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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2011年11月号

2011年11月号 (2011/11/11) 不思議な国、ペルー

サンパウロ鳥取熟年会 遠藤タケシ
 やっとの思いで九月にペルーに行ってきました。
 ペルーの語源はインカ時代の先の原住民の言葉で「黄金」と言うのだとか。日本の三倍の広さで約六〇%がアマゾンの森林、三〇%が山岳地帯のはげ山、一〇%が海岸地帯の砂原と砂山ばかりで、年間降雨量が四百㎜です。これらはすべて利用されています。太平洋の寒流の関係で一年中霧があり、気温は思ったより上がらないので住み良い所です。リマ市には国の人口の半分の人が住んでおり、九百五十万人とか。市内はよく手入れされており、公園の花、芝生、木々など見ても気持ちがよく、散歩などに最高に良い所です。特に海岸の丘の公園など毎日行ってしまいました。行政地(セントロ)、金融街(サン・イドローゾ)、ホテル、カジノ、食堂、商業街と(ミラー・フウローレス)大変に分かりやすくなっています。「カジノ」はペルーでは合法でみんな楽しんでいるようです。それも中国人の経営が多いようです。
 しかし南米のどの国にでも見ることが出来るようにセントロより川を一つ渡った向こう側は山の中腹まで家がごちゃごちゃあり、道路は屋台の叩き売りの騒音や三輪車のタクシー、人の波で埋め尽くされています。どこからあのエネルギーが出るのか不思議に思います。やたらと壁に書いてある「KEIKO」の字、日本人として頼もしく見ました。
 私は考古学は好きでないので、博物館、古い教会などは少し見学しただけです。人文、地理は大好きなので、南の方の町に行きました。セイローアズール、ピスコ、パラカスー、イカ、ナスカなど片道三百七十キロも行きました。
 パラアカスの町はサン・マルチンが最初にペルーに上陸した海岸とかで美しい所です。
 軽飛行機(テコテコ)に乗り、上空より見学しました。自然条件ではブラジルはまったく天国ですよ!ペルーなど、どこまで見てもはげ山、砂山、砂原だけで森など見当たりません。ただアンデスの山より流れ出る雪解け水で出来た川の側だけ農業の敵地です。その水利権を持つ人が単作企業農業として大きく経営しています。
 牧畜は少ないので、牛肉は少ししかなく、鶏肉が多くその他少し豚、魚があるだけです。
 野菜は色々変わった品物があり見て歩くだけでも楽しいです。
 ペルーでは自動車工業は無く、輸入車だけ。中古車も入っているようです。日本車が多く、変わった所ではインド車が安いから入るとか。燃料は天然ガスを多く使用しており、ガスはエクアドルとイキストの近くのアマゾンからガスロードでピイウラの海岸に来て、液体化して使用します。だから「安い」とペルー人は自慢していました。市内交通は一本の市営のバスが南北専用路を走るだけ。その他は個人経営バスでそれも中古車ばかりですが、よく走り、安く、多数あります。私もよく利用しました。タクシーは個人経営だけでメーターは無し。料金は運転手と行き先によって決めます。だから市内をよく知る必要があります。日本人社会は「ペルー日系人協会」の上村ルイス会長が中心で、若い人たちから老人まで集まって楽しくやっていました。会館の中には店、銀行、TV部屋、食堂が二つ有り、すごく民主的で楽しく私も二回参加しました。個人会員で自由業や企業家が多く居るようです。
 最後の夜に「水の公園」で知り合った二人のペルー日系人と色々話が合いました。共に四世で、父方が日本人とか、一人は日本に働きに行ったとかで一緒に海岸の丘の上の店で特に夜景の美しい場所で食事をしました。
 その時は藤森さんの話になりましたが、彼は「藤森さんは欲を出しすぎたから、あんな事になった」と。しかしまだ「KEIKO」が居るからとの話でした。
 しかし彼によってペルーの政治、生活、産業は非常に良くなったと言っていました。だから町の中はゴミ、落書き、乞食、不良者、交通事故、その他などを見ませんでした。また、人々は慎み深いように感じました。良い国民だと、国もまた良いという事で是非また一度行ってみたい国です。


