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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2011年12月号

2011年12月号 (2011/12/11) エジプトとイスラエルの聖地巡り

サンパウロ中央老壮会 栗原章子
 友達に誘われ、福音教会のグループと一緒にキリスト教の聖地巡りの旅行に行ってきた。私は名ばかりのクリスチャンだが、福音教会の方々は敬虔な信者で、朝晩の祈りは欠かさず、バスの中では賛美歌を歌ったり、熱心にガイドさんの説明を聞いたりしていた。エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を引き連れてモーゼが辿ったと言われている道のりに感動したり、十戒を授かったシナイ山に夜中の一時から八時にかけて、真っ暗闇の中、石や岩だらけの山を上り下りしたりと元気そのもの。私は皆がシナイ山に登っている間、運動不足を理由にホテルでグーグー寝ていた。夜中に登山を開始するのは、砂漠地帯は日が出ると暑すぎて、とても登山などできないからとのこと。
 この旅行では、聖地巡りばかりではなく、結構観光気分であちらこちら見て楽しむこともできたし、信者の皆さんとて人の子。バスがどこに止まっても先ず買い物に時聞をかけて、それからおもむろに聖地巡りをするといった具合。
 カイロ市内にあるピラミッド、エジプト考古学博物館のツタンカーメンの埋葬品の数々などを鑑賞したり、ナイル川の遊覧船でエジプトの踊りを楽しんだり、紅海では海水浴をし、死海では美容にいいという海の底に溜まっている黒い泥を体中に塗ったりと楽しみも多かった。ただ、ピラミッドは広大な砂漠の中にあるのかと思っていたが、期待に反して、周りを街に囲まれた高台にあり、バスがカイロ郊外を走っている頃、「あっ、ピラミッドが見えてきた」とガイドさんに言われ、「あれ!砂漠はどこなのよ!」といった感! また、カイロ市内ではゴミをあさっている子供達も見受けられ、胸が痛んだ。
 イスラエルはエジプトよりずっと近代的な国家といった感じがした。
 イエス・キリストの足跡を辿り、全国をバスで回った。塀で囲まれたアラブ人の町が結構あったのには、勉強不足の私にとっては驚きであった。また、どこもここも砂漠地帯で砂地なのに、オリーブの木、椰子(デーツ)や他の果実の木などが茂っていて、ユダヤ国民の勤勉さに感心させられた。しかし、常に危険と隣り合わせの生活をしているせいか、国民は守りを固めた冷たさを感じさせた。悲しい歴更をもつ民族のわりには、その歌は「ハヴァ・ナギラ」に代表されるようにリズミカルで意外なほど明るく、何だか救われる思いにさせられる。
 エジプトもイスラエルもそれぞれに問題をかかえた国だが、その国民はたくましく、精一杯生きていて、海外旅行をする度に少しずつ見聞を広めることができ、心地よい心境になる。


文豪の名作CDを聞いて

サンパウロ中央老壮会 新井知里
 日語新聞もそうだが、私はこの「老壮の友」が出るのを首を長くして待っている。そして、隈(くま)なく読む。なぜなら紙面から異国で一生懸命生きていることが伝わってくるからである。
 生活の智恵、旅行やカラオケの案内、各教室の様子、何でも載っている発行に携わっている皆様に感謝するばかりである。
 中でもこの十二月号の「明治、大正、昭和の文豪の名作CDを好評貸し出し中」の記事に目が引きつけられた。
 畠山智子さんという方のご寄贈だという。ポ語教室に通う折、見ると立派な箱入りの全十巻がずらりと並んでいる。
 「老壮の友」の紙面では視力の弱い方、あるいは外出のできない方、日本語が話せても読めない方にお勧めの嬉しい贈り物だと書いてあったが、私はまだそのどれにも該当(がいとう)しないけれど魅力的なCDである。
 仕事からリタイアしている夫と二人でソファで聞きながら日本文学の勉強をするのも悪くない。
 ずらりと並んでいる中からまず、田山花袋の「蒲団」を選ぶ。朗読は好きな俳優の橋爪功だ。この「蒲団」は恋愛小説の極意だと何かの本で読んで、いつか読みたいと思っていた小説である。そして志賀直哉の「小僧の神様」この小説は短編の見本だという。これは朗読が寺田農である。どちらも早く聞いてみたい。
 わくわくする思いで家路を急ぎ早速二人で聴くことにした。
 すると何と素晴らしいこと。橋爪功の朗読は音色まで使ってぞくぞくする話術である。一巻ごとに紅野敏郎の解説もついているので当時の時代背景も分かり私たち夫婦は大変勉強になっている。この巻全部を借りて来て、遅ればせながらまた青春の血を燃やそうと思っている。
 寄贈され、日本へ帰られたという畠山智子さん、お世話下さった皆様、本当にありがとうこざいました。


