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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2012年8月号

2012年8月号 (2012/08/09) 岩代国(福島県)の田舎にて

サンパウロ中央老壮会 遠藤勝久
 私の家族はよく引越しをした。立ち退きを食ったわけでもないのにまぁよく引っ越すと子どもながらにあきれていた。だいぶ後で知ったことだが、小学校の教師をして向上心盛んだった父は同じ所に二年いたら新たに学ぶものがないから越したという。人の頭ってそんなに早く順応できるものだろうか。
 父は、戦後の貧困から逃れるには商売しかないと思っていたので、祖母から教師の職があると薦められた時は、しぶしぶだったと言う。
 その最初が、東和町木幡の水舟分校であった。阿武隈山系にあり後年、山梨の義兄があきれたくらいの山奥であった。教室が三室と教員室だけで、申し訳程度の校庭もあった。しかし教員住宅がついており、満州から引揚げ後、農家の納屋で二年間を過ごした一家には有難かった。
 四人の子供の世話に一時は祖母が同居してくれた。住宅の横に庭があり、梅、松、かえで、無花果(いちじく)などが植わっていたがその下に春先、黄色い水仙が赤貧洗うが如しの生活とは無縁のように群れて咲いていた。
もっとも五、六歳の子どもには貧乏など感じないが。ある時、庭の側の窓の上でかっこいいところを見せようとして頭から落っこちた。子どもたちばかりだったが何事もなかったようだ。
 父の生家は、この分校から三キロほど離れた所にある。だから出身村で教員になったわけだ。そしてここは近年の原子力発電所事故の避難地域西端から二十キロ位しか離れていない。
 当時、村落ではおまわりさんと役場、郵便局、農協、学校の職員だけが給料をもらう身だ。中でも教員は人々に一目置かれていた。
 しかもこの分校を支える父兄たちが教育熱心だったのである。父はことあるごとに村人の熱心さに打たれ、教員生活に身を打ち込みだした。
 夏休みは福島市に下宿し、教員養成講座に励んだ。また、小さいながらも分校の事務を整備したようだ。音楽を教えるため、オルガンを練習していた。「桜の花の咲く頃はうらら、うららと日はうらら」などの春の歌の数曲をよく弾いていたので今でもよく覚えている。
 ある年、教室の天井に星座を描こうと六年の生徒に机を重ねた上に上がってもらって星を貼り付けさせていた。とび折り際にその子が倒れ、父は怪我をした子を背負って農家の家まで届けた。今時は過保護時代で考えられないが、当時は(昭和二十四年頃)それほど特異なことではなかったのではないか。恐縮して事情を話した父にその親はとがめもせず、星を貼ったことをほめてくれたと言う。教師と父兄が一心同体だったのではと今にして思うのである。
 この頃は近くの弁天様に大石などがあり、ここでよく子ども同士で遊んだ。寺の横に別の教員住宅を作る大工が焚き火をしていた。弁天様を囲み、真っ赤な椿(つばき)の大樹が茂り、樹齢二百年以上もある大杉が数本あった。その根に大工の焚き火が燃え移り、燃え出した。消防所など遠くてなすすべがない。
 近くの分校に頼んで生徒のバケツリレーでポンプ井戸から約二百メートル水を運び、これまた手動ポンプで消火に勤めたが相手は二十メートルを越す大木でご丁寧に真ん中が空洞だ。上に延びた火はどうしようもなく、つまりが延焼を防ぐために徹夜で大鋸で部落民総出で切り倒した。
 小学二年生も含んだリレーで、どの位の水が運べたのか知らないが、胸がどきどきした事件だった。翌朝、田んぼの中に物語のガリバーの足のように杉の古木が横たわっていた。校庭の前方に大きな石があり、拡張を邪魔していた。これを取り除こうと発破作業が何週か繰り返された。 ダイナマイトにスイッチを入れるときにはサイレンを鳴らす。すると近くにある教員住宅の私たち子どもも壁の影に隠れて声をひそめて待つ。まるで戦場のようである。大きな音がした後、グシャと妙な音がした。後で見てみると中央の教室のトタン屋根に一抱えもあるような石がつきささっていた。
 当時ここから二キロ半位で川俣線飯野駅に着いた。絹織物の町川俣へ通う人やまゆ、その他の農産物のための鉄道で、随分前に廃線となりもう跡形もない。あの戦後五年ごろか、二つ年上の姉 はその部落の新聞配達を夏休みの間、請け負った。
 ある時、新聞に列車のバラバラになった略図が描かれていたのをうっすら覚えている。後で知ったのだが、それが松川事件の報道だった。しかしブラジルに来てみて、あの寒村で窮乏期にもかかわらず、多くの農家で新聞が読まれていたことに驚く。


