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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2012年11月号
2012年11月号 (2012/11/10)
グァタパラで五十年
黒沢志が子
グァタパラ移住の第一陣として十二家族のうち茨城より六家族が入植しました。
同じ日本人といってもそれぞれの地方の方言を使って話されますので、外国語のようで慣れるまで大変でした。
モンブカに着いた時は幼児を背負った私がJICAの羽根田様のジープで一番先に着き、大榾の焚火で新移民を迎えてくれましたことを鮮明に思い出します。
当初、男の人たちは住居作りの準備に共同でユーカリを切りに行き、女達は共同で薪を取り、野菜を作りました。
新天地の仕事に夢を抱き来ましたが、暗中模索の仕事に悩む日々でした。
同県人の方に「開拓の経験のない典(のり)さんが一番先に音を上げる」と言われ、主人は「何くそ負けてたまるか」と口にするようになり、無我夢中で働きました。
自転車で何キロも行き、周囲での農業を調べてきました。資金もなく、野菜作りから始め、中古のボンバを買い、宅地にピメントンを作り、畑の隅にさつま芋を植え、たくさん出来たので来る人ごとにあげました。
県人先輩移住者の方に銀行の保証をしたことがあり、全額負担した事もありました。夢中で働きました。
想い出はたくさんあります。三十糎(㎝)もある素晴らしい茄子を作ったことや初めて西瓜を一町歩も作り、それが良く出来て三千コントスも売れて。お金が紙袋一杯になり、それでカミヨネッテ(トラック)を買った事。村で一番最初に買った車でしたので、頼まれてお産や怪我などリベロンの町までよく行ったものです。この車を使い買い取り業者に残された五キロ以下の西瓜が畑に山積みにあり、これをファゼンダ巡りをして売りに行きました。
私も前進のみしか考えず、トラトール(トラクター)を運転して、ビラ・グァタパラへ売りに行きました。
小さい町が西瓜だらけになり、恥ずかしさと嬉しい気持ちで完売して帰った思い出もあります。
また、田植え機が入り、何日もかかって考えながら田を仕切り、何とか水を張る事が出来た時は、先祖が子孫に「美田を残す」という言葉をしみじみと味わいました。とても大変な事です。その水田も今は水源がなくなり、高い所にはとうもろこしが植えられています。丘地はほとんどサトウキビ畑になり、五十年の時が偲ばれます。
日本より四人の子を連れて来ました。上が小学一年生、下が十ヵ月の子です。入植後、ブラジル人第一号となる洋次が生まれました。近くの町にお産婆さんが居られましたので、大変心強くありがたく感謝しております。この家族とは今でもお付き合いをしております。
長男が小四、長女が小三の時、サンパウロのコチア小学校に入れました。全寮制で何でも自分でしたそうです。午前はポルトガル語、午後は日本語と頑張りました。中学は家に戻り、手伝い、夜学に通いました。夜は石油ランプの下で食事をし、その後、みんなで一つランプを囲み勉強をしたものです。
移転したので、家への電化は第二工事となり、皆さんより十年遅れとなり、ランプ生活は二十年。辛い思い出です。その時は灯油の冷蔵庫とバッテリーのテレビなどを使いました。
精米機と乾燥機も電化と同時に始動しました。
この頃、俳句会に入会し、初日、兼題は見学し、席題に入り「扇風機」という季語で私は「扇風機髪を気にする女客」「遠来の客を弄す扇風機」と作句しました。この句は神田様ご夫妻が訪ねて来られた時、扇風機を買ったばかりなので嬉しくて使いました。その思い出があり、迷わず率直にこの句が出来ました。これに多くの点が入り、主人はじめ皆様が驚いたようです。これにはずみをつけ、今も続けています。海外日系人大会文芸祭では文芸賞を頂き、主人共々出席しました。翌年、日系人大会に出席し、秋篠宮様にブラジル代表として挨拶とお花を捧げました。この時は短歌の部でした。日系人五十年祭には、天皇皇后両陛下がご臨席になり、皇后様に固い握手で「お元気で頑張って下さい」とのお言葉を頂き、感無量でした。一生忘れ得ぬ思い出となりました。
入植当時は子供たちの服はもちろん、他人様の物まで縫ってあげることが出来ました。持参の掛け蒲団などは綿を薄くして何枚も蒲団を作り、純毛のスカートは毛布に仕立て直し、それぞれ子等の寝具に仕立てて使いました。
先日、次男が掛け算の九九を使っているのに気が付き、尋ねた所「今も使っているよ」と言われ、「良かった、役に立っているのだ」と嬉しく思いました。上の子四人まではしっかりと教えました。