死語についての想い

バレットス壽楽老人クラブ 岩本みずほ
 「なんでも知っている馬鹿もいる」の寸言は作家・内田某のものだと記憶しているが、名前の全部は忘れた。要は「モノばかり知っていても仕方ないさ」ということだが、空っぽの我が頭をかばうのに重宝して来たものだ。
 近頃、死語となったものに「お転婆(てんば)」という言葉とか「何々らしく」「大和撫子」などというのがある。今、「撫子ジャパン」が新聞に載って、この頃お騒ぎであるが、快挙である事は間違いなくむしろもろ手を挙げてベタ誉めせねばなるまえと思っているのだが…。
 さて、死語になった「らしく」についてである。
 時は大戦が終わる数年前、筆者がまだ小学生のころ、毎朝大講堂にて校長先生が千人ちかくの学童を前に「男はおとこらしく女はおんならしく振舞なければならのである。そのようにすることは我が国の平和と発展につながるのである。諸君解ったか?」と、くどくどと幾つかの例えを引用して、いつものように終わりを知らない長教訓になった。要は、女は良妻賢母で、男は靖国神社の桜に帰るべし。これがあのころの「らしく」であったのである。小学生の筆者には、この校長先生は〃何でも知っている人物〃と教えられていて、「よしおれもりっぱな桜になってやる」と本気で思ったことがあった。その上、校長の服装はいつも軍服でおまけに長靴を履いていて、それはたいしたものであった。そンな訳で校長は全生徒の尊敬を集めていた。ところが、この「らしく」は今では通用しないばかりか、良妻賢母などと説くならば袋叩きにあうであろう。その証拠に女の大統領もでるし、女の伝道本部理事長も現出している。今さら「らしく」などどこ吹く風なのであろう。
 世の中は変わったが、昔説教された「らしく」は今の著者の人生には大変役に立ってきたし、これからも役に立つだろうと思っている。「何々らしく」は死語にしたくない言葉である。もっとも「撫子」は、ここしばらくは死語にならないだろうし、ますます頑張ることであろう。


興味ある話

サンパウロ中央老壮会 中山保己
 サンパウロ州ベテラノ陸上連合会会報に、競技に関係のない興味深いある話が載っていた。
▽UBUNTU
 二〇〇六年の世界平和祭がフロリアノポリスで開催された時、ジャーナリストのリア・ジスキンさんが、アフリカのUBUNTUという部族の話を被露した。
 ある人類学者が、ウブンツ族について数か月かかって一応調査が終わって、引き楊げるとき荷物を空港に送り出すまでの時間があまったので、教育的なことを施すのを好まない彼は、子供たちと、たあいない遊びで過ごそうと考えた。
 そこで、ドッセ(飴)などおいしい食物をいっぱい入れたセスタ(かご)を、ひもで結んで一本の木の下に置いた。そして子供たちを集め説明した。自分が〃JA〃といったら、みんなセスタの方へ走り、一番先に着いた者がセスタのものを全部とっていいのだと。
 子供たちは彼が地面に引いた線に並んで合図を待った。頃を見計らって彼が〃JA〃と叫んだ瞬間、子供たちはいっせいに走り出した。ところが向こうに着いた子供たちは、みんなでセスタのものを分けて、うまそうに食べはじめた。
 人類学者はみんなにきいた。「一人で先に着けば、みんないっしょに行くよりも、たくさんドッセが手に入ったのに、どうしてみんながいっしょに行って分けたの?」それに対する子供たちの答えは明快だった。「UBUNTUだよ、おじさん。もし私たちの一人だけが、もうかったら、他のみんなは悲しく見ているだけだよ…。」
 人類学者の頭は混乱した。この部族の生態を幾月も幾月も調査研究して、よく分かったと思っていたが、本質的なことは、さっぱり解かっていないじゃないか!もう一ぺんこの部族の問題点に挑戦する必要があるのではないか?
▽乞食と犬
 もう一つ、ほかの号に載っていたのを要約すると、乞食と犬はいつもいっしょで、乞食が眠っている時は犬がそばにいて見張りをしているし、犬が休んでいる時は、乞食が見守っていてくれる。サンドイッチをもらった時、乞食は挟んである肉を犬にやり、自分はパンだけを食べる…。
 こうして、乞食と犬は、共生しているという話。


シネマ放談(6)

