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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2012年4月号

2012年4月号 (2012/04/14) 南極基地炎上

サンパウロ中央老壮会 中山保己
 二月二十五日のブラジル南極基地の炎上をテレビで見た。巨大な炎は基地の七〇%を焼き、二人の死亡と一人の重傷者を出し、調査資料の大半を失うという損害を与えた。五十名近い調査団の引揚げもやむを得ないことになった。
 その四日前の邦字新聞でタウバテ市立大学の日系生物学者・須田直美セシリアさんの南極基地での調査研究の記事を興味深く読んだ後だったので、基地の火災には驚いた。
   ×  ×
 日本の南極探検隊第一次越冬隊長・西堀栄三郎著の「南極越冬記」を思い出して探し、再読してみると結構、前よりも面白い。
 未知の世界の活動運営にまで日本の政府官僚機構の主導という場面に出くわす。たとえば、何月何日に出航せよというが、現地の状況によってはそうはいかない。海水の溶融など考慮すると、果たして出航できるか否かは時日の余裕がいるのだ。
 越冬中、ある施設の小屋が焼失したが、独立の棟だったので他に類焼を及ぼさなかったと不幸中の幸いを喜んでいる。今回のブラジル基地の建物は利便のために一つにつながっていて大部分の施設が類焼という不運に見舞われたのと思い合わされる。
 日本の第二次越冬隊が越冬中止と決定して引揚げる時に、「なぜ、犬を繋いだまま置き去りに下のか?」という疑問に、越冬記はこうだ。
 第二次越冬隊が来るというので、犬を繋ぎ名札をつけ、新しく着く人たちに紹介?しようと準備していた。
 ところが天候が悪化して探検船「宗谷」は基地から反対方向に、次第に流され近づけない。第二次隊員は飛行機で来たり、第一次隊員も飛んで行ったり。「宗谷」はだんだん遠ざかり、ついに第二次越冬中止と決定し、一次ともども帰国となった。
 どさくさにまぎれて、犬の解放を忘れてしまったのだ。可愛そうにみんな死んだ。――いや、二匹だけ繋ぎをちぎって生き残っていたのだ。翌年の越冬隊員が着いた時、喜んで出迎えた。このタローとジローの生存の朗報は、その年、最大の感銘を受けたニュースだった。
 三十余年後、犬の担当隊員だった二人のうちの一人が、移民史料館を訪れている。


日本人と生まれた誇り

サンパウロ名画クラブ 永田敏正
 今日も八十一歳になる友人の葬儀を済ませてきた。福岡県出身のコチア青年である。
 一九五三年にアマゾンに入植し、ゴイアス、サンパウロへと移転してきた。
 大富豪のような豪邸に住むことなく、三人の息子を育て、最後のほっとしたかすかな微笑を浮かべての死相であった。身体が動く間は近所の農家のお手伝いをし、元気な毎日であった。
 彼がまだ元気な折、よく話し相手になって、人生の思い出話に花を咲かせた日々は「楽しくて良かったなぁ」とつくづく思う。
 私は彼より十歳若い。ブラジルへ移住して出来た友人である。岐阜県の自分と福岡県出身の彼とは日本人同士であったことが縁であった。しかも同じ日蓮仏法の信仰者同士でもあった。
 仏の指導に「最後に死ぬ時が重要である。若い時にどんなに仏に供養してこようが、臨終に際しての回向がきちっと仏法に叶っているかどうかで即身成仏が決まる」とある。
 彼の場合は組織の友人葬で弔いができた。
 ここブラジルでの日本人がまた一人消えていった。残された子孫の人相は日本人である。だが、考え方はブラジル人である。
 日本文化を日本語ではなく、ポルトガル語で親から吸収してきたに違いない。日本語文化の継承は無理かも知れないが、せめて考え方から生活習慣ぐらいは日本文化を継承させたいものだ。
 食するときの「いただきます!」という「命ある食べ物への感謝」。仕事に「行って来ます」と元気よく出て、帰ってきたら「ただいま」と無事に帰宅できたことに感謝する毎日の生活心こそ、日本人なのである。
 複雑な現代社会、世界中からの情報はものすごい勢いで入り込んでくる。頭から指先にいたる身体全部にストレスがたまる。情報をより分ける即断力が必要である。
 朝晩の勤行(御本尊にお経を唱題すること)こそ最も命の清浄時間である。
 孫が遊びに来た時には、年寄りの務めとして一生懸命に躾(しつけ)ていきたいものだ。
 日本人として生まれてきて、海外にて没して行くが、人生そのものは「日本人」でありたい。誰でも国を持っているが、これだけ人間が世界中あっちこっちと生活を移動していたら、顔を見ただけではどこの国か見分けがつかなくなるのではないだろうか。
 地球人には違いないが、人間保障してくれる国はやはりこのブラジル国である。日本人としての価値創造力をこのブラジル国発展に使い切っていきたい。


