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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2011年8月号

2011年8月号 (2011/08/14) 福島第一原子力発電所

サンパウロ生涯現役クラブ 内山卓人
 私が福島第一原子力発電所を訪れたのは一九七四年四月のことでした。正面右側にある原発資料館に案内され、誰にでも分かるような説明を受けました。その時は一号機は営業運転されており、二号機が七月に運転開始される時期で、三、四号機は建設中でした。いずれも出力七十八万キロワットで二酸化ウランにより震災前まで六号機まで運転されていました。
 すべての原子炉は米国ゼネラルエレクロトニックス社によって設計されたものを鹿島建設によって施工されたものです。
 今年三月に想定外の事故が勃発して水素爆弾と似たような爆発が起りました。津波で冷却ポンプが止まったのが原因ですが、今は双葉町、大熊町と浪江町民が非難せざるを得なく、不自由な生活を強いられています。
 現在、建屋で作動している循環注水で冷却する方法にしても六月十七日に稼動して以降十回を越えるトラブルが発生しており、完成度は七十点ぐらいと評価されています。
 システムの稼働率が想定を下回り、汚染水の処理量が原子炉への注入量に追いつかず、水が足りなくなる恐れが発生。七月十四、十五日にはダムから引いた真水五百七十トンを原子炉の冷却に使用する事態になりました。しかし新たに真水を注入すれば汚染水の全体量が増加するため、それを避ける為の取り組みもしなければならず、問題が次々と噴出しています。今後の工程に原子炉を冷温停止させるという目標は据え置かれ、三年程度の中期的課題として、燃料貯蔵プールからの燃料取出しなどを新たに盛り込むことになっているようです。
 トラブル続きの汚染水の浄化システムも稼働率を下回り、さらに汚染水処理には高濃度の放射性廃棄物が出てくる弊害もあります。 この度の問題で、全国の原発が問題となり、いつになったらよい解決へと導かれるのか、その早期の解決策が強く望まれるところです。


ピラミッド

サンパウロ中央老壮会 中山保己
 七月十二日、夜の電話で「十三日午前三時前に日本の弟が死んだ」と知らされた。長い闘病の末であったから、心静かにその死は受け止められた。これで兄妹五人の真ん中の一人が亡き父母のもとに逝ったのだ。
 その夜、眠れぬまま手に取った本が「ピラミッド」。およそ五千年前のエジプト人が開いた巨石文化の建築を、イギリスの歴史家アーノルド・トインビーが紹介した言葉の一説を引用している記述が心を捉えた。
 「……ピラミッドは人類が絶滅したあと何十万年も存続するのが確実と思われる……」。
 この短い文章に私は「アッ」と驚き、感動した。ピラミッドには悠久の生命があるのだなとの認識は断言できるようである。
 あまりにも急激に進化する現在の化学は人類の未来に対して大きな不安を抱かせずにはおかない。だが、どのように人類が推移しても決してピラミッドの生命には及ばないであろう。
 数日前の邦字新聞紙上で「アメリカの人工衛星が十七のピラミッドを発見した」という小さな記事を目にした。それは多分、砂漠の砂の中に埋もれていたものだろう。現在ある約八十のピラミッド以外になおあるという研究者たちの予想が当たったのだ。
 人の死は、永遠の生への出発であると信仰的にはいえるだろうが、ピラミッドは王の永遠の寝所として企画されたものであっても現実に悠久の生命を保っているのは無機質のピラミッドではないか。
 弟の死とピラミッドとは何の関わりもないものだが、私は妙に「ピラミッド」に惹かれるのだ。偶然手にした本が何かを暗示しているように思われてならない。


一九九〇年の日記より(1)

