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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2012年1月号

2012年1月号 (2012/01/14) 新年の御挨拶

老ク連会長 五十嵐司
 新年明けましておめでとうございます。
 会員の皆さまにはご家族お揃いでよい年をお迎えこととお慶び申し上げます。
 さて、振り返ってみますと、昨年は歴史的にも大変な年であったと痛感します。年頭にはリオの水害、続いて東日本の大津波を伴った地震、タイ国の水害、トルコの地震などが立て続けに起こり、これらは地球温暖化によるものとか、長年蓄積されていたエネルギーの噴出による地殻変動によるものとか様々な説が唱えられていても確たるものはないようで、想定外の大被害となりました。折からの金融」・財政の混乱の解決に各国が苦慮しているさなかにこれらの自然災害の発生が多発したわけでした。
 東北地方東部ではおびただしい数の家畜や施設が破壊され、多くの人が津波に押し流されて命を失いました。加えて、福島の原子力発電所の損壊も激しく、ようやく放熱を抑えている程度で、修理・復旧のプログラムも出来ていない様子ですが、現場の関係者たちは命がけで放射能汚染の拡大を防いでいると報道されています。そして既に、被災地の取りかたづけや、仮設住宅の建設など外国からの援助隊も含めたボランテイアの方たちも手伝って着々と進んでいるようです。さて、私はインターネットで内地の新聞のある論説を読み同感の思いがしました。それは第二次世界大戦からの復興について書かれたものですが。
 世界中を相手に戦って破れ、国中が廃墟と化した日本とドイツが十年余りで世界二位と三位の経済大国に上がった秘密は両国民が優れた頭脳と気力を持ち、それに加えて両国とも単一民族特有の団結心と三つを合わせて困難に立ち向かったからであると論じていました。私は思いますに、二十年以上かかると言われる今回の東北の被害からの復旧についても、今年から十年を出でずして完成し、あの広島・長崎が以前より立派な町並みとなったと同じように成功されると固く信じています。
 私たちも内地の同胞を励まし、こちらも負けずにこの国の建設に役立って行きたいと願っています。
 新しい年が加盟クラブのご繁栄と会員の皆さんのご多幸をもたらす幸ある希望の年となりますよう心からお祈りいたします。


年頭所感

(在日本)全国老人クラブ連合会会長 斎藤十朗
 新年あけましておめでとうございます。
 ブラジル日系老人クラブ連合会の会員の皆さまには、健やかに新年を迎えられたことと
お慶び申し上げます。
 昨年三月十一日に発生した東日本大震災では、皆様から多額の浄財とあたたかいご支援をいただきまことにありがとうございました。あらためて厚くお礼申し上げます。
 国内の老人クラブでも支援の輪を広げ、八億円を越える救援募金が寄せられました。また、高齢者のまごころを届けるため、タオル・石鹸・使い捨てカイロ・歯ブラシなどの生活物資を会員それぞれ持ち寄り、あるいは奇贈いただくなどして小袋に詰め、これにメッセーを添えた通称〃元気袋〃の作成を呼び掛けたところ、全国から約十二万袋が寄せられました。高齢者ひとり一人の力は小さくても、結集すれば大きな力となることの証左であろうと思います。
 さて毎号お送りいただいている「ブラジル老壮の友」に、日本国内の言葉の乱れや瞹味な表現を奇惧され、将来はブラジルが表現の多様性を誇る美しく正しい日本語を守り続け、
日本のお手本になりたいという一文が目にとまりました。
 遠く離れた母国に思いを寄せ、日本人として誇りを持ち、ブラジル発展に貢献されてきた皆さまの心意気が強く感じられるとともに、いまこそ日本に暮らす私たちが言葉や暮らしを見つめなおす時ではないかと思い起こさせていただきました。
 あの被災後の混乱のなかでも暴動や略奪もなく、整然と食料や物資の供給を待ち並び弱者を気遣い、励まし、寄り添いながら絆を深めてきた日本人の姿を誇りに思い、皆様のご指摘を謙虚に受け止め、困難な時代を乗り越えていかなければならないと考えています。
 本会は今年創立五十周年を迎えます、先達が掲た「老後の幸せを自らの手で」が発足の原点です。高齢者が互いに助け合って、生きがいや福祉の向上に努めるところに老人クラブの存在意議があります。
 創立から半世紀を経て、日本は少子高齢化のさなかにあります。社会の活力を維持するためには、高齢者がさまざまな分野で、その能力に応じた力を発揮することが大事になってまいりました。またパワーの源となる健康づくりを強化する活動を重点的に進めております。いまや高齢者の生き方が日本の活力を左右するほど重要な意味を持つ社会になったと言っても過言ではありません。両国の情報交流によって、互いの活動がさらに良い刺激を受け合い向上することを期待しております。
 最後になりましたが、貴会のますますのご発展と会員各位のご多幸を祈念しまして年頭のご挨拶といたします。


