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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2011年5月号

2011年5月号 (2011/05/13) パルケ・ド・ネブリナ

サンパウロ中央老壮会 西澤てい子
 山歩きの好きな娘に誘われてエコツーリズモ(エコ・ツアー)で友だち四人とパルケ・ド・ネブリナ「霧の公園」へ行きました。
 明け方から降り出した雨の中を各自リュックサックを背負って迎えの十五人乗りのバンで午前六時半に出発しました。旅慣れた人たちは普段着に履きなれた運動靴で天候など気にもせずに陽気で賑やかです。
 モジ街道に入って間もなく雨は止み淡い日差しとなりました。スザノ製糸会社を通り過ぎ、小さな町を過ぎると車が二台やっと通るほどの霧のかかった山道になりましたが、舗装路です。天突くようなうっそうと茂るユーカリ林の曲がりくねった道を右に左に揺られながら海岸山脈に入りました。下り道を勢いよく走るのですから手すりにしっかりつかまって、四十分くらいして着いた所は山小屋式の施設でした。
 保護林の中の騒音のない別世界のようでした。幸い雨は止み、車から降りた時、靄がかかり清浄な空気は冷たく感じました。
 この施設は一九九九年に製糸会社の社長さんが一般の人に環境保護森林の大切さを知って欲しいと無償のサービスをしているとの事です。
 場所はモジ・ダス・クルーゼスと海辺のベルチオーガの中間で海岸山脈に隣接しており、四方をイタチンガ川に囲まれた保護林の中にあります。イタチンガ川の水は山頂湖に注ぎ、多くの市町村に配水される貴重な水源です。
 広域なユーカリ林はスザノ製糸会社の管理下の人口植林なのです。山小屋式の家はすべてユーカリ材で出来ていて、五十人位収容できる食堂やサロンには荒削りの食卓とバンコ(ベンチ)、片隅には薪ストーブがあり、鉄板の上にはコーヒーや食物などを温めています。
 パン窯付きの台所は、パンやケーキが手作りで、山家の暮らしそのままだったので、とても懐かしかったです。
 サロンには大きなソファーがいくつかあり、展示室の椅子や飾り台にはこの森にすむ動物や鳥をボール紙や折り紙で丁寧に作って並べてあり、エコに関する模型品は見事なものです。
 朝食は焼きたてのパンとボーロ・デ・ミーリョ(トウモロコシのケーキ)とチーズで、美味しく頂きました。ここで働く人たちは来る途中の小さな町に住み、皆、製糸会社の従業員の家族だそうです。
 パルケ(公園)のプログラムは山歩きとゴムボートでの川下り、森林に育つ樹木の研修、子供向きの山歩きや森林に関する様々なプログラムがあります。
 九時からガイド付きで十人一組で吊り橋を渡って霧の森の中に入って行きました。足の弱い私は残って持参の本を読むことにしました。コジニェイラ(料理人)たちは皆親切で、長椅子と毛布を貸してくれたり、珍しい山の話をして下さいました。
 一時近く、山歩きとゴムボートで川を下った先発隊がびしょ濡れの泥靴と汗びっしょりで賑やかに戻って来てシャワーを浴び、さっぱりした顔で食卓に付きました。
 薪でゆっくり炊いた肉料理とフェイジョアーダに三種類のおかずですが、三時間余りの運動に空腹の人たちはお代りをしていました。
 四組の人たちも次々に戻って来て、サロンも食堂も満席となり、満腹でゆっくりとした気分で思い思い休み、三時のランシェを食べて帰途につきました。


