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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2011年2月号
2011年2月号 (2011/02/05)
老クと浦島太郎の玉手箱
名画なつメロ倶楽部 五十嵐司
私たちの名画なつメロ倶楽部では毎年上下半期に日本語学校を訪問し、日本に昔から伝わるおとぎ話のアニメ映画を生徒たちに見せ、少し説明した後、私たちと子供たちとが一緒にその物語の童話を合唱します。
目的はブラジルの日系第一世代と第三世代が交流して、日本の心を受け継いでもらいたいということです。
題材は「花咲か爺さん」「浦島太郎」「桃太郎」「猿カニ合戦」などで日本で千年以上も前からお婆さんたちが孫や小さな子供を寝かしつけながら話し伝えたようなものばかりです。
そんなこともあって、色々なおとぎ話を調べているうちに「浦島物語」と私たち移民、移住者との相似性というか興味深い点を発見し、皆さんと一緒に考えたいと思い始めました。
浦島伝説は大変古く、奈良時代の日本書紀や損後の丹後風土記に記載され、万葉集そして、江戸中期の御伽草子まで、ストーリーは少しずつ変化もし、浦島太郎の出身地も様々です。
一番著名なのはやはり丹後地方(京都府北部)ということで現在も浦島神社もあり、他にも神奈川県の横浜や琉球国(沖縄)与那覇村など、全国各地に遺跡や記念物があります。そこで明治政府はそれらの諸説を整理・統合して国定教科書と国定唱歌集に収めたのが最終の決定版で、明治四三年から昭和二四年までの小学校二年生用の教科書に載っていました。
① 昔々 浦島は 助けた亀に連れられて 竜宮城へ来てみれば 絵にも描けない 美しさ
② 乙姫様のご馳走に 鯛や平目の舞い踊りただ珍しく面白く 月日の経つのも 夢のうち
③ 遊びに飽きて 気が付いて お暇(いとま)ごいも そこそこに 帰る途中の楽しみは 土産にもらった 玉手箱
④ 帰ってみればこは如何に もと居た家も村もなく 道に行きあう人々は 顔も知らない者ばかり
⑤ 心細さにふた取れば あけて悔しき 玉手箱 中からぱっと 白煙 たちまち太郎はお爺さん
この歌詞とメロディー、そして読本で習ったお話の方も皆さんよくご存知のものですが、考えてみると私たちは移民船という大きな亀の背に乗せられて海を渡り、この常夏の国にやってきました。そして今、苦労を乗り越え、こうしてクラブに集まり、歌い、踊り、持ち寄ったおいしいご馳走を食べ、親しい友と語り合って楽しく暮らしています。これこそ竜宮生活ではないでしょうか。
いつまでも若々しく元気でありたいものです。そこで気を付けなければならないのは、一人ひとり持っている玉手箱の存在です。あの箱の中には各々の「老衰」という白い煙が入っているのです。
私は自分の玉手箱の鍵を老クに預かってもらっています。
日本へ旅行するときも勿論鍵なしですから安心です。老ク連の会員さんたちも皆同じです。退会したりして鍵を返してもらわない限り竜宮城にいた時の浦島太郎のように若々しくいられるのです。老人クラブはまさに仲間とのふれあいにより、心と体の若さが保てる竜宮城なのです。ですからいつまでも玉手箱を開けないよう、老人クラブに鍵を預け続けることをお勧めします。
ヘビが鳴く
インダイアツーバ親和会 早川正満
病を治すため一人、部屋で寝起きしている妻が「パパイ、昨夜窓の下をヘビが鳴いて通ったわよ。パパイはよく夜、外に出るから電気をつけてよく見て下さいよ」「へえ ヘビはどのように鳴くんだい」「ちょうど小鳥が鳴くようにピューピューと鳴くの」。
同様の話は、前に妻の実家で義母が「昨夜は窓下を二匹が追い合うように泣きながら通ったよ」と話していた。実はその時聞いているもう一つ別の話がある。その方がもっと奇怪である。