新年のご挨拶

在サンパウロ日本国総領事 大部一秋
 二〇一二年の年頭に当たりまして皆様に謹んで新年のご挨拶を申しあげます。
 最初に、昨年三月十一日に発生した東日本大震災によって亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。今なお、避難生活を余儀なくされている方々が多くいるのが現状ですが、一日も早い復旧・復興がなされることを切に願っています。この大災害に際し、ブラジル社会、また日系社会の大勢の皆様からいただいた温かな連帯の表明、そして力強いご支援に対し心より御礼申しあげます。
 「ブラジル日系老人クラブ連合会」は、創立以来、会員相互の親睦を図るのみならず会員の皆様の生きがいにつながるような活動の推進に積極的に努めてこられました。また老人週間、芸能祭、スポーツ活動など恒例となりました数多くの事業に取り組まれ、今やブラジル日系社会の大切な団体のひとつに発展されました。役員始め関係者の皆様方のこれまでのご尽力、ご貢献に対し、心から敬意を表する次第です。
 私はこの三年間で百を超える町や日系移住地を訪問しましたが、いつもながら深く心に感じたものは、日本人開拓移民、移住者の皆様方の波乱万丈の人生とそれを乗り越えてきた忍耐と努力、そして不屈の精神力でした。道なき道を切り拓き、働きに働いて社会の信頼を勝ち得、農業を始め様々な分野でブラジルの発展に大きく貢献されました。また、後に続く子弟をも立派に育てあげられました。そのお陰で、ブラジル社会において日本及び日本人に対する信頼は厚く、日本とブラジルの友好関係は人と人との心の次元にまで達する深く強いものとなっています。
 このような百年以上にわたる友好と信頼の歴史という強固な基盤の上に、現在日伯の両国関係は大きく発展し、様々な分野で爛漫と花が咲き香っています。
 今後、日伯両国の間では、政治・経済・科学技術・社会・文化・教育・学術・スポーツ等あらゆる面で重層的な交流が拡大し、日伯両国のパートナーシップが本格的に強化、拡大されていく時代が到来するものと強く感じています。
 国際社会の中でも、ブラジルは中国、インド、ロシアと並ぶ重要な新興国として急速にその存在感を増してきており、大きな注目を浴びています。二〇一二年の「リオ+ 」(国連主催の地球環境に関する国際会議)、二〇一四年のワールドカップ、二〇一六年のリオ・オリンピック、二〇一八年の日本移民百十周年、二〇二〇年のサンパウロ万博の可能性、そして二〇二二年のブラジル独立二百周年へ向けて、ブラジルは、「黄金の十年」とも言うべき時代を迎えて、今大きく飛躍しようとしています。
 そうした状況の中で、日本とブラジルの架け橋である日系人の皆様の存在は益々重要なものとなってくると考えます。先人の開拓者たちや皆様が築かれた土台の上に、皆様の若い後継の子弟たちが雄々しく羽ばたいてブラジルの国造りのため、また日伯友好関係の発展のために大きく貢献していかれますことを心より願います。
 最後に、ブラジル日系老人クラブ連合会の皆様におかれましては、どうか今後ともご健康に留意され、楽しく明るい幸福度一〇〇%の大満足の日々を本年も悠然とお過ごしになられますよう心からお祈り申し上げ、私の年頭の挨拶とさせていただきます。


新年のご挨拶

国際協力機構(JICA)ブラジル事務所所長 室澤智史
 新年明けましておめでとうございます。
 ブラジル日系老人クラブ連合会の皆様におかれましてはつつがなく新しい年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
 旧年中は、当国際協力機構(JICA)の事業に対して、ご協力を賜り、厚く御礼申し上げます。また、昨年の東日本大震災に際しましては、温かいお言葉やご支援をいただき、政府関係機関の一員として改めまして御礼を申し上げる次第です。
 本年三月には震災後一年を迎えますが、被災者の中にはご高齢の方も多く、震災後初めての寒い冬を仮設住宅等の厳しい環境の中で生活されていると思うと胸が痛みます。例年のお正月のような祝賀ムードではないと推察され、ブラジルからも励ましや連帯の温かい気持ちを届け、これらの方々の心を温め、さらに絆を深められればと切に希望しています。
 ご承知の通り、日本は、平均寿命、高齢者数、高齢化のスピードという三点において、世界一の高齢化社会といえます。総務省が発表した推計人口(二〇一〇年九月十五日現在)によると、六十五歳以上の人口の総人口に占める割合は二三・一%となっています。実に日本人の約五人に一人が六十五歳以上の高齢者ということになります。このような現状から、高齢者の健康、介護、年金等の問題は日本政府の大きな政策課題となっていますが、厳しい財政事情を背景にこれらの社会サービスを提供するための財源確保は困難さが増しています。
 JICAは、高齢者介護、ソーシャルワーカー、栄養士などの職種のボランティアの派遣を通じて、ブラジル日系社会の高齢者福祉に対するご支援を行っています。ボランティアは日本の知識や経験を皆様に伝えるだけではなく、ブラジル日系社会の高齢者問題への取り組みを学び、日本に持ち帰って自身の活動に生かしたり、地域社会に広く伝えたりしています。協力は実施する側からの一方通行ではなく、受け取る側と相互に学び合うことといわれます。日本とブラジル日系社会の高齢者問題に携わる人々が互いに学び合い、助け合う関係を築き、継続することが大切だと思います。
 JICAでは今後ともボランティアの派遣を通じて、ブラジル日系社会の高齢者問題へのご支援を継続する所存ですので、引き続き皆様のご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
 この新しい年が貴団体及び会員の皆様にとってより良き年になるよう心より祈念いたしまして、私からの年頭の挨拶とさせていただきます
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


