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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2011年9月号

2011年9月号 (2011/09/08) 植民地廃れて山河残る

レジストロ春秋会 大岩和男
 先日亡くなった鷲見ジュリョ君の四十九日忌明けだという。故人のジュリョ君はその昔、海興がセッテバラの奥にマンパーラと共に売り出したキロンボ植民地に親の代から住んでいた人である。一時は百家族以上も入植したにも拘らず地形が山ばかり。地味不良、その上最も近い町セッテバラまで二十余キロという不便さだ。大多数の人たちが次から次に退植したにもめげず文字通り最後の一人になるまで頑張った男である。
 入植初期は全植民者が張り切って開拓に奮闘したが何と言ってもこれというハッキリした主作物がなく、ただ単に自給自足で換金作物がなかったことが命取りになった。
 レジストロの岡本氏が茶業に成功してからは残っていた人たちが茶を植え、共同してシャトッピ組合を組織し、製茶業に励んだ一時期もあり、個人的には岩村兄弟製茶工場も出来たほどであった。
 それ以前に同地の慰安のため自分の土地内に競馬場を作った小野寺さんがおり、全村あげて競馬に打ち興じた時代もあったというし、日本語の学校も経営したそうである。そうした功労者をはじめ他地方に転耕した多くの方たちはそのほとんどが鬼籍に入られてしまった。
 私が聞き知った範囲内ではただ一人、キロンボの初期に十ヶ月滞在しただけで退耕され北パラナのロンドリーナに移られたという沼田信一翁(九十三)が健在である。翁はその思い出を「信ちゃんの昔話 移民シリーズ」として発刊された十冊の本の中に書いておられる、有名な方である。沼田さんが入植十ヶ月でロンドリーナに引っ越す時にセッテバラの海興の舟番をしていたのがあの前伯で有名な山本勝蔵氏である。大変な頑固者で船を出さないと一晩中悶着した挙句、捨てて行く土地代金を取り上げられたと「ムダンサと移民」に書かれてある。その山本さんが後にはキロンボのシャトッピー印の紅茶売りになったという。
 サンパウロに出てからはバタタの仲買や雑貨店を経営し、グアルーリョスにカントリークラブを設立しゴルフ愛好者に喜ばれ数々の団体役員を務められ、東北伯のレシフェにサドキン電球工場を開設。社長として勇名をとどろかせた人であることは周知のことである。
 岩村兄弟製茶工場を経営された弟の謙介(けんすけ)さんはキロンボ退植後はレジストロに住み、熱心な「生長の家」信奉者で西南聖教化支部長を長年務められた。誠実そのものの人だった。
 競馬場を開いた小野寺さんはキロンボ退植後、農機具鍛冶として一時ジュキアで鍛冶屋をやっていたが、ほどなくレジストロに移り、今ではその息子さんが手堅く経営している。小野寺のフオイセとして有名である。切れ味抜群、非常に使いやすくて人気がある。
 日本語学校は松村俊明先生が教鞭をとられ、学齢児童を教えられたが、一身上の都合でレジストロ上流のボアビスタに移転され、養生塾を開き、多くの徒弟に日本語とマンドリンを教えられた。この松村さんが或る年の燈籠流しの日にリベーラ河上流から小船で下ってきて舟の上で「リベーラ音頭」を唄いながら扇子を振りつつ踊って下っていかれたことがあった。とても印象的で未だに忘れられない。また、当時の日語新聞、日伯毎日新聞の代理人で氏の勧めで三十数年購読した覚えがある。
 そうした人たちを輩出したキロンボに最後の一人になるまで頑張り通したジュリョ君であったが、住人のいなくなった植民地は道路の修理も困難となり、ついに退植したのである。
 自分たちのツピー組合の広大な敷地(かつては海興の農事試験場)の一隅に住居を構えて住んだ。彼には一度お世話になったことがある。それは十数年前に元住んだチエテ移住地で隣に住んでいた倉内孝一さんがその昔、親御さんとキロンボに住んだことがあり、末弟の満君がそこで生まれたので、自分が生きている間に生まれ故郷のキロンボを見せてやりたいと、私を訪ねて来られた。私自身キロンボもマンパーラも知らないので、ジュリョ君に案内役をお願いした。私方のコンビ車を出して倉内さん夫妻、妹の節ちゃんと満君、ジュリョ君と私の六人で行った。
 キロンボまではセッテバラから二十キロと聞いていたのに、セッテバラ=ジュキア街道が開通して十数キロに短縮されて近かった。元の植民地に入るとジュリョ君も驚くほど道路が整備されていた。それはこの植民地一帯を買い占めたサンパウロの金持ち連中が週末に遊びに来ても道路が悪くては面白くないと道路を立派にしたというのだった。何家族かの番人が住んでいるだけの無人に等しい山の中にはもったいないほどの道だった。元倉内さんが住んでいたという土地もすぐ分かり、「ここがお前の生まれた土地だ」と満君に説明。倉内さん自身、懐かしそうに眺めていた。海興事務所も台石があり分かったし、小野寺さんの競馬場跡と説明された広く平らな低地は蒲が生い茂り、原木が密生しているだけだった。学校跡、誰それの住んでいた所、と言われていたがすべて再生林に覆われていた。
 キロンボ植民地を通り、マンパーラを抜けて先刻入った道路に合流して帰途についた。そうした思い出だけとなった今、逝きし人、鷲見ジュリョ君の冥福を心から祈るばかりである。合掌。
 国敗れて山河あり 植民地廃れて山河残る