日本人の血(1)

サンパウロ清談会 駒形秀雄
 一九五八年、私はサントスに居ました。
 やっとブラジルの生活にも慣れた頃、会社の人に言われました。『ポルトゲースを勉強しているか。学校へ行きなさい、学校へ』と。言われるまでもなくブラジル語を勉強する必要性は感じていたのですが、当時、周りはブラジル人ばかりだったので、新来の日本人にはどんな学校がよいのか、つたないポルトゲースで聞いてみても良くわかりません。
 一方、会社では「ここでは日本の大学を出ているんだなどと思ってはダメだよ、自分の知識をポルトガル語で表現出来なければ、そこで雑役をしているバイアーノと同じだ。会社には見習いというのはむしろ負担なんだから給料もバイアーノ並みだよ」と言われ、ほぼ最低給料しかもらえなかったのです。学校はあっても、高い月謝の所へ行くわけにはいきませんでした。
 そのうち学校へ行けなかった(文盲の)成人たちのための夜間小学校「クルソ・デ・アルファベチザソン」が開かれたのを知り、これがいい、と三年生位に入れてもらいました。
 ここでブラジルの歴史や地理や色々のことを教えてもらったのですが、その時読んだ国語(ポルトガル語)の本に、こんなお話が載っていました。
  * *
 “ブラジルが発見されて間もない頃、(一五〇〇年代初期)ポルトガル人ヂオゴ アルベスはバイア州の海岸に漂着しました。言葉は通じません。困っていましたが、しばらくして体力が回復した後、ヂオゴは何とか自分の出来ることをインヂオたちに示したいと思いました。
 大勢のインヂオに囲まれてヂオゴは鉄砲を取りだしました。遠くの樹に一羽の鳥が止まっているのを見つけ、『あれを見ろ』と指差しました。そして鉄砲をかまえ、狙いを定めて引き金を引きました。
 “ダダーン”大きな音が周囲に響きわたり、銃口からは雷光のような強い光が吹き出ました。並み居るインヂオたちはこの音と強い光にビックリして思わず地にひれ伏しました。その驚愕の目で樹のほうを見ると、バタバタと羽毛を散らしながら、目標の鳥が落ちてくるのが見えました。「ウワー」『カラムルー』インヂオたちは恐れおののいてあわてて頭を地面にこすり付けました。
 強い光と音を発する黒い棒(鉄砲)持ち、遠く離れた鳥をも打ち殺してしまうデイゴを、インヂオたちは伝承に聞いていた雷の神――「カラムルー」だと信じたのです。
 その後、カラムルーヂオゴは酋長の娘を娶り、お話はメデタシ、メデタシーで終わりとなりました。
当時ブラジルで売れていた花火のブランドで「カラムルー」というのがありましたが、「なるほどそういう意味なのか、ブラジルには面白い話があるな、」と思った次第でした。
   *  *
 一九八〇年代、私は東京に居ました。
 日本の機械設備をブラジルへ輸出する商談のためです。ある日パーテーがあってポルトガル大使館員と話をする機会がありました。
 カクテルグラスを手に持ちながら彼はこう言うのです。
 「日本人というのは優秀な民族だ。十六世紀に始めてポルトガル人から鉄砲を見せられ、すぐこれを作りはじめた。そして十年もしないうちに本国のものよりも優れた鉄砲を何十万挺も作っている。これは当時ポルトガル人が持っていた鉄砲の数よりも多いんだ」「このような知力・開発力を持つ日本人はすごい」と言うのです。
その後も彼との間で日本の新しい文化への適応の早さ、工業技術受容性などと話は弾みましたが、外国人に‘日本人の優秀性’の例として鉄砲のことを言われ、私はこれに強い興味を持ちました。
 その後、種々文献などに当たってみるとおよそ次のようなことが分かりました。(続く)