今年も良い年を

元JICAシニアボランティア 宇野妙子
 昨年は、大好きなブラジルで皆様にお目にかかれて、大変嬉しいことが多い幸せな年でした。お世話になりまして、本当にありがとうございました。
 今、日本はとても寒い日が続いており、ブラジルの陽射しをなつかしく思い出しております。
 詠み人知らずですが、最近、次のような言葉を心に刻んでいます。
あした死んでもいいように
百年生きてもいいように
考え考え生きていこ。
食べたい物は食べておこ。
行きたい処は行っておこ。
会いたい人には会っておこ。
足腰立って、
  元気なうちに…
 皆様、今年も良い年でありますようにお祈りしております。


新年のご挨拶

ブラジル日本文化福祉協会会長 木多喜八郎
 新年あけましておめでとうございます。
 二〇一二年の新しい年をブラジル日系老人クラブ連合会の皆様とともにお慶び申し上げます。
 旧年中はブラジル目本文化福祉協会に対しまして温かいご理解、ご協力を頂きまして誠にありがとうございました。
 今年は辰年、その意味を紐解くと、『小さなことにこだわらず、社会や組織の中でリーダー格になる年』と記載されていますが、老人クラブ会員の皆様もなお一層心を一つにし、ブラジル日系社会の一員として明るく、健康に留意されご壮健に日々を過ごされますことを祈念いたします。
 昨年三月に発生した東日本大震災は、私共の祖国に膨大な被害をもたらし、多くの方々が被災されましたことに対し、衷心よりお見舞い申し上げますとともに、二〇一二年が新しい希望の年となりますようお祈りします。
 報告となりますが、ブラジル日本文化福祉協会では、震災発生直後、ブラジル日系主要五団体共同で全国的に募金キャンペーンを実施しました。寄せられた数は、日系団体だけではなく、個人、企業、非日系人など大多数から義摘金の申し出があり、九月末までの日本赤十字社への送金総額は約一億七九〇〇万円あまりでした。
 この募金キャンペーンには、サンパウロ州政府の協力もありました。我々の連携プロジェクト『SOSジャポン』が実現し成功を収めたのも、日系コミュニティーのブラジル社会における絶対的な評価と信頼の賜物だと思います。この紙面をお借りして協力者全員に感謝申し上げ、被災地の一日も早い復興を衷心よりお祈り申し上げます。
 『老壮の友』を発行されているブラジル日系老人クラブ連合会は『故国を同じくする方達がその国の言葉で話す機会を得る場所』として立ち上がったと聞いておりますが、そこに集う皆様の行事進行には目を見張るものがあります。老人クラブという名称よりも″第三の人生を謳歌する青春クラブ〃と言い換えても過言ではないでしょう。毎月十八種目程を数える教養講座が月数回実施されるほか、年間行事、その合間に日本語はもとより、ポルトガル語会話講座もこなすそのバイタリティー、会員の中だけの会話に留まらず、周囲家庭においてもお孫さん達やブラジル人とのコミュニケーションに輪を広げようと頑張っておられるそのはつらつとした姿に、ブラジルの国土の広さを示すような温かい心の広さと深さ、ブラジルと日本の強い絆を感じます。
 機関紙『老壮の友』を発行されます関係者の皆様、そしてその活躍を維持されるブラジル全土それぞれの地域で活躍される会員の皆様のますますのご健勝とご多幸を祈念しまして、新年の挨拶とさせていただきます。


フェリス・アーノ・ノーボ

元JICAシニアボランティア 貞弘昌理
 明けましておめでとうございます。皆さんお元気ですか。
 先日はNHKBS放送で”桂三枝”の番組を偶然見ました。老人クラブ連合会の沢山の知った人が写っていました。懐かしかったですね。再放送では必ず録画したいと思っています。
 時々、田巻先生から電話があります。懐かしい声ですね。はるばる地球の裏側から声が聞けるなんて夢のようです。皆さんにお会いしたいです。老壮の友、いつもありがとうございます。懐かしく読ませて頂いております。


