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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2012年7月号

2012年7月号 (2012/07/06) 母の想い出

バレットス寿楽会 池田正勝
 来年は私も卒寿を迎えますので、母の想い出を綴ってみたいと思います。私が三歳の頃、母は「人間は嘘をついてはいけない。嘘をつく者は泥棒の始まりだ」と強く教えてくれました。学校へ入学した頃には「もし、道で何か拾った時には、自分の物ではないので、先生に届けるのよ。学校で友達の物を決して盗んではいけない。欲しい物があったらお母さんに言いなさい。そして勉強して偉い人にならなきゃいけないよ」と、厳しく育ててくれました。
 「三つ子の魂百までも」という言葉がありますように、未だに母の言葉を忘れずにおります。
 私が十一歳の時、兄が新聞を見て、「日本からブラジルへ移民がたくさん行っているので、自分も行きたい」と言い出しました。母と姉と私は反対でしたが、父が兄一人を行かせたくないから「皆で行かう」と言って、家族五人と使用人一人の六人で渡伯しました。
 しばらくして第二次世界大戦となり、兄は亡くなり、私は勉強どころか仕事ばかりで空白時代を過ごしました。姉が結婚して、両親と私と三人になりました。母が私も年頃になったので、「早く嫁さんを貰って欲しい」と言いますので、父が知人に頼んで、私は考える間もなく見合いに行きました。先方は十七歳。私は二十三歳の時でした。一年後に結婚。十一人の子宝に恵まれました。五人目の子を妊娠した時、家内は盲腸を手術しました。その時、医者が「五人でよかったら避妊もしてあげます」と言いましたが、母が反対しましたので、後から六人も生まれました。母は子供が好きなので喜び、子守も全部引き受けてくれました。母の影響を受けたのか、子供たちもよく育ってくれました。現在、皆独立して、親戚からも褒められるほどになりました。
 長生きする人は健康で、あまり病気をしないと聞きましたが、母は七十歳頃からよく医者に行きました。近所の人たちが「お婆ちゃんは生きているのでなく、あんた達が生かしているのではないか」と言われました。
 南伯産組がありました頃、農産物を出荷する時は選別して箱詰めします。母が選別を手伝ってくれましたが、私が目を通しますと、少しのキズでもハネますので、ある日、取材に来られた記者に母は「これで良いと思っても、息子はポンポンとハネてしまうのですよ」と話し、後日、組合の月報に出てしまいました。組合では良い品物を出荷すると、早く良い値段で売れますので喜ばれます。私は優良品出荷者として、五回も賞状と記念品を頂きました。母が子供の頃から「人間は正直でなければいけない」と教えてくれたからだと思います。
 子供たちがだんだんと大きくなり、上の学校に行く子もありますので、町に出ることになりました。母はあまり気が進まなかったようでしたが、孫の事を思って町に出ました。早速、日系団体から誘われ、老人クラブでは観光部長、副会長にもなりました。(現在は会長)
 母は家内が嫁に来てから亡くなるまで四十一年間一緒に暮しました。家内は優しく世話をしてくれましたので、母は喜んで、姑と嫁ではなく、実の親娘のようで、ブラジル人はそう思っていたようです。
 私の姉が同じ町に住んでいましたので、たまに姉が私の家に来て母に「少し嫁さんに楽をさせたら」と言いますので、私が朝、姉の家まで母を送って行き、夕方に迎えに行ったりしました。たまに迎えに行くのが少し遅れると「忘れているのではないのか。電話をしてくれ」と言ったそうです。姉は「一週間ぐらい居たらいい」とか「一晩でも泊まっていったら」と言っても「帰る」と言って帰って来ます。母と家内は仲が良かったからだと思います。
 母が白寿になりました時、地元の文協とサンパウロの文化福祉協会から記念品、南米銀行から金一封を頂きました。母は「有り難いねえ」と心から感謝していました。その一年後の百歳には日本国政府より賞状と記念品を頂き「何の役にも立ってないのに、有り難くてご恩は決して忘れてはいけない」と涙をこぼしていました。百歳の誕生祝には三百名を招待し、盛大にお祝いしました。母は「皆さんから祝って頂き、こんな嬉しいことはない」と喜びました。「私は幸福者だねぇ。あの世は極楽と言うが、今、ここが極楽だよ。私は百歳まで生かしてもらって有り難い。いつ、あの世に行っても齢には不足はないけれど、皆から優しくしてもらうので、いつまでも一緒にいたいねぇ」と言いました。
 いつも午後三時には家内が母に果物をあげていましたが、「もう、明日からいらないよ」と言ったそうです。「変だな」と思って、医者に来てもらいましたが、「別に変わった事はありません」と言って、「また、明日来ます」と言って帰りました。次の日の夕方、医者が来て「食事が進まなければ、明日入院しましょう」と医者が言いますと、頭は呆けていませんでしたので、母は「入院したくない」と言いましたので、お医者さんが「それでは明日の朝、看護婦と来て、ここでソーロ(点滴)をしましょう」と言って、夜八時頃、帰って行きました。
 夕食後、家内と私は母のそばで見守っていました。母は静かに寝ていましたが、夜の十二時過ぎに顔色が真っ白になり、脈をみますと止まっていました。電気が灯っていなかったら、いつ死んだのか分かりませんでした。楽な死に方だったと思います。百一歳と七ヶ月でした。