シネマ放談(7)

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
新兵さんはカワイソウ
 一九四五年八月、第二次世界大戦の敗戦国となった日本には、悲惨な体験に基いた数々の反戦、厭戦映画の名作が生まれた。そして戦後一〇年以上を経てからは軍隊生活を懐古的に眺めた戦争映画も現れてきた。棟田博原作の「拝啓、天皇陛下様」(昭和三八年)、有馬頼義原作の「兵隊やくざ」(三五年)もその範疇に属するもの。このほかにも「独立愚連隊」(三四年)の系統のように戦争を西部劇風な活劇ものに仕立てた一連の作品もある。
 「二等兵物語」は梁取三義原作の軍隊喜劇小説なのだが、当時松竹にいた喜劇役者・伴淳三郎が自ら見つけて企画線上にのせたもの。伴と花菱アチャコの中年二等兵コンビが、帝国軍隊という不条理の世界で巻き起こす悲喜劇を描いたものだが、折からの復古調ブームに乗って大ヒットシリーズとなり、伴の当たり役ともなった。
 第一作「二等兵物語、女と兵隊・蚤と兵隊」(昭和三〇年)は古川凡作(伴淳三郎、二作目からは古川源吉)が急な神経痛の発作で足腰が立たなくなり、乳母車で入営したことが新聞に美談扱いとなり、悦子(宮城野由美子)が慰問に来ること。ひょんな手違いから若林隊長に気に入られ従卒に抜擢されて隊長の愛人マリ(関千恵子)と結婚させられること。終戦の日、隊長以下の古参兵たちが物資を奪い合うあさましさを見せつけられた古川が怒り狂う結末。「続二等兵物語・五里霧中の巻」(三一年)。源吉は代用教員冴子(伊吹友木子)と仲好くなったが、班長の大垣(山路義人)からことごとにいびられて死にそうな目にあうが、最後に叩きのめして戦地へ向かう。三番手「続二等兵物語・南方孤島の巻」(三一年)は南洋の孤島で米軍の連日の空襲に脅えながら古参組の召使同然の待遇に不満がつのる。食糧調達に歩いて源吉たちは村娘のアレン(伊吹友木子)姉妹と知り合って仲好くなる。「続二等兵物語・決戦体制の巻」(三二年)。源吉が柳(アチャコ)の妹・鞠子(伊吹友木子)に惚れてしまう。空襲で民家が焼けた際に、兵舎の守りを優先しろという隊長の言を無視して鞠子を救う。
 第五作の「二等兵物語・死んだら神様の巻」(三三年)はシリーズ中では最も面白く出来ている。戦場を経験している佐々木上等兵(伊藤雄之助)の体験談には皆が青くなる。隊長らは御用商人・飯田(トニー谷)と結託して軍の物資を横流ししていたが、佐々木が上官に通告したため軍法会議にかけられる。源吉と柳は内地勤務を命じられるが、二人は戦地行きを申し出る。次は「二等兵物語・あゝ戦友の巻」(三三年)。前線で怪我の功名で軍曹に昇進した源吉が内地に帰って来た。部隊では源吉を沖縄戦線へ行くように画策する。浮浪児の次郎を旭幼稚園長の鶴枝(浪花千栄子)に託すが、ここで婦人記者・洋子(山田百合子)に会い胸をときめかす。源吉に対する仲間たちのやっかみはひどくなるが、最後には殆どのものが沖縄へと出発する。第七作「二等兵物語・万事要領の巻」(三四年)。今回は航空隊での騒動。南方派遣の途中で輸送船が沈没、漂流中を飛行機に助けられて航空隊に入る。「新二等兵物語・吹けよ神風の巻」(三四年)。古巻(伴淳三郎)は竹田二等兵(三木のり平)と親しくなるが彼は兵役逃れに唖を装っていた。菊村隊長(山路義人)は妾の松子の料亭に軍の隠匿食糧を運んでいた。松子の妹・啓子(有沢正子)は姉に似ず清純な娘で古巻は一目惚れ。菊村隊は下関から広島に引き返す途中に原爆に遭う。
 八月一五日に戦争が終り軍資金の横領を企んだ菊村隊長らを古巻らの二等兵が追って機関銃の威嚇射撃で捕える。第九作は「新二等兵物語・敵中横断の巻」(三五年)。中支の小都市の駐屯部隊にすばしっこいが慌て者の横田(伴淳三郎)と正直一途で要領の悪い花岡(アチャコ)が転属されてくる。慰安所騒動。中国料理屋の陳はゲリラ隊長だった。「新二等兵物語・めでたく凱旋の巻」(三六年)は最終作。支那の中部部隊に入隊した横田(伴淳三郎)は初年兵教育係を命じられたが、ヘマをしでかす初年兵を何かとかばってやる。やがて最前線へ。方向を誤って敵軍の後方へ入り込んだ。決死隊を志願した横田と花岡は土民に変装して敵軍にもぐり込む。支那の女兵と知り合うが敵の中にも軍物資を横流しして自己の栄達を計っている運大佐(名和宏)の一味がいた。
 伴淳三郎ことバンジュンは〝駅前シリーズ〟にも森繁久弥、フランキー堺と三人のコンビで全二四作に出演、東北弁のいかにも人間くさい中年男で笑わせてくれた。また、社会福祉活動にも献身的で、「歩みの箱」では二度にわたってブラジルを訪れている。
 昭和五六年、七三才で亡くなっている。


