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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2011年3月号

2011年3月号 (2011/03/15) 高齢者社会への対処

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
 かつてノロエステ連合会の役員会で参加の団体の活性化について討議したことがあった。大分昔のことであるが…。
 当時の新聞に「日本の百歳以上の高齢者は一万人余」(現在は約四万人)と報じてあり、これは近年の新記録だという。そしてこれを書いている僕は今、九十三歳になる。
 日系コロニアの五年後、十年後を考えるまでもなく、高齢者社会は到来している――と言ってよく、その対処はゆるがせにならぬ緊急事だと考えられる。
 先の会議で「それぞれの家族には、息子、娘がいるはずだから心配は無用―」という人もいたが…。
 だが、サンパウロの援護協会、救済会などで運営する老人ホームは現在でも入居希望者を収容しきれないと聞くし、有料ホームの月々の入居料が四サラリオ・ミニモ(最低給料)だということで、これでは資産の無い者は入居できない。
 また、「こどものその」では入園者が高齢化しても行くところがないままの人が多く、老人ホーム化しているともいう。
 高齢者社会の問題解決は、子弟の教育によっても左右されるが、この国の教育は完全とは思えないので、老人ホームが満杯となるのだと考えられる。
 そこで中央の施設に頼まず、地方は地方でこの高齢者社会への対策を考えなくてはならない。地方がそういう施設を作る世論を喚起し、実行案を推進させるべきだが、その経営主となる団体は世間の信用がなくてはならぬのは勿論である。
 二年先、五年先の具体化に向けて、早急に明確な計画を打ち出して、世論を再び喚起し、日伯両国の政治家を動かして出資金を仰ぐ。
 かつて昔、著者が在住したミランドポリスの和田周一郎氏は、南米産業開発青年隊にパラナの土地百アルケールを寄贈したことがある。
 例えば、そういう土地が入手でき、そして入居する施設が整ったら、果樹を植え、野菜畑を作り、鶏や豚を飼い、自給自足の体制を固めて生活費を安くする運営法を考える。
 我々は高齢者でも除草や野菜や果物を作ることは、「昔取った杵柄(きねづか)」で、百姓に慣れない若者に負けない事と思う。
 また、広くコロニアから一世が遺し、二世、三世には不要の図書類を寄贈して頂いて、小さな図書館にし、新聞、雑誌、文芸誌を集める。
 日本のある企業家が「希望と情熱がある限り、高齢者でも老人ではない!」と言った。
 著者はいつまでも希望と情熱を持ち続けて、この構想を実現化させたいと切に思う。


お婆さんを押し出した

レプレーザ高砂会 原克之
 私が幼少年の頃は「人生五十年」と言っていた時代で、四十四、五になったら皆、老人と言われていたのだった。六十歳、七十歳の年齢の人は超高齢者で七十歳にもなる高齢者は見たことがなかったのでした。
 それが私たち家族がモジアナからノロエステのプログレッソという所へ引っ越すと、私たちの家の隣に七十歳という最高齢者が住んでいたのだった。私はそれまで一度も見た事がなかった超高齢の老婆を見た時の恐怖と驚きでその顔を見ることが出来なかった。
 真っ白な髪をたらりと垂らし、口は一本の歯もなく、口をもごもごさせながら眼はトラホームか何かで赤目で肌はカサカサ、まだ子供だった私には妖怪か妖魔に遭ったように恐ろしかったのです。
 ですが、それほど怖かったお婆さんにだんだんと慣れてきて、行ったり来たりする仲となったのでした。そうしたある日の事でした。「大事件」が起きたのだ。
 いつものようにお婆さんが孫を背に負ぶって遊びに来たのです。私は母の所へ行き、「隣のお婆さんが来ているよ」と言ったのだ。
 ちょうどその時、母は私の弟(乳飲み子)を眠らせるために自分の乳を含ませて添い寝をしているところだったので、母が私に「『今、赤児を眠らせつけているから、また、後から遊びに来てください』と言いなさい」と言われたので、私はお婆さんに母に言われた通り二、三回話したのだが、お婆さんは耳が遠くて分からず、「あぁ、そうそう」と言って家の中へ入ろうとしたので、私は入られたら大変と押し出して、戸をピシャッと閉めてしまったものだから、さぁ大変。
 お婆さん、カンカンに怒って家へ帰り、そこの若婆さん(四十歳)に私の事を怒って涙ながらに話したので、今度はその若婆さんがカンカンになって怒って「そんな悪餓鬼ぶっ殺せ!」と怒ったとか?それはどうか知りませんが、若婆さんが母に事の起こりを話しに来たという。そこで母が事の顛末を詳しく説明し謝罪したので、怒りも無事に収まり一件落着という事でした。


