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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2012年3月号

2012年3月号 (2012/03/14) 訪日旅行

ビラ・ソニア老壮クラブ 井口たき子
 二〇一一年十月十七日、三週間の予定で「生長の家」訪日団に加わった。
 我が家からは長女夫婦、長男と私、孫息子と恋人、孫娘とその彼氏の総勢八人が参加した。
 田丸英夫本部講師団長の下、カナダのトロント経由にて沖縄に到着した。
 首里城、ひめゆりの塔、平和記念公園、鍾乳洞、玉泉洞などを見学し、夕方ホテルに戻る。ひめゆりの塔を詣でた時は二百人もの女学生が軍人と同じに戦って、玉砕してしまったことを知った。その女学生の写真を一人ひとり見た時、私たちは同じ時代に生まれたけれどブラジルにいたお陰でこうして生きていられるなんていくら運命であるとはいえ言葉も無い。フッとあの当時を思い出す。
 一九四五年八月、私は奥地の第二アリアンサ女子青年会で編み物の講習を村の中央にある自治会館で受けていた。昼休みに買い物を思い出し、組合の売店に行ったらいつも楽しく笑って応対してくれる店員さんも、事務所の人たちも皆沈みこんでいる。「日本が戦争に負けた」と村に一つしかない組合のラジオから流れたとか。それから薬局へ行っても、かじ屋の前を通っても、それこそシーンとして中央区全体が悲しい雰囲気に包まれていた。
 が、二、三日したら「負けたなんて嘘だ。日本の大艦隊がサントスに上陸する。さぁ、迎えに行こう」と、村人たちの声がする。
 私もちょうど二ヶ月ほど料理学校へ行くことになっていたので、心を弾ませてサンパウロへ出てみたが、サンパウロは「ボンバ・アトミカ(原子爆弾)、ボンバ・アトミカ」とそこら中の塀に大きく破裂した絵が貼られていて、町はシーンとしていた。
 そのうち、料理教室にソッと当時の領事館の人が入って来て「皆さん、落ち着いて下さい。日本は負けたのですよ。静かにして下さい」とあっちこっちの焼き討ち事件の話をしていった……。
 さて、沖縄二日目は北部を観光し、琉球村、万座もいい天気で暑くも寒くもなくブラジルを出た時と同じ気候で「本当にここは日本?」かと思うぐらい。
 二十四日は長崎平和公園を見学し、生長の家総本山に午後二時頃到着。総本山において歓迎式、谷口雅春、輝子大聖師の奥津(おくつき)城(=墓所)、七つの灯台、温故資料館、大聖師が始めて神の啓示を授かった家の複製、藤棚の家などを拝謁。総本山において夕食。娘と温泉に入って娘の敷いてくれた布団に横になる。何もかも神任せで、ぐっすりと一眠り。すばらしい研修会も夢のように過ぎ、高山へ市内観光、日下部ホール、工芸資料館、朝市などを見学。名古屋経由で古都京都へ。ニューみやこホテルに泊まる。曇ってはいるが雨にもならない。金閣寺、二条城、平安神宮。三十二年前に主人とその兄さん夫婦に案内された京都でしたが、何だか目新しいものばかり。私たちはホテルに帰って休憩を取るが、孫たちは違う所へ行ったみたいで買物。みんな英語で通ずるらしい。
 いよいよ日本滞在も残り少なくなった。京王プラザホテルの前の大京デパートへ買い物に行く。思いついた物を二、三購入し、私達は戻るが、娘たちは次の駅まで行ったようだ。
 夜、ソブリーニャ(姪)のキヨちゃんが会いに来てくれた。キヨちゃんはもう二年、日本で働いているが、「働けるだけ働いたらブラジルです」って。「やっぱり老後は、ママイや姉妹のいるブラジルよ」と、素晴らしく軽い上っぱりときれいな大きいフォリンニャ(カレンダー)をお土産に戴く。
 いよいよ今日でさよならだ。京王プラザホテルでカフェを戴く。このホテルは三ヵ所に朝食をとる所があって、息子と私は和食コーナーへ。ご飯をお茶碗で食べてみた。十一時に成田へ。そして四時の飛行機で出発。一晩雲上の人となり、クンビッカに到着すると孫が車で迎えに来てくれていて、真っ直ぐ帰宅。やっぱりお家が一番だ。