妻がまだ娘の頃、実家(パウリンニカ精油所に隣接した農場)にブラジル人若夫婦の使用人がいて、一人の赤子が生まれ、最初は元気な子に見えたが、だんだん痩せてくる。ある日、父親が朝食に家へ帰って見た光景は奇怪そのものだった。母親は胸をはだけ、子を腕に抱えて眠っていた。その乳房に一匹のヘビが食いつくように乳を吸い、おのれの尾先を赤子の口に差し入れていた。母親は夫の騒ぎが耳に届くまで目が覚めなかったそうだ。
異国に長く住むと、日本では想像もできない事を見たり聞いたりする。老年になると、夜中に目が覚めるとなかなか眠れない時がある。そんな時、窓の外に注意してヘビの鳴き声を聞いてみたいと思っている。
普通、毒蛇は自信があるから、追い詰められなければ襲わないが、ブラジルには自分から追いかける毒蛇もいる。田舎では犬が追いかけられ悲鳴を上げているのを昔はよく見かけた。現在はたまにしか見ることがなくなった。それだけ自然が無くなったということだが、それでも魚釣りに繰り出す時には河淵にはまだヘビがいる危険があり、その予防にブラジル特産の縄タバコ(真黒く粘々した葉を縄のように捻っている。キザミタバコとして使用)を靴やズボンの裾に塗り付け、ニコチンの臭いをプンプンさせる。
まだ、タピライが雨に包まれて野生蘭が豊富だった頃、山に入ろうとしたら「正満さん、ここのカスカベル(鈴ヘビ)は木の上に上り、頭の上に落ちてくるから気を付けて」と言われたのを覚えている。
次は虫の話を少ししたいと思う。虫と言っても、蚤(ノミ)、虱(シラミ)、南京虫の話だ。老荘の友の十二月号に原克之さんが南京虫の話をされていて「えー、ブラジルに南京虫がいたの!」とびっくりした。私がかつていた満州には珍しくない虫だったが、ブラジルでは五十余年も住んでいるが見たことがなかった。ちなみに南京虫に喰われた跡は二つあり、一つは麻酔薬で、もう一つはそこでゆっくり血を吸った後だ。南京虫はベッドや近くの壁の隙間にびっしりと並んで休む。
虱は毛虱が多いが、蚤のように体に直接喰いつく虱(中国にはいた)はブラジルではまだあっていない。これは布の縫い目にびっしり隠れて休む。
蚤においてはブラジルは、色々な生活環境と数において世界一ではないかと思う。蚤が乾燥した砂地に卵を産み、蛆(うじ)の形で成長してのみに変身する。それも身震いするほどの数をブラジルで見たことがある。
齢を重ねると言う事は若い頃より味が出ると思う。なぜなら過去の記憶があるから、目の前の風景から新発見を拾い上げることが出来るからだ。このような好奇心のパワー(老人力)を老体に注ぎ込んでいくと、いくら老人になっても異性の眼差しは貴方を捕えて離さないだろう。これがブラジルの「良かとこ」だ。
なお、異国での日本語文章執筆など思っていなかった私だが、老荘の友のおかげで、後半の人生を楽しませて頂いている。本年もよろしく。謹賀新年。
第三世代ばんざい
サンパウロ中央老壮会 安本丹
定年退職してから早くも七年以上が過ぎた。初めは退屈したり、自信を失うのが心配だったので、生涯現役を目指したものの、簡単に仕事が見つかるはずはない。そこで毎朝散歩し、太極拳やマレットゴルフ、あるいは新しい語学の勉強を開始し、読書をし、時々旅行するなどプランを立てた。
一年後に仕事の誘いが二、三あったが、またまた毎日早起きし、ネクタイを締め、満員バスや地下鉄で出勤するのが億劫になったため、丁重にお断りした。その替わり、ある日系公共団体で週に二回ほどボランタリーサービスを始めることにした。そのうちに結構忙しくなったのには驚いた。
今では年金生活が堂に入って来たようだ。働かなくてもブラジル及び日本から年金を受け取り、僅かではあるが、小旅行やレストランへ行く程度の余裕はある。学生や現役時代とは異なり、親や先生に叱られたり、先輩からしごかれたり、上司から意地悪されたり、同僚や後輩と争ったり、顧客にへっらったりする必要がなくなったことは全く有難いことだ。病気などを除いて、誰の世話にもならず、誰に頭を下げる必要もない。正に第三世代ばんざいである。