ビラ・ソニア老壮クラブ 井口たき子
 いつも身辺整理をと心掛けているのだが、いつの間にやら物が増えてしまう。また、片づけをしていると、懐かしい品々に出会って、ついつい見入って仕事は捗(はかど)らない。この日記もその一つ。一九九〇年、私が六十五歳の時のもの。日本へ出稼ぎに行くほど元気があったのだから若かったなぁと思い返している。
六月十三日
 さぁ今日は日本へ家政婦としてひと頑張りしてくる日。加藤泰子さんと小林とし子さんと「三人一緒に離れずに頑張ろうね」と約束してブラジルを出発。
 五時半に英夫さんの車で家を出て七時近くにやっと飛行場に着く。荷物をバリグ航空のカウンターに持って行ってホッとする。切符とパスポートを貰って落ち着く。でも仁ちゃん達が来ない。やっと探し出し、別れを告げて飛行機に乗る。とし子さんの末っ子のみっちゃんが泣いているのには心が痛む。男の修もとても寂しそうだ。あんなでっかい体で…。
 飛行機は予定より遅れて出発。リマへ着いたのが四時二十分だった。
六月十四日
 五時三十分に出発しロス経由で成田に着く。荷物がみんな揃ってからお迎えの紹介所の方へ。それぞれ二名ずつに分かれてしまった。私は嘉村さんと杉並区の白鳩紹介所に決まった。バスで新宿まで来てタクシーで杉並区に着く。事務所でだいたいの話を聞いて寮に行く。日付変更線を通って来たのでいつの間にか十五日になっている。絶対別れないようにと言い合った加藤さんととし子さんはどこへやら。
六月十六日
 六時二十分前に家を出て小松会病院へ行く。今日は一日見習いで明日からお金になるんだとか。一生懸命講習は受けたはずだけれど、実際はまた色々と違う。体温を測り、それからオムツ替え。この病院には四百人からの高齢の患者さんがいる。皆オムツを使っているのかしら。私の担当の三〇七号の部屋には六人のお婆ちゃんたちがいる。本当に続くかしらと心配するほど忙しい。(つづく)


勘違い

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
☆セルラル(携帯電話)
 オニブス(バス)を降りようとしたら「リンダ(きれい)」と声が掛かったのでドキッとして振り向いたら、モトリスタ(運転手)がセルラルで彼女と話していた。
☆地下鉄
 サウデの薬局に行ったついでにジャバクアラの友だちの家に行こうとしてメトロに乗った。目を瞑って考え事をしていて、ふと目を開けたら「サウデ」と書いてある。サウデ駅から乗ったのにサウデとはおかしいと思ったが、何の事は無い、折り返して戻って来たのだった。
☆エレベーター
 買い物に行こうとエレベーターに乗り、ボタンを押したが動かない。また押しても動かない。同じアンダール(階)のボタンを押していた。
☆水たまり
 雨上がりに家に帰ろうとしたら、道に水たまりができている。五、六歩遠回りすればよいのに、「何のこれしき」と鳥のようにとんだ。つもりが見事、水たまりの真ん中に着水した。私は若くはなかった。
☆オナラ
 最後に尾籠な話を一つ。散歩の帰り、誰もいないと思って一発放ったら「オー」という声。後ろに青年がいたのを知らなかった。それも美青年。嗚呼(ああ)!


五十一年ぶりの再会

サンパウロ鳥取熟年会 遠藤タケシ
 五月にアクレ州キナリーの移住者の会合がパラ州ベレンであるというので行って来た。
 世話人のSさんに電話すると、飛行機、ホテル、食費は自腹。その他の経費は割り勘という事ですぐに参加を決めた。
 五月三日の朝、クンビッカ飛行場で初めてSさんや他の人たちと会う。サンベルナルドより三人、サントスから一人、スザノから一人と私の合計六人が機上の人となり、三時間半でベレンに到着。思ったよりも熱くない。町の中心のホテルに入ったら、ホールにリオブランコ、キナリー、マナウス、ポート・ベーリョそしてベレンからの人十八人が集まっている。
 私とキナリーの関係は日本から来る時に同船(あめりか丸)者だったということから始まります。六家族がおり、その中に男ばかりの長崎の家族と、女ばかりの上品な神戸の家族がいたのが今でも思い出されます。Sさんが
 「オィ!エンドウ。この人がお前が会いたいと言っていた女ばかりの家族のYさんだよ」。
 「私に会いたいって?知りませんよ」。
 「そうだよな。五十一年も前だもん。それに白髪ではなぁ」。
 「あめりか丸がベレンに着いた時にお姉さんに日本人形をやったコチア青年だよ」。
 「あぁ…思い出した。まさかあの人とは…」二人でアブラッサ(抱擁)。
 「ところでお姉さんは?」
 「それがね!二十年も前に亡くなったのよ」。
 「本当ですか?」
 「この人が私の義兄さんよ。ポルト・ベーリョに住んでいるの」。
 「そう。一度お墓参りに行ってもよいですか?」
 「ぜひ、来て下さい」
 「必ず行きます」とまた三人でアブラッサ。
 「とにかく貴女に会っただけでサンパウロから来た甲斐がありました」。
 「そうですか」。
 人間、健康でいると良いことがあります。
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 ベレンの人口は二百万人以上。思ったより良い所です。熱帯でも古い町と近代が入り混じった楽しい所です。
 マンゲイラの木のトンネル、市場の魚、果物、アサイ、お土産を売る屋台の喧騒(けんそう)、エスタソン・ダス・ドッカスの近代性、音楽、食物、人間性、生活面などカリブ海地方に来たようです。
 ここでも日本人の力がありますね。山田商会、博多レストランなど楽しく思い出深い場所になりました。
 郊外へ行くと八十キロ先のカスタニャール、百四十キロ先のサンタ・マリア・デ・パラーなど農業とリオ・グランデ・ド・スル文化が多くあります。
 二百四十キロ先のサリアーノ・ポリスの海岸へ行くとまたカリブ海にでも行ったように感じます。本当に楽しい六日間の旅となりました。来年はゴイアスに集まるとか。
 最後に「キナリー移住地」について多少説明すると、同移住地はアクレー州にあり、ペルーに近い場所です。ゴム栽培を目的に一九五九年に十三家族が入植し、今はパスト(草)だけ。当時、ベレンから舟で二ヶ月要したとか。今でも家長だった川田さんがマナウスで元気です。今では人口二万の町になり、昔とは天と地の差だとか。私も今度一度訪れる予定です。


