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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2012年9月号
2012年9月号 (2012/09/14)
幸先に恵まれて(下)
短歌欄選者 藤田朝壽
「曽良奥の細道随行日記」は紺色の表紙で大きさは教科書並みである。
芭蕉像、曽良の色紙・日記文が写真入で載っている。全文二百六十三頁。
奥付を見ると、昭和十八年七月三十日発行四千部。戦時下発行であるから、戦後移住の何方かが持ってこられたことが解る。
この初版本はB29の空襲爆撃で都市という都市は焦土と化した祖国を想うといくらも残っていないのではなかろうか。いずれにせよ、得難い本である。
序文は文学博士、志田義秀が書いている。長文なので要点だけ記す。
「時恰(ときあたか)も明年芭蕉の二百五十回忌同時に生誕三百年祭に当たる時に際し、それを記念されるものとしてこの刊行を企図とされた事は芭蕉の記念として絶好のものであるばかりでなく、これによって学界の蒙る稗益は蓋し大なるものがあるであろう。中略 奥の細道の研究はこれによって、新たな前進を約束されねばならぬ。以下略。昭和十七年十一月」
はしがきは編者が書いている。「嘗(かつ)て某家に年久しく伝えられたる古名流俳家の墨蹟文学書を愛蔵せらるるを仄聞していた私は、友人、佐藤十雨の紹介にて拝覧する機会を得た。中略。私共歎賞措く能わざるもののみの中に別けても私の瞳の底に強く灼きつけられた一品があった。如斬日記が今日まで完全に残されてあった事は私の思いもつかぬ驚異であった。奥の細道行脚の日より約二百五十年間、芭蕉研究における汗牛充棟もただならざる文書記録等にも未だ嘗て顕われることのない史料である。中略。芭蕉研究は申すまでもなく、江戸文学研究の上にも一層の精華を発揮しうるべきを信じ、切に公刊せられんことを願望せしに同家に於いても私の希望を快く容れられ公に刊行し以って斬道学界の為に提供せらるることになったのである。以下略。昭和十八年七月三十日発行山本六丁子」
某家が二百五十年間所蔵せしまま世に出ることもなかった「曽良奥の細道随行日記」は山本六丁子によって世に出たのであるが、太平洋戦争の時であったため、世に宣伝される事もなく終わったのではないだろうか。戦後、再販されたかどうかも私は知らない。この初版本はもしかするとコロニアでは唯一の本かも知れない。
稀覯本は日本では値打ちがある。というのは、四十数年前の事であるが、サンパウロ新聞に東京の有名デパートで売られた稀覯本(初版本)で一番高価であったのが、詩人野口米次郎の詩集であった。活字一文字が四・五円にあたり、一冊の詩集が十数万円だったと思う。
世の好事家は初版の稀覯本を漁る。(独占欲と自己満足と云えるかも知れない)。
私は色紙短冊展を前にして偶然に珍書を手に入れることが出来、運が良かった。
幸先に恵まれ、日系文学主催の色紙短冊展は好評で了ったことを此処に付記してペンを置く。
【註…詩人・野口米次=愛知県出身。十八歳で渡米後、英国に渡り「東海より」を自費刊行。ヨネ・ノグチで英国詩壇に知られる。明治三十年帰国し、慶應大学教授。詩作のかたわら日本の伝統芸術の研究に従った。(国語大辞典より)】
最後の言葉
サンパウロ鶴亀会 井出香哉
多くの有名人が今に残る立派な最後の言葉を残している。私の尊敬する眞田幸村は、家康を討ち損じて非業の死を遂げるが、ドラマの中の幸村はしゃべることしゃべること。どれが最後の言葉か分からない。せめて「残念だ」と言ってがっくり逝かせてほしかった。
ところで私の最後の言葉は「ごめんなさい」だ。多くの友や姉妹、弟にいろいろな思いを込めて「ごめんなさい」。それはあの世に行っても同じこと。
