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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2012年5月号

2012年5月号 (2012/05/12) メトロ寸描

サンパウロ中央老壮会 森本孝司
 少し前の邦字新聞に、メトロの路線が延長されたため乗客数が増加。各線で満員状態との記事が出ていた。
 毎日、二往復、時には三往復もする自分としてはちょっと困ったことである。東京のラッシュアワーのようにはならないことを願っている。昔、日本にいた頃、近所のお姉さんが何かの用事で上京し、満員電車の中で押されて、肋骨にひびがはいったと聞いたことがあった。色白のきれいな女性だったが、ちょっとひ弱な感じの人だった。その人は二年ほどして肋膜で亡くなった。
 サンパウロの人たちは、出勤時間にはゆっくりしたところが見られるが、帰宅時間帯には人を押しのけても車両にもぐり込んでくる。家に早く帰りたい気持ちはもっともであるが、太った大男の間に挟まれた時は息苦しくてたいへんだ。どうしても乗れなくて、三台も見送った後、反対方面行きにもぐりこんで、終点近くの駅で乗り換えて引き返してきたこともある。これからどうなることやら。
先日、知り合いの青年と地下鉄駅で行き会って、いっしょに乗り込んだが座席はあいていなかった。その青年は、老人・身体障害者用の青色座席に座っていた高校生ぐらいの男の子に「ちょっと失礼。この人に席を譲ってあげてください。」とていねいに頼んでくれた。座っていた男の子は「あっ! すみません。どうぞ」と立ち上がった。自分もちょくちょく若いのが特別席に平気で座っているのが気に食わなかったので、知り合いの青年の行為はうれしかった。
 それから一月ほど後の事。青色座席に座っていた中年の女性が、自分に「どうぞ」と席を空けてくれた。老人の当然の権利であるから「ありがとう」と悠然と座った。二人がけの片側には若い学生らしいのが座っていたが、知らん顔をしている。次の駅でどやどやと乗り込んできた人々の中に大きなお腹をした妊婦がいた。自分は席を譲ろうと思い立ちあがりかけたら、こっちが老人なのを見て、「けっこうです」と遠慮して座らない。となりの男の子は平然としている。腹が立って「君、このご婦人に席を譲ってあげないかね」と言うと、「でも彼女は断ったでしょう?」ときた。「断ったでしょうじゃあ無い!ここは特別席だ。君たちの席じゃない!立て!」すこし大きな声でいったら、その子は「分かった」と素直に立ち上がった。
 自分は周りの人が見ていたので、少しはずかしくなった。
 先日の知り合いの青年の話し方と、自分の話し方のちがいに自分でびっくり。教養のちがいがはっきりと現れている。おおいに反省した。
 空いている時に、乗客の様子を観察するのも好きだ。半年ほど前のこと。向かいの席に座っていた若い女性が悲しそうな顔をしていたが、そのうちに泣き始めた。ハンカチで顔をおおい、背をふるわせてむせび泣きしている。どうしたのですかと開きたくなったが、そうもいかない。恋人と喧嘩をしたか、はたまた別れたか。あるいは大切な人が重い病気に罹っているか、亡くなったのか。大切な入社試験に落ちたのか。いろいろ考えて、心配になる。そこまでくると、そんなことを考えている自分にうんざりしてくるが、それでも心配で、その女性から目が離せない。メトロの中でむせび泣くとは、相当大変なことがあったのだろうと同情し彼女を見ていた。
 人はそれぞれ、悩みや問題を抱えているものだ。悲しんでいる人をみるのは、こちらの心も悲しくなる。
 毎日メトロに乗っていれば、いろいろな事にでくわす。それでいろいろ想像してみるのも、悪くはない。これからも続けていこうと思っている。心の中で考えるだけだから他人の迷惑にはならないだろうし。


ヨーロッパ旅行(2)