忘れられない思い出

サンパウロ中央老壮会 村松ひさ子
 呼び寄せ移民で来て、二年目の時である。私は結婚していて、六か月の長女がいた。夜中に突然主人の声がした。
 「早く起きて、子供を抱きなさい!」大急ぎで明かりをつけて見ると、家中、真っ黒になる程の蟻の海である。私は言われた通りに子供を抱いたが、初めてのことなのでうろうろするばかりであった。主人は「布引き蟻が来たのだ」と言って、ミーリョ(とうきび)小屋から乾いたその皮をたくさん持って来て、火をつけ、家中の床(土間)の蟻を焼き払った。
 しばらくすると、その蟻の大群は去って行った。それは幅四、五メートル、長さは夜中でもあったので外まで続いていて、分からなかった。だが、まるで大きな布が通って行ったようだった。俗語かも知れないが主人も本宅の親たちも「布引き蟻が通って行ったのだ」と言った。そして蟻は虫の他に家屋に貯えてあった食用油(主に豚から作った物)を目がけて来るのだという。
 幸いに子供についた蟻は払落し、私に這い上がったのも落とすことが出来た。
 いつか読んだ本に蟻の大群が動物を襲い、去った後は、その動物が白骨化していると言うことが書いてあったのを思い出して身震いした。主人は「この辺でこういうことは時々あるが、白骨化したと言うことはなかった」と言った。それならその事は他の国の話なのだろうと安心したりした。蟻の種類は地球上に何千とあるそうである。この蟻の他にブラジルの農村には「葉切り蟻」というのがいた。私たちはコーヒー園の仕事の他にアメンドイン(落花生)を少し植えていたが、ある程度葉が成長した時、夫は夜間に見回りに行ったりした。それは「葉切り蟻」に切って運ばれていないか、見るためである。もしもそれを見つけたら、巣穴を探し、殺虫剤を入れるのである。そうしないと、一晩でたくさんの葉が切り取られ、よく実ることが出来ないのである。
 聖市に住むようになってからは、家を白蟻にやられたという話をよく聞く。私の家でも家具を長い間、同じ位置に置いていたらその下の床が蟻の巣になって粉々になってしまったことがある。
 蟻は小さな昆虫であるが、昔も今も人間と戦っているようだ。お互いにこの地上に生を受けている以上、賢く共生していかなければならないと思う今日この頃である。


君が代は日本の象徴

サウーデ文協老壮部 木村都由子(九十三歳)
 私にとってのブラジルでの故郷は渡伯した折の地、ノロエステ線グァイサーラという小さな田舎町です。そこには日本人のバールが一軒、同じく日本人の日用雑貨店が三軒、薬局一軒、呉服店はカーザ・ペルナンブカーナが一軒、理髪店、肉やがそれぞれ一軒ぐらいの本当に心の故郷になっています。
 その隣町が当時、日本人集団地と言われたリンス市で町から方々に日本人植民地が広がっていました。
 私の家族も農業移民で、グァイサーラの日本人耕地に一年間は義務農年で、さらに一年農主にお礼の意味で働き二年間従事した後、三年目に隣植民地でリンス管内のウニオン植民地に移りました。そこで縁あって結婚し、子供四人が生まれました。主人はシチアンテといっても次男坊でしたので、別居してリンス市内に移り、子供はグルーポ・エスコーラに入り、卒業後、中学校に進みました。その中学校はジナジオ・アメリカーノというアメリカ人経営の学校でした。
 その頃、リンス市はノロエステ線と他州や地方の都市から学徒が集まる場所となっていました。このジナジオ・アメリカーノも中学部から高等部、歯科大学まで出来、アメリカーノは有名校となりました。同校の校長は大変教育熱心な方で、日本人の生徒も多かったためか、四百年祭の時に全校生徒に日本の国歌を教えて下さり、全生徒に歌わせました。日本精神を忘れないよう教えて下さったのだと思います。お蔭で私の子供たちは日本国歌を歌うことが出来ます。
 日本の学校で卒業式等に国歌「君が代」を歌わないでよいと云われる先生がおられるようですが、日本国の象徴の国歌を歌わせないなど私には想像もつきません。特に外国に住む者とて、国歌は国の象徴なのですから、尊びたいものです。
 日系子 数多学べる中学校 日本の国歌 君が代 教へ
 【木村都由子】(平成二十二年度NHK全国短歌大会)