イタリアに旅して

ジュンジャイ睦会 長山豊恵
 イタリアに住んでいる孫が結婚することになった。一度は行ってみたいと思っていたイタリアのローマ。有名な街。良い機会で行ける事になった。朝、娘婿が迎えに来てくれて夕方七時半の飛行機に乗った。緩やかに空へ飛び立ちポルトガルを過ぎ、スペインに入る。そこからまたイタリア行きの飛行機に乗り換えた。時差は五時間なのでちょっとまごついた。孫は大喜びでオスチヤに住むクニャード(義兄弟)となるジュリオの家に連れて行ってくれ、そこで泊めて貰うことになった。
 翌朝、歴史あるバチカンやコリゼウ博物館へ見物に連れて行ってくれた。大理石で豪華に装飾された大きな建物が並んでいる中を歩いて見た。
 明日は結婚式で疲れるからと早く帰ってくると孫のソグロ(義父)になる人から「夕食においで」と呼ばれた。イタリアでは男の方がよく料理をするそうだ。夕食をよばれに行くと、もうメーザ(食卓)に仕度がしてあった。
 イタリア式にお皿を二つ重ねてエントラーダ(前菜)にチーズのつまみとヴィーニョ(ワイン)が出た。父親の代から何十年も寝かしてあったワインを開けると言って大きな瓶を持ってきた。注いでもらってからグラスを回して匂いをかぎ、ゆっくりと味見するように飲むのが礼儀とかで、私もまねしてみた。上のお皿を取り、今度はスパゲッティでメインディッシュ(主食)。食べ方もフォークを回してスパゲッティを巻き付けて口に入れる。スパゲッティが大きくて少し固いのでうまく巻けないから結局ナイフで切って食べた。うどんを食べるような食べ方では失礼に当たるとか。外国の食べ方も良い経験になった。
 娘たちは言葉が分かるからカベレイラ(美容室)へ行くと、色々と注文していた。私は手まねでブラジル語でしゃべったら分かったのか、うなずいて注文通りにしてくれた。
 午後四時にお寺へ行くと、お寺のやり方もブラジルと違う。ブラジルではマドリンニャとパドリンニョは大勢いるけれど、ローマでは二人だけで、椅子に座っていた。その後は親たちが座るようになっていた。式が終ると新郎の後を付いて出て行くものだと思って立って待っていたが、みんな出て行ってしまったから後について出てみると入り口にお米が置いてあった。それをひとつまみ持って並び、新郎の出を待っていた。新郎新婦が出てくると、お米とコンフェテ(紙ふぶき)を投げ、花火を上げ、祝福の声も賑やかに挨拶を交し合う。
 その後は一同バスでシャカラ(別荘)へ。すでに用意がしてあって、下り坂になっている芝生を降りていくと右側の食卓には飲み物があり、中央の食卓には大きな豚の丸焼きの頭を飾り、周りにチーズやパン、サラミと肉類、それに果物が組み合わされている。豪華なご馳走の盛り合わせはそれは見事なものだった。豚の頭もお祝いのひとつでしょう。近づいてよく見ると耳をたれ笑っているように見えた。左の食卓には天ぷらなど揚げ物がいっぱいだった。
 しばらくして上に行って夕食になった。食卓には新郎たちの名前でメニューがのせてあった。下で食べているからお腹はいっぱいだけれどみんなと一緒によばれる事にした。やはりワイン付きで硬いパンが出てくる。若い人はよく食べるけれども私はサラダとスパゲッティで済ました。夜も更けて帰り、新郎たちはフィリピンの方へ新婚旅行に行き、私たちは帰り支度になった。
 サンタルシアに入りホテルで宿泊。朝七時出発、ナポリに向かう。桔梗(ききょう)の咲き乱れるピスタのきれいな事。傘を広げたような杉の並木。風景の美しさに見とれてしまった。石山の高いところをバスで登ってみたり船に乗って岩をぐるりと回ったりした。いつものように硬いパンとサラダは嫌だったのでご飯を注文したら黒豆の混じったご飯が湯呑み一杯くらいとナスの焼いたものとピメンタ(とうがらし)とバタタ(じゃが芋)が付いてきた。食べてみると半生のようでがっかりした。夕飯にはやわらかいリゾットを注文したらエビや貝が混じって美味しそうに見えた。だが食べてみると辛いも辛い。ピメンタづくしの辛さである。あわてて水を飲み飲み食べたが我慢できなくて残してしまった。所変われば食べ物も違ってくる。
 フロレンソはまたきれいな所である。水に映る夜景のきれいな事。有名な所で旅行者も多く街も綺麗でゴミひとつ落ちてない。人がいっぱい歩いている。通りに果物を出して売っているが、売っている主人も場を離れていたりして、のんびりした感じの所だった。
 街といえども狭い通りばかり。車と人間がすれすれに通る石壁の家。ブラジルでは見られない町並みである。この度、色々と珍しいところを見てくることが出来て、夢でも見ているような気持ちでありがたいことである。