新年のご挨拶

サンパウロ日伯援護協会会長 菊地義治
 皆さま、新年明けましておめでとうございます。
 二〇一二年の新春を迎えるにあたり、サンパウロ日伯援護協会(援協)を代表して一言、新年のご挨拶を申し上げます。
 昨年は我が祖国、日本にとっては非常に厳しい年でありました。リーマンショックから引き続く長期のデフレ不況に加え、前代未聞の大津波により引き起こされた東日本大震災、さらには追い打ちをかけるように崩壊した原子力発電所からの放射能漏れ、汚染の問題等々、不幸な出来事が連続して起きた一年でありました。
 そしてこれらの不幸な出来事の爪痕は今も生々しく残り、復興には恐らく、十年単位の長い年月が必要になろうかと思いますが被災地は必ず復興するものと確信致しております。
 東日本大震災に際しては援協も他の日系団体と一緒になって、義損金を募り、皆さまから集まった貴重な浄財を被災者の皆さまに届けさせていただきました。十六・九兆円にも及ぶ莫大な被災金額に比べたら、本当に微々たる金額にしかなりませんが、遠く祖国日本を離れ、ブラジルという異郷の地で斯くも日系社会がしっかりと頑張っていて、そして日系社会の全員が決して祖国日本を忘れてはいませんよ、という強い意思表示だけは出来たのではないかと自負致しております。
 ところでブラジル日系老人クラブ連合会(老ク連)と援協とは実は深い「つながり」、「絆」がございます。援協が「生みの親」で老ク連が「子」と言ってもよいでしょう。
 日系社会に於いても将来、高齢者が増え、所謂、高齢化社会が到来するであろうことを見越して、一九七二年頃に老ク連の母体が援協の中で生れ、それが一九七五年に援協から独立して、正式名も今の老ク連に変更して、今日の立派な老ク連に至ったものであります。
 皆さま、よく御存じの通り、老ク連の活動は広範多岐に亘っております。健康体操、カラオケ、舞踊、コーラス、マージャン、民謡、練功、カラオケダンス、絵画、囲碁、ポルトガル語、書道、百人一首、花合わせ、俳句、川柳、名画鑑賞、健康表現体操、なつメロ合唱等々、数え上げればきりがない程です。いろいろな素晴らしい活動をされています。
 その中でも特筆すべきはこの会報誌「ブラジル老壮の友」の刊行です。月刊誌で既に四百五十号を超える号数を発行していますが、紙面の充実ぶりには感心させられます。短歌、川柳、俳句、日系祉会のニュース、日本のニュース、読者の投書記事等々、硬軟織り交ぜての示唆に富む記事は読者を飽きさせることがありません。この「ブラジル老壮の友」が途切れることなく、いつまでも継続して刊行され続けることを願うばかりです。ブラジルは二〇一四年のワールドサッカー大会、二〇一六年のオリンピックという国際的なビッグイベントの開催を控え、その経済発展は益々加速していくことでしょう。そのブラジル社会の中で日系社会がいかに融和しながら、発展していくのか。その意味でも老ク連が果たす役割はこれから益々重要になっていくことでしょう。
 最後になりましたが皆さまのご多幸と老ク連が益々その活動範囲を拡大し、その存在感を高め、日系社会高齢者の社交の場として大きく発展していくことを祈念致しまして二〇一二年の年頭のご挨拶とさせていただきます。


年頭に寄せて

ブラジル日本都道府県人会連合会会長 園田昭憲
 新年明けましておめでとうございます。
 一年の計は元旦にありと申しますが、ブラジル日系老人クラブ連合会が新年号機関紙「老壮の友」を発刊されるにあたり、ブラジル日本都道府県人会連合会を代表いたしまして、皆様へのメッセージを申し上げます。
 昨年は三月十一日に発生した東日本大震災は、日本観測史上最大の地震、津波となり、東北地方を中心に甚大な被害をもたらしました。震災発生後、ここブラジルでも多くの同胞から、すこしでも支援をしたいとの温かい言葉とともに、多くの義援金が送られましたが、そのなかでもいち早く立ち上がり、義捐の募金活動を展開されたのもブラジル日系老人クラブ連合会だと承っております。また、世界的な景気後退の中で、いろいろ大変な一年でしたが皆様方にはつつがなくお過ごしされたことと思います。
 日本では少子化に伴い、高齢者に対する福祉などが社会問題となっております。ブラジルに移住された方は戦前、戦後を通じて約二十五万人といわれ、今ではその数は少数になりました。そしてブラジルで生まれた二世のかたがたでも、高齢者は多くなっているのが実情です。
 ブラジル日系老人クラブ連合会は一九七九年、ブラジル在住の日系在宅高齢者の老後生活を充実を目的にされ、この中で会員相互の親睦と相互扶助、生きがい増進のための文化・体育活動、福祉活動やその他の行事に参加しておられることは、いつも老人クラブ大会、カラオケ大会、芸能祭、ゲートボール大会など見させていただいて、心強く感じております。
 連合会は傘下に沢山の支部があり、クラブ会員数は一万人を超えるとのことで、会員は一世だけでは無いでしょうが、一世から二世、そして三世、四世へと活動がこれからも末永くブラジル日系老人の心の支えになることは間違いありません。この組織がブラジル全土に広がり、名実ともにブラジルの日系老人クラブの連合会になることを祈ります。
 終わりにブラジル日系老人クラブ連合会が、今年もますます発展され、皆様方の心豊かな生活と明るく活気ある社会作りに貢献されることを祈念いたします。