この国の民話

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
夜鷹
 梟(ふくろう)のような夜鷹は静寂な深夜の時間を読書、瞑想、研究で過ごす人たちの象徴。種々の迷信を作り出したり、恐怖心を抱かせたりする。
 いつも赤い目で薮睨み大鼻で痩せという娘は夢見る娘たちと同じように結婚したいと思っていた。可愛そうな娘の事を皆陰で「夜鷹(月の精の意)」と呼んでいた。しかし、皆に親切で気が優しい好い娘だった。
 ある夜の事、家に帰る途中、とても人触りの良い好青年と行き会った。それはとても暗い夜道に迷った一人の王子様だった。
 彼女はいつもの通り、心のこもった親切さですぐ王子様に道を教えようと夜の闇の中を導いていった。
 王子様は娘の親切さにすっかり魅了され、結婚を申し込むまでに至った。そしてそれは娘が人生で一番望んでいたことだった。
 彼女は申し入れに同意し、しばらく二人は手に手を取って歩いて行った。その時、雲が晴れた空に美しい月が現れ、溢れる月光で暗闇が明るく照らし出された。
 王子はそこで自分が決めた許嫁(いいなずけ)を良く見ることが出来、ギョッとした。娘は大鼻の上、薮睨みで震え上がった。
 それまで優しかった王子は言った。
 「すぐに戻ってくるから、ここで待っていなさい。」
 王子は逃げ去ってしまった!
 だが、娘は待って待って、待ち続けた。王子は消え去り、待ちくたびれた所へ知り合いの年老いた女魔法使いが通りかかった。
 「あんた、そこいらで私と結婚する美しい王子様と行き会わなかった?」
 女魔法使いはしげしげと「夜鷹娘」を見つめて言った。
 「結婚だって? あんたとても好い娘だけれどね、顔がそれじゃね…」。
 娘はそこで吐息をつきながら
 「私に翼があったら、私の婚約者を探しに行くのに…」。
 「じゃ、翼が欲しいのだね。あんた、とても好い娘だから願いを叶えてあげよう」
 女魔法使いは、恋をする娘の頭に手を置いて、一羽の鳥にしてやった。
 鳥は婚約者を探しに飛び立っていった。夜が明けた時、暗闇に慣れきった彼女の目が疼(うず)き始めた。鳥は木の幹の穴を一つ探し、そこを自分の住居と定めた。
 今では夜になって月が出ると「夜鷹」は木の穴から出て歌い始める。その歌声はとても寂しく悲嘆(ひたん)に近いものだった。
 そしてこの「夜鷹」の歌を聞く人々は、彼女の悲劇を知らずただその嘆きを聞いて同情の気持ちを募らせていく。
 「フォィ…フォィ…フォィ」
   ○  ○
 夜鷹とは辞典を引いてみると、「翼長約二十二センチ。鷹に似ているがくちばしが扁平、小昆虫をとって食べる、夜行性」とあり、この国に棲んでいることは不明であったが、この民話でその存在を知った。