夢の島サーンタカタリーナ

サンパウロ鳥取熟年会 遠藤タケシ
 フロリパー(フロリアナ・ポリス)は、サンタ・カタリーナ州の州都で、人口は大フロリパーで三百七十万人ほどです。
 昔はN・セニョーラ・デーストレイトと呼んでいたようですが、P・フロリアナノー・ペイショットを尊敬して、今の名前になったそうです。
 住民はイーリャ・アソレイスからの移民で、今でもその生活の方法を見ることが出来ます。自然豊かな海岸、砂丘、湖、山や島々そして、新鮮な魚、貝、エビなどがこの上なく安く、楽しい所です。
 町の中心地は治安と気候が良いのか、全国の高級年金者のアパートが海岸に立ち並び、町全体が上品に見えます。夏はアルゼンチン、パラグアイ、チリの人々で賑わい、町中、スペイン語ばかりになります。
 南の内海「リベイロン・デ・イーリャ」は今でも古いポルトガルを見るように思います。牡蠣の養殖の中心地で美味しいレストランが海岸に多くあります。
 町の中心には大学、市場、商店など何でもあり、便利です。
 次に「サッコ・グランデ」。私は最初、ここに住みました。一九六一年から三年間です。電気もバスもなく、まったくの山の中でした。貧乏も貧乏で、毎日バナナとファリーニャと水だけの生活でしたが、今思い出すと楽しい事ばかりでした。この地にサンパウロから来た勝ち組(臣連)の人が住んでおり、色々と話を聞いたものです。また、他にも二人の勝ち組の人がおりました。
 「サント・アントニオ・デ・リスボア」は古い教会のある静かな村でした。そこがまた大変美しかったです。この美しい地に一番最初の日本人が到着したそうです。彼は仙台から江戸に行く途中、舟が難破してカムチャッカ半島に流れ着き、ロシアのサンペトロブルグからロシア軍艦に使役として乗り組み、この地に船の修理のために立ち寄ってその後、日本へ帰国したそうで、その間、約二十年もかかったとか。隣のサンバキという場所は古代人の貝塚があり、岩の美しい所です。
 「ジュレイレイ」はこんな所に何で高級邸宅地があるのか?と思うような場所です。
 「カンナス・ビラアス」は海が特に美しく、夏などはもう外国のようです。アルゼンチン資本で出来たそうです。
 「イングレイザ」は名の通り、昔イギリスからオーストラリアに行く船が難破してその船員が住み着いたからそう呼んだとか。また、ここの漁夫がサントスの大洋漁業で働いた金(資本)でホテル、スーパー安宿(ポウサーダ)などの商売を始めたそうです。それ故か、日本人には親しみを感じます。私はもう五十年もここに住んでいる日系人と今も付き合っています。
 「サンチニオ」は砂丘と高級ホテルがあり、ブラジルでも有名な場所です。
 「バラー・デ・ラゴア」は私の好きな所の一つで毎年行きます。山、海、湖、港、素敵なホテルや安宿、無人の浜辺(プライア)、魚のおいしいレストラン、船での周遊など色々あります。
 「モレイ・ジュアキーナ」は若者が好きな街です。
 「アルマソン・マタードル」はかつてここでクジラを捕っていたそうです。また、カンペイシー島へ行く船も出ます。本当に何もなく原始的な所で海が美しく楽しい場所です。
 「サント・アマーロ・インペイラトゥーズ」は温泉があり、非常に良い所です。町から三十キロで、昔、インペイラトゥーズ・レオポルジイナが休養されたから、そう呼ぶそうです。
 以上、私の知っていることを書きました。
 ブラジルに来て二年目にパトロンの所を飛び出して、色々と見て覚えていきました。日本人のいない所にいる人はやはり一風変わった人のようです。サンパウロで百七十五件の詐欺をして生活している人、ブラジル女性と結婚して困っている人などを見て、今の自分があるように思います。「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言いますが、まさにその通りだと思います。


三木先生追悼の記

老ク連コーラス教室 田中保子
 先生、今日も天国で歌っておられますか? 先生が亡くなられて一年が過ぎました。二月の初めの稽古の日、五十嵐会長代理の畠中事務局長が参列して下さり、コーラス部で三木先生の一年忌の黙祷をしました。全員、それぞれの想いを込めて一分間冥福を祈り、先生と共に歌った最後の歌「夏の思い出」を歌いました。
 事務局長の短いスピーチもあり、ささやかでしたが追悼の儀と致しました。
 先生の告別の祭壇を飾った菊がこの一年間、何度目かの蕾をつけています。休み時間も忘れて練習に熱中した日が思い出されます。願わくば、千の風となって吹いて下さることを祈っております。


想い出の額

バウル老人クラブ福寿会 酒井威夫
 数年前に長野県佐久市に住んでいる息子や娘達を訪問しました。
 ブラジルに帰る二日前の事、山梨県の清里市に末娘に連れられて二人で行って来ました。小海線(長野県小諸から山梨県の小淵沢)のジーゼル車は二両編成で、JR鉄道日本最高地点に在る(標高一三七五メートル)野辺山駅を通過して、雪に輝く八ケ岳連峰を遠くに望みながら走ります。清里は有名な観光都市ですが、セマーナ(平日)の日でしたからあまり人出は多くありませんでした。
 お土産店が多い静かな町並みです。山梨県では有名なホウトウを食べてから、土産物店をのぞいて歩きましたが自分には特に買いたいものはありませんでした。
 家に帰ってから末娘が「これお父さんに」と云ってくれたのがこの『父』と題した詩人須永博士(ヒロシ)の詩の額でした。妻を亡くして十年目の頃の事です。普段、口に出しては言わないが、娘たちは心の内でこの詩のように、父親を思っていてくれているのかと、深く感激しました。

『父』

たったひとりのわたしのお父さんです
男だから人には言えない苦しさやさみしさが
あるでしょうけれど 自分のやりたいように
生きてほしいのです
自分のねがいをかなえてほしいのです
自分の明日をつくってほしいのです
たったひとりのわたしのお父さんです
からだを大切にして下さい

【須永博士(ひろし)】
詩人・東京日本橋に生まれる
一九六六年 第一回小さな夢の展覧会開催
一九九七年 能本県阿蘇郡小国町に羅漢美術館開館


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