野菜の出荷では収穫したピーマンを洗い、山積みにしておき、夕食後、主人と二人で幼児を背中に背負い、明日朝早く来る出荷のトラックに間に合わせるよう夜遅くまで百箱ほど箱詰めをしました。その他、庭先まで取りに来る業者もいて、毎日が戦いのようでした。ポケットにはいつも現金がごそごそ入っていました。今、住んでいる家を小さく作り、移転しました。お風呂は屋外で、ある時、大きい音と共に娘が入っていたドラム缶が倒れ、肝を冷やしたこともあります。家族も増え、家も何度も建て増しをしましたが、今は子等は巣立ち、二人きりになりました。
十一人の子は十人は大学を出てブラジルの各地で活躍をしております。末っ子が農業の跡を継ぎました。「農継ぐ子先ず新米を両親へ」。男の子五人はブラジル在、女子六人中三人は日本に嫁ぎました。次女は大洗町に。県の国際交流協会に週二日行き、ブラジルとの架け橋となり、頑張っています。四女はつくば在で研究所に働いています。五女は福島で災害にめげず県立病院で皆様のお役に立っているようです。皆、それぞれに元気で頑張っています。アルバイトで得たお金で時折り爺ちゃんと婆ちゃんへといろいろ送ってくれます。「ありがとう」私たちも健康に気を付け、頑張ります。
ぬいぐるみ
サンパウロ鶴亀会 井出香哉
テレビの上の小さなぬいぐるみの仔犬。鼻と目の周りが茶色で長い耳と小さな尻尾が可愛い黒犬だ。
私が「可愛い」と言ったら、「婆ちゃんにあげる」と孫がくれた。それから一年、テレビの上に置いたままだ。思いついて孫がしていたように私も横に置いて寝てみる。
赤ん坊の孫が寝ているような気がした。生後、夜鳴きをしても赤ん坊は大の字になっているので、私はいつもベッド(カーマ)から落ちそうになったものだった。その孫も少女になった。
私はぬいぐるみに語りかける。
「テレビの上でやかましかったでしょう。ごめんね。寒い?布団をかけてあげるね。どう?暖かくなったでしょ。良い子にして、ネンネするのよ。」
孫にしたように背中をトントンたたいてやる。心の中でつぶやく。
「八十歳を越したバアさんが子供みたいなことして、今さらぬいぐるみでもないでしょう」
別の声が反論する。
「年取ったら、子供に還るというから、いいじゃないの。口の運動になるわよ」
そして今夜もぬいぐるみの背中をトントンたたきながら話しかけている。昔、孫にしたように。
油断大敵スリ、強盗!
俺の家に強盗が来た
イタケーラ寿会 田渕三郎(匿名)
驚いた! 俺の家にも強盗が来た。
それは九月三十日、日曜日のことであった。モジへ朝早くに出掛けて行って、疲れて午後三時頃に家へ戻り、台所で水をコップ一杯飲んで、外で犬に餌を与える準備をしている時だった。
家の中で飼っている白い犬が応接間のソファの上で外を見ながらしきりに吠えているなぁと思ったら、鉄柵の門戸を開けて数人の若者が入ってきた。
その中の一人はピストルを持っているではないか。強盗だと思っている間に、もう俺の近くへ来て、家の裏口に引っ張り込んで、台所のソファへ座らせられた。そうしている所へまた人が入ってきた。見ると従業員の家族四人と訪れていた知人夫婦であった。座ると、俺にはソファの布を頭からかぶせ、従業員の家族とその友だちはソファと腰掛に座らせて、孫が使っていた縄跳びの縄を包丁で切って、男達の手を縛り、女性は粘着テープで縛られているようだった。
そして、それぞれ布やタオルを頭からかぶせられる。俺は布はかぶせられたが手は縛られなかった。そして「金、金、金はどこにあるか」と強く迫った。その声は静かであるが、急いでいるらしい。私は人数は五人と見たが、従業員は六人だったという。犯人は皆、歩いて来た。我が家へ入る前に従業員の家を制圧してきたらしい。彼はようやく買った薄型テレビとコンピュータを盗られた。
そのうち、電話のベルが鳴った。長く鳴っているようであったが鳴らなくなった。後で分かった事だが、妻が駅へ迎えに来て欲しいとの電話だった。強盗が電話線を外したらしい。
三十分ほど家捜していた所、何も知らない息子がぺジョの荷物が積める白い車で仕入れ物を積んで帰ってきた。玄関の戸を開けたら、迎えたのは嫁ではなく、強盗であった。息子は驚いたろうと思う。息子を制圧した強盗は孫たちの部屋、息子の部屋を案内させて、目ぼしい物を孫の部屋にあったリュックサックに詰めた。財布は現金の札と小銭を全部盗ったがドキュメントとカルトン(カード)、小切手は盗らなかった。箪笥の中や引き出しを引っ掻き回して、後で片付けるのが大変であった。
孫の部屋からギター他スポーツ用品が無くなっていると孫が言っていた。
俺の場合、動かない腕時計が二、三個あったが持って行ったらしい。
声は静かで小さく老人には手荒な扱いをしない優しい強盗だなと思って心静かに座っていたが、帰り際に俺の腕にはめていた時計を外して持って行った時には腹が立った。