しっかり うっかり

バレットス寿楽会 岩本みずほ
 昭和一桁生まれの人ならば、その昔、毎日登校する学校の校門から校舎正面入り口付近に薪を背負って本を手にしている二宮金次郎(尊徳)の像が全国どの学校にもあったことを思い出すでしょう。
 今の世で「これを手本にせよ」などと説いたものなら「とんでもない」と罵倒されてしまいます。第一に子供は働いてはいけないことになっています。立派なことです。
 以前、訪日した時、私が学んだ頃の昔の校舎はすでになく、そこには別のピカピカの校舎が新築されていました。もう一度見たいと思っていたかの像は、どこかに撤去され、児童の教育にそぐわないとかの意見もあり、老朽化して補修にも難色を示されていました。
 質素、倹約、勤勉の精神を伝えるお手本だったのが、今はどこに隠居してしまったのやら。
 ここブラジルでは努力を尊ぶ姿勢と働く姿を勧めることが〔できない〕〔しない〕結果、今の子供らは要らぬ麻薬に染まり、始末に終えない「餓鬼」が何と多いことかは周知の通りです。
 老いぼれの愚痴と思われるでしょうが、先日あるCRACOLANDIA
(麻薬売人のいる場所)
を一掃したカサビ市長を槍玉に挙げてテレビのカメラの前で「けしからん」と一席をぶつ先生がいました。一方、近所の住民の八割以上が市長に賛成していると新聞で報じていました。麻薬中毒者の中に自主的に治療したいという患者が百八十人近くいたそうです。たったそれだけと言うなかれ、何でも始めることが大事だと思います。勇気のいる事ではないでしょうか。しっかりと頼みます。
 でも多くの麻薬中毒者はバラバラに拡散して、はた迷惑をかけ副作用とでもいえる二次現象も出ているらしいということですが…。
 幼い頃から働く喜びを知っていればこれほどまでに麻薬が氾濫して社会的な問題にもならないでしょう。まして働くことが罰のように仕込まれている世の中だから物騒なことははなはだしいものです。このままにしていたら、取り返しの付かないことになります。老夫婦だけの我が家と向こう三軒両隣の老夫婦たちもびくびくしながらの毎日です。
 でも、警察までがストをする国だから治安悪化、殺人、略奪など多発しても不思議ではなく、それでも国民は平気でのん気なそぶりをしているのだからどうしようもありません。


シネマ放談(8)