偶然

サンパウロ中央老壮会 猪野ミツエ
 それはもう二、三年も前のことです。ある暑い朝市で、紺と白の縦縞のブラウスを見つけました。値段も安いし、ゆったりと涼しそうなので飛びついて買いました。
 二日後に近所で日語の小さい会合があり、それを着て出ました。日本人六名だったと覚えています。
 宿のお婆ちゃんも、もう一人のお友だちも、三人が同じブラウスで顔を見合わせて首を縮めてクスリと笑い合いました。何と同じ店で同じ物、同じ日に買ったんです。和やかに会合は終わりました。
 続いて何かの集まりに「♪みかんの花咲く丘」だったと思いますが、同じブラウスを着て三人で一緒に歌いました。よく揃っていたと後で褒められました。今日もその涼しい服を着ています。
 そしてあの時の会合を思い出しては一人笑いが起こります。まったくの偶然としか言いようがありません。


エウ ソウ ブラジレイロ

サンパウロ名画クラブ 阿部俊郎
 此れに対して評論すればこうなる。人間は物を見る自由がある。物を考える自由がある。自己の存在をどのように規定しようとも、その人の自由である。ただ、子どもでない限り、自己の言行に自己の責任がある。
 人間の言動、一言一句はその人の教養の反映なのである。エウ ソウ ブラジレイロ、子どもじゃあるまいし、自分が何なのか判らないのだろうか。一歩、家から外に出れば、何と呼ばれているか、知らない筈は無いだろう。
 自分の姿が見えないのなら、鏡に映してみるがよい。幼少年時代に学校でどう呼ばれてきたのか、覚えていないのだろうか。ジャポネース以外、どんな名で呼ばれたか、言ってみるがよい。
 それも大抵の場合、好意的な方が多かった筈である。ここで言いたいのは、自己の出自、民族の誇りと自覚である。物を見る自由があるのに、自分の姿は見えていないのではないか。私だってブラジレイロである。選挙権もあり、軍籍もある。
 一旦、緩急あらば祖国ブラジルの為に、命を捨てる人間である。けれども、一歩外に出れば、誰もエレイトール(有権者)か、エゼルシト・ブラジレイロ(徴兵済)かと、尋ねる人はいない。ジャポネースとしか、呼ばれないではないか。
 忘れてはならないのは、自己の出自である。自己の所属する民族の誇りなのである。ジャポネースと呼ばれている限り、一人ひとりが祖国と民族の名誉に対して責任があるのである。常に郷党家門の名誉を想い、生きて捕虜の辱めを受けず、死して罪科を汚名を残すなかれ。これは、ただ軍人の護るべき本分たるに止まらず、人間の一生の護るべき規範なのである。


ヨーロッパ旅行(1)

ビラソニア老壮クラブ 井口たき子
 九七年にボランティアの友だちがヨーロッパ旅行をするというので、私たち夫婦も同行することに決めました。
 五月二十八日、リベルダーデを出発。私たち二十六人は二十九日にマドリードに着きました。翌朝、ホテルのすぐ近くの一キロ四方ある公園の広場を楽しみ、ペニシリンの発明者、ドクトル・フレミナンド・ペニシリンの銅像の前を通って、闘牛場を望み、プラッサ・クリトボーン・コロンボを通って斜めに傾いた有名な建物(ピサの斜塔)の前でパチリ。夜はフラメンゴ。
 翌日、南米ツーリズモとマドリーのコンドルバカシオツーリズモとが合流。一台のバスで七十キロ離れたトレードの城を皮切りにブルゴへ向かう。トレードの城はアラブが攻めてきても大丈夫なように周り中お堀に囲まれている。素晴らしい岩の山々を眺めながらバスの中から思わずパチリ。
 デス・フラデイロ・デ・パンコルポ(岩山)はイスパニヤとフランスの国境だ。リオレブロを眺めながらボルデアッシュに着く。ここからバリーまで五百六十キロ、一年の内二百六十日は小雨もしくは曇りでカンポ・デ・アグリコラ、マイオール・デヨーロッパ(ヨーロッパで一番大きい農業地帯)とガイドは説明する。何とケシの花、そして向日葵の花も続く。やがてフランスに入り、フランスは農業にも歴史があり発達している。広い範囲に水を撒(ま)ける機械が沢山設置され、先祖代々伝わる土地を豊かに耕している。松林も枝をきちんと下し、根元が乾燥しないよう草をかぶして手をかけている。点々と見える農家も庭に数台の自動車、トラクターがおいてある。有名ワインの街、左のパラシオ・エスチーは十七世紀はルイス・キンゼの城、そしてその次は、その愛人のお城等など。(つづく)