五月蠅が消えた

インダイアツーバ親和会 早川正満
 異国でそれも南半球というまったく日本と反対と思われる条件の中で似た光景に出会うとドキッとする。
 例えば、桜と白イッペー。黄色のイッペーはブラジルの国花だが、その他に紫と白がある。花の咲く光景は、桜と同じく新葉の前にどっと咲き、根元を花絨毯にするのは皆同じだが、その散り方に違いがある。黄と紫は新葉が出ているのにまだ未練がましく粘っている奴がいる。それに比べ、白は桜に似てハラハラと散る姿が始まったと思って見ていると翌日にはどっと散ってしまっている。日本人の潔さをよく桜の散り際に例えて言われるがブラジルの白イッペーもそれ以上に思い切りよく散って見せてくれる。
 二十余年前、息子たちがまだ子供だった頃、カンピーナスのボスケに行った時、その中にあった博物館の一角にインジオコーナーがあった。ブラジルのインジオはたしか日本人と同じく生まれた時には蒙古斑(もうこはん)を持ち、遠い昔の人類発生地は同じであろうとは聞いていた。が、それは遠い昔の事で文化の交流があったとは聞いていなかった。
 だがわずか二百年前に日本にあったものがインジオの世界にもあった。しかもまったく同じものだ。それは「わらじ」だ。時代劇で見る旅などに出る時のわらじである。ふんどし、ザルなどはアフリカ、南アジアでは見られるが、わらじは中国映画の一部と日本の時代劇でしから見られない。いや、それ以外には存在しないと私は思っていたので、つい手で触れるほどびっくりした思いがある。
 北半球、南半球という事で、季節も反対。つまり日本の五月はここの十一月というように。だが、なぜか蠅の発生はブラジルも五月。ここ十年で急に少なくなったが、昔ブラジルの田舎でフェスタでもしようものなら、蠅との戦いであった。
 「五月蠅」と書いて「うるさい」と読ませた先輩学者のユーモアに感動していたが…。
 半世紀前、渡伯を共にした辞書があまりにもボロボロな姿になっているのを見かねてサンパウロにいる息子の嫁が自分の九十五年版の辞書を譲ってくれたのを見てびっくりした。「五月蠅」が無いのである。
 自分が年寄りになっているのは自覚していたが、いつの間にか別路線に乗っていたことに気付かされた。蠅がいなくなった時点で、そのユーモアまでが通じなくなり、「煩(うるさい)い」で統一されたのであろう。
 利のみ追求して、人間味の必要性を蔑(ないがし)ろにしているかに見えた祖国も東日本大震災で利害を超えた行動をとる日本人の本来の姿を見て、不幸中の幸いと思っている。移住者の多くは戦前・戦後を問わず異国での生活の初期は地獄を見て来ている。その都度、同胞の助けで難関を突破してきたのだから。頑張れ、日本!頑張れコロニアの息子達!


