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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2011年6月号

2011年6月号 (2011/06/10) 端午の節句

サンパウロ中央老壮会 香山和栄
 私の祖父は文久(ぶんきゅう)、祖母は慶応(けいおう)年間の生まれである。ところは草深い美作(みまさか)の国、現在の岡山県北部中国山脈を仰ぐ盆地の一寒村であった。宮本武蔵の生地の辺りとも伝えられる。
 私たち昭和一桁生まれの兄、姉、私、妹、弟の五人は、忙しい両親に代わり、面倒を見て貰ったものである。
 幼い孫たちに向かって祖父は「カイドウ(街道)へ飛び出すな。オーライ(往来)へ出ると危ないぞ」といつも注意していた。
 家の前に新街道が出来、バスが往復二時間おきに通りだしたからである。今でも覚えているのは、いつも正座して和綴(わとじ)の本を押し戴いてから読んでいる姿である。
 祖母はよく寝物語に昔話をしてくれた。「むかーし、むかーし」と少し間伸びした昨州弁(さくしゅうべん)である。
 「山の中の一軒家に一人の若い女が女中に使ってくれとやって来た。雇ってみると、陰ひなたなくよく働くものの、米びつがすぐ空になるのが不思議であった。ある日、主人は出かけるふりをして家に戻ってみると女はお釜にいっぱいご飯を炊いておむすびをいくつも作り、それを髪の中に入れて二百三高地のように結い上げて山のほうへ歩いていくのである。後をつけて山中深く分け入ると、どこからともなく子鬼たちが現れて、女を囲み輪になっておむすびを食べ始めた。そのうち、一匹が鼻をうごめかせて「人間臭い」と言い出し、いっせいに辺りを探し出した。主人はとうとう逃げ切れず、とある岩陰に隠れた。ところがすぐそばまでやって来てクンクンと嗅いでいるのに子鬼たちは主人のまわりを巡るだけで見つけられず、そのまま引き上げていった。胸を撫で下ろした主人がふと、そばを見るとそこには菖蒲(しょうぶ)が生えていて、「さてはこのおかげで助かったのだな」と気が付いた。
 それから端午の節句には鬼の目から見えないように菖蒲の束を屋根の上に放り上げて守って貰い、さらに菖蒲湯をたてて湯浴(ゆあ)みをし、五体まめなように今年も邪気(じゃき)が入り込まないようにお願いするのだよ」と。
 聞いているうちに私たち姉妹はいつか快く夢路(ゆめじ)に誘われて行くのであった。
 この日は旧暦の五月五日に当たり、私の故郷では新暦の六月五日に端午の節句として、軒(のき)ごとに鯉幟(こいのぼり)を立てて柏餅(かしわもち)を食べ、総出でお祝いをするのである。


生と死の現実を見つめる(1)