消えた故郷

サンパウロ中央老壮会 中山保己
 五月十七日、受取った封筒の中身は、鹿児島県志布志市市長本田修一の名の下に、戸籍住民用市長の印が押してある「戸籍謄本」と「全部事項証明」であった。鹿児島地方法務局鹿屋支局の訂正許可が十一日に終り次第、訂正戸籍謄本を送るという説明の手紙が同封してあった。
 さて、私は何を訂正申請したか? つまり戸籍に私の名前「保己」(やすみ)の「己」が「巳」になっているのは間違いだから訂正を要請したのだった(二月)。「ようやく長年の懸案が解決して感謝いたしております」との礼状を送るまでになった。
 戦前の戸籍簿(薄い和紙を二つ折りした手書き)には正しかったが、新しく戸籍を設置したとき誤記(活字体)されたと思われる。
 古い戸籍謄本が見つからないので、昔、在学した故郷の小学校の証書類(修業証書・賞状・任命証)五、六枚のコピーを同封して証拠とした。もちろん大きな字で「己」と記されている。
   ×   ×
 ところで、この申請書を出すとき封筒の宛名を曽於郡松山町と書いて、ふと疑念がかすめた。五年前に訪日したが、すでに故郷には縁故者はなく宮崎県の弟の家に落ち着いた。
そのとき、ちらりと、あちらこちらの町村合併の話を耳にしたのだが、話題がほかの方へ移り、それっきり忘れてしまっていた。
 仕方がないので今までの町名、番地のまま封筒を糊づけした。ちょうど邦字紙の「ふるさと」欄に鹿児島県が掲載されていて「…志布志市松山地区旧大隅松山駅前…」とある記事が目についた。松山などというのはどこにでもある地名でも、大隅松山駅という駅名は日本中でただ一つしかなかったのだ。私の家はこの駅前通りに面していた。あぁ、志布志に合併されていたのか。しばし感慨をもよおしたが、封筒に「志布志市?」と書き添えた。
やっぱりそうだった。私の故郷、曽於(そお)郡松山町は消滅して、今は志布志市の松山地区と名前が変わっているのだ。ブラジルでも移民、が開拓して誕生した植民地や市街地が何十年ののち跡形もなく「消えた移住地」となった例は数え切れない。
 しかし、この日本の故郷の場合は、ちょっと意味がちがうかも。ただ名称がなくなり、実体は依然として存在するのだから、と自らを慰めている。それより現実の故郷はいま住んでいるブラジルではないのか。これこそ立派な「ふるさと」である。生を終えるのは、ここと決めている土地こそ本当の意味のふるさとであろう。