新年おめでとうございます。

(在日本)『百歳万歳』編集長 植松紀子
 ブラジル老人クラブのみなさま良いお正月をお迎えになられたことと存じます。昨年の日本は三月十一日の東日本大震災以降多くの苦難を抱えました。そして今その一つ一つを乗り越えようと必死です。
 ブラジルの皆さまからも多くのご支援をいただきありがとうございました。ブラジルの皆さまの心温まるご支援は被災された多くの老人クラブの方々に届きました。
 日本国内でも老人クラブ同士はもちろん、多くの方々の助け合いが今も続いています。支援金だけでなく、心と心の支え合いがみんなの心を暖かくしています。甚大な被害を受けた宮城県、岩手県は少しずつ復興への道のりを歩き出しています。ただ、福島県はまだ復興というところまで行っていません。町の行政機関が他の場所を借りて業務を行っているところも多く、避難されている方々もばらばらとなっています。
 そのため老人クラブ活動も再開されないところも多い状態です。しかし、被災していない地域の老人クラブはそういう地域の人たちに対して暖かい手を差し伸べるということで結束を深めています。
 私たちは今回の大震災で亡くなられた方々の冥福を祈りつつ、悲しむばかりではなく、この一〇〇〇年に一度という大災害を忘れ去ることがないよう、後世に伝えてゆくことも大事なことだと考えています。そのための様々な活動も進められています。
 暮れに発表された昨年の漢字が「絆」となりました。「災」「震」より「絆」が多かったことが嬉しかったですね。昨年ほど「絆」の大切さを日本人が感じた年はなかったのではないでしょうか。
 ブラジルの皆さまもご家族の「絆」、地域の「絆」、そして高齢者同士の「絆」を大切にしてください。私たちはこの「絆」の力を借りて再度立ち上がろうとしています。
 二〇一二年が輝かしい新たな年となりますよう、皆さまのご多幸を遠い日本からお祈り申し上げます。


川は流れる

舞踊教室指導者 玉井須美子
 二〇一一年もあっという間に過ぎ、もう新しい年を迎えました。この一年の間には色々な事がありました。ビンゴ大会に始まり、カラオケ大会、日本祭り、ゲートボール、芸能祭、地蔵祭り、老人週間、どれを取っても何とかやり遂げてよくやったと思っています。スタッフの人たちが心を一つに協力してこそ成功したのでしょう。
 昨年十二月十二日にはサントス厚生ホームに慰問に行き、入居者の方たちと親しくお話し楽しい一時を過ごしました。
 レクリエーションの時は車椅子に座った人も参加して大変に喜んで下さいました。「♪並木の雨」を歌った時も「この歌を皆さん、覚えていますか? 覚えている方は手を上げて下さい」と言いましたら多くの方が手を上げて下さいました。
 昔の歌は皆さんよく覚えておられるのですね。心と心の触れ合う有意義な訪問になったと思っています。
 私たちも久しぶりに海の香りを吸い楽しい一日でした。
 また、十四日は民謡会の忘年会でした。長く休んでおられた方とも久しぶりに会い、話がはずんで楽しい忘年会でした。そんなことを思いながら、一人夕食を取りつつ自分には多くの友人がいて、何かと協力してくれてありがたいなぁと感謝を新たにしています。
 ナタール(クリスマス)には三男の清が久しぶりに帰って来て、一週間家に居りました。「来る前から何を作ってあげようかと考えている」と老ク連の職員に言うと「いくつになっても親バカだねぇ」と笑われました。
 毎日はこんなささやかな幸せの積み重ねで過ぎています。
 二〇一二年も夢と希望の年でありますように願っています。
 日本で震災に遭われた皆様はどんなお正月を過ごされたのでしょうか。一日も早く元の生活に戻れますよう心から祈っております。
 川が流れるように時も静かに流れていきます。後には戻れぬ水のように私たちの人生もまた同じ。後戻りは出来ません。今日を精一杯生きていきましょう。


初写眞

サンパウロ中央老壮会 猪野ミツエ
 お正月が近づいてきた。我が家でも家族が集まる日。皆で写真を撮るのが習慣になっている。去年は四十日の間に二人の婿を失った辛い思いでもあった。
 今年は外孫三人に、嫁、婿とうれしい事だ。いつも全員集まるのは難しく、今年も孫娘の一人は日本へ旅行中。一人はアメリカ留学と二人は欠ける。アパートの床が落ちないかと思うほど笑う賑やかな集まりになる。誕生日などの集いではなく別の感じがする。この習慣はこれからもぜひ続けて欲しいものと願っている。
 今、手元に私が小学校四年生、十歳の時の初写真がある。裕福とは程遠かった母娘四人暮らし。たまに撮る写真がとっても嬉しかったものだ。その頃、町にたった一軒の村田写真館今でも五代目が後を継いで頑張っているらしい。母三十九歳。姉六歳と十三歳。父は私が生まれてすぐに三十九歳の若さで亡くなった。心臓発作であったと聞く。私一歳、姉三歳と七歳、母二十九歳の時だった。
 写真の母は黒っぽい着物で年より老けて見える。
 二人の姉は温和しく勉強も良くできた。私は色黒のやせっぽで癖毛。「黒人さん」とよくからかわれたものだ。
 写真の髪もピンとはねていて帽子で隠したことを覚えている。
 セーラー服に膝スカート。伯母に買ってもらった皮の靴が自慢だった。上の姉は袴をはいている。中の姉は私と同じセーラー服。わがままに育ったことをすまなく思い返している。
 誰ももうこの世にいない。今から七十六年前の写真だ。新しい年を迎えるに当たり、家族での思い出の、写真を撮るのを楽しみにしている。