シネマ放談(9)

サンパウロ名画クラブ 津山恭助
女渡世人・矢野竜子
 学園紛争に揺れた一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけて、全共闘派学生に熱っぽいフアン層をつくったのが「緋牡丹博徒」シリーズ(全八作)の藤純子だった。女ながらもやくざ渡世の掟を守り、義侠心と人情に厚く、しかも女としての慕情は抑えて激しい斬り合いに身をさらす、というイメージに加えて背中に鮮やかな緋牡丹の刺青、闘う聖母像が若者に受けた。女優に剣を持たせてチャンバラをやらせるという
のは古くから、映画では鈴木澄子や伏見直江、大衆演劇では浅香光代などのスターがいて、時代劇の一つの分野になっていた。これに美しい様式性と幻想的な情感を盛り込んだのが「緋牡丹博徒」「女渡世人」シリーズであった。
 その第一弾が「緋牡丹博徒」(昭和四三年)。九州熊本の博徒の矢野仙蔵の一人娘・竜子(藤純子)は父が何者かに殺されて以来、その仇を追い求めて全国の賭場を流れ歩いていた。道中では一匹狼の渡世人・片桐(高倉健)や四国の熊虎親分(若山富三郎)、大阪堂万一家の女親分おたか(清川虹子)らと知り合う。そして遂に父殺しの下手人・加倉井(大木実)を追いつめる。
 次は「一宿一飯」(四三年)。お竜は上州戸ケ崎一家にワラジを脱ぐが、あくどい手口の笠松(天津敏)の縄張拡張の犠牲になり壊滅寸前。一匹狼の渡世人・風間(鶴田浩二)の助太刀を得て、どこまでも汚い笠松一家に一身を投げ打って力を貸すお竜。「花札勝負」、お竜は名古屋の西之丸の杉山一家(嵐寛寿郎)に世話になるが、同地は四年に一度の熱田神宮大祭の観進賭博をめぐって博徒の世界が二つに割れていた。胴元の座を西之丸から奪い取り、名古屋制覇を企む金原一家(小池朝雄)にお竜は侠気の渡世人・花岡(高倉健)を助っ人にして殴り込む。
 第四作「二代目襲名」(四四年)。七年の渡世修業から五木村に戻ったお竜は、宿願の矢野一家の再興を果たす。そして筑豊鉄道の建設に一家をあげて打ち込むが、悪徳やくざ宝満一家の荒木田(天津敏)らの邪魔だてにあう。苦堺に立つお竜に助太刀するのは一匹狼の流れ者・矢代(高倉健)で最後に悪を倒したお竜は見事に鉄道を開通させた。「鉄火場列伝」」(四四年)は阿波踊りが真っ最中の徳島が舞台。お竜、仏壇三次(鶴田浩二)、関西一帯で売り出し中の親分、小城(丹波哲郎)が土地の悪徳やくざ一家の横暴に泣く貧しい小作人たちのために立ち上がる。
 第六作は「お竜参上」(四五年)で、これはシリーズ中でもナンバーワンの出来だろう。数年前に死に追いやったニセお竜の娘・お君を探して浅草へやって来たお竜は鉄砲久(嵐寛寿郎)のもとに草鞋を脱ぐ。
 そこで興行権をめぐるやくざの抗争に巻き込まれる。同じ浅草を縄張りとする鮫洲政(安部徹)は鉄砲久の持つ一座の利権を奪おうとしていた。久は政の謀略で殺される。一匹狼の流れ者・青山(菅原文太)の助けを得て鮫洲一家に乗り込んだお竜。ラストの雪の今戸橋で、故郷に帰る青山に蜜柑を渡すシーンは歌舞伎のひとこまみたいに情感の溢れ出た名場面となっている。「お命戴きます」(四六年)。お竜は上州伊香保の賭場でイカサマで危機に直面、結城(鶴田浩二)によって難を免れた。高崎では軍御用の兵器工場建設の利権をめぐって幾多のやくざ一家が争っている。百姓たちへの保障を出させようとする結城は、軍と結託して金を着服している富岡(河津清三郎)によって命を落とす。お竜は陸軍大将にまで直訴するが、富岡は犯人をでっちあげて対抗。お竜の殴り込みで結着。
 「仁義通します」(四七年)は藤の引退で最終作となった。大阪の堂万一家の三代目を継いだ岩木(松方弘樹)に伝法一家(河津清三郎)が嫌がらせを繰り返し、不意討ちで遂に岩木を死に至らしめる。岩木の戦友の北橋(菅原文太)とお竜、それに助太刀に駈けつけた熊虎(若山富三郎)は守りを固めた伝法一家へ乗り込んで行く。
 藤にはこのほか「日本女侠伝」(五本)「女渡世人」(二本)のシリーズもあったが、昭和四六年に尾上菊之助と結婚して映画界を去った。引退記念映画として「関東緋桜一家」(四七年)が製作された。時あたかも東映任侠映画も衰退期にさしかかっていた。


