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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2012年12月号

2012年12月号 (2012/12/13) 大山鳴動して鼠一匹

イタペチニンガ千歳会 小野忠司
 十月の代表者会議のため出聖する途中のバスの中での事です。終点のバーハ・フンダまでには少々間があったのですが、グァルダが一人、運転手の方へスースーと移動したのに続き、一番奥に座っていた私もその後に続こうと鞄を一つ肩にかけ、他を手に持ってそろそろと通路を進み、中ほどに達した時、バスがスピードを落とさずに急停車しました。
 いきなり投げ出され、顎も含め四、五か所強く打ち、一刻起き上がれずにいると、周りの人が助け起こしてくれましたが、靴が脱げ、メガネがどこに行ったのやら、見当たりません。それも周りの人が見つけてくれ、安心した所為か、一度に痛みが襲ってきました。特に胸右側が激しく痛み、一時右腕を動かすことも少しの息もできない有様でした。
 しかし捻挫等はなく、普通に歩くことができ、幸運なことでした。下車後にも種々気遣って下さる人がいて、何と皆、親切な人々かと改めて感謝したことでした。
 会議終了後、事務局長はじめ、皆様に心配して頂き、勧められて援協でシャッパ(レントゲン)を撮って頂き、検査の結果は骨には異常はなく、打撲だけとのことでした。
 安心と同時に何と大げさに騒いだことかと恥ずかしくなり、「大山鳴動して鼠一匹(たいざんめいどうしてねずみいっぴき=大騒ぎしたわりには、実際には結果が小さいという意味のことわざ)」的、お粗末でした。


阿吽の呼吸刎頚の友と共に

カンピーナス明治会 樋口四郎
 ご存知ですか? 「阿吽(あうん)の呼吸」とは私の解釈では、一般的には「力士」が取り組みの立ち上がりの時に瞬間に相手の呼吸をはかり「はっけいよ~い」で相手にぶつかって行く間合いの事らしい。
 解りやすく言えばそれほど気の合った同士とか、仕草らしい。知人や親友が云わず語らず眼を見て相手の真意を瞬時に読み取り、相手に了解のサインを送る。友情と信頼の絆の証しではないかと思います。それ以上の解釈は私には無理です。
 私も時々誠に親しい相手には「阿吽の呼吸」で接して戴き、自慢げに会話が出来る、理解ある友人知人を持てる喜びは最高の幸せと云うべきでありましょう。
 ある日、ご当地の日伯文化協会会長さんに呼び止められました。 彼のお話では、長年会長職をやってはいますが、運営費では一向に楽にならない。貴方は昔から広く色々な人とのお付き合いが多く、結構な人脈