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
江戸の捕物名人
 捕物帖の始まりは岡本綺堂の「半七捕物帖」というのが定説で、捕物帖という言葉も綺堂の命名になるもの。「半七捕物帖」は大正六年から昭和一一年までに六八篇が発表されたが、徳川期に関しての学殖が深かった綺堂が描く江戸は考証的にも実に正確な由である。ただし、この半七ものは推理小説というよりはむしろ犯罪小説に近いもので、江戸の風物誌といったおもむきが深い。
 野村胡堂が銭形平次をデビューさせたのは昭和六年で「オール読物」の創刊号に発表されたが、これが好評で戦中・戦後と二七年間に書き続けられ、長、中編を含め実に三八三編が執筆された。三〇〇編を超える物語のうち、同じトリックを使ったものが一つもないのが作者の自慢だったらしい。作者は平次ものの特質として¬容易に罪人をつくらぬこと、町人と百姓に愛情を持つこと、侍や遊び人を徹底的にやっつけたこと、全体として明るい健康的な捕物にしようと心がけたこと」の四項をあげているが、このあたりに作品の人気の秘密が覗えそうである。
 さて映画での平次親分といえば、長谷川一夫にとどめをさす。昭和二四年の「平次八百八町」を皮切りに三六年の「銭形平次捕物控・美人鮫」まで一八本に主演し、当り役としている。「からくり屋敷」。平次と八五郎(花菱アチャコ)が怪しげな新宗教の教祖のまわりで起きる殺人事件を解決する。悪党に踊らされて教祖にまつりあげられていた平次の幼馴染みのお琴(三浦光子)を助け、事件解決後には彼女の叔父の住む故郷に帰してやる。「幽霊大名」(昭和二九年)は三万八千石の大名・金森家の双生児、万之助、千之助(市川雷蔵二役)のお家争い。平次の恋女房・お静(井川邦子)が誘拐されるが、金森家の忠臣とその娘・百合(長谷川裕見子)の助力を得て事件を解決する。八五郎には渡辺篤。「死美人風呂」(三一年)は伊達藩のお家騒動。軽業娘のお鶴(美空ひばり)が大名の御落胤とわかる。
 八五郎に川田晴久、お静は霧立のぼる。「まだら蛇」(三二年)。元火付盗賊の大沼は悪徳商人、勘定奉行らの仲間とニセ小判を作って一もうけを企む。平次は女船頭のお吉(美空ひばり)と協力して悪党どもをやっつける。山本富士子、木暮実千代も競演し八五郎は堺駿二。
 「八人の花嫁」(三三年)。江戸洲崎」五万坪の埋立」地に八竜王の社が建立されることになり落慶式に八人の小町娘が選ばれるが、娘達が相次いで殺される。平次は八五郎(エノケン)を引連れて捜査に乗り出す。山本富士子、八千草薫が助演。「美人鮫」(三六年)。武蔵屋の娘が殺され、事件を追っていた平次は妙照寺の尼僧(近藤美恵子)が怪しいとにらみ調べるが、彼女も殺され平次たちは寺社奉行に捕まってしまう。しかし、麻薬撲滅に動いていた南町奉行のおかげで無事脱出し長崎へ。そこで平次は殺された娘が麻薬と交換に売られた娘だと知る。八五郎は船越英二。
 このほかの主な作品は次の通り。「からくり屋敷」(昭和二四年)「平次八百八町」(二六年)「銭形平次」「地獄の門」「恋文道中」(二八年)「金色の狼」(二九年)どくろ駕籠(三一年)「人肌蜘蛛」(三二年)「女狐屋敷」(三三年)「鬼火灯篭」「雪女の足跡」(三五年)「美人蜘蛛」「夜のえんま帳」(三六年)。長谷川は昭和五九年、七六才で亡くなっている。
 ところで、「銭形平次」は大川橋蔵の平次でフジテレビでも放映されている。最初は長谷川のイメージを破るのに苦労したらしいが、回を追うにつれて次第に橋蔵独自の平次を創り出して貫禄をつけていき、ライフワークとしたのは立派である。長谷川によって育てられた平次像は橋蔵によって完成されたといってもいい。昭和四一年五月に始まった同番組は五九年四月まで続き、テレビの一時間番組では世界最長を記録し橋蔵は番組終了後、同年十二月に五五才で他界したが、奇しくもそれは長谷川の亡くなった年でもあった。恋女房、お静の役は八千草薫、鈴木紀子、香山美子と代っている。


探索日系コロニアの社交クラブについて(1)

