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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2012年2月号

2012年2月号 (2012/02/15) レジストロと臣道連盟

レジストロ春秋会 大岩和男
 レジストロと臣道連盟などと書くと如何にもレジストロに臣道連盟があったように思われる向きがあるかも知れない。しかし聞く所によると、(故・服部豊氏談)連盟の創立者であり、委員長であった脇山甚作大佐自らレジストロにわざわざ来られて「レジストロに連盟支部を作りたい」と申し込まれた事実はあるという。
 それを応待されたのは、当時のレジストロ日本人の顔役で代表的な存在であった深町信一氏をはじめとする数人の人たちで、「レジストロではそれは受け入れられない」と断り、その理由を説明したという。
 理由はその前年、日米戦が始まって間もなく、国防上の理由から海岸線から五十キロ以内に住む日本人に強制立ち退き令がブラジル政府により実施され、レジストロもその圏内にあった。その時、敢然と起ち上がり在レジストロ日本人の擁護(ようご)に当たった五人のブラジル人がいた。すなわち、シンフローニ・コスタ、ジョン・ポッシー、ジョナス・バンキス・レイテ、、シゼナンド・カルバーリョ、ジョジーノ・シルベーラの五人が連署して、時の大統領、ゼツリオ・バルガス大統領をリオに訪ねて行き、「レジストロの日本人はみな素朴な農民ばかりで危険分子など一人もいない。また、レジストロから日本人を追い出してしまったら、レジストロは潰れてしまう」と直訴した。
 真剣な五人の訴えを聞いた大統領は「お前たち五人が保証するなら、立ち退かないでもよろしい」と大英断を持って直訴を受け入れ、レジストロの日本人は誰一人立ち退かずに戦時中にもかかわらず平穏に暮している所だから、臣道連盟支部設立はその人たちの好意に反する事になるから引き受けられない旨を話し、丁重に断ったという。
 それを聞かれた脇山大佐はブラジル人の方々の寛大にして日本人の誠実さを認め、擁護して下さった事に大変感激され、支部設立は強要されることなく、説明を諒とせられたというのである。
 その当初の臣道連盟は、後年のテロ集団ではなく、れっきとした国粋団体であり、日本精神の高揚、大和民族の誇示といった清廉なものであったが、ブラジル人の方々の意思に逆行するような行動は差し控えるという趣旨を申し上げたそうである。以上の理由で、連盟支部は設けられなかった。そのお蔭で、後年脇山大佐の意に反し、その下部組織の過激分子がコロニア(その当時は在伯同胞と言った)の未曾有のテロ行為を全伯的に展開して、有為な指導者を多数失う反面、お世話になっている伯国官憲にまで多大な迷惑をかけたことはかえすがえすも遺憾きわみなき出来事であった。
 幸いなるかな、レジストロは先輩諸氏の明断により、臣道連盟支部を作らなかったために、あの奥地一体を吹き荒れた日本人同士で血で血を洗う惨状を逃れえたことはレジストロのために祝福すべきことである。