ブラジリア壮快クラブ 田中淳雄
 十八歳で移住して五十二年。七十歳を迎え、自分の人生はこれで悔いのない満足の行く一生だっただろうか!
 子供は男女二人ずつ。孫は三人、うち二人はペルーで生活し、長男は十七歳で大学へ入学。一人は米国に住み全員が外国生活をしている。
 自分は結婚して四年間に四人の子供(娘は双子)を得、仕事と育児で貧乏の連続。最後に独立して四年目に村落で借金者の十指の中に入っていた。ブラジル銀行、コチアからも融資は受けられず、夜逃げ一歩手前まで。最後の頼みは妻がお世話になっていたバラッカ(商人)にバタタ(じゃが芋)の種と肥料の保証人を頼む。でも良い返事はもらえず二日間その家に泊まり二人で頼み込んだ。
 どうにか南銀からの保証を貰いその時に植えたバタタが最高の値で売ることが出来、今まであった借金の全額を支払うことが出来た。こんな農業では博打と同じ。これを機会に夢の農業を断念して、一歳から四歳の子供四人を連れてサンパウロ市に出る。手に職もなく、わずかな資本金でコチア本部農産物の販売店(ポスト・ベンダ)の仕事を始める。
 販売も軌道に乗り月に五台のトラックのバタタを売っていたがまた売掛金と支払いの遅れで利子がかさみそれに回転資金が少ないので七年間頑張ってもどうすることもできずにまた失敗。
 自分の農場とサンパウロの家を処分してまた一からやり直し。
 友だちも自分から遠ざかり、身体も弱り、体重も五〇キロを切り、食べると吐く。油で揚げたものは食べられず顔も黒ずんで薬と医者に行く金もなく、またまた我慢の生活。
 そんな時、自然食品のマモン(パパイア)とアバカシ(パイナップル)で出来た酵素に出合う。四人で販売会社を設立し、ブラジル全域に販売して初めて成功する。
 この時、販売していた一人の鍼灸師に巡り会う。ここで鍼灸をしているうちに食物が美味しく食べられるようになった。
 今までは大きな仕事ばかりして、いつも失敗の連続。これからは自分も人様のために何かを、と考え四十歳にして再出発。二年間、無給で鍼灸の勉強をし、サンタカタリーナ州のシャペツコ市で月に十五日間、一日に百名から多い時は百三十名の患者が来る。四人の鍼灸師と五人のアジュダンテ(手伝い人)で営業。この時経験し学んだことがその後の三十年間に繋がり、今のパット・デ・ミナスとブラジリアの開業に繋がっている。
 鍼灸師の仕事を初めて五年目に一人の患者と出会うが、私の技では及ばず糖尿病が完治せず足を切断することに。
 この時に自分はもう少し勉強したいと考え日本へ帰国。そこで関東地区の鍼灸師五十名の会合に参加し、初めて島田会長に会い枇杷温圧療法についての講演を聞く。これこそが自分が求めていたものでは…と、さっそく熊本市で研修して資格を取得。(つづく)


歌と私

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 どんな歌にも思い出がある。私も齢(よわい)を重ねて八十歳になり、身体も気持ちも弱くなった。先日も童謡を聞いていて涙が止まらなくなった。
 「思い出のアルバム」という歌で「♪一年中を思い出してごらん、あんなこと、こんなことあったでしょ」。この歌詞は子供の頃だけではなく、大人になっても当て嵌(は)まる。今までにあんなこと、こんなことありました。
 小さい頃、私はガキ大将でいつも五、六人の子供たちを引き連れ、悪戯(いたずら)ばかりしていた。桑の木に登って実を食べ、口の回りや服を紫色にしたり、製材所の材木の上を飛び回ったり、掘りかけの便所の穴に用足しして、穴掘りのおじさんに叱られたり、怒った母に倉庫に入れられて、この時とばかりに当時は高価だったチョコレートをたらふく食べ、小窓から飴玉をバラバラ投げて子供たちに拾わせ、何事かと出てきた番頭さんを仰天させた。夕方になるとさすがにしょんぼりして「夕焼け小焼け」でも歌っていると、番頭さんが母に謝ってくれ出してもらった。
 日本に帰ってからは(じゃあ、今までは満州?)読書に熱中し、夢多き少女となり、多感な乙女となった。この頃に多くの歌を覚えた。戦争中、住んでいた町は後ろが山、前は海。町を一歩出れば田畑が広がっている静かな町で、山に登ったり、丘の上でよく写生をした。友だちとコーラスグループを作り、「花」「アニーローリー」「菩提樹」などを習い、ラジオ歌謡の「山の煙」「あざみの歌」「白い花の咲く頃」などを口ずさんだ。
 戦後は映画の全盛時代を迎えて、多くの主題歌が歌われ、私たちも教えっこをして大抵の歌は覚えた。
 先日、古いノートを開いたら懐かしのブルースの歌詞が書いてあった。上原謙、高峰三枝子の美男美女の悲恋物語の主題歌で、イブニング姿の高峰の美しかったこと。「青い山脈」の原節子の清楚さに、杉葉子、若山節子の女学生に共感しよく歌った。
 私が声優の卵だった時代に流行したのが「君の名は」「枯葉」「雪の降る町」で、シャンソンも聞かれ出した。
 ブラジルに移住してからしばらく歌から遠ざかったが、サンパウロのワカモト時間でアナウンサーをするようになってコロニアのラジオで一番先に「お富さん」「柿の木坂」を流したのは私だった。
 これは移民船で知り合った船員さんに頼んで、日本で一番新しい歌を持って来てもらったものだ。当時を知る人も少なくなった。子供たちが大きくなってからはリベルダーデ・コーラス、今は老ク連のコーラスとまだ当分歌から離れられそうもない。