ビラソニア老壮クラブ 井口たき子
 パリではエッフェル塔の三階まで上って四方を見渡す。そしてルーブル博物館、凱旋門を見学。ベルサイユ宮殿の庭を楽しむ。セーヌ川は両側の景色を楽しみながら遊覧船で下る。
 次はイギリス。ビッグベン、ロンドン塔、国会議事堂を橋の上から見る。また有名な蝋人形館では、千代の富士とエリザベス女王の人形の前でパチリ。ノートルダム寺院やミス・コンテスト等が行われる世界的な大劇場の前も通る。そして帰りにはドーバー海峡を船で渡る。(行きは海底トンネル。)次はベルギー、ブリュッセルを周り、ライン川は船で下る。小さな滝の前でパチリ。
 スイスのズリケに到着。一泊して翌日、アルプスの山々を右に左に見渡しながら、水の都ベニスに着く。ゴンドラに乗って、夜はミュージカルを鑑賞。
 そしてイタリアに入る。バチカン王国の高台から四方を見渡す。バチカンの中のコレドールは一キロ続いているという。天井から壁から素晴らしいピカピカの大壁画、シダーデ・マイスリッカ・ド・ムンドに驚く。毎日三万人の訪問客があると、ガイドが説明する。四万人のミサが執り行われるパパの立たれる一角に出る。そこを後にして、ベスビオ山の噴火によって一つの町がうずまってしまったというポンペイアに行く。瓦礫(がれき)の町を今日も多くの人々が訪れている。
 ナポリより船に乗って、一時間でカプリに到着。第二次世界大戦で爆破された一番すごい所。イタリア戦線にてブラジル軍は四千人参加して、三百人が亡くなったとガイドが説明する。登山電車で登る。赤松の並木、果樹、野菜畑が続く素晴らしい眺めだ。島の周りを小舟に揺られて岩山の自然美に見とれる。ローマを出発してピザに着いた。ピノキオの生まれた所だとか。イタリアはヨーロッパで一番トンネルが多い国。モナコに着くまで百以上のトンネルがあり、トンネルとトンネルの間は一つの部落(町)になっている。モナコには六百年かかっても出来上がらないすごく高い教会があり、その前で記念撮影。三週間のヨーロッパ旅行を時々思い出しては四冊の写真帖に見入るこの頃です。


故大岩和男さんへの哀悼の情に暮れて

レジストロ春秋会 小野一生
 四月五日午前九時に電話が鳴った。何気なく受話器を取り上げると「一生さん、うちのパパがとうとう三十分ほど前に死んだよ」との知らせであった。(奥さんの京さんであった)。
 「あぁ、とうとう亡くなられたか」と胸に迫り何の言葉も出ない。
 六年程前から何とも分からず体調を崩しており、体全体の痒さに耐え、またその後、盲腸の手術や貧血と診断されて、色々な薬を飲んでいた。しかし、さっぱり回復の見通しもつかずにただ体が弱り、足がだるいとのことで、あまり外出も出来ずにいた。
 私が和男さんと初めて出会ったのは今から約五十五年位前のことである。彼がチエテ植民地第三アリアンサから移住して来られた時である。レジストロに来られて間もなく、日本人の経営する煉瓦(れんが)焼き場で働いていた。その後は義兄弟の経営するスーパーマーケットに勤務していた。レジストロには古い歴史を持つ老人クラブ「春秋会」があり、私も加入していたので、お誘いして会員となり、また、古くから先輩方による「茶の花句会」があり、誘われるまま和男さんと同時に句会に加入して今日に至った仲間であった。
 なんと言っても彼は、四歳で父母共に渡伯して、アリアンサ植民地で成長し、日本語を学び、頭脳のよさと言うか、天才と言うか人以上に優れた文章家であった。皆様もご存知のように彼はあらゆる所に投稿しており、また、俳句にいたっては色々なブラジル季寄せに取られるほどの名人であった。
 実は私も昨年九月下旬に思いがけない心臓発作と診断され、緊急入院手当てを受け、二日間の入院の後、薬養生を続け、ついに十二月上旬に心臓手術を行い九死に一生を得たのである。お陰さまで今では順調に回復し、読書も楽しめるまでになり、和男さんの亡くなられた朝、私は久しぶりに句友の病状を知るため、訪問のための電話をする所であった。
 嘆き悲しんでも致し方なく、訪問を取り止め午後には通夜場へ行き、別れを告げて来た。
 よく聞き上手と話し上手と言われるが、和男さんは大変聞き上手な人だった。何事でもよく聞き、上手に答えてまた、説明もして下さって、私にとっては無二の恩人であり、良い指導者でもあった。
 今はこの先輩もいなくなり、生前の面影を偲び、心から冥福を祈りつつ悲哀と空寂の思いの明け暮れである。合掌