「長生きは本当に良いことか」

サンパウロ中央老荘会 安本丹
 最近長年の旅行仲間であった一人が脳溢血で倒れ、その数目後にUTIで亡くなった。彼は肉が大好きで、また車ばかり運転し、歩くのが嫌いだった。生活習慣を変えろという仲間の警告には聞く耳を持たなかった。遺書がなかったため、面倒を見た彼の甥は何をするにも大変苦労したと聞いた。自分は今七十三歳であり、一人住まいであるため、彼の死を機会に色々と考え、先ず遺書をしたため、遺灰を収めるご骨壇を買うことにした。それから十年前に読んだ老人医学の専門家でボルトアレグレ大学の森口幸雄教授が書いた「すこやか長寿の秘訣」を取り出し、改めて読み直した。
 その本には生活習慣病をなくすための幾つかの項目が挙げてあったが、いつの間にか忘れてしまった。教授が繰り返して強調している健康法は、毎日色々なものを三十種類くらい食べる、肥満を防ぐ、肉類、動物性脂肪、・砂糖、塩などを減らす、タバコは止める、酒を飲みすぎない、睡眠は七時間か八時間は十分にとる、定期的に健康診断をする、心を安らかにする、友人や家族との関係を円満にする等である。その中で今まで実行しているのは僅かに毎日歩くこと、及び野菜や果物を食べることくらいである。最近は酒の量が増え、先生が一日の限度にしている量を考えれば、その三倍程度は飲んでいる。また漬物や塩辛あるいはハム、ソーセージ類が好きなので、塩分は間違いなく一日に限度の六グラムをオーバーしている。肉類も減らすように努めているが、ブラジルでは肉料理を食べる機会が多いので、ついつい食べ過ぎてしまう。
 睡眠時間は一日に五時間程度であったが、最近は無理にでも六時間はとるようにした。教授は健康を自慢する態度は愚の骨頂であり、医者にかかるのは病気になってからでは遅すぎ、本来は病気の予防をするためであり、しかも最近はそれ以上に健康増進が真の医学になったという。一人住まいなので、心の安静や良い人間関係についてはあまり自信がない。それでもボランタリー活動を通じて、社会と完全に縁を切らないように努めている。
 ところが亡くなった旅行仲間を知っているご婦人が、彼は好きなものを食べ、自由奔放な生活をして亡くなったのだから、幸せだったいう言葉を聞いて考え込んでしまった。既に百歳を超えた聖路加病院の日野原名誉院長は、昼飯は牛乳一本とビスケット二枚だけだという。そのような粗食で健康に気をつければ百歳以上生きるのは可能かも知れない。しかしタバコを吸う人や酒飲みでも長生きしたり、反対に健康に気をつけても病気や人の世話になる者もいる。それならば自分も本当は好物の菓子、漬物、酒、肉などを我慢してまで長生きするのが果たして幸せなのか、それよりも好き勝手なことをして早死するのが本望ではないかという疑問が生じた。しかし森口先生も酒や肉は厳禁はしておらず、程ほどにしろということなので、その辺に回答が潜んでいるような気がする。


スターに成り損なった兎

サンパウロ名画クラブ 田中保子
 我輩は兎である。名前はポン太。飼い主はポンポンと呼ぶ。飼い主のお袋さんは「こら!ポン太」と怒鳴る。
あちこち齧るからである。
 あるテレビ局が復活祭特別番組に変わった面白い兎を取材しようと、サンパウロ市内のペットショップを訪ねた折、「獣医が教えてくれた」と言って、娘に連絡を取ってきた。ポン太は白地に黒のパンダ模様が美しく見ていて飽きない可愛い動物である。もっとも仔犬と同じで悪戯もひどい。
 箪笥の角、靴の踵、本も紙箱もガリガリ齧り、うっかりすると寝ている飼い主の髪まで齧るらしい。
 テレビ局の条件を聞いて驚いた事は二つ。一つは放送時間に比して撮影時間の長さである。もう一つは出演料と飼い主への謝礼の多さ。しかし、撮影予定の頃はポン太連れで他州へ長期出張と密着撮影を長時間では、付き合いきれないとお断りしたそうです。
 テレビ局とは、儲かるものなんですね。オシカッタネ。


幸か倖せ

インダイアツーバ親和会 早川正満
 NHKの歌謡番組は好きでよく見るが、見方が他人とちょっと違うのが、下方に書かれる歌詞をまず目で追い、音楽はバックミュージックのようにゆっくりと後から付いて来る。
 ある日のこと、画面に「〇〇は倖せです!」と丁寧にカナが振ってある歌詞が目に止まった。
 今まで私には幸福の幸の「しあわせ」だけが頭にあったから、辞典を引けば確かに有り、心霊学的な小説の多い遠藤周作の本を再読してみると、しあわせは倖せという字が多く使われている。
 幸と倖せを二つ並べて考えると人間社会の風道が見えたような気がして来た。
 日本では、東日本大震災から物質の豊富さからくる幸から他人の心の伴う倖せに感激するように風道の穴が開いたように思われる。確かに人の添わない幸は身体の内まで浸透しないのかも知れない。
 レジストロの大岩和男氏が愛知県の豊橋市の事で心にふれる話を書かれていたが、私たち家族が満州から引揚げて豊橋駅に下りた時は終戦から一年余、二年ほど経っていたが、皆さんが今知っているあの都会ではなく、東日本大震災の光景が重なるほど荒廃していた。
 しかし交通網は回復し始めており、夜中に着いた為、父の実家の豊川に行く飯田線の始発まで駅前に止まっていたチンチン電車を特別許可で借り、旅館代わりに寝た覚えが子供ながらもある。因みに父は軍隊に招集されるまでは、豊橋で豆腐屋をやっており、私はそこで生まれている。
 すべてを満州に置き、家族全員命からがら荒廃した日本に帰った。もしあの時、マイクを出されて「貴方は倖せですか?」と聞かれたら、私と父は即座に「倖せです」と答えただろう。
 終戦後の満州の無警察状態を経験した者だけが、電車とはいえ、命の心配なく眠れる事はどんなに倖せか知っているからである。
 妻側の遺産で得たお金で、夫婦で日本に旅行したコチア青年に「俺よりあんたは幸せ者だな」と言われた。「確かに息子たちの手助けで農業を続けられる俺は倖せ者だよ。でも、一つだけ君に適わない物がある。」「え?何?」「君たち夫婦は元気で日本まで行って来れた。俺の妻は病気で元気になろうとして、リハビリに一生懸命だ。俺も子供の助けで看病しているが、それでも子供たちの助けもままならない人たちを見れば、まだ俺は倖せ者と思っているがね」と話した。
 お金があってもまだまだ元気だからと言ってアパートに独り住まいとなっては幸せではないと思いますよ。やはり人が常に側に居てこそ本当の倖せがあると思いますが…。
 私の親の代までは息子が気を回して家族を形作ってきたが、現代の老人は如何にして若い力を側に留めるか知恵を搾り出さねばならないと思います。短気を起こして、孤老なんていけませんよ。