先に逝っている人に嘘をついてごめんなさい。意地悪をしてごめんなさい。知らん顔をしてごめんなさいと頭を下げる。例えば、友だちが「病気でご飯が炊けないから、レストランから持って来てもらっている」と聞いたから電話をして「欲しいものがあったら持って行ってあげるけど」と聞いたら「こんなに痩せてやつれた姿を見せたくないから、来なくていい」と電話が切れた。これが最後の言葉になるとは、迂闊にも気づかずに…。あの人は何回も「もう死ぬる」と電話をしてきてまた元気になったから。それにあの人は少し偏屈だから、行っても入れてくれないだろうし…と、そのまま日が過ぎていた。亡くなったと聞いた時、どんなに後悔したか。あの日を思うと今でも涙がこぼれる。それなのに愚かな私は同じ過ちをした。
昔、一緒に仕事をした知人から「入院していて寂しいから来て欲しい」と電話があったので見舞いに行った。二ヶ月も入院していて、同じ物ばかり食べているから「生菓子が食べたい」と言うので、「今度来る時に持ってくるね」と約束をして、実行しない間に知人は逝ってしまった。その日か翌日にでも持って行ってあげればよかったと後悔してももう遅い。
あちらに行ったら「ごめんなさい」と詫びるしかない。皆、良い人たちだから笑って許してくれるだろう。ただし、あの閻魔(えんま)様がなんて宣(のたま)うか。それが心配だ。私の最後の言葉「ごめんなさい」。それともう一つ。それは「ありがとう」。困った時助けてくれた人、私を教え導いてくれた先輩方。悲しい時、慰めてくれた人。何の力もない私を立てて仲良くしてくれた人。病気の時、心配してくれた人。いつも励まし、勇気をくれた姉妹たち。良い人々に囲まれて私は幸せでした。私の最後の言葉「ありがとう。ごめんなさい」。
日本人の血(2)
サンパウロ清談会 駒形秀雄
「一五四三年八月、鹿児島県南端種子島に一隻の外国船が漂着しました。この船には三人のポルトガル人が乗っており、種々の珍しい外国の産物と共に鉄砲を持っていました。これが当時の日本へ初めて西欧文化を紹介するきっかけとなった」ことです。
南蛮ポルトガル人、喜利支多、陀孟太、牟良叔舎の三人は島主、種子島時尭以下多数の家臣たちの好奇に満ちた目に囲まれて新兵器『鉄砲』を紹介することになりました。
「ダダーン」島民たちがそれまで聞いたこともない轟音を発して弾丸が発射されました。
『ワッ』と尻餅をついた者が居る、耳を抑えて頬をヒクヒクさせているものがいる、耳元に雷でも落ちたように茫然自失の一瞬がありました。見ると遠くの松ノ木に吊るしてあった的の板に穴があいて、二つに割れています。驚きが興奮と感嘆にとって代わりました。
何回かの試射をしてその威力を確かめた後、島主時尭が言いました。「これは恐ろしい武器だ」「なんとか自分のものにしたい」と。
* *
十六世紀の半ば、同じ頃にポルトガル人に出会い、彼らの持参した鉄砲に驚愕したのはブラジルも日本も同じだったのですが、その後の対応がこの二つの地で大いに違っていました。日本ではこの武器の背後にある西欧の文明の力をおぼろげながらも理解し、これを消化、吸収しようと努めたのです。
島主は大金を払ってこれを買い求め、使い方を習い、かつその製造までをも図ったのです。そして種々苦心の結果、早くもその翌年にはこれを完成させ、数十挺を実戦にまで使用しております。
その後の日本の新文明に対する適応の早さ、技術開発力の強さも感嘆に値するものがあります。堺、根来などで大量に鉄砲を生産するようになり、一五五六年、即ち、日本が初めて鉄砲を見せられて驚いてから十三年後に、ポルトガル人が再び日本へ来たときには全国で『三十万挺もの鉄砲が作られており、しかもそれには種々の改良が施されていて、性能的には外国製のものより優れている』とこうメンデス ピントの本国への報告書に記されるまでになっていたのです。(続く)
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