ただし、記憶力や視力が衰えたり、道で転倒したり、下痢が数日も続いたり、体のあちこちに支障が出たり、知人が一人、二人と欠けて行くのは天命だから仕方がないことである。従って老化現象は甘受すべきであり、無理に長生きをしたり、青春とは若い時代ではなく、心の持ち方をいうのだという詩のように強がりを言うもりはない。このような安楽な生活をするのは申し訳ないというと、友人は四十年近くも働いた当然のご褒美と思えと勇気付けてくれた。今後も皆様に感謝しつっ、大いに残りの人生をエンジョイさせて頂くつもりである。
サントスの釣果
サンパウロ中央老壮会 中山保己
フェイラの中でブラジル人中年婦人と話していた家内が、
「ドナ・シーダよ」と紹介した。
十二、三年前に隣から引っ越して行った若い夫婦で、四、五歳の男と女の子供がいた。
帰宅してから家内が言う。
「こんどシーダ(アパレシーダ)たちはサントスにペスカ(魚釣り)に行くのでペイシ(魚)を持ってきてくれるそうです」と。
隣家にいた当時、シーダのマリード(夫)はあるスーパーマーケットの魚類販売部の主任とかで、時々魚や大きなカニを持ってきてくれていたのを思い出した。やっぱり魚と縁が切れてないのだナ。
二週間ぐらいたったある夕方に、ドナ・シーダの声がするので、家内が下りて行ってポルトン(門)でしばらく話していたが、大きなサッコーラ(買物袋)を提げて階段を上がってきた。
「サッコーラもやるって…。ペイシェを持ってきてくれたの」。
新聞紙にくるんで四、五キロはありそうな物が入っている。拡げてみると中には、いわしの包み、魚の切り身の包み、えびのむき身の包み、おまけに魚の挽肉の塩味団子の包みと、いずれも製造会社の商標つきプラスチック包装の冷療食品だ。
私と家内は顔を見合わせた。やがて事態を察して声を上げて笑った。
「シーダも一言、『釣れたら』と、言えばよかったのにネ」。家内は気の毒そうに言った。
私は、サントスの海も進化して製品が釣れるようになったのだな、と感心して咳いた。
豊橋市で会った落治男さん一家
レジストロ春秋会 大岩和男
これは豊橋市の二川町に落ち着き、松下電器の仕事にも慣れ、工場で一緒に働く日本の人たちとも親しくなった頃の事であった。
中山さんという女の人が「豊橋の町外れにあるすごく大きなスーパーでケーキ(ボーロ)の食べ放題が千五百円であるから見物がてら行ってみよう」と誘ってくれた。
豊橋駅で待っていた中山さんに案内されると、そのスーパー(イトーヨーカドー)専用のバスが送迎している。五分ほどで着いた所は周囲には高い建物は無く、スーパーの十五階建ての建物が素晴らしく高く思えた。一気に十五階までエレベーターで登った所が目的のケーキ会場だった。そのケーキの数の多さに圧倒。いくら食べ放題と言ってもあの甘さでは案内の中山さんも家内も三種類だけで精いっぱい、私も五つまでは頑張って食べたがもうたくさん。
その時、若いご夫婦が一人の男の子を連れて私たちの隣に座られた。その男の子が人見知りもせず、私たちを見てニッコリと笑うのである。あまりの愛らしさに家内が抱くと何の抵抗もなく膝の上で喜んでいる。そのあどけない姿に思わず写真機を向けるとニッコリするのである。ご両親も誘って別にもう一枚写した。「この写真が出来上がったら記念に送りますから」と言って、お名前と住所を頂いた。
もちろんこちらはブラジルから来て、松下電器に働いている者であることをはっきり申し上げた。お二人とも大変喜ばれ、豊橋郵便局に勤める落治男と名乗られた。住所も宛名も教えて下さり、後日の再会を約してその日はお別れした。
数日後、件の写真が出来上がり、戴いた宛名に郵送した。三日後には丁重な文面の礼状が来た。「洋平(あの男の子)は『お爺ちゃんが写してくれたのだ』とはしゃいでおります」とあった。
日本滞在中は数回にわたり文通し、お互いの近況を知らせあった。帰伯後も洋平ちゃんの下に妹が生まれ「一帆(かずほ)」と名付けましたと知らせてくれた。洋は海の事だし、帆は船の帆という事ですと記されてあった。落という苗字は初めて聞いた珍しい苗字である。また、落さんの名前、治男は私の長男と同じである。私の父の名前ヨミと家内の父の訓読みをさらに私の名前の一字を組み合わて治男としたものである。