新年に願う

カンピーナス明治会 筑紫橘郎(きつろう)
 私は大きな口を叩ける身分でもなければ、分限者、学者でもない。そこいらに「ごまん」といるか弱い平民であります。
 二〇一二年辰年が明けました。昨年は我らの祖国では「歴史的大震災」に見舞われました。その余波で「福島原発事故」を誘発。取り返しの付かない大惨事となり、数万の被災者の心情は計り知れない「痛恨の極み」であります。
 戦後、日本の復興のシンボル的安全神話に自国民全体が酔いしれてあの「広島・長崎」で受けた大恐怖の犠牲になられた方々の無念は早々と「エコノミック・アニマル」に変貌し、平和ボケ的優越感に呑み込まれ人類史上繰り返してはならぬ放射能事故を再現してしまいました。
 なんと情けないことでしょう。政治化、科学者の口車にやすやすと乗せられた結果です。政府や当事者はこの事態の沈静化(ちんせいか)に血眼(ちまなこ)のようです。
 終息可能宣言を「ちらつかせ」てはおりますが、そんなにやすやすと安全が取り戻せますでしょうか。出来ることならこれより五十年、六十年先まで生きながらえて、母国日本の未来を覗きたいものであります。その日が来れば「それ見た事か」と吐き捨てることになるのが必至と私は今でも危惧しております。
 しかし所詮(しょせん)「後期高齢人間」では何らお役に立つ良案は見つかりません。
 私は「原発事故発生以来」一貫して事ある度に「反対を貫き」世界中に反対気運の広がりを期待し世の中から原子力に依存しない力が勝る事を祈願続ける者であります。
 それでなくとも地球上の問題は人類や生物、生態系には不可欠な条件が徐々に悪化をたどっております。決して早すぎることはありません。
 現代人が「子孫を思うなら」今日、只今から声を大にして発奮(はっぷん)すべきであります。
 もう体力も気力もない老体では、何をかいわんやと傍観するしか手はありませんか? 私の願いは地球という、生物が生息できる惑星が存在することです。これを人間の知恵で長持ちするよう考えるべき時節到来であります。