闇の一日を観て

セントロ桜会 菊地桜子
 今から六十五年ほど前の敗戦後の、あの忌まわしい日本人同士の勝ち負けの事件。
 畏(おそ)れ多くも昭和天皇の玉音放送を聴き、放心状態になり、悲しみに打ちのめされた事。一生忘れられない。敵国の中に生きていた私たち、何事もないようにブラジル人との接触にも気をつかい、圧迫され苦しい生活を強(し)いられていた。
 私たちは店を持っていたので、近所の人やブラジル人からもうわさを聞いていた。義兄私たち一家は認識派だったので、特攻隊らしい青年が「義兄を殺す」と言っていると聞き、不安な毎日だった。その頃すでにもう何人かの有名な人たちが暗殺されていたので、マリリアの警察に行って所長に訳を話したら、ピストルを出し「これを持って行け。危ないと思ったら先に撃って構わない。警察が責任を取るから」と言われて借りて来た。その後、何ヶ月も夜警の人まで回してくれ、警護をしてくれたドトール・チノッコ。お世話になったことは今でも忘れられない。
 二十年余り前、サンパウロ新聞社から出されたブラジル日本移民の一九〇〇年代という本が手元にある。その本の中に四六年四月三日の日付のフォーリャ・ダ・マニャンと警察が臣連本部に踏み込んだ時の様子が書いてある。祖国の敗戦を知りながら捏造偽造をし、日本人を騙し寄付や会費を取り、演説などで「不純物を一掃し、徹底的浄化工作」をも示唆する。こうして下部組織には挺身隊、または特攻隊と呼ばれるテロ分子も包含されていったと書かれている。
 あのフィルムの話と少し違うようだ。今、私たちの住んでいる近くのアパートに脇山夫人が一人暮らししている。長い人生をどう過ごしてこられただろうか。胸が痛む。


探索日系コロニアの社交クラブについて(2)