シネマ放談(5)

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
カツシン奮闘す
 昭和三〇年代の前半、大映映画の俳優の勝新太郎はライバル市川雷蔵の活躍に比して、代表作もないままに低迷を続けていた。
 昭和三六年の今東光原作の任侠もの「悪名」(田中徳三)でようやく活路を開いたカツシンは、「座頭市物語」(三七年、三隅研次)へ持ち味を充分に発揮して波に乗る。
 下母沢寛の随筆集「ふところ手帖」に載っていた按摩の座頭市の話を脚本家の大塚稔が盲目のやくざ、居合抜きの達人で博奕も好きなら女も抱くという型破りのヒーローに仕立て上げた。第一作「座頭市物語」は笹川の繁造の用心棒・平手造酒(天知茂)と下総言飯岡の貸元・助五郎一家にわらじを脱いだ市との対決。肺病病みの剣客・造酒を通してやくざ稼業の空しさが切ないほど表現されており、シリーズでも最高の出来だろう。シリーズは二六本続いたが中でも印象に残ったものを四、五本あげてみたい。
 「座頭市千両首」(三九年)は国定忠次(島田正吾)一家をまき込む千両箱強奪事件で悪代官を斬り身の証しをはらす。馬子の娘・千代(坪内ミキ子)が色を添える。「座頭市牢破り」(四二年、山本薩夫)は剣を捨てて百姓達と農業に励む大原(鈴木瑞穂)が一揆を企てたとの理由で縛につき、峠で市が悪役人を倒して救い出す。三国連太郎と西村晃が悪人を演じておりよく出来た一篇。「座頭市果し状」(四三年)、ある宿場町で医者の順庵(志村喬)父娘と知り合った市。松五郎一家で拷問を受けていることを聞いた市は、肩先の怪我をおして斬り合いにのぞむ。最後に弦八郎(待田京介)との対決になるが、相手を倒すと彼は順庵の息子なのだった。
 「座頭市と用心棒」(四五年、岡本喜八)金の延べ棒のありかをめぐっての争いで、これに公儀隠密がからむ。市と用心棒(三船敏郎)との対決は黒沢明に敬意を表したのか、シリーズでは初めての引き分け試合に終わる。若尾文子が助けているが、魅力には乏しい感じ。興行成績ではシリーズでもトップの大ヒットとなった。「座頭市・破れ!唐人剣」(四六年)。市は街道筋で瀕死の唐人から小栄という子供を預かる。南部藩でいさかいを起こして追われる身になった唐人剣士・王(王剛)の息子であった。懸賞金欲しさに王を追う藤兵衛(安部徹)一家は王父子を連れ去る。市は親友と信じていた覚全(南原宏治)から手痛い裏切りを受けながら藤兵衛一家を倒した後王と対決、敵を斬る。
 その後、「悪名」(一七本)「座頭市」(二六本)両シリーズは確実に興行成績を伸ばし、昭和三九年には日本映画各社の配収が軒並み一〇%ダウンという中で、ひとり大映のみが一〇%アップという奇跡を起こした。永田社長は「大映はめくらで目が開いたと言われるが、その通りだ」とラッパをふく。一方、カツシンは三五年からは「兵隊やくざ」(有馬頼義原作)シリーズを田村高広と共演で路線に乗せた。頭は弱いが正義感の強い、八方破れの無頼の兵隊・大宮貴三郎(カツシン)が、インテリ兵隊(田村高広)とコンビを組み、軍隊の非人間的機構の中でやくざの倫理をもって自由奔放に生き抜いていく、というもので、四七年までに九本のシリーズが製作された。
 天衣無縫の性格で知られ、五三年にはアヘン法違反の疑いで書類送検されたり、五四年には黒沢明監督の「影武者」の主役が決定しリハーサルに入ったが、黒沢と衝突、役をおろされたり、妻の中村玉緒との離婚声明などとマスコミをにぎわすことも多かった。
 カツシンこと勝新太郎は平成九年、六五才でこの世を去った。