三月十日、陸軍記念日の遊び

スザノ福博福栄会 杉本正
 同じアパートに住んでいる十二、三歳位の子供たちが毎日十人ばかり集まって、今子供たちの間で流行っている遊びをしている。弾が十発ほど込められたプラスチック製のピストルのおもちゃで、別に危険性はなく、お互いに組み別れて、隠れ場所に身を潜めて撃ち合う。そんな姿を見ていると何とはなしに微笑ましくなり、自分の子供の頃を思い出す。
 あの頃の親たちは子供に小遣いなどを与える余裕はない時代で、自分たちで遊びを考えながら遊んだもので、遊びごとにかけては引けは取らなかったなぁとの思いに耽った。ここに小学生時代の変わった遊びを思い出して記してみたいと思う。
 私は日本に十四歳までいた。寒さの厳しい北海道北見市上常呂の尋常高等小学校に在学中で、今から八十一年前(一九三〇年)の事である。時は明治三十七、八年の日露戦争の頃の事。陸軍はまず難攻不落とせる二〇三高地を激戦のもとに陥落し、さらに最後で最大の激戦と言われた奉天の大合戦に勝利した三月十日を陸軍記念日と制定。
 以来、毎年三月十日は記念祝いを行うことになり、私の村では学校が行うこととされ、その日は冬季の最中であることから学校考案の下、雪戦会と称して五年生以下と上級生女子は雪合戦(雪玉の投げ合い)を行い、六年生以上の男子は戦争気分を交えて前塁本塁とする城を作り、守備軍と攻撃軍とに分けて、攻防する争奪戦は勇壮そのもので元気いっぱいに戦いをしたものだった。
 築城は小学生なのであまり大きくは出来ず前塁は横幅四メートル、守備軍が並ぶために奥行幅二メートル、高さ二メートル、本塁は円形にして直径周り四メートル程、高さ二メートル半位とした。築城は雪を固めて積み重ねる。学校も冬休みの時で、五年生以上の生徒はかなりの雪の量を必要とするので一月半ば頃から毎日踏み固めに出て、十分固まった頃を見て、二月に入ってからレンガ型に切り取る。二人で持ち抱えて積み重ねるほどの大きさに大工鋸で切る。積み重ねた後は、崩れないためにと、また守備軍はいるが簡単に登れないようにと水をかけて凍らせ、三月十日の陸軍記念日に間に合うように作り上げる。
 当日の決戦は先に触れた如く、六年生以上の上級生は守備軍と攻撃軍とに分かれて行うのだが本塁の争奪戦の攻防のすさまじさは写真でもあれば掲げたい思いがする。
 戦いが終わった後は母親たちが作ってくれた美味しい豚汁を大喜びで食べたもので今もって忘れることが出来ない思い出だ。ちなみに私がブラジルに来てから後、陸軍記念日の催しが一体いつ頃まで続けられたのかは不明である。


シネマ放談(1)

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
母物映画への郷愁
 子供の頃から映画を観るのが大好きで、ジャンルを問わず手あたり次第に目を通してきている。戦後間もなく流行した“母物映画”も結構見ている。
 私が初めて観た作品は「母紅梅」(昭和二四年、小石栄一)だったと思う。サーカスの綱渡り太夫・お京(三益愛子)が大陸で座長・笹井(岡譲司)と結ばれて日本に返り、夫はその後会社社長となり、娘・泰子(三条美紀)も生まれる。しかし、お京はもとのサーカス育ちが抜け切れずに堅苦しい上流階級の交際馴染まず、自分がいては夫や娘の将来の為にならぬと家を出てサーカスに戻るのだが…。「母燈台」(二四年、久松静児)というのもあった。娘・美知子(三条美紀)の乱行に悩む千代(三益愛子)は身柄を引き取りに行った警察で、萩原検事(船越英二)に再会する。彼こそ千代の結婚が両親に許されず、やむを得ず旅館業を営む清さん夫婦に預けて育てられたわが子。のちに千代は美知子の人生を狂わせた悪徳紳士・南部を誤って殺害、息子の検事の手で罪を裁かれるというもの。
 「流れる星は生きている」(二四年、小石栄一)は藤原ていの原作、新京から朝鮮北部を通って日本へ引き揚げる母子四人の悲惨な逃避行を描いたものだが、 満州からの引き揚げの実体験のドキュメンタリーだけに最も迫力がある。
 母物映画のジャンルは昔からあったようだが、ブームとなったのはやはり戦後である。まず、昭和二三年(一九四八年)の「山猫令嬢」(森一生)に始まり、昭和三〇年ごろまで流行し続けた。この傾向の要因をお涙頂戴に弱い日本人の前近代的精神構造として片付けるのは他易いことだが、むしろ戦争それも敗戦という現実が日本の家族に与えた影響、死や別れや離散等の体験をその背景に読み取るべきだろう。母物スターの三益愛子はそのような心情の投影を極めて巧みにそして適確に体現した女優だった。
 三益愛子が主演した母物は、年代を追って並べると次の通りになる。昭和二三年(山猫令嬢、母)二四年(母紅梅、母三人、母恋星、流れる星は生きている、母燈台)二五年(母椿、拳銃の前に立つ母、姉妹星)二六年(母月夜、母千鳥、母人形、母子船)二七年(瞼の母、呼子星、母山彦、母子鶴、巣鴨の母)二八年(母の瞳、母波、母の湖)二九年(四人の母、母時鳥、母御殿、母千草)三〇年(母笛子笛)三一年(母を求める子等、母白雪)三三年(母、母の旅路)、合計三一本である。
 彼女が演じる母は常に下層階級の女であり、無知で無教養、しかもお人好しときている。涙もろくいつも不運続きで逆境にあえぐのである。しかし、どんな境遇にあろうとも常にわが子の幸福のみを念じ、わが子の幸せな姿を見ればそれでもう嬉し涙にくれ満足する。一連の母物は単に同世代の中年女性に受けただけではなく、若いフアンも多かった。日本がまだ貧しかった戦後の時代に、貧しい少年少女フアンはつらい厳しい生活に耐えている自分達を、もっと悲惨な生活に耐えながらじっと子供を見守り続けている“尊い母”がいると仮想し、そのシンボルを三益愛子という女優に見ていたのである。
 娘役では三条美紀を筆頭に白鳥みずえ、松島トモ子に次ぎ、木村三津子、沢村美智子、南田洋子、川上康子、八潮悠子、仁木多鶴子と変わったが、母親はやはり三益でなければヒットしなかった。大映では水谷八重子の主演で「愛の山河」(二五年)ほかの母物を作ったが当たらず、同時期に松竹が水谷八重子(「母待草」)、宮城千賀子(¬母子鳩」)、東映も折原啓子、宮城千賀子、三浦光子、木暮実千代で試みたが、三益の人気にはとても及ばずじまいだった。
 なお、三益は昭和一〇年に作家の川口松太郎と結ばれたのだが、男に妻子があったため、二六年の正式な結婚まで一六年間も内妻の立場を余儀なくされた。のち、大映の重役となった川口だが、脇役女優であった愛妻を主役にして会社を儲けさせようと企画したものが成功したものだと言う。川口夫妻の長男・浩、次男・恒、長女・晶、三男・厚も一時期俳優となっている。彼女は昭和五七年(一九七二年)、七一才で他界した。