糞尿談

インダイアツーバ親和会 早川正満
 ブラジルへの移住当初、田舎生活の苦労話にコロノの住宅は連なっているのに、便所が無いのには困ったとよく書かれている。
 ヨーロッパ移民の多くが近年まで田舎の生活には便所、その物を持つ考えの無い生活習慣だったから敢えて日系人に意地悪をしたわけではないと思う。
 当地方都市でも近年まで町に公衆便所など一つあればよい方ではなかっただろうか。
 皆、角々にあるバールの便所を借り、カフェジーニョを一杯買うという経験があると思うが、では田舎での毎日の生活内での生理現象はどう対処してきたのか?
 それは田舎でも小さな町でも必ず裏庭があり、そこがその役割を果たしていたのである。夜は外に蛇、クモ、さそり、痴漢がいて危ないので、室内でピニッコ(おまる)で用をして裏庭に捨てる。植えてあるマンゴがたわむように実を付けるという自然循環をしていたのである。四十余年前の話だが、ビラコッポス国際飛行場の滑走路脇で借地してトマト作りをしていた。その頃、我が家の垣根越しに隣接したシチオの住宅があり、裏庭も当然隣りあっていた。ある朝、歯ブラシを加え裏に出たらそこの十七歳の女性が用をたしているのに出くわしたことがある。こちらが「あっ、デスクーパ(ごめんなさい)」と顔を背けたが女性はニコッと笑い最後まで用をたし、「チャオ」と言って家に入っていった。その時、まだ独身だったがブラジル娘とは恋はしても結婚できないと思った。生活習慣の違いは一代では寄り添いがたいと思ったからです。
 ピニッコに関する話をすると、昔のフランスのパリであった本当の話。それもNHKのテレビで聞いたのだから信用がおけるが、昔のパリの街、レンガ建ての三、四階のアパート群があった頃の事である。夜、用をたして満々となったピニッコを早朝、皆が窓から大通りに投げ捨てるものだからその臭さと言ったら凄かったらしい。
 王様は捨てる禁止令をたびたび出したが効果なく、王様がパリ郊外に宮廷を建て逃げ出したというし、その子孫が移民してきたのだから、ピニッコは持参してきたが、日本人が作った雪隠詰(せっちんづめ=見えない場所)にて用をたすという考えはなかったかもしれない。
 では、現在のブラジルではというと、私の周りの田舎を見回してもシャワー、水洗便所付でなくては農場労働者は来ない。でも、息子たちは昔は取らなかった家賃をきっちり取る。ブラジルもすっかり変った。それも凄いスピードで…。二世の知人が日本に行ってびっくりした話として、街中にいまだに完全なためつぼ便所があり、その臭さと言ったら凄かったという。ぶらじるでもまだ都市でも大きな寺院の片隅、墓地の煉瓦塀は夜の公衆便所と思われる。
 南米の強い日光に当たり舞い上がる気流の臭さも負けていないだろう。インダイアツーバの町でも公衆便所も数多く出来たが、紙と便座はない。まぁ、「中腰でせよ」という事だろう。きれいな便所はショッピングセンターや十以上ある大きなスーパーマーケットぐらい。ただし、ブラジルは日本と違って紙は流せない。どこでも便座の横に紙の捨てる籠が置いてある。田舎の農場内で自家製の我が家の水洗便所も紙は流さない。それが溜まったらタンボール(ドラム缶)の中で燃やすのが年寄りである私の仕事だ。さて、雨も止みそうだから燃やしてやろうか。


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