見果てぬ夢

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 雨が降る。風が音を立てて吹きすぎる。私は部屋の中で白い雨足が窓をつたって流れるのを見ながら遠い昔を思い出す。
 懐かしいあの人、この人、今はどうしているのやら。別れて半世紀。自分の筆不精が悔やまれる。
 二十歳から二十二歳でブラジルに来るまでの二年間、広島で放送劇研究会で声優になるための猛勉強をしていた。局での勉強だけでは足りず、新劇研究会に入り、芝居やパントマイム(無言劇)の勉強もした。特に新劇では遠くに聞こえるように大きな声ではなく、遠くまで響く声の練習をされられた。私は肺活量が少なく、小さな細い声しか出ないのでいつも叱られていた。他の人が立ち稽古をしているのに私は一人、皆と離れて声出しをやっている。その情けなさはその時の情景と共に今でも夢に見る。その頃の仲間は音信不通でどうしているか分からない。
 ただ一人、何年かごとに思い出したように手紙をくれる友だちがいる。私より少し若い人で多分、八十歳前だと思うが、生涯現役を目指して、中国、四国のテレビ局やラジオで朗読や語りをやっていると手紙が来た時は思わず両手を振り回して「ちくしょう」と叫んだ。
渡伯して五十数年、今までは大きな声も出なくなった。いや、声の出し方すら分からなくなった。ブラジルで山に入った頃はエンシャーダを引っ張りながら「アイウエオアオ」と発声練習をしていたが、いつか辞めてしまった。
 特に胃食道逆流症になってからは歌も歌えなくなった。去年の九月から私たち老人クラブのコーラス部に素晴らしい歌の先生がいらして下さって、懇切丁寧にコーラスの指導をして下さるので喜んでいる。
 歌の発声と台詞の発声はどこか通じるものがあるので、コーラスの度に二十代の私が山に向かって台詞を怒鳴っていた姿を思い出す。
 広川先生の御指導を受けて、発声をやっていたら、また、声を取り戻せるのではないかと楽しみにしている。唯、練習あるのみ。それにしても思い切り台詞をしゃべってみたいな。


私の女中奉公記

サンパウロ中央老壮会 猪野ミツエ
 私は結婚する一年前を女中奉公に出ました。
 明治生まれの祖母に「嫁に行くなら人の飯を食って来い」とやかましく言われたのです。
 学校を卒業してすぐお勤めをしたので、炊事などしたことのなかった私。近所の呉服屋さんの紹介で、倉敷紡績の社長、大原家に一年間お世話になりました。
 本宅は倉敷ですが、お子様が京都女子大の付属校で勉強されていた為、奥様は京都にお住まいでした。旦那様はこの別宅から会社に通われていました。
 奥様は学習院の出で、野津公爵家の次女に当たりました。倉敷の本宅ではいつもきっちりと着物だそうですが、京都では時折のお出かけに洋装をなさる事もありました。
 上の麗子お嬢様は十歳、ご長男の謙一郎様六歳、次女の恭子様は三歳でした。恭子お嬢様は後に美智子皇后の弟君の奥様になられました。
 お嬢様、奥様とお呼びするのはすぐに馴れましたが、坊ちゃまを若様と呼ぶのは田舎者の私は少し戸惑いました。執事(奥様の叔父上)、女中頭がおられ、難しい毎日でした。
 母は私が辛抱できずに帰ってくるのではないかと一か月ぐらいは毎晩、終列車の時間まで眠れなかったと後で申しておりました。
 京都は北白川銀閣寺の近くで、大原女はよく見かけたものです。
 丸一か月が過ぎた頃、若様が風邪を引かれ、私も交替でお側におりました。おとぎ話をせがまれたので、蛙のお話をしたのを今でも覚えています。
 大変気に入られ、それからは「ミッちゃんでないとイヤ」と、登校のお供もせがまれ、車は先に帰し、私が授業の終わるまでお付き合いしたものでした。ある時、「かけっこ」があり、待っても待っても吾が若様は見えられません。そのうち、まったくのビリに平気でゴール。情けなく、恥ずかしく、ついつい「若様やない、バカ様よ」と言ってしまいました。
 さて、夕食の折、旦那様は所要で不在。若様が今日のお話を奥様にされました。すると奥様は「謙ちゃんにもっと強うなって欲しいからミッちゃんがそう言ったのよ」と、仰って下さいました。私は顔から火が出る思いでした。後で女中頭、執事からは勿論お叱りを受けましたが、追放にはなりませんでした。
 半年が過ぎた頃、旦那様が物価庁次長になられ、東京の官舎に女中としてお勤めしました。代々木初台、明治神宮の近くで、奥様のお里、野津公爵邸を官舎として、大奥さまと秘書、女中三人がお仕えしました。
 大奥様は初代のミス日本で、主婦之友の表紙に出たことから学習院長の乃木大将から退校を命じられたそうです。兄君が写真屋さんであったそうです。(女中雀のお話より)。
 本当にお綺麗な方で、野津元帥のお目に留められたのでしょう。折り目正しく、厳しく教えを受けました。私がお仕えした頃は、手足が少し不自由でしたが…。
 私は東京では大奥様付き女中みたいになってしまいました。起きたら、髪はご自分でなさいましたが、お召し替えのお手伝いをします。着物の着付けもろくに知らず、なかなかお気に入るようにお着せできずに、随分、申し訳ない点があり、泣いたことも何度かありました。
 お使いの口上などは特に難しく仕込まれたものでした。
 すごく頭の冴えたお方だったと思います。お仕事で志賀直哉さんとの討論などもなさり、女中も含め手に汗を握ったことも懐かしい思い出です。
 半年の東京のお勤めも終わり、京都に戻られたのを機に、近所の友人の妹さんを京都にお世話し、女中勤めを辞めさせて頂きました。今でも時々、思い出しては懐かしく感じ、大原家のご繁栄とお幸せを願うものです。