新年の雑感

民謡教室指導者 纐纈蹟二
 私の祖父は嘉永生まれで私が八歳の時に他界した。故郷は低い山に囲まれた処で田も畑も段々で先祖たちが石を組み土を運んで作り上げたものと思われる。
 その山際の沼田の一つの真ん中に二メートルぐらいの大岩がどっかり座った形になっている。祖父の話では濃美地震の時に山腹の大岩が転げ落ちて田で止まったものだと云った。私はその地震はいつだったのかは知らぬが、祖父が小さな私に地震の恐ろしさを話した。時々起る余震で、一ヵ月程近くの孟宗の竹藪(やぶ)に筵(むしろ)囲いの小屋を建てて仮住まいをした。余震で岩が転げ落ちて来るか分からぬが、竹藪が一番安心な場所だった。余震の激しい時は何処かで火事が起きて夜空を明るくした。本当に生きた心地がせず恐ろしい毎日だったと大地震の事を幼い私に叩き込んだ。
 関東大震災で東京に出て商売が繁盛していた村の人も焼け出され、村に帰って来た事を言い、天災は人の力では防ぎきれない事を教えた。
 生まれて十八年を生家で暮らしたが外に飛び出すような地震は一回もなくて、渡伯して地震も台風もそして戦争もない国に帰化もせず永住して久しい。
 今から十四年前に前立腺の癌が発見された。早期のために手術はせず、放射線治療を受け、四十日病院通いをした。その治療は細い台の上に寝かせ患部を固定して上下左右に一秒ぐらいずつ放射線をあてる。係の人は別室でテレビ画像を見て機械を操作する。最初はこんなことで効くのかなぁと思った。身体に何の感じもしないからであった。しかし、放射線治療二十日目ぐらいから体毛が抜け始めた。そして四十日経つと、頭髪が三分の一くらいになり、ひげも薄く、身体は女性の肌のようにつるつるになって、我ながら情けない思いになった。以後、十年は強い抗癌剤の服用で、癌も抑えられているが、発毛もしないようだ。
 昨年三月十一日の東北大震災と大津波のテレビ放送を見て、その被害と二万人を超す犠牲者が出た大惨事に気持ちが滅入ってしまった。その上、福島の原発事故で放射能の発散は日本ばかりでなく、世界の大問題となった。想定外だなど言っている事柄ではない。医療でのわずかな放射線治療で、頭髪や体毛が抜けてしまうのである。もし、放射能をまともに受けたらどんなことになるか。断じて放射能を浴びてはならぬ。専門家が集まり、また、フランスやアメリカの権威者も来日して対処に腐心しておられるが、一日も早く安全な地域にして貰いたいと願っている。学者の説では完全に放射能を抑えてしまうにはセシウムだけでも半減期が三十年、それ以外は…暗澹たる思いをしている。めでたい新年にこのような文を綴るのはどうかと思うが、これは私の気持ちの一端である。


日本の心

絵画教室指導者 森田冨久子
 小川未明、坪田譲治の本を古本屋で見つけたので買って来た。青春時代はこの二人の本を読んだなぁと懐かしく思う。相変わらずありのままの人の生活が描かれ、さわやかである。
 雲の如く高く
 雲の如く輝き
 雲の如くとらわれず
 という言葉を残している。彼の人生そのもののように思う。昔の人は美しい心で生きようとしたのだなぁと思う。今もこのような人が日本には居てくれるに違いない。
 日本よ、いつまでも美しさを忘れずに!日本精神を無くさずに!
 日本民族は昔から精神を大切にする民族であった。これからもそうであって欲しい。だからの小さな国でありながら今まで生き残れたのであろうと思う。
 ブラジルに移住したけれど、やはり日本人の心はそのまま残っている。私はブラジルが大好きである。何となく自分に合っているように思う。年を取った今日、この頃、つくづく移住して幸せであったと思う。子供たちも皆、ブラジル人になるけれど、日本人の良い所を生かして元気に生きてくれるよう祈っている。今年も新しい年が始まった。
 雲の如く高く
 雲の如く輝いている一年でありたい。今年も好きな絵を描き、良い作品が生まれてくれたら良いなぁと願いながら…。