誠意なき領事の対応

サンパウロ中央老壮会 大久保純子
 サンパウロ総領事館のT領事にはびっくりさせられた。
 私は日本の年金は日本年金機構、ひいては厚生労働省、つまり日本政府が支給してくれているものとばかり思っていたのだが…。と言うのも、先日、母の永住権申請で連邦警察から、日本から送られてくる年金の証明書の裏に「『たしかに日本から送られてくる書類である』という証拠に、領事館へ行って裏に判子を押してもらって来なさい」と言われたのだ。
 ところが、サンパウロ総領事館のT領事は「そうした印は押せません」と言う。
 「では、この年金は一体どこから貰っているのか?」と私が尋ねると「日本年金機構です」と。「それでは日本年金機構を管轄しているのはどちらですか?」と聞くと「厚生労働省です」。「では、厚生労働省は日本国政府の官庁ではないのですか? このサンパウロ領事館は日本政府を代表し、ここにあるのではないですか?」と言うと、あくまでも日本年金機構が出しているの一点張りである。驚いた! まるで日本の年金は日本政府が一切関知していないかのような態度で「そうしたものは出せません」と、非常に人を見下したような、鼻でせせら笑うような態度だったのだ。同じフロアーにいた職員たちも同様にせせら笑っている。なんて心の無い人々なのだろう。
 では、なぜ私たちは生存確認のためにわざわざ領事館に行って、領事館の判子とサインを貰わなければならないのだろう。
 遠い人は泊りがけで高い交通費を払って高齢者がわざわざサンパウロまで出てこなければならない。さらに自腹で日本まで送付している。それを言うと、なんと「日本年金機構からの委託で行っている」とのこと。どうして委託で日本年金機構の仕事ができるのに、日本年金機構から発行された書類が本物であるかどうかの確認ができないのだろうか?
 すぐそばの棚には『ブラジルに派遣される日本人の方および在日ブラジル人の皆様へ 二〇一二年三月一日、日本・ブラジル間の社会保障協定が発効します』という、厚生労働省と日本年金機構の二つの名前とマーク付きで書かれた紙も置かれている。
 翌日、まったく同じ案件で夫である新聞記者が首席領事を通してお願いに行ったら、なんと「こういう例は稀だが、厚生労働省か日本年金機構の印のあるものならば、本省に問い合わせて出せる。ただし、本省に照会するので、ゴールデンウィーク前だから時間がかかるかも知れない」と言うのだ。
 この時点で連邦警察はとても急いでいたから「本省に問い合わせ中である」という旨をポ語で書いてもらった書類を貰った。それを連邦警察に提出したら、とりあえずはOKとなった。
 そしてさらに「時間がかかる」と言ったが、何とその翌日には出来上がり、一枚九十二レアルで証明書が発行された。
 記者ではない一国民がお願いすると「出ない」ものが、どうして新聞記者が行くと手の平を返したように出るのだろう? 
 今までにもこうして泣いて来たコロニアの人たちはきっと多いに違いない。かつての帰化問題やビザなど、まったくこの然りだろう。
 なぜT領事は「出せるもの」を「出せない」と言ったり、「いる人」を「いない」と言ったりするのだろう。
 さらに同領事はサンパウロに着任した際、ニッケイ新聞に前任者と交代の挨拶に行って、抱負を聞かれた際、「海外旅行が趣味なので、任期中に南米十三カ国を制覇したい」と述べている(二〇一〇年四月六日付)。
 別に個人のお金で休み中に旅行をするなとは言わないが、着任の挨拶で抱負を聞かれて、旅行したいでは「公費で遊びに来た」と勘違いされてもおかしくない。
 日本国政府を代表して海外で活躍する人は、学歴が立派でなくとも心のある、仕事の出来る人を日本の顔として送って欲しいとつくづく思うのである。