スザノ福博村福寿会 杉本正
 奇抜な題名であるが内容を読まれ、もしもご存知の方が居られればと社交クラブがあった頃について書いてみる。
 今から七十七年前の一九三三年の事。同年八月に日本外務省が南米諸国との友好親善交流をスポーツを通じて図る目的のもと、当時第一線で活躍中の陸上選手六名を選出した。
 その頃の記録は今から見ると雲泥の差ではあるが…。
 ちなみに選手の名を挙げると、福井行雄(主将)は四〇〇米ハードル障害。大島鎌吉は走り幅跳び、三段跳び、藤枝は八〇〇米と一五〇〇米、住吉耕作は槍投げ、朝隈善朗は走り高跳び、大江秀雄は棒高跳びの六名。南米諸国において親善試合を行いつつ好成績を挙げながらブラジルに到着された。
 九月十日サンパウロ市のパウリスタクラブ競技場にて日伯親善陸上競技大会が開催される事になった。当時、コロニアで名士だった鈴木タケシ氏、藤平正義氏らが中心となって邦人陸上競技大会を開催。当日の日伯大会にはコロニア軍として参加された。
 日本国選手の活躍をひと目見ようと遠方各地から多くの同邦が応援に駆けつけた。私たちも青年会が発足したばかりで、スザノの町まで九キロも勇んで歩いていったものである。
 日本選手一同も応援に来た同胞に深く感激されその期待に沿うべく善戦。実に日本人らしく倒れて後悔い無しとも言うべき悲壮なる試合であったと今もって胸を打つ思いである。彼らにとっても生涯忘れることの出来ない試合であったと思う。私はこの試合を感激を持って見、心から応援した。日伯対抗陸上競技大会が、私が陸上競技を行う動機となり、また今もって陸上が最上の趣味としてあるものである。
 当日の試合の粗筋を紹介すると、福井選手の四〇〇米障害は当時すでに世界的に有名なバジリア選手が優勝し、日本新記録を出しながらも惜敗した。
朝隈選手は足を痛めて出場を差し止められたにも拘らず同胞に申し訳ないと男泣きし、後にどのような足になろうとも構わないという悲壮な決意のもとに出場され、見事一米九〇で相手を破った時の感激は今思い出しても涙が出る思いである。
 槍投げの住吉選手は自己の持つ記録を破り六十六米幾センチかの日本新記録。藤枝選手は八〇〇米で一分五九秒台の日本記録に迫る好走で、大島選手は一〇〇米でイボ選手に一〇秒六で破れるが走り幅跳び七米三、三段跳びでは得意とする十五米に迫る好成績で破る。大江選手は海外遠征は初めてとあって、若年のためか、棒高飛びで老巧なるカストロ選手に四米にて惜敗。
 ついでに記すと、大江選手は後年、大戦の戦場に赴き、華々しい戦死を遂げられたとの報に接した。
 この大会にこれほど多くの同邦が応援に駆けつけるとは予想もしなかったことだろうし選手一同も心から感激し、活躍、健闘してくれた姿に私は深く心を打たれ、見た人は誰しもが感激されたと思う。
 大会閉会と同時に選手一同に送る言葉として「万歳」を叫んで、惜しまれながら別れたものである。私は帰りの道すがら、この大会を尽きぬ話で話し、家には夜中に到着した。
 当時は村の入植者も数えるほどで、村の若者にとっては娯楽の乏しい時代であった。(つづく)


年金受給者の自覚(2)

サンパウロ名画倶楽部 永田敏正(七十一歳)
 日本年金機構という新しい組織が、政府内にできました。厚生労働省社会保険庁が、独立したものであります。
 国会で問題が明るみに出されて以来、国民の信用が、がた落ちしてしまったのでした。その中からでも、現在、ニケ月ごとに、きちっと年金が、送金されてきます。本当にありがたいことであります。
 ここまでになるまでには、書類提出から、資格審査を得て、苦労に苦労を重ねて、見事に認定されてきたものと思います。
 私も、十六歳から二十年間、二社の会社で勤労してきたのでした。ブラジルへの移住で、空期間(からきかん)が、二十四年間ありました。六十歳になってすぐ自分で申請手続きをしまして、三ヶ月ぐらいで返信が来て、ブラジルでの必要書類を取り寄せ、郵送したものでした。
 もう十年も前のことであり、詳しきことは忘れましたが、扶養家族である家内の分も、提出したものでした。
 まもなく、振込み通知書が、郵送されてきました。その頃の取引銀行は、南米銀行でしたから、偶数月には、自動的に入金になっていました。
 ブラジル中央銀行にて、ドルからブラジル貨幣に換金されてきますので、個人的には自由にはなりません。
 その頃から、円、ドル、レアルの相場に感心を持って、新聞を読むようになったのでした。わずかな金額でも、損得の変動でがっかりしたり、喜んだりと、家内との話の材料でもあったのでした。
 今日までの問題としては、毎年、誕生月には、現況届けを、提出しなければなりません。日本から、用紙が郵送されてきますが、ブラジル国内の事情で、届かなかった場合があったことです。月末には、日本へ着かなければならないので、どんなに遅くても五日までには受け取って、その日に領事館に持って行って見せてから、在留証明書を貰ってきて、あくる日には、速達便で郵送するのです。この仕事が一苦労です。待っても待っても、配達されてこない時があるのです。
 年金機構に電話したこともありました。領事館へ行って、事情を話し、特別に証明書を貰ったこともありました。今では、年金証書のコピーを持っていけば、在留証明書は、発行してくれます。
 思えば、日本の年金制度は、しっかりしています。記録も正確にされていました。日本では、でたらめな仕事だ!大損だ!弁償してくれ!などと騒ぎたてていると聞きましたが、大半の人は、法律に決められた通りに、受け取っているのです。
積み立ててきた自分のお金とはいえ、何十年間も、何千万人もの個人管理と運用をする側、国のしごとも、大変な大事業だと思うのです。うまくいって当たり前、少し間違いがあれば、文句をいわれる。政府の仕事というものは、国民からみれば、そんなものでしょう。
 でも、私は、「良くやってくれている、どうもありがとう」と感謝しております。
 ブラジル銀行での問題がありました。入金になっていないのでした。(つづく)


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