シネマ放談(2)

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
野生の男ターザン
 少年時代に一時期だったが、南洋一郎の猛獣狩りの物語に夢中になった。「吼える密林」「片耳の魔豹」「密林の王者」「緑の無人島」「バルーバの冒険」等であるが、特に「吼える密林」(昭和八年)は少年倶楽部に連載され、戦前の大ベストセラーとなったほど。
 南は別名、池田宣政の名でも少年小説を多数発表している。もう一つ、劇画のパイオニア的存在といえる山川惣治の「少年王者」も愛読した。秘境に取り残された日本人夫妻の遺児・眞吾は雌ゴリラに育てられ、周囲の動物たちの助けで密林の王者に成長していく。精密に描かれたペン画も新鮮な魅力だった。
 さてターザン映画。原作はエドガー・ライス・バロウズで、初作は「蛮勇タルザン」(一九二二年、ロバート・F・ヒル)で、初代ターザンはエルモ・リンカーンで、毛むくじゃらで髪を鉢巻風に結び、虎か豹の皮を肩から斜めにかけている。以後ターザン役は次々と代り、アメリカのオリンピックの水泳選手で一九二〇年の一〇〇米自由型、四〇〇米自由型、自由型リレーで金メダル三つ、一九二八年、アムステルダムでは一〇〇米自由型、リレーで金二つを獲得したジョニー・ワイズミューラーは第六代目にあたる。
 彼は合計一二本に出演しているが、最高のターザン役者であったことは疑いをいれない。初作の「類人猿ターザン」(一九三二年)では象の墓場を見つけ出して一儲けしようと企む英人の探検グループが、森林を巣窟とする類人猿ターザン(ジョニー・ワイズミューラー)を発見する。リーダー格のパーカーの娘ジェーン(モーリン。オサリヴァン)も同行しているが、ターザンが彼女をさらって逃げる。のち彼女は救い出されるのだが、二人は既に愛し合う仲になっていた。獰猛な原住民の襲撃を受けた一行は捕えられるが、象の群れを率いたターザンに助け出される。一行は目的を果たして帰途につくが、ジェーンはターザンと共にアフリカの奥地で暮らす決心をする。
 次作からの作品を並べると次の通り。「ターザンの復讐」「Tの逆襲」「Tの猛襲」「Tの黄金」「T紐育へ行く」「Tの凱歌」「T砂漠へ行く」「Tと豹女」「Tの怒り」「魔境のT」「絶海のT」。ストーリーはそれぞれ似通っている。「Tの復讐」はジャングルで甘い新婚生活を送るターザンとジェーンに危険な敵の影が迫る。数百頭の象を率いて猛獣や凶悪な原住民と闘うターザンの勇姿。「Tと豹女」はアフリカの奥地で邪教集団の教祖・豹女を相手にした活劇。ターザンやジェーンも捕えられるが、チーターの機転で脱出に成功、洞窟が崩れて邪教集団は生き埋めとなってしまう。「T砂漠へ行く」ではロンドンで看護婦をしているジェーンから薬草を送れという航空便が届いたので、ターザンはボーイとチーターを連れて砂漠の町に出かける。ここで町を略取
しようとしている悪人たちの悪企みに巻き込まれる。最後には某国のスパイの二人はライオンと大毒蜘蛛の餌食になる。
 「T紐育へ行く」はかなり趣向が変っている。平和なジャングルにアメリカからサーカスの支配人がやって来る。めぼしい野獣を生け捕るのが目的だったのだが、ボーイが象を自由に使うのを見て連れて帰ろうと企む。ターザンとジェーンが土人の放火のため焼死したと思ったボーイが紐育へ発つ。ターザンが摩天楼ジャングルを跳び伝って象群の助けを得て大活躍の一篇。
 因みに歴代のターザン役者は計一六人にものぼっている。また、ジェーン役のモーリン・オサリヴァンは最初の二作ごろまで全裸に近い姿態をちらちらさせて、お色気を発散していたがその後当局からのお達しで残念ながら着衣を広くしたという。この女性は後年の演技派女優ミア・ファロウの母親である。なお、ワイズミューラーは一二本のターザン映画で、約二〇〇万ドルを稼いだものと推定されているが、一九八四年に死亡している。


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