寺本先生

サンパウロ中央老壮会 猪野ミツエ
 私が育ったのは和歌山県田辺町大字神小浜。海に近い農村で役場より姉たちと同じように田辺第二小学校に入学の通知が来た。
 赤、白、黄、紫、緑と五つのクラスに分れ、各クラス四十人位だったと思う。一年、二年は先生が掛持ちで、三年になるとよく出来る子、少し暇のかかる子、普通の子と自然に差が付いてくる。そこでよく分かる子、男女各二十人で一クラス(これを偉い組と呼んでいた)、少し努力せんならん子各二十人で一クラス、後は男組、女組に分かれた。
 普段は勉強しないくせに、それでも偉いクラスに入りたかったものだ。二人の姉は温和しく、よく勉強をしていつもこの偉いクラスだった。私は姉たちのお陰かどうにか偉い組に入れた。先生は寺本先生。体こそ小さいがすごく厳しい女の先生だった。
 鉛筆など授業前に削っていると、「それは家で用意するもの」とお叱りを受ける。
 一週間毎に試験があり、分かるまでよく教えてくれた。
 父兄参観日というのがあり、寺本先生のクラスはいつも全校でトップだった。先生はいつも父兄会への招待について「百姓は種を蒔いたら、毎日芽が出るかとのぞきにゆく大事な子供を学校に預け切りで見にも来ないのなら、芋、大根にも劣ります」と申された。これは口癖のようだった。
 男の生徒の中には先生よりも大きい子もいた。声を荒げるような先生ではなかったがとにかく何もかも分かっているようで怖かった。二年上の姉は組長を務めていた。寺本先生から妹の勉強を少し見てやって欲しいと言われ、姉にも叱られたものだ。
どうにか三年、四年と進級でき、五年生に進んだ時はしっかり勉強の癖が付き、皆についてゆけてあの厳しかった寺本先生がありがたかった。
 私だけではなく、皆が口をそろえて言っていた。
 先生は学校の横門の入り口で文房具店をしている妹さんとお住まいで、登校の折にはよくお会いしてものだ。六年を終え、各々、進学就職すると先生とも遠くなっていった。
 そして十一年ほど過ぎ、同じ隣保班(あの頃、そう呼んでいた)の南部町でお会いすると、結婚し一女の母になっていた。今でも先生の事を思い出すと襟を正される気持がする。いつまでも忘れられぬ先生である。


フェイラの今昔

サンパウロ中央老壮会 西澤てい子
 今から五十八年前に田舎からビラ・カロンに移ってきました。その頃にすでに週に一度、近くの大通りにフェイラがあり、元気の良い若者たちが大声で客を呼んでいました。
 野菜のバンカは主に日系の人やポルトガル人でした。バンカの横に赤ちゃんを連れての若夫婦が幾組かいて一生懸命働いていました。
 トマトの箱の上でニンニクを売る小母さんや様々な日用品をはじめ、着物や履物、魚から肉類まで何でも売っていました。
 穀物のバンカでは日本米やじゃが芋などメルカード(スーパー)で売っている品物は一通りあり、わざわざ遠くの店まで行く必要もなく揃うので、田舎育ちの私には何とも便利な事だと感心しました。
 日系人がやがてパステイスを売り始めました。最初は揚げたてを家からボール箱に入れて持って来ていましたが、忽(たちま)ち売れ切れましたので間もなくフェイラの外れに屋台を組んでその場で揚げたてを売るようになり大繁盛でした。
 見る見るうちに同業者が増え、正式なパステス屋さんとなり幾種類も美味しく作り、サービスも良いのでいつもお客さんが絶えません。
 フェイラのある通りにパステス用材一切の卸専門店「ASSAI」が開店し、瞬く間に店舗を広げたので、フェイラは私の家の前の通りに移されました。
 何年か経つうちにカロンにも次々と大きなスーパーマーケットや卸店もでき、お客の減った穀物のバンカやフリーオスも消滅しました。
 後継者のいないバンカの人たちはアポゼンタードになり、年々フェイランテも減り小さくなり、時代と共に変ってきました。しかし、日系の野菜のバンカはモジのシャカラ(農場)から新鮮な品物を直売するので相変わらず繁盛しています。誠実と信用でしょうか。
 今年から法令でフェイランテは各自プラスチコ(ビニール)袋持参で塵は袋に入れ、芥一つ残しても罰金を科せられるとか。そして一時半には片づけるよう義務付けられたそうです。
 今まで長年掃除夫が来て片づけるまで、足の踏み場もない程、汚し放題だったのが、法令次第でこんなにも変わるものかと驚く程通りがきれいになりました。
 当たり前のことによく気が付いて法令を作った議員さんは女性でしょうか?感謝します。
― 後日物語 ―
 渡伯間もないようなポルトガル人の若夫婦が五十余年前、フェイラの片隅でセスタ(籠)でグラジオラスを売り始めました。
 その頃、ビラ・カロンには花屋さんが無かったので次第に客が増えて正式にバンカを持ち、馬車を買い、セアザから新しい花々を仕入れて来るのでよく売れ、間もなく小型車に替えました。お嫁さんがしっかりした働き者で雨の日も休まずに三人の赤ちゃんも連れて働いていました。
 子供たちは立派に成人しましたが花屋の後を継がないので、アポゼンタしてバンカを売りました。
 五十余年、一生懸命働いて、立派な二階建ての家と借家まで建て、ポルトガルに里帰りまでして来ました。今は孫のお守りをして悠々自適な日々を過ごしております。素晴らしいドナ・カルメンです。


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