訪日で感じた事

ブラジル書道愛好会会長・書道教室指導者 若松如空
 八十歳を過ぎてから、もう日本へは行かないと決めていたが、どうしても行かねばならない事が出来た。十一月の末になってから、時期外れの訪日となった。
 アメリカ経由の空路は前から面白くないと感じていたことから、新しい人気のあるドバイ経由を選んでいたが、旅行社からすぐ隣のドーハ経由でカタール航空の安いのがあるというのでそれに乗ることにした。新空路の宣伝期間ということもあって、千七百ドルの安値に飛びついた訳である。
 この航空会社を持つカタールという国はペルシャ湾にある小国で、面積は一万千五百十一平方キロメートル、人口は八十五万七千人。一九七一年に独立した王国である。イスラム教徒八二%、クリスチャン一一%、その他で、石油資源、主に天然ガスの生産国でお金持ち。このところ、石油化学など経済開発に忙しい。パキスタン、インド、イラン人ら労働者が多数入国している。合計すると、カタール人の数を超える。
 サンパウロ空港で乗った時には、機内にはすでにアルゼンチン人がいた。アルゼンチン―ブラジル―カタール―日本という航路なのだ。機内に入っての第一印象は座席の幅が昔の日航機よりも少し広く座り心地がよいこと。サンパウロ―ドーハ間は十三時間で、まずまず快適であった。しかし、ドーハ空港はまだまだ準備不足で飛行機からバスで客を運ぶという前時代の施設しかない。投資はなおこれからであろう。
 しかし、ドーハから日本に向け飛び立ってからの機内アナウンスで日本語が出てきたのには驚いた。スチュワーデス(フライトアテンデント)も五人が日本人だった。食事の応対は「和食ですか?洋食ですか?」という問いかけで「和食にはソバがついています」と言うのだ。乗客は半分くらい日本人。ある日本人に「どちらから?」と聞いたら広島県の呉市で旅行社の募集に応じて同じ町から二十人で来たとの事。カタール航空が主に大阪から南の日本人をターゲットに客引きをしている様子である。
 関西空港に着いたところで少々驚いた。東京行きの客は手荷物を持って一端空港へ降りてから乗り直してくれと言うのである。これは初耳であった。日本人のスチュワーデスのチーフを呼んでもらって文句を言った。
 「君たちは何をやっているのか。今まで良い気持ちで乗ってきたのに、ここへ来てガックリだ。年寄りに手荷物を持って入り直せはないだろう。こんなことだとブラジル人客は無くなる」。
 関西空港が主要基地だという説明でも納得できなかった。「帰りも同様。東京から関西まで飛んで、関西で入りなおすのか?」と聞いてみたら、「申し訳ありません」という返事。「重役に何とか改善を頼め」と言って別れた。
 それにしても新しい小国が国際航路へ切り込む努力には感ずるものがあった。NHKの丘の上の雲での明治の意気込みに似たものがある。日航機の過去の航路の研究もあったろうし、スチュワーデスの募集でも日航の退職者を狙ったのではないとか思われる。
 さて、帰りであるが、関西でまた乗り直すと考えて手荷物を極力小さくして乗った。ところが、関西に着いたら「ドーハ行きのお客様は機内でお待ち下さい」という日本語のアナウンスがあった。そして全日空と共同運航となったという。関西空港ではどっと客は入ってきた。満席という混み方になった。私ども夫婦は行きには三席を占領できた旅だった。問題は解決されたが、満席の息苦しさには乗り心地を悪くした。うまくいかないものだ。
 ところで話は変わるが、日本で新しく感じた出来事があった。日本人は年寄りに席を譲らないと多くの日本人訪日客が憤慨するのが常だったが、今回、初めて席を譲ってもらう美挙に逢った。山手線で東京から上野への電車で手荷物を持った妻に若人が席を立ったのだ。車内ではブラジルの地下鉄と同様の優先席アナウンスが聞かれるようになっている。以前は聞かれなかった。
 新横浜に用事があって、新幹線を利用した時のこと。特急でも品川と新横浜は止まるので、どうせ特急券を買うのだから「のぞみ」に乗ろうと考えた。レールパスでは「ひかり」にしか乗れなかった腹癒(はらい)せである。座席を取るのは贅沢なので、自由席へ入って座った。品川に停った時、子供を抱いた若夫婦が大きなトランク二つを持って入って来た。混んではいたが、私の隣は空席だった。私は次で降りるので立ったところで十分。そこで「お座りなさい」と譲った。しばらく近くで立っていたがデッキに移って行ったところ、四十歳位の男が寄って来て「これ、僕のです。使って下さい」と言って、座席券を差し出した。見ると、東京―名古屋十六号車とあった。仲間がいた様子だった。多分、仲間と出逢って、彼が自由席だったのでこちらへ移ったのかも知れないと想像した。日本も変わって来たなと感じて心が明るくなった。


