのが嫌なんだよ。母さん、退屈なら小遣い出すから、旅行でもしたらいいだろう』って言うんだけど、私しゃ、この松の木町界隈から外へ出たってちっとも面白くない。でも息子たちにあんなにまで言われたら、仕方ないから仕事止めたんだよ。でも退屈だから、こうやってあちこちでおしゃべりしてるんだけど、本当はね、車を引いて廻ると皆が声をかけてくれるし、話も出来るし、少しは小遣いにもなるし、私しゃまだまだ働きたいんだよ」と、まくしたてるんです。
 私はその時、フンフンと聞いていて、まあいいんじゃないと思っていましたが、今になって分かります。私もそうですもの。皆様に励ましてもらい優しい言葉をかけてもらって、この年までやってきたんです。
 これからもお互いに言葉を沢山かけあってやって行きたいものですね。


タメシテシッパイ

百人一首の会指導者 田中保子
 その一。
 私は、何日粗食に耐えられるか。
 家人が同居(?)している間は何かと不都合だったが、同居人が長期出張が続くので決行。
 バター、ジャムでトースト一枚。カフェオレ、カップ二分の一、果物一個の朝食は継続。
 昼食と夕食を五分粥と一~二個の梅干で過ごそうと云うのである。十匹の犬、三匹の猫、二匹の亀の世話。朝夕三十分ずつの勤行。散歩を兼ねての新聞買い、コーラス、句会、百人一首の会、謡曲の稽古等の日程はそのまま続ける。
 二日目、何か美味い物を食べたいと思う気持ちと、少し身体が軽くなった感じ。ウフフ…。これで何キロか減量出来ればシメタモノ。しかし、ハイソレマデ。
 六日目の朝、起床して目の前が真っ白け。すごい目脂だと手でこすっても取れない!
 急性栄養失調に依る鳥目と自己判断、手さぐりで朝食。家の中の犬猫の世話だけ。外組はごめんね。終日、外出をせず、戸棚と冷蔵庫の美味そうな物を何回にも分けて食べた。
 牛乳、玉子、はちみつ、魚、牛肉の缶詰等々。にわか盲目なので慎重に、ゆっくりの動作で何時間もかけて行動し、就寝。ずいぶん眠ったと思われる頃、急に枕元の電気時計の赤い数字が見えた。やれ、嬉しや。
 宿六が生きていたら「阿呆!」と一喝されるのがオチ。期待の減量はたった二百グラムでごさいました。
 懲りずにその二。
 二週間のヨーロッパ旅行を控えて、何日、米の飯を食べないで居られるかの実験である。
 うどん、そば、ピザ、マカロナーダ、焼きそば、サンドイッチ等々。好物なので苦痛なし。三日続けて焼きそばを食べに行ったら、店の親父が変な顔をした。ゴカイだよ。「その気」がある訳じゃないよ。
 八日目の夜中、白いホカホカのご飯をおにぎりにしている夢を見て、ガバッと起きた。もう限界と悟り、御飯を炊いてウシミツ時の食事をした。美味しかった。
 実際の旅行中は二~三日毎に中華料理や沖縄料理を食べる機会があり、米のメシの幻を見ることもなかった。
 幸せな世の中になったものでございます。食いしんぼうな私の体験は、皆様には絶対にお薦め出来ません。