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
日活の無国籍アクション
 石原裕次郎に続く第二の星・小林旭が登場した時、日活の江守専務は若い者たちをつなぎ留める企画はこれしかない、と決断したと言う。即ち〝アクション路線〟で読みはズバリ的中し、このシリーズの成功は日活の〝黄金の昭和三十年代〟の幕開けを飾ったものである。旭の役はギター片手の流れ者・滝伸次。地方都市にふらりと現れ、のさばる悪玉ボスを倒して善良な市民を救い、町娘・浅丘ルリ子の慕情をふり切ってどこともなく去って行く。準主演が拳銃のライバル宍戸錠、エースのジョーのとぼけた味も魅力。
 このシリーズが始まる前に旭が主演した「南国土佐を後にして」(昭和三四年)がそのきっかけとなったとされている。ペギー葉山のヒット・ソングをテーマに斉藤武市が監督した」もの。旭は刑務所を出たやくざと戦死した兄の二役を演じ、浅丘ルリ子扮する恋人と堅気の世界に生きようとするが、再び暗黒街へ引き戻されるというストーリー。アクション、歌、地方ロケという三つの要素を含む「渡り鳥」シリーズがここに誕生することになり、第一作は「ギターを持った渡り鳥」(三四年)。舞台は神戸に近い港町にギターを脊中に登場した滝(小林旭)は秋津(金子信雄)のもとに身を寄せるが、彼の正体が分かるにつれ手を切る。彼の妹の由紀(浅丘ルリ子)は滝に惹かれており、ジョージがからむ。
 「口笛が流れる港町」(三五年)の舞台は宮崎県えびの高原。相良牧場に働く滝だが、主の相良は酒に溺れ女にうつつを抜かしていた。的場組の組長(金子信雄)相良の妹・杏子(浅丘ルリ子)に求婚していたが、彼女は嫌って東京の女子大に通っていたが、兄の牧場を心配して帰って来た。的場は牧場をのっとろうとする。殺し屋の太刀岡(宍戸錠)が滝のライバル。第三作「渡り鳥
いつ」また帰る」(三五年)は滝が佐渡に渡る。島のボスは高見鉱山の支配人・榊原(金子信雄)。ハジキの哲(宍戸錠)は滝を弟の仇と狙うが実は殺し屋ジョウ(内田良平)が犯人だった。高見鉱山の女主人の妹・則子(浅丘ルリ子)が相手役で、戦争中国民から集めた貴金属を隠した廃坑の探索がからむ。「赤い夕陽の渡り鳥」(三五年)。滝が現れたのは福島県会津盤悌山の麓。キャバレー・オハラの支配人・小芝(近藤宏)は靖子(浅丘ルリ子)の牧場買収を企む。ハジキの政(宍戸錠)や殺し屋ジミー(深江章喜)マキ(白木マリ)などが入り乱れる活劇。
 「大草原の渡り鳥」(三五年)は五作目で舞台は北海道釧路。滝は信夫少年の母・和枝(南田洋子)が働くキャバレー、ブラック・ベアに流しに入る。ボスの高堂(金子信雄)は飛行場を作る土地を探しているがアイヌ集落が邪魔となり追い出しを計る。滝は民芸研究家。順子(浅丘ルリ子)とともに集落を守ることにする。祭りの夜集落は焼打ちされるが、七年前の銀行強盗の主犯という悪事が明らかにされた高堂にも手錠がかかる。「波濤を越える渡り鳥」(三六年)は香港、バンコックへと足は伸びるが、内容が少し異質で面白くない。敵役の宍戸錠が旭の兄となっているせいもあろう。事件としては旧日本軍の隠匿物資をめぐる争いとなる。浅丘ルリ子は東洋民族舞踊の研究生。
 七作目が「大海原を行く渡り鳥」(三六年)。
長崎の雲仙高原で馬を駆る滝の眼下で観光馬車が三人組に襲われ、滝が救助する。被害者は礒野社長(芦田伸介)、由紀(浅丘ルリ子)、みどりで由紀の持っていた一千万円は強奪されていた。その後、犯行の黒幕は礒野と判り、外国人・竜(藤村有弘)の手で倒される。最後は「渡り鳥北へ帰る」(三七年)で函館に舞台が移る。親友の浩一が何者かに殺され、滝は犯人を探していた。キャバレー・ロキシーのボス黒川(近藤宏)は浩一の実家、岡野造船所を乗っ取ろうとしていた。ハジキの政(郷瑛治)が怪しいと思われたが、黒幕は黒川でニセの政の正体は麻薬取締官の立野だった。浩一の妹・由美(浅丘ルリ子)が滝に思いを寄せている。
 小林旭はその後も「流れ者」シリーズ(五
本)、「暴れん坊」シリーズ(五本)、「銀座旋風児」シリーズ(六本)、「女の警察」シリーズ(四本)等々に出演、いささかも芸術づくことなく大衆娯楽映画一本やりを貫き、日活アクション映画黄金時代の形成に大きく寄与した。
 実生活では昭和三七年に美空ひばりと」結婚するも二年後には離婚、四二年に青山
京子と再婚している。


私の女中奉公記(2)