ぜひ読んでみたい詩集

セントロ桜会 森川玲子
 先日、老ク連の俳句会において、賞品として戴いた「のうそん」二〇一一年三月号に詩集「くじけないで」柴田トヨ著が紹介されていた。著者は九十九歳のお婆さんで、詩を作り始められたのは九十歳を過ぎてからと言います。
 四十数編のうち、十一編が掲載されていますが、どれもみな素晴らしい。やさしい言葉で綴られています。詩集ながら俳句のようです。
 十一編の中で、私は「どれが好きか?」と問われたら、この一編。

「思い出」

子どもが
授かったことを
告げた時
あなたは
「ほんとうか 嬉しい
俺はこれから
真面目になって
働くからな」
そう 答えてくれた

肩を並べて
桜並木の下を
帰ったあの日
私の 一番
幸福だった日

「貯金」

私ね 人から
やさしさを貰ったら
心に貯金をしておくの

さびしくなった時は
それを引き出して
元気になる

あなたも 今から
積んでおきなさい
年金より
いいわよ

 最後の一行。グサッと胸にくる痛烈な言葉。年々高齢者が増える一方。国は困り、受給者は目減りするお金に不満たらたら。みんながこんな気持ちになれたらいいのに。

「化粧」

倅が小学生の時
お前の母ちゃん
きれいだなって
友だちに言われたと
うれしそうに
言ったことがあった
それから丹念に
九十七の今も
おつくりをしている

誰かに
ほめられたくて

 この「おつくりをしている」が何とも言えない。掲載されている十一編は皆、心がワクワクしてきます。ちょうど俳句の秀句に出会った時のように。ノートに書き写しました。
 二〇一〇年三月初版。一年間に百万部出たそうです。現代は活字離れが激しく、本を読まない人が増える一方、そんな中の百万部。良い本はみんなが求めている。このような詩集が売れるということは大変嬉しいこと。ぜひ、私も一冊欲しいものです。


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