シネマ放談(4)

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
人よんでフーテンの寅
 東大騒動を初めとして学園紛争が相次ぎ、なにか日本の社会全体が物情騒然として前途まっくらな不安に覆われていた頃、昭和四二年に「男はつらいよ」は誕生している。
 以来、平成七年の最終作「寅次郎紅の花」まで四八作が世に出て、その何れもが斜陽産業となった映画界にあって、水準以上の興行成績をあげているのは驚異である。勿論世界一の長寿シリーズとしてギネスブックにも記録された。
 シリーズが始まった当時は日本の家族の絆が崩壊寸前の時期でもあり、「男はつらいよ」に描かれるとらやの人たちの寅さんを気遣う何気ない家族愛、地方の人々がゆきずりの旅人に見せる思いやり、美しいふるさとの風景など、日本から消え去りつつあったものが実に丹念に表現されている。観客は渥美清演じる寅さんのドラマにほのぼのとした温かさを感じとる。それはお茶漬けのさらりとした味わいにも似ていてしつこくもなく、決して飽きられることもない。正に庶民の味であり、長寿シリーズのバックボーンはその辺にあるものだろう。少々
頭の弱い寅さんだけにかなり誇張されてはいるものの、彼の長所、短所は全ての日本人が共通して持っている性格にほかならない。そこに観客は何となく共感をおぼえずにはいられないのだろう。
 ところで、本シリーズのもう一つの見所は毎回変わるマドンナ達の登場、そのほとんどに寅さんは失恋を繰り返す訳なのだが・・。何しろ天下の美女揃いなのだからベスト・ファイブを選ぶとなると迷ってしまう。まず第一作の御前様の娘・冬子に扮する光本幸子。病弱で繊細な女性という設定。次はやはりシリーズに最多出演(四本)のリリー、浅丘ルリ子が呼吸があったという点では欠かせまい。特に第五作「寅次郎相合い傘」がいい。竹下景子も三本あるが、やはり岡山県のお寺の娘で出戻りの朋子役が強く印象に残っている。第二七作「浪花の恋の寅次郎」の大阪の芸者・ふみ、松坂慶子も素敵である。この人も他に一本ある。最後には第一〇作「寅次郎夢枕」の美容師・千代の八千草薫、寅とは幼な馴染みなのだが、彼女は「寅ちゃんといるとホッとする。
 生きていて良かったと感じる」のセリフにもあるよう、彼の性格を最もよく理解していた稀有な女性だった。
 ここで、寅さんを取り巻く周囲の家族、友人に目を移そう。妹のさくら(倍賞千恵子)は兄思いのやさしい性格で、苦しい家計の中からいつも五百円以上は入っていない寅の財布に小遣いを補填してやる。車竜造氏、即ちおいちゃんは第八作までを森川信が演じているが、絶品の配役で何かというとすぐ寅と掴み合いの喧嘩に発展する。「あ、あのバカがまた戻って来た、ああ大変だ」という表情だけで笑わせてくれたものだった。
 おばちゃん(三崎千恵子)は主婦業のかたわら団子屋を切り盛りする働きもの、やさしくて情にもろい典型的な下町のおかみさん。博(前田吟)は裏の印刷所で働く工員で生真面目で理屈っぽい。朝日印刷の社長(太宰久雄)は寅さんからはタコというあだ名で呼ばれており、いつも金策に悩まされている。それに博、さくらの一人息子・満男(第二七作から吉岡秀隆)で自由きままな寅さんの生き方を羨望しているところがある。
 山田洋次監督は次のように言っている。「悲しい出来事を涙ながらに訴えることは易しい。また、悲しい事を生真面目な顔で物語るのもそう難しいことではない。しかし、悲しいことを笑いながら語るのはとても困難なことである。だが、この住み辛い世の中にあっては、笑い話の形を借りてしか伝えられない真実というものがある。この作品は男の辛さを、男が男らしく、人間が人間らしく生きることが、この世では如何に悲劇的な結末を辿らざるを得ないか、ということを笑いながら物語ろう、とするものである」。