掌と足

俳句教室指導者 栢野桂山(九十二歳)
 これを書いている掌の甲に老班が殖えた。長寿者の顔によく老班を見るが、僕の場合、顔より掌から始まった。これは十一歳で渡伯して八十歳まで長年、奥ノロエステの厳しい陽光に焼かれたので、掌のみに早く現れたようだ。
 その僕の掌は短いバナナを並べたように掌が六分、指の長さが四分と頗(すこぶ)る不細工そのものだ。これは七十年余り鍬を引き、斧を振ったことを象徴するもので、いわば無冠の移民の勲章で、バナナを並べたようだと卑下すべきではなかろう。
 掌のひらと指が六分四分と不細工なのに似合って、足の方も半開きのセンスのように末開きの扇子のように先拡がりであるし、皹(あかぎれ)もよく切れて血を噴くことがよくあった。
 僕ら子供移民の頃は、靴など履いたことはなく、跣(はだし)の方がコーヒー採集には、実を踏み込まないのでよかった。
 訪日した折、九州から北海道まで先広がりの足に合う靴で押し歩いたものだ。新幹線や地下鉄で日本の老若男女の履いている靴を見ると、いずれもピカピカの流行靴で、昨日、店のショーウインドーから下ろしたばかりのようで、ブラジルでよく見かけるズックの靴など見かけなかった。
 革の乏しいはずの日本のものが、革の本場であるブラジルのものより上質であることに目を見張った。
 日本のどこの町にも観光バスがあるので、それを利用してお城、お宮、お寺の高くて急な石段や長い参道を歩いた。阿蘇山などでは百台を超す観光バスが停まっており、ちょうど修学旅行のシーズンで黒い学生服で火口の周りはまっ黒く見えていた。
 ガイド嬢に従いて説明を聞くと、その観光地の歴史や数字がよく分かるし、メモを取って文章の材料にするから遅れてはならぬと急ぐ。
 午(うま)年生まれで、よく方々を出歩き、幼少より跣で駆け回った健脚(けんきゃく)は、訪日した時も老班が現れるようになった現在も、それほど変化しないことをありがたく思っている。


初恋

老壮の友歌檀選者 梅崎嘉明
 もう六十年も前の話である。その頃、私の一家はノロエステ線の奥のカラムルという植民地で棉作に従事していた。
 近くに斉木さん一家も住んでいた。二十数家族の集落で、日本からの移住者がほとんどだったが、斉木さんはこの国に古い方で、三人姉妹はこの国生まれで性格が明るく大らかで人おじけしない所が新鮮で若者から好感を持たれていた。
 姉妹の中の一人は文子といい、色白で二重瞼(まぶた)、顔だちも整っていて、肩まで垂れた黒髪が美しく、笑うとえくぼが見え、足の運びも何とも言えぬ魅力があった。
 斉木さんの家の前はグランドになっていて、日曜日になるとよく若者が集まって野球の真似事(まねごと)をやった。遊び疲れると斉木さんの井戸端に集まった。そこにはいつも娘さんの誰かがいて、集まった青年たちに汲みたての井戸水をコップに入れてふるまってくれた。若者たちはそれが嬉しくて、何とか彼女にもてたいと知恵を絞って機嫌を取っていた。
 私も文子さんを気に入っていたが口下手でシンパチヤ(親しみ易さ)に欠けていたので、皆のはしゃいでいる情景を離れて眺めていた。
そんな私にも「ハイ、水よ」と持って来てくれるのはいつも文子さんだった。少しは好意を寄せてくれていることを知り、心の底で彼女に恋していた。
 その年の天長節(天皇の誕生日)に隣植民地の青年団と野球の試合があった。
 私は走るのは得手(えて)ではなかったが、バッターの打率は認められていて、いつも三番バッターで出場した。私の近くにいた文子さんが近づいて来て
「がんばってよ。負けないでー」と私の肩を押してくれた。
 植民地の父兄の声援もあって、私たちのチームが優勝した。
 私は選手をグランドに集めてカメラにおさめた。と、同時に斉木姉妹も写した。現像、焼き付けも自分で念入りに仕上げた。
 勝利に導いてくれたお礼にと、小さなルビー指輪を買って、次の会合の時に「写真とこれを」と文子さんに手渡した。
 「何よ?」と文子さんは少し顔を赤らめたように見えた。(好きだよ)と言いたかったが口に出せず、まるで悪い事をした男みたいにその場を離れてグランドに向かった。

 何週間が過ぎて、二、三の友人と私の家に来た文子さんは左手にはめた指輪を右手で回しながら〝ありがとう〝と言わぬばかりの表情で会釈してくれた。えくぼの笑顔が美しかった。
 その後、私の一家はサンパウロ市に移ったので、その後の消息は知らない。風の便りにでも知りたいものである。(斉木は仮名です)。


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