カラガタツーバへ貝拾い

みずほ福寿会 井戸朝江
 昨年十一月二十九日、みずほ福寿会主催でカラガタツーバへ貝拾いに行って来ました。朝、五時半、会館前を出発。帰着は七時予定です。車中ではDVDをかけていますが、きちんと見ている人は何人いたでしょう。皆、おしゃべりに夢中でバスの中はとても賑やかです。
 ロードアネウを通り、一路海岸に向けて快適に走ります。バスも一級車で乗り心地満点です。
 途中、九時少し前、福寿会員田村さんの兄、ひでのりさんが経営するポウサーダにより、朝のカフェー(サンドイッチ、おにぎり付)を美味しく頂きました。また、バスに乗り、十五分ほどして、目的地の海岸に到着。皆さん、それぞれ着替えを済ませ、早々とバケツや袋を持って貝拾いへ。三々五々に分かれておしゃべりしながら貝を探して海辺を歩いていきます。
 十二時半が昼食という事で、すぐ砂浜を掘って貝を探す人、砂浜を遠くまで歩いていく人、自由行動です。私も四、五人の友達と貝を探す傍ら、砂浜を気持ちよく歩き回りました。この日は暑くも寒くもなくちょうどよい天気でした。
 砂浜を裸足で歩くことは健康に良いという事は皆さん、誰でも知っていますよね。本当に気持ちいいですね。大分遠くまで歩いたので、帰り道に貝を探したのですが、砂を掘り起こしても貝はいません。持参の小さいシャベルで奮闘しましたが、貝はちっとも現れません。そのうち、友だちが膝がつかる位の所で何やら腰を振って水の中に手を伸ばしているので、何をしているのかと聞くと、硬いものが足に触る。それが貝だから手を伸ばして獲ればいいと教えてくれました。ただ、大事なことが一つあって、それは貝を採る時、波に貝を流されるから、気をつけるようにと教えてくれた。
 それから私はフラダンスよろしく腰をふりふり貝拾いです。
 やっと足に貝が触ったので、手ですくおうとすると波にさらわれて残念無念。
 腰近くまで海水に浸かりながらの奮闘ですが、フラダンスの練習が足りなかったのか、なかなか貝に巡りあえませんでした。
 友だちが十一時半が干潮だから、その頃来たら獲れるかしらと言っていました。帰り道、私が俳句ができたと言って
 貝拾い フラダンス少し 足りにけり
 と言ったら、友達が井戸さん、そうじゃないよ。
 フラダンス 貝はびっくり 逃げて行き
 と言ったので、皆で大笑いです。
 私が清水さん、それは俳句じゃなくて川柳じゃないのと言ってまたまた大笑いしました。
 貝は獲れなかったけれど、とても楽しかったです。その後、遠くの方まで行ったグループが帰って来ました。沢山の貝を重そうに持っていました。聞く所によるとやはり十一時半過ぎ頃から獲れたと話していました。
 昼食を腹いっぱいご馳走になり、一休みし、出発したのは三時半。
途中、小さな市場に寄り、何人かの人が買い物をしたようです。
 カラガタツーバを出発したのはちょうど四時頃。帰路は皆さん疲れたのか、誰一人おしゃべりする人もなくバスの中はシーンとして静かでした。そのうち、雨が降り出し、雨音で皆さん目が覚めたようです。サンパウロに入ると六時過ぎ。ロードアネウは夕方のラッシュで大変でしたが、何事もなく予定通りちょうど七時頃に会館前に到着しました。
 日帰り旅行、とても楽しかったです。お世話をして下さった方々どうもありがとうございました。また、次もよろしくお願いします。


探索日系コロニアの社交クラブについて(3)

スザノ福博福栄会 杉本正
 さて、アクリマソンは小森林ではあるが、一帯はいたって平で、ほどなくして社交クラブに到着。建物の大きさなどには考えも及ばず、ただ、小奇麗だなぁなどと若いのに洒落た話をし合ったものである。
 建物と並んであまり広くはないが、何かの催しをするには十分な広さですでに大会を行う用意がしてあった。この少年陸上大会に出場できる範囲とか、参加者の出場人数については全然記憶にない。自分たちが出場した種目の記録の実忘れることなく、杉本正三段跳び十米五〇で三等、山手豊走り幅跳び一米二五で二等であった。特に市丸ジョージ君は年齢の割に上背があってか一米五〇を跳んだのには驚いた。互生会主催のこの大会は二回の開催をもって中止となった。理由については分からず、私もまだ少年だったので、そこまでの記録はしていない。
 兄の手記でも至って簡単で、大会も別に問題もなく午後五時二十分に終え、午後七時ブラス駅発の汽車にてスザノに着いたが車はなく、一同元気だったので、話しながら歩いて帰途。家に着いたのは午後十一時と書いてあったのみ。
 七十七年前の少年時代の思い出である。それにしても「社交クラブ」の存在を色々と聞いたのだが、誰も知る人はなく、今となっては私だけか…との思いもしている。
 後日談として、今から五年前のサンパウロ新聞にかつての陸上選手の一人として、来伯された走り高跳びの朝隈善朗氏に教わったという方が来られて師について話を聞きたいとの記事が出ていたので早速サ新聞社の記者に期日がきまり次第通知して欲しいと頼んでおいたが何の知らせもなく、帰国されてから、連絡するのをすっかり忘れていたと言われ、残念であった。
 おそらく朝隈さんは日伯試合の思い出を学生たちにお話されていたのだろうと思いを馳せるものである。(おわり)


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