泥棒は盗みが終わって、車二台に分乗して帰っていったが、一台は我が土地の下の小川の向こう側の道路に乗り捨ててあったのが見つかり、その日の夕方に戻って来た。
もう一台は一週間後に見つかり、警察が知らせて来た。
以上が生まれて初めて我が家に入った強盗の物語である。金とか大切な物は無くなったが誰一人傷ついた者がいなかったのが、不幸中の幸いであったと思っている。
忘れられない恐怖
サンパウロ中央老壮会 内海博
一九八三年の十一月十日のことだった。今から三昔も前のことだが、強烈に記憶の中にあり、忘れることはない。
午後三時を過ぎた頃のことである。その頃、私は電気関係の会社に勤めていた。その当時の習慣で会社の給料日は毎月十日と決まっていた。
その日も前々からの手はず通りに給料の支払いを済ませ、ほとんどが銀行振り込みで、すでに七日に振り込み済みとなり、階下の会計課も人が少なくなっており、隣室の営業課長は外出、秘書のテレジンニャが一人、私の個室も来客はなく、何か書きものをしていた。
ふと目の前に隣室にいた筈の秘書のテレジンニャが首をやや吊り上げられるような格好で立っている。見ると、半黒の大男が後ろからピストルを右耳にあてて「フィッカ・キエット・アグアシャア・アイ」と命じた。三人組の強盗だ。私、テレジンニャ、オズワルド、アントニオ、クララ、ニヴァルタ、ジョルジと七人が私の部屋に集められ床に伏せさせられた。私は手の指を踏みつけられた。背中を靴で抑えられ、ピストルの台尻で頭を叩かれ、流れ出た血は手の平を広げたより大きな地図を描いた。その血を指先でいじったら、何か書き残すと思ったのか、背中をグアンと踏みつけられ、「ウウツー」本当に気絶する程痛かった。それから暫く音がしなくなった。それは五分くらいか、いや、もっと長かったか、いつの間にか立ち去った強盗に恐る恐る起き直って、お互いの顔を見て無言で見つめ直した。この日から「あしたに紅顔ありて、タベに白骨となる」という仏教のお経の文句ではないが、人間の「死」という奴は何時どこからともなく、突然にやって来るものだと感じた。
それから仕事場でも、なるべく今日の仕事は明日に延ばさないようにしてきた。しかし、身辺の整理もひと頃のようについていない。いつの間にか元に戻っている。一体、突然死したらどうなるのだろうか。しかしまぁ、「整理したい」ことが余りにも多すぎるのだ。
できるだけの事をして置いたら後は誰かがその後をやってくれるだろう。余り思い患わぬほうが良いだろう。もっと気楽に気楽に。
それにしてもあれから三十年も経っているのに世の中は相変わらず物騒である。未だに強盗の被害は後を絶たない。
一九九四年十二月に大腸手術、二〇〇六年にも胸を切った。不思議に寿命を永らえている。あとは神の思うがままに…。
さてその時の損害だが、全部の支払いが済んだ後なので、ほんの僅かその日欠勤した者の分や使い走りの少年の給料だけ。
物より命が如何に大切か、またあの時の恐怖は未だに忘れられないでいるが、心を痛める事がどれほど人に大きな比重のあることかをつくづく知らされた。
それはそうとあの時、強盗は下にもいた。もう一人の逃走用の車が走りだしたので上に合図して逃げた。私等の所にいたのも何も取らないで引上げた事が解ったのは、それから後のことだった。
スリにご用心!
サンパウロ中央老壮会 藤永ローザ
私のリュックには以前、「歩こう会」で日本へ行った時に山梨県で買い求めた小さな鈴が付いております。コロコロとやわらかな音色でとても気に入っています。ですから、私が歩くと「あっ、ローザさんじゃないかと思った」と、皆、よく知ってくれています。
先日、町へ出ようとバスに乗った所、背中で鈴がコロコロと鳴ります。振り返るとブラジル人が「あっ、ごめんなさい」と言って目をそらせました。見ると、リュック(モシーラ)のチャックが半分開いています。瞬間、この人は怪しいなとピーンときました。スリに違いありません。用心、用心。
そして、町で買い物をすませ、帰りのバスに乗り込みました。すると、またそのブラジル人が乗っています。大きな声でペチャクチャとしゃべっています。しゃべっている相手にぴったりとくっ付いて、他の人が通ろうとしても退こうともしません。明らかに人の気をそらしているようです。
どんな手口でスリをするのか見てやろうと、知らぬふりをしながら一生懸命見ていました。
しばらくして、〈あっ、いけない〉。降りる停留所を乗り越してしまったのです。
もう少し乗っていて確かめたかったのですが、残念、時間切れでした。
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