スザノ福博福栄会 杉本正
 この日伯陸上競技大会を見たのをきっかけに青年会としても陸上競技を行うことにして早速練習ができるグランドを作る。日課の仕事は疎(おろそ)かにはできず日曜日ごとの集まりで楽しみを兼ねて練習に興じたものであった。
 特に私にとっては夢中というか毎夜、暗がりでも練習に励み、雨の時は物置で体操をし、「変わっている」と言われたほどであった。
 その頃、おぼろげながら浮かぶのは日系社会に移民たちの健康を守るためとして、同仁会と互生会という少ない医者達が中心となって活動されていた。その互生会が主催して、一九三三年十一月十九日サンパウロのアクリマソン地区で第一回少年陸上競技大会を開催すると新聞に載った。年齢は十七歳までということで、早速私たちの青年会でも私をはじめ五名が参加する事となった。当時、村には車などなく、父親などはサンパウロ市内に行くには夜中に起きて、戻るのも夜中といった時代である。
 当日、私たちは午前二時に起床し、参加者五人が揃ったら、兄の引率でスザノ町まで歩き、午前五時の汽車で向かう。当時のセントラル線は石炭炊きの蒸気機関車だった。ブラス駅に下車し、ラルゴ・ダ・セ行きの電車に乗り、終点で乗り換える。
 当時のサンパウロ市の人口はわずか七十万人。私たちはジャバクアラ行きの電車に乗って、大会地のアクリマソンへ向かう。そこまでの距離は分からないのだが、途中で下車するという事であった。その頃、ジャバクアラまで電車が通じていたものかどうか、残念ながら私の記憶はない。
 電車を下車してまず驚いたのが、これから行こうとする社交クラブが小森林地帯の中にあり、小砂利の歩道を歩きながら、「こんな山の中を選んで社交クラブを造るよりもっと開けた場所があったのではないか」と勝手に語り合ったものであった。
 ここで少し寄り道するが、今のアクリマソンしか知らない人にはちょっと想像できないかも知れませんが、その当時はサンパウロには森林地帯が所々あったものだ。
 後日、見事に変貌したアルト・ピニェイロス地帯にいたっては、湿地でガマ地帯だった。こんな土地でもいつかは開拓されていくのだろうから、買い占めた者がいたら、大した土地成金となったかも知れない。
 さて、コロニアの社交クラブがいつ頃できたものかと先輩の何人かに聞いてみたが、どなたも「クラブがあったことなど一向に知らない」との事だった。新聞社にでも行って調べれば分かるかとも思ったが気が向かず、自身の推量で書き記す。八十年以上も前の事であるが、当時、サンパウロ市にも結構日本人が在住されておられたはずと思うが、一般的には集まって交流し合うという気持ちはまだ薄かったかも知れない。そんなことから心ある有志の方々が寄り合ってお互いに交流の場でも設けたらとの話が進められて「コロニア社交クラブ」というなかなか粋な名称にて創設され、サンパウロ市在住者の憩の場とされた。名目はそうでも「社交クラブ」などと粋な名称すぎて一般人には行きにくく、ある程度、顔の知られた人たちの利用ではなかったかと思ったりする。
 ついで覚書として当時、移民たちの健康保持のためにできた同仁会と互生会は内容には多少差があるようだが、高岡専太郎医学博士がこの方面で活躍されたようである。(つづく)


年金受給者の自覚(終)

サンパウロ名画倶楽部 永田敏正(七十一歳)
 私は、ブラジルへの移住者では、全くの新人の方であります。
日本人会の会合に出たりしますと、七十一歳では若者扱いであります。やはり、戦前からの八十、九十代の大先輩には、圧倒されることがあります。
 そんな大先輩には、必ず、私の方から声をかけます。近況を闇いたり、日本語新聞を読んでいますか?とか、日本からの年金を受けとっていますか?と、話題がいつも決まっていますが、するすると言葉が出るのです。
 その中で、「昨年の十二月分の日本からの年金が、半年経った今でも入っていないので困っているんだよ」との話が出たのです。さあこれは一大事とばかり詳しく話を聞いていきました。
 サンタンデル銀行とのやりとりでは、日本側からの、送金証明書を取り寄せてくれとのことで、なれない手紙を書いたというのです。
 年金機構の係りから、「確かに、送金していますので、ブラジル側の銀行と解決してください」との丁寧な返事がきていました。
 私も何十年と問題なくきましたし、本人もそうであったものですから、とにかく娘さんと粘り強く交渉していく以外にありません。最後には弁護士に頼んででも、銀行での事務処理の不手際を追求していきましょうと激励して別れたのでした。
こうした相談を受けて、知ったことですが、日本年金機構は、東京三菱銀行を通して、同行ニューヨーク支店、ロイヤル銀行経由で、サンタンデル銀行に入り、ブラジルにて、個人口座に振り込まれる流れになっているのです。
 私たち受給者は、口座のある支店にて、入金確認を必ずした方がいいようです。振込み実行が、止まっている場合があるのです。私も今までに何十回とありました。人数によっては、大きなお金になりますから、一日止まるだけでも凄い金利の利益になるものですから、黙っているお客さんには、ゆっくりしたものでしよう。
 さて、話がかわりますが、気になるのは世界規模での不況です。日本の災害復興増税問題ばかりではありません。ギリシャも、破産しかけですし、イタリアも、IMF管理下に入り、年金削減になる可能性があるのです。アメリカ財政も物凄い借金で、オバマ大統領の人気も、がた落ちです。当面はわが祖国日本のことを心配していますが、アメリカの輸出拡大、雇用拡大政策のために、日本、アジアへ、強行に、押し売り攻勢にでてきます。
 これがTPP参加、不参加という大問題となって押し寄せています。政府民主党も、まとまらず、自民党も政権奪還だけを狙っています。
 せめて海外居住日本人こそ、冷静になって、日本の将来を、正眼視でもって展望していきたいと思っています。これこそ、年金受給者としての報恩になると思うのです。(おわり)


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