サンパウロ中央老壮会 猪野ミツエ
 卒業してすぐ和歌山県雇の辞令を受け、月給二十四円で西牟婁(むろ)地方事務所に三年少し勤めました。
 終戦の玉音放送を全員集合して聞いた悲しい思い出もあります。退職して程なく私の女中奉公が始まったわけです。
 大原家では使用人は自然とお上とお次という風に分かれていたように思います。お次の中でも植木屋さんと次女恭子さま付の看護婦さんは一目置かれていたようでした。
 先代(大原孫三郎様)には外に坊ちゃま(十五歳)がおられ、大阪の方にお住まいとかでちょくちょくお見えでした。旦那様は「正三、正三」と可愛がっておられるようにお見受けしました。正三坊ちゃまはきれいで人懐っこい方でした。旦那様がご一緒の時は広間でお食事ですが、奥様とお子様の時は台所で済まされ、女中の手がかからんように気を遣って下さいました。坊ちゃまはお次達とご一緒で、何かと遠慮なさっているように思われました。先代は実業家であり、坂東妻三郎を大変ご贔屓にしておられ、御邸に招待なさる事も度々だったと聞いています。大広間は濡縁付きで襖には扇の絵がたくさん描かれ豪華でこのお部屋を扇の間と呼び、女中ではなく植木屋の奥さんがお掃除にみえていました。
 今代では旦那様の寝室になっています。奥様は上のお嬢様、若様とお二階にお休みになり、北の間と呼んでいました。小さいお嬢様には看護婦さんが付き添われ、居間と呼ばれる部屋でお休みになられておりました。
 私が奉公に出ましたのは、ちょうど奈良のお水取りの一番寒い頃で、お目見えの日に奥様は「きれいな手をしていますね。それでお水使いできますか?私はどの部屋にも鍵をかけるのは好みません。みんな家族と一緒」と仰いました。
 二月も経たぬ内に京都盆地の底冷えです。私の手はひび割れ、洗濯物も絞れません。絞っても広げている間にピンと凍りつくのです。雪がそんな私をあざ笑うように降っていたのを思い出します。
 終戦後の食糧事情が悪かったのもあまり知らず大原家のお勤めをしていました。配給の野菜、魚などは私が取りに行きました。自転車に乗れたのは、大原家の女中としては初めてのようで、使い走りには何かと重宝されたものです。
 お次にはお次のしきたりがあり、旦那様、奥様とは直接には話せなかったものです。植木屋さんは倉敷出身で先代よりの御縁とか。看護婦さんは旦那様と幼い頃よりの同級生で、大原病院より派遣され御一家の信を集めていました。独身で気難しい真っ直ぐな方でした。奥様も恭子お嬢様がむずかると「ダダちゃん(岡田さん)に言いますよ」と仰るほど、奥様は頼りになさっていました。
 大広間(客用)の手前に仏間があり、毎日お水とお茶を取り替えるのが私の役目でした。方々からのお届け物も多く、珍しい物はまず仏壇にお供えになります。お供え物は決まってお口にはなさらず、お次に廻されます。珍しいお菓子も女中冥利に預かったものです。岡山の農場より宮中に献上する白桃など届き、目にした光栄もありました。
 旦那様は鳥類にすごく関心をお持ちで、双眼鏡と図鑑は常に机に置かれいて、珍しい小鳥を双眼鏡でご覧になったときなど嬉しそうなお顔で気安く女中にでも話しかけ、説明をなさって下さった事もありました。
 三歳、七歳、十歳のお子様達は世間のような喧嘩をなさる事も無く羨望の一面、少し冷たいなぁと感じることもありました。


大きなお世話

サンパウロ名画クラブ 田中保子
 日曜日のリベルダーデ東洋市の人出は筆舌に尽くしがたい混雑ぶりで、ガルボンブエノ街からメトロまで「ダ・リセンサ」の連発をしても前に進まない。
 ふと横を見ると、中年の日系人らしい婦人が屋台での品物選びに夢中で肩に大きなサッコーラ(袋)を提げている。そのサッコーラを後方に立っているブラジル人のオッサンが頻りに中を覗いていた。
 これはてっきり「クサい」と思っちゃった私は「奥さんのサッコーラ大丈夫ですか」と言ってしまった。ご婦人は「えっ。あぁ、この人は私のマリード(夫)ですから大丈夫です」との返事に私はドギマギ。この国にはこういうカップルもいることを知っていたが、旦那の風采がイマイチだったので、つい余計なことを口にしてしまった。
 娘にその話をして「財布を掴むまで黙っていようか」と問うと、「奥さんに取ってと頼まれたからかもよ」との返事。「盗って逃げるまで黙って見てるの?」という私に、「シネマの撮影中かもよ」と話す娘。小さな親切大きなお世話。皆さんならどうします?


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