秋高し届いた賞金五万円

サンパウロ中央老壮会 新井知里
 五月の末、熊本県人会のベレン支部訪問の旅に入れて頂き、主人と二人で北伯の地に行って来た。
 ベレン市内の観光を終え、半日がかりで広い河をバルサで渡り、トメアスーにも行き、一泊した。
 昔、陸の孤島と言われたトメアスーの大農園の胡椒はずらりと見事な実を付けていた。カカオ園では生まれて初めて木や幹や枝に黄色くたわわに実を付けているカカオを見た。そしてみんなで採りたての実をその木の下で味わった。
 この旅で十七年ぶりで日本語の先生時代、日本研修で一緒に学んだベレン在住の友とも再会した。私は大根をお土産に持って行った。
 北伯の太陽の下を六日間も歩き回ったので少々疲れたが、無事、旅も終わり、帰宅するとサーラ(居間)に大きな箱が置いてある。留守を引き受けてくれた三男が郵便局に行き、持ってきたのだという。
 開くと福井県坂井市丸岡町からの一筆啓上賞の賞品である。ガラスのケースまで付いた越前竹人形の大きなものである。
 秀作に選ばれたという事だそうで、式への招待状は来ていたが、まさかこんな賞品まで届くとは…。主人がケースを組み立てて飾ってくれた。
 満足して次の日に包みを見ると、賞状が二つとその下にある封筒の中に「賞金五万円は定まりで送れませんが、どういたしましょうか?」と書いてある。
 実はこの公募している一筆啓上賞には、私たちが昨年出版してその本を差し上げた友人が、福井の出身で本のお礼の手紙の中に応募用紙を一枚入れて下さっていたので応募したまでで、賞金のことなど考えてもいなかった。また、あわてて出したので、何を書いたのか控えもない。今回の包みの中に日本一短い手紙のテーマ「明日」という本が入っていたので、やっと入選作がわかった。それには「明日は横浜港から五十年前あなたのいる外国へ渡った日です。あの情熱まだあります。」と書いてある。この四十字で三万五千通の中の六番とは嬉しい限りである。
 それからがおかしかった。夫と相談し、私の両親を最後まで見守ってくれた弟にあげることとなった。
 早速、メールで係りに弟の住所を知らせた。すると、旅の疲れで早寝していた夜中に弟嫁がおろおろと「頂くには五万円は多すぎる」と驚いている。「そんなことはないですよ。使って下さい」と電話を切った。
 それから三日ほどして、弟が電話してきた。「姉さん、頂くよ。おめでとう! 五万円は多いけれど、丁度、お父さんの五年忌が延び延びになっていて…。坊さんも二万円ほどするし…」。病気が回復した嫁さん共々、弟夫婦にこの賞金が光となったのだ。
 私は昨年、金婚の祝いに二人で編んだ本が文芸賞を頂き、今度の賞で弟にお礼が出来、ありがたいことだと思った。


一九三〇年代のリンス平野植民地

サント・アンドレ白寿会 阿部志朗
 一九三〇年代の平野移住地に青年時代を過ごした先輩の回顧談。
 この時代の平野植民地は、一時ひどく治安の悪い時代があった。
 昼間に強盗が入る。この頃、まわりはまだ原始林でオンサがゾロゾロいて、夜は危なくて歩けないので、昼間に強盗が入ってくる。 とうとう植民地では自警団を組織した。鉄砲でも花火でも決められた数だけ鳴ればそこへ走る組と四つの出入口に走る組とを作った。
 鉄砲が鳴ると、みんなそれぞれの持ち場に走って待っている。やがて、ドンドンバンバンと打ち合いながら、ワーワー追いかけてくる。ころあいを見ながら、ワッーと飛び出して前をふさぐ。
 しかし、オンサがいるので森に逃げ込めず、馬から飛び降りて畑の中を逃げ回る。開拓当時だから、切り倒した大木がゴロゴロしている。
 「逃げた。逃げたー!あのペローバの下に入った。撃ってきやがるぞ。皆、ふせろー。後ろへ回れ、後へ回れ」と大騒ぎ。さんざん撃ち合って、弾が無くなって両手を上げて出てくる。「このヤロー。皆、棒で一発ずつぶん殴れ。」だが、皆、顔を見合わせて手を出さない。
 軍隊の経験のある青年が飛び出して「こんな奴、こうするんだ」とぶん殴る。あとは皆で一発ずつぶっ叩く。
 馬の後に繋いで、七キロの山道をリンスの町まで引きずっていく。ところが、警察の所長が怒って、受け取らない。「バカヤロウ。こんな奴、生かして連れて来る奴がどこにある。叩き殺して運んでくるんだ。警察にはこんな奴を生かして飼っておく場所も金もないぞ。ぶち殺して、うんと派手に鉄砲をぶっ放しながら、泥棒は『殺せ、殺せー』と怒鳴りまくって、町中引きずり回して来るんだ。」と、いう訳で、ふん捕まえた強盗の後始末に手こずったという、物語。



シネマ放談(11)

サンパウロ名画クラブ 津山恭助
◇やくざ紳士列伝
 時代劇的な様式美の〝任侠美学〟を打ち出した東映の任侠路線は、一九七〇年代に入るとかげりを見せ始めた。それに代わったのが戦後の広島を舞台に、暴力団の抗争をドキュメンタリー・タッチの迫力で描いた実録路線「仁義なき戦い」シリーズである。余り聞き慣れない広島弁がとびかい、義理も人情もない実力だけの暴力社会によくマッチし、菅原文太が新たなヒーロー像を造り出した。血で血を洗う暴力団同士の激しい抗争の中で、そこに出没する無数のチンピラ達のあえない末路に哀れをおぼえずにはいられない。
 それにしても、大半の市民からは蛇蠍のように忌み嫌われる存在であるにもかかわらず、なぜ日本の社会からやくざが退治できないのか、私には未だに理解出来ないでいる。「仁義なき戦い」(昭和四八年)。終戦直後の呉、復員兵の広能(菅原文太)はヤミ市で人を殺し刑務所へ。そこで知り合った土居組幹部の若杉(梅宮辰夫)と兄弟分になり、彼の口ききで山守(金子信雄)に
保釈金を出してもらって出所する。山守組は次第に勢力を伸ばし、若杉も組合員となる。広能は土居殺しを引き受け再びムショ入り。広能の兄弟分坂井(松方弘樹)はもめごとのため他の組と結ぶが、山守のさしがねで殺されてしまう。その葬儀の席に現れた広能は祭壇を拳銃で粉砕する。
 「広島死闘篇」(四八年)。戦後の混乱も一応収まった昭和二七年。広島競輪場の支配をめぐって対立している暴力団のテキ屋の抗争の中で、一人のチンピラ山中(北大路欣也)が組織に利用されたあげく、裏切られ自殺する。広能は呉で広能組を結成、親分に出世している。
 「代理戦争」(四八年)。広島最大の暴力団の村岡組の実力者・杉原が九州のやくざに殺されたことから、村岡組の跡目をめぐって、山守、打本(加藤武)の激しい抗争が開始される。山守は広能を強引に自分の傘下に復縁させ、広島最大の組織にのし上がった。
 「頂上作戦」(四九年)は広島を舞台に昭和三八年~三九年にかけて行われた広域暴力団の代理戦争をテーマにしたもの。明石組系の打本組(広島)、広能組(呉)、神和組系の山守組(広島)の対立に加えて、広能対山守組傘下の槇原組との抗争も加わって凄惨な市街戦が展開され、市民を恐怖のどん底に陥れた。
 最終作「完結篇」(四九年)。広島のやくざ組織は山守組、打本組、大友組(宍戸錠)の三巴の対立となっていた。そして、呉、福山、徳山など近郊都市の組織まで大同団結して政治結社「天政会」を発足させた。二代目を武田(小林旭)が襲名し、次に腹心の若頭・松村(北大路欣也)を三代目に推薦するが、大友、早川は激しく反発。呉の市岡(松方弘樹)は松村を消そうとするが、逆に殺されてしまう。獄中の広能は秘かに過去の抗争を記録した手記を綴っていた。
 シリーズ五本のヒットに気をよくした東映は、同じスタッフで生こりもなく「新・仁義なき戦い」を作り上げる。時代は完結篇から逆行して昭和二〇年代に戻り、山守はそのままだが、菅原文太は広能から三好と名前を変え、松方弘樹や渡瀬恒彦なども違う人物になっており、若山富三郎が助演している。四作が続くが、題名は次の通り。
②「組長の首」(五〇年)③「組長最後の日」(五一年)④「その後の仁義なき戦い」(五四年)。
 しかし、全盛を誇った東映の暴力団抗争路線も昭和五〇年代に入るとようやくかげりをみせ、五〇年の「県警対組織暴力」を境にようやくやくざから足を洗ったのである。


広い、ひろ~い中国(1)

サンパウロ中央老壮会 栗原章子
 前から、一度は行ってみたいと思っていた中国旅行を実現させることができた。
 日本文化の原点である中国とはどんな国であろうかと常々関心をもっていたが、なかなか良い機会に恵まれなかった。しかし、今回は、何とか中国の観光スポットツアーに参加することができた。北京、西安、桂林、上海、香港などを二週間かけて駆け巡ってきた。
 参加者はブラジル全国から集まった人たちで、日系人十七人に非日系の男の人が一人の計十八人といった少人数で、皆おおらかで明るく、時間をきちんと守る人たちばかりで、気持ちよく旅行を楽しむことができた。
 着いたその日の夜、ブラジルのニュースでも取り上げられたゲテモノが並ぶ北京市内の夜店に出かけ、さそりの串焼き、バッタの佃煮、まゆの中のさなぎ、タツノオトシゴの串焼きといったものに勇敢にも挑戦して、食べてみたりするツアーの人たちがいた。私も食べないかと勧められたが、さすがに食べられなかった。ヒトデを買った人はパクリとかぶりついたけれども、固くて食べられなくて、裏返したり、手で割ろうとしたりしていたが、とうとうあきらめて、「中国ツアーの思い出に、ブラジルに持って帰るのだ」と、何だか負け惜しみみたいに言っていた。
 翌日は天安門広場、紫禁城(今の故宮博物院)に朝早くから出かけ、とにかく歩きに歩いた。何でこんな大きな宮殿に住まなければいけなかったのかと思うくらい大きくて、歩きつかれた。確かに建物は派手派手に飾り彫りがほどこされていて、獅子とか龍とか伝説の不死鳥、火の鳥(フェニック)、鶴、亀といった彫刻があちらこちらで見られ、それなりに興味をひかれたが、暑い中を人ごみをかき分けて、ガイドの旗を追っかけて歩くのも結構きつかった。
 翌日はいよいよ、待ちに待った万里の長城に向かった。しかし、着いてみると、城壁に囲まれた階段はどこまでも続いているし、斜面は急で、ちょっと登って、怖くなったのと息切れがしてきたのとで、降りて下のお土産物屋で皆が降りてくるのを待つことにした。よくもこんなバカデカイだけの馬鹿らしい物を作らせたものだと、守りを固めることに熱中していたその頃の王族や虐げられた民にも同情してしまった。 
 北京では、他にも明朝時代の墳墓がたくさんあるという山道を歩いたり、中国流のお茶の入れ方のデモンストレーションを見たり、夜はアクロバットショーを鑑賞したり、真珠のネックレス、クリーム、彫金の花順などの買い物を楽しみ、次の目的地、西安へと向かった。(続く)


漢詩を鑑賞

春暁 孟浩然

春眠不覚暁
処々聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少
〔現代語訳〕
ネムイよネムイよ春の朝
オキロオキロと鳥が鳴く
夕べの風雨で散ったのか
花がたくさん落ちていた

偶成 朱憙

少年易老学難成
一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢
階前梧葉己秋声
〔現代語訳〕
少年はあっという間に
ボケ爺さんになるけど
学問はそうは問屋が卸さない
時を惜しんでコツコツと積み重ねるものよ。時は金なりと申すではないか。池のほとりの若草もあっと言う間に秋風を聞く。世の若者よ、心せよ。


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