愛読した作家たち 〔終〕
名画なつメロ倶楽部 津山恭助
(37) 短編小説の名手 向田邦子
ふとしたことから入手した「映画の昭和雑貨店」(川本三郎著、小学館)という本を私は大事にしている。過去の映画の各場面の中から、段々消えつつある生活風俗を見つけて往時をしのぶ形式のもので、映画のスナップもふんだんに使ってあり、楽しい読み物となっているとともに、貴重な生活風物誌でもある。例えばちゃぶ台、盥、おひつ、揚水ポンプ、リヤカー、物干し竿、等々の小道具の存在を再認識出来ることは映画の魅力の一つであろう。昭和(特に戦前)という時代の日本人の日常の暮らしの息づかいを、匂い、味覚を映像でなく文章で見事に再現したのが向田邦子である。
彼女の第一エッセイ集「父の詫び状」(昭和五三年)の出版にあたって谷沢永一は<
始めて現われた〝生活人の昭和史である〟> と述べている。また、辛口の評論家として知られる山本夏彦は〝向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である〟と絶賛している。この作品の大きな特徴は極めて視覚的なことであろう。それは彼女がテレビドラマを永く書き続けてきた経験に基づいているものらしい。
東京都出身。父の転勤にともない転校を重ねる少女時代を送る。特に、小学生の頃、鹿児島で数年を過ごし、この時期に家族や近所の人々との間にさまざまなエピソードがあり、その後の進路に多大な影響を与えた彼女は、鹿児島を第二の故郷と言って懐かしんでいたようだ。昭和二八年実践女子大学国語科を卒業後、雄鶏社「映画ストーリー」の編集員として勤務するかたわら、市川三郎のもとで脚本を勉強し、脚本家として働く二〇年の間に、ラジオ台本「森繁の重役読本」をはじめテレビ脚本「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「だいこんの花」「阿修羅のごとく」「時間ですよ」「幸福」など、およそ一〇〇〇本の作品を手がけた。
その後小説に進み、昭和五五年「花の名前」「犬小屋」「かわうそ」をまとめた「思い出トランプ」で第八三回直木賞を受賞した。その時の選後評では山口瞳、阿川弘之、水上勉、今日出海が積極的に推している。
「特に〝かわうそ〟が勝れている。嘘つきで情感に乏しく、そのために娘も夫も亡くしてしまうが、反面愛嬌、頓智、活力があり、そこらへんにいそうな、厚かましいが憎めない女の典型をほとんど完璧に描き切っている」(山口)。「この繊細にして精確な筆は日本の短編小説の典型ともいうべきもの」(今)。「場面の転換、間の取り方、人物描写、小道具への目配り、心憎いばかりのわざに感服」(阿川)。「抜群の出来上がりだと思えた。同性を見る視線に男にはない鋭さがある。表現に独自の言いまわしがあって納得がゆく」(水上)。また、当時のエピソードだが、直木賞を受賞した彼女には度々世にうずもれた老年の作家志望者から、〝受賞を辞退しろ〟という脅迫じみた妬みの電話が続いたとのこと。
「あ・うん」は彼女の唯一の長篇小説で、太平洋戦争をひかえた世相を背景に、夜間の大学を卒業した製薬会社の部長・水田とめはしの利く実業家で軍需成金の門倉の中年男同士の友情、水田の妻・たみへの門倉の秘かな思慕が鮮やかにとらえられている。
平成元年、高倉健、阪東英二、富司純子で映画化(降旗康男監督)されヒットした。
昭和五六年、向田は取材のため乗っていた台湾への飛行機の爆発事故で、五一才の生涯を閉じた。森繁久弥が送った墓碑名には花ひらき、はな香る。花こぼれ、なほ香る」とある。
(「愛読した作家たち」は本号で完結致します。長い間、発表の場を提供して頂いたことを、心から感謝致します。)
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