女房への感謝

サンパウロなつメロクラブ 永田敏正
 早いもので家族全員引き連れてブラジル移住して三十五年経ちました。当時、三歳の末っ子の娘だけが、ブラジル人と結婚したために、新年での家長あいさつも、ポ語と日本語とのゴチャマゼとなってしまいました。
 それでも全員エンブーの我が家に集まっての新年会ほど、幸せを感ずるひと時はありません。二十年前までは、水道もなく、電気洗濯機も使えず、家事しごとの女房が一番つらい思いをしたと思います。自分は呼び寄せ会社の仕事で早朝から夜中近くまで働きっぱなしでした。
 家のこと、子供の事は、女房まかせでした。十六歳になる長女と家内が、学校や市役所とのやり取り全部取り仕切ってくれました。細かいこと、雑用、実はこれが大変なのです。
仕事を辞めて、いつも家に居りますと、家事の大変さが、しみじみと分かります。
 電話がなる。売り子がくる。停電や、電話が不通になる。水、ガスが切れる。ゴミを出す。きりがありません。
 もっと凄い仕事が、買出しと食事つくりです。旦那が居るために、どうしても昼飯を何とかしなければいけないと言います。
 一人の時だったら、気楽に間に合わせができたのにと。旦那は、昼はいない方が楽だというのです。かといって、外で昼飯をしておっては、小遣いが毎日減ってしまう。なんといっても、年金暮らしが、基本なのです。
 まあ愚痴(ぐち)は、言われるが、これも楽しみに感ずるようになりました。
 運転中も「もっと右へ寄らなきゃ」とか「オブスタクロ(ロンバーダ)に乗ったら車が壊れる」「もっとゆっくり!」とか、うるさいくらい注文が出ます。それでも「ハイハイ」と素直に言うことをきくのです。
 このくらいで、いつも食事にありつけ、洗濯もしてもらい、ありがたいことです。
 この「老壮の友」も配達はされませんので、原稿を書くのも、自由ですから気楽なもんです。昔、「なかま」が、毎月発行されて、郵送されてきたものでした。この時は、まず女房から読むので、あまり原稿は書きませんでした。今回は、心から女房に感謝をしているという本音で記述しました。
 この記事を読まれたご婦人の皆様に、話さない旦那に代わりまして、御礼申し上げます。


笑い話「誤植」

サンパウロ中央老壮会 纐纈蹟二
 いかにも作り話然とした所があるが、天皇陛下を天皇「階下」と誤植してしまった記事の事。
 それは天皇陛下が国宝的な堂宇を見学された時の事だそうだ。読者は天皇は階上に行かれず、階下に行かれたと解釈して納得したという。
 また、鈴木大拙先生は仏教学者で有名な方で、禅の大家であるとの印刷が誤植され、禅を「褌(ふんどし)」にしたという。読者は何の疑いもなく、さすが大拙先生は正に古武士の風格のある日常生活をしておられる。先生は外国で講演もされるが、いつも六尺の褌をきりりと締めておられるとは、古い伝統を守っておられる、と解釈したという、誠に阿呆らしい話だが、校正は責任ある仕事である。


ことわざ「人と屏風は直ぐでは立たず」

 屏風はぴいんと延ばせば立っていない。ひだを作れば立つ。人間の生き方も同じという諺。鎌倉中期の説話集『古今著聞集』巻第三の八一話に為輔中納言口伝にあるという訓戒が引用されている。「人の余りにうるはしくなりぬれば、え保たず。屏風のようにひだあるさまなれど、実がうるはしきが保つなり」と。
 夏目漱石の『草枕』に「知に働けば角が立つ。」を思い出させる。為輔の言う「実がうるはしき」が大切なのである。多少は曲がったことをしなければ、生きていけない、と解しては「実がうるはし」くない。


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