貴婦人「D51号」の思い出

サンパウロ中央老壮会 香山和栄
 NHKテレビで山口県の早緑(さみどり)の山並みを縫って走る「貴婦人」と呼ばれる列車を見た。先頭の機関車の標識番号には「D 」とある。
 私にとって忘れられない懐かしい通称(つうしょう)「デゴイチ」と言われる思い出の汽車である。思えば、一九四五年、終戦の年の初め、戦局も切迫して学徒総動員令が下った。
 岡山県は津山市にある女学校に在学する私たちにもおよび、五年生の姉は軍需工場となった郡是製糸(ぐんぜいせいし)に泊り込みで飛行機の部品造りに駆り出され、三食丼(どんぶり)一杯ずつのご飯に空腹をこらえながら一日中ハンマーをふるって尾翼(びよく)などの製造に励んでいた。三年生である私は空襲(くうしゅう)を避(さ)け疎開(そかい)してきた陸軍大阪被服廠津山支庫(しこ)となった学校工場で兵隊さんの服を縫うことになったのである。その頃にはもう各都道府県の県庁の所在地は、京都と広島を除き、他の軍需(ぐんじゅ)都市と共に爆撃(ばくげき)され、ほとんど焦土(しょうど)となっていた。
 私たち五人の同級生は岡山から津山へ至る中国鉄道を通る「D 」号に乗って学校工場へ通ったのであった。汽車と呼ばれても牽引(けんいん)するのは、戸を閉めると真っ暗になる貨物車(かもつしゃ)、牛を運ぶ貨車などで、客車はほとんど無く、あっても機銃掃射(きじゅうそうしゃ)により窓ガラスなどない箱車同然の代物であった。防空頭巾(ぼうくうずきん)をかぶった私たち五人連れにはあと二駅(ふたえき)で終着駅に着く満員列車にもう乗る余地はなく、仕方なく機関車の後ろの石炭の上に乗り込むのである。
 最初の友の尻を押し上げて乗せると、後は次々に上から引っ張り上げ、難なく皆登ることが出来る。
 血液型を記したモンペ姿に身を固め、粗悪(そあく)な石炭のため、煙突(えんとつ)から吐き出す煤煙(ばいえん)が容赦(ようしゃ)なく降りかかるけれど、防空頭巾がよく防いでくれた。
 足元から真っ赤に炎える焚き口へざざっとスコップですくい取っては放り込むのを眺めていると、まるで荒野を行く旅人のような気分であった。これは終戦をはさんだ一時期のことで、父母兄弟姉妹には内緒のことであった。何しろ、まだ十四歳で箸が転げても笑う年頃なのである。私たちは軍隊では二等兵の資格で軍帽の変わりに星のマークを付けた鉢巻(はちまき)を与えられ、初歩の軍事教練、手旗信号、軍人勅諭(ちょくゆ)の唱和など、支庫長の中尉殿から習わされた。ちなみに軍隊では英語はご法度(はっと)で兵隊服のシャツは上衣(じょうい)、ズボンは下衣(かい)、ポケットは物入れと言っていた。
 私たちと同世代の開高健の著作「青い月曜日」によると、彼らは学校へ行くと、吹田(すいた)の操車場(そうしゃじょう)へ廻され、全国から集まってくる貨車の連結、入れ替えなどを行い、他に各鉄道駅の切符切りの仕事をしたとある。雨の中の連結作業に、滑って犠牲者も出たとある。八月六日には広島、九日には長崎に原爆が落とされ、とうとう八月十五日には日本はポツダム宣言を受諾(じゅだく)した。あとで軍から給料をもらったのは驚きであった。お国のために銃後(じゅうご)を守り、勤労奉仕(きんろうほうし)のつもりであったから…。
 母は貴女が始めて働いて得た尊いお金だと、神棚(かみだな)にお供えをしたけれど、戦後の凄まじいインフレで、どこかへ飛んでいってしまった。
 今年もまた六十六年目の原爆忌、終戦忌がやって来る。千年に一度という大津波に見舞われ、祖国も人類もまだまだ試練が続く。被災地の人々の上に幸あれかしと遠くブラジルから祈るのみである。


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