心の故郷、第二アリアンサ

バウルー福寿会 酒井威夫
 第二アリアンサ鳥取村入植八十五周年記念祝典を、二〇一一年七月二十三日に催すからという招待状を戴いた。一九三四年から一九四八年までの、幼少青年時代を十四年間住んで居たことのある第二アリアンサは第二の故郷。六十数年前に住んで居た事があるので、知人の佐藤勲前会長のご好意である。
 孫のカーロ(車)で送って貰い、兄と二人で同日朝早く出掛けて第二アリアンサへ行く。午前八時半頃着くと、既にサンパウロからはアリアンサ郷友会の方たちが三台ものバスで来ていた。郷友会会長の橋浦行雄氏は昔馴染みの方。
 現在の第二自治会の会長は赤羽大作さん、記念祝典の委員長は中尾秀隆さん。鳥取村と言っても現在鳥取県出身は三家族だけとの事。昔は全体で二百家族も居た移住地も現在は、三十三家族。少人数の方々が心を合わせて入植祭を催し、大勢の参加者を歓待するのは大変な事であったろうと察する。
 鳥取県から派遣されて来て居る日本語教師の津村先生も祝典の司会等に活躍されていた。「のうそん」の永田久氏も来て居られた。同氏にはバウルーの老人クラブに、講演に来て戴いた事もあるので挨拶をする。隣近所に住んで居た、昔懐かしい方々にも逢う事が出来た。「老壮の友」によく寄稿される井口たき子様にも逢う。青年会時代の先輩竹内氏の妹君である。
 小学校・青年時代の友人等は現在誰もいない。遠くに住まわれているか、亡くなられた方も多い。八十周年記念祭にはまだお元気であった、先輩の大戸甲子雄氏も昨年末に亡くなられたと聞く。兄は同窓の中尾氏と六十年振りの再会をして話が弾んでいた。中尾氏は現在カンピーナス方面にお住まいで果樹栽培をされて居られる。
 祝典の詳しい事は、ニッケイ新聞の記事に詳細が載っていたので省く。
 慰霊法要を務められたお坊さんの、雁田米雄氏も現地生まれの二世の方。同地の最高齢者、昨年の二月に白寿を祝われた、雁田光子様の御次男である。小学生の頃に通った三キロもの道路、雨季には泥濘みセッカには砂ほこりの道も今は全部舗装されている。上り下りの坂道だったと思うのに今は坂も無い。当時の小学校。製綿工場・精米場。商店街だった中央区も今は寂れて往年の面影は無い。自治会館も解体され、瓦等は区民が共同作業で一枚一枚手洗いして、六十周年記念に新築された現在の会館に使用されたと聞く。
 『第二ありあんさ最初之入植地点・一九二六年八月七日』の記念碑も直ぐ側に建っている。
 昭和八年(一九三三年)生まれ。故郷の北海道を出てブラジルに来て一九三四年から一九四八年までの十四年間住んで居た第二アリアンサは私にとっての心のふるさとで、懐かしく思い出す事が多い。
 第二アリアンサの墓地を訪れると昔の覚えのある方々の名前の石碑を多く見かける。記された年齢を見ると若くして亡くなった方が多いこと、幼児の墓碑も多い。故郷を遠く離れて未開の地に、開拓に命を掛けた方々の辛苦が偲ばれる事である。


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