幸先に恵まれて(上)

短歌欄選者 藤田朝壽
 稀覯本ということがある。「稀覯」の熟語を字源で引くと、「まれに見る、めずらしい」「当世稀覯之者也」と出ている。
 稀覯本とは、当世珍しい本の言いに他ならない。
 去る五月十二日の午過ぎであった。私は日系文学主催の第二回色紙短冊展開催の準備のため、掛軸や色紙短冊などの入ったトランクを持って、文協の移民史料館の八階に行ったが、昼食時間で受付子は居らず、うす暗い廊下の片隅にトランクを置いて三階まで下り、人文研の入口まで行った。左側に段ボール箱がいくつか置かれていて、中に古本がいっぱいある。「ご自由にお持ち帰り下さい」と張り紙がしてある。暇つぶしに読む手頃な本はないだろうか? と思い物色していると、朱色の表紙の「日本外史」が四巻あったので取り出す。
 尚も箱の中を探ると、「花鳥風詠」の歳時季があった。
 最後に見つけ出したのは「曽良奥の細道随行日記」であった。「これはまた何と得がたい本に出会ったことよ」と、胸躍らせ、私は以上の本を手提げ鞄の中に入れて史料館に行くと、受付子は来ておられたので、「明日から色紙短冊展の準備に取り掛かります。それでこのトランクを預かって置いて下さい。」と、お願いして文協を後にし、サンジョアキン駅からメトロとバスを乗り継いでアパートに帰った。
 早速、鞄の中から件の本を取り出して机の上に置き、まず、最初に頼山陽の「日本外史」を手にとって表紙をめくると、下方に小さく「内山勝男」の署名があり、サンパウロ新聞社の元主筆であった内山氏の所有本であったことが分かった。
 本は四・六版で、紙質は薄い和紙を二重にして印刷。活字が大きいので見やすい。一巻の頁数は百五十頁内外。四巻全部手に取ってもみても普通の単行本一冊の重さである。奥付を見ると、明治二十一年十一月五日四刻出版で、百二十余年前に出た本であるが、大事にされていたと見え、少しの破損もない。何よりも私の気に入ったのは和綴じで和紙である事である。
 「花鳥風詠」の歳時季は虚子編で、古色を帯び淡黄色で手ずれがしていて、持ち主が熱心に勉強されたことがひと目でわかる。表紙をめくると、毛筆書きで
贈 拓山
豹を呼ぶ笛吹き比べ狩仕度 恆河
(昭和十三年十月 時報俳壇)
 奥付を見ると、昭和十三年四月五日丗六版発行 定価二円五十銭
この歳時季には冬春夏秋にそれぞれ挿絵が付いていて、冬と春の部は有名な小川芋銭の画書が目を楽しませてくれる。(戦後の歳時季には挿絵がない)。
 昭和十三年といえば、私が渡伯して四年目で、十四歳の時である。当時カマラーダの日当は三ミルであった。二円五十銭の歳時季は伯貨で十ミルだが、書店で求めると十二、三ミルしったのではなかろうか? その当時、俳句を志した者でも高価すぎて求めがたかったことと思う。
 句友の為、歳時季を買って贈った俳人恆河の床しさが此の一事で解る。
 私は恆河に四十五年前、奥地にいる時に一度会ったことがある。南夢句会の主宰者である田中都南が「恆河、来ウの歓迎句会をやるから、来い」との知らせで出席し、私の出詠句「ラミー畑見え来てウライという感じ」が恆河選に入り、「これは儂(わし)の作らなければならない句であった」と言われた時、恐縮した覚えがある。
 「一期一会」の人であった恆河が若き日、句友のため求めた歳時季が廻りまわって今、私の手に入った奇縁を想うと感なきを得ない。
 此処に 先輩恆河氏のご冥福を心よりお祈りする。(続く)


シネマ放談(12)

サンパウロ名画クラブ 津山恭助
◇ニッポン怪獣紳士録
 昭和二九年三月一日、ビキニ環礁付近にいた日本の漁船〝第五福竜丸〟が、アメリカの水爆実験による死の灰を浴びた。新藤兼人監督は漁船の乗組員が放射能障害で死んだことをセミ・ドキュメンタリー的に再現、「第五福竜丸」(昭和三四年)を作った。また、黒沢明監督は放射能の被害から最も遠い所、ブラジルに逃げようとする男の悲劇を「生きものの記録」(三〇年)で表現した。
 そしてもう一人、東宝のプロデューサー田中友幸は水爆実験の衝撃によって海底に眠っている古代の恐竜のような怪獣が目をさまして東京を襲ってくる、という物語の骨格を思いついた。それはクジラのように巨大で、ゴリラのように恐ろしいもの、かくして「ゴジラ」(二九年、本多猪四郎)が生み出され、日本のSF怪獣映画の元祖となった。南海の水爆実験で目覚めた太古、中生代の大怪獣ゴジラが太平洋を北上し、船を焼き、伊豆諸島の民家を破壊し、東京湾に上陸して暴れる。品川駅が一瞬にして叩き潰され列車は掴んで放り出される。銀座のデパート、時計台、国会議事堂も次々とペシャンコ。見せ場は再度の来襲で、張りめぐらされた五万ボルトの高圧鉄塔群をゴジラが一気に引きちぎり、溶かしさるところ。最後には最新の化学兵器で退治される。体長五〇メートル、重量二五、〇〇〇トンで放射能を吐き超怪力の持主というゴジラである。なお、「ゴジラ」は東南アジアはじめ海外市場でも爆発的なヒットを続け、日本の外貨獲得に大きな貢献を果たした。
 「大怪獣ラドン」(三一年)の主人公は北九州の炭鉱出身で中世紀に棲息した飛竜の一種。翼長一二〇メートル、重量一五、〇〇〇トンでマッハ一、五の衝撃波を武器とする。ロケット弾を撃ちこまれ佐世保の西海橋を眞二つにして倒して博多市に現れる。
 地上すれすれに飛ぶ断末魔のラドンの羽ばたきで高層ビルが倒れる。最後には阿蘇山火口のロケット砲とジェット機の猛攻で溶岩の奔流に流されていく。「モスラ」(三六年)は体長二五〇メートル、重量一五、〇〇〇トン。マッハ3で飛び強力な毒性の鱗粉が武器の巨蛾。南太平洋のインファント島生まれで水爆実験海域ながら放射能汚染がみられないことから、調査隊が派遣されるが、団員の一人が身長三〇センチ足らずの双子の小美人(ザ・ピーナッツ)を日本に連れ帰ってからデレパシーによって島の神殿に眠るモスラの卵に伝えられ、モスラの攻撃が始まるが、小美人を返すと騒動も収まる。
 「マタンゴ」(三八年))は全身がキノコに覆われたような奇怪な変身人間という設定。無人島に漂着した七人の男女が次第に餌食になっていく。怪獣ものとしては異例のペシミスティックな結末で後味はよろしくない。「大魔神」(四一年)は東宝の「ゴジラ」のヒットに影響された大映が、巨亀を主人公にした「ガメラ」シリーズを製作、
その第二弾。戦国時代の丹波の山奥。領民は悪家老の圧政に苦しみ、一人の少女の必死の祈りに応えて埴輪顔の魔神が現れて猛威をふるう。「ガッパ」(四二年)は日活製。南洋の火山島の洞窟内に大巨獣の卵があるが、ガッパは体長七〇メートル、ワニのような鱗のある太い胴体と四本の足、そして前足から尾まで大きな羽のある爬虫類。ガッパの子供を連れて帰ると、この怪物は所在地を遠くにいる仲間に伝える能力があることが判り、二匹の親ガッパが日本に向かう。
 「宇宙大怪獣ギララ」(四二年)は宇宙に進出。火星ロケットが月ステーションを離れた後、宇宙船が事故を起こし地球に戻る。ところが、正体不明の発光胞子が付着しており、この発光体が高圧電気や原子エネルギーを栄養源として巨大な怪獣に成長、原子エネルギーを求めて都市を破壊、いかなる兵器も効果がない。宇宙空間に浮遊するギララニュームという物質がギララの細胞を破壊できることが判明。松竹初の特写怪獣もの。
 怪獣映画は約十七本が作られているのだが、登場する主人公の名を列記してみると、
ミニラ(ゴジラの息子)、バラン(ムササビ)、キングギドラ(金星の三頭)、マンダ(深海の竜)、エビラ(怪力バサミ)、ゲゾラ(大ダコ)、モゲラ(ロボット)、プテノドン(怪鳥)等々。ロレツがまわらなくなる紳士たちなのである。


広い、ひろ~い中国(2)

サンパウロ中央老壮会 栗原章子
 北京から西安への飛行機の便が遅れに遅れて、夜中にやっと西安へ辿り着いた。
 西安は、中国の古都、長安であり、千体以上の兵士や馬などの土偶が見られる所(兵馬俑=へいばよう)くらいの知識を仕入れていた。泊まったホテルは町の中心地といった感じの所にあり、すぐ目の前にライトアップされた古城とその城壁が見えていた。
 ホテルからバスで目的である土偶が安置されているという博物館に向かう途中、あたりは山や川が多く、昔の都であったにしては、ずいぶんヒナビタ所だなあという印象を受けた。かなりの間バスで走ったが、その間、スペイン語が達者な中国人の女性ガイドさんがいろいろと説明してくれた。
 兵士の土偶を作らせた始皇帝は長寿の薬だと信じて現代医学では人体に害を及ぼす水銀を飲んでいたために早死にしたのだとか、西安がシルクロードの出発地点だったとか、そして、自分が一番好きな土偶は今まさに弓矢を射ようと構えている兵士の土偶で、これはレプリカやお土産用の小さなものがたくさん売られているし、今日、作者がサインを行っている本にもその写真が載っているなどとちゃっかり、しっかり宣伝も忘れないところはさすが中国人ガイド!
 その夜もディナーショーへの出かけ、観光客用の派手派手衣装をまとった芸人さんが中国の昔の弦楽器、打楽器を演奏したり、王朝時代を再現した踊りを次から次へと披露するのを鑑賞したりした。翌日はホテルから見えるお城へと出かけたが、ふうふういって階段を登りきった城壁の上では自転車競走が行われていて、情調もなんのそのといった感じで、「ああ、あれが私達が泊まっている屋根がお城型のホテルか」とホテルを眺めて、早々に別な階段から降りた。その日は見物が早く終わり、希望者だけマッサージをしに行った。私も足を中心に一時間かけてマッサージをしてもらい、ちょっと疲れが取れ、その夜はぐっすり寝られた。
 次は桂林へと向かった。今度は飛行機も予定どおり到着して、朗らかで冗談好きないたずっら子がそのまま大きくなったという感じのスペイン語とポルトガル語を混ぜて話すガイドさんに迎えられた。
 桂林は、イメージしていた以上に山々が美しい所だった。また、大きな鍾乳洞も、保存状態がよく、見ごたえがあった。
 着いた夜は遊覧船に乗り、鵜を使って釣りをしているのを見たり、ライトアップされたゴールデンゲートブリッジやフランスの凱旋門の模型を見たり、昼間は畑仕事をしているのかな?と思われるような若者たちが恥ずかしげにまたは、ぶーたれた感じで川べりで踊ったり、太鼓を演奏していたりしているのを鑑賞したりで、結構楽しませてくれた。
 桂林の観光のメインである観光船での漓江(りこう)の川下りも、四時間近くかかったが、いろいろな形の山々が次から次へと見られ、感動的だった。船を下りるとすぐの所にお土産物を売っている屋台がずらりと並んでいて、百%シルクだとかいうネッカチーフやスカーフを買った。もちろん、申し訳程度に絹糸が何本か織り込んである偽者だが、値切ったりしながら買うのも楽しかった。
 旅行前後は忙しいが、旅行中はとても楽しく、以外なことを見聞きし、ストレス発散になる上に、桂林でもマッサージをしてもらい、気分爽快な旅であった。


お風呂物語

サンパウロ中央老壮会 村松ひさ子
 最近、ある新聞を読んでいると、ドラム缶のお風呂の事が書いてあった。私も渡伯当時、使用したことがあったのを思い出した。
 私は満州鉄道会社に勤めていた父の元に生まれたので、その社宅に戦後引揚げるまで暮していた。
 七歳までいたので、お風呂も思い出すことが出来る。白いタイル張りのものだった。終戦直後、時々、家屋にロシア兵が侵入して来て、そこが安全だったからだろうか、兄弟三人で何回か、そこで食事をした事を思い出す。
 その後、日本に引き揚げ、田舎で暮した。父母はすぐ、教員の仕事をしたので、その住宅には木製の桶様のお風呂があった。とても気持ちよく入れた。
 そして呼び寄せ移民として渡伯し、田舎に住んだ。呼び寄せてもらった叔父には家や土地など、何もかもお世話してもらった。しかし、お風呂はドラム缶であった。叔父の家には五右衛門風呂様のものが作ってあった。ドラム缶のお風呂は想像以上のもので驚き、少し悲しかったが、当時はまだ若かったせいか、学生時代に日本で見た洋画の一シーンを思い出して、気を取り直した。
 その洋画の概要は、観光船が海で難破して人々は海に投げ出され、二人の若い男女が無人島に泳ぎ着き、生きていくというもので、その中の一シーンにドラム缶のお風呂に入るシーンがあった。
 その後は聖市に移り、プラスチック製のお風呂になった。
 現在は、水流を回転させたりする浴槽が売られている。それが欲しいと思っていたら、一人の息子が家を買って改築する時にそれを取り付けた。私の家に近いので、時々、入りに行く。大抵、夜に行くので主人に車で送迎してもらっている。主人はそのような私の風呂好きに呆れているようだ。以上が私のお風呂物語である。


漢詩を鑑賞

名槍日本号 松口月城

美酒元来吾所好
斗酒傾盡人驚倒
古謡一曲芸城中
呑取名槍日本号
〔現代語訳〕
もともと好きなうまい酒。大杯の酒を一気飲み、並み居る人々を驚かし、ついでに謡で誑かす。唯ただこの名槍が欲しいため。

古希偶感 宮崎東明

年々増善友
日々楽清吟
有始有終美
無塵無俗心
〔現代語訳〕
年各に善き友が増え、毎日老人クラブで楽しんでいる。晩年、心美しく清らかに暮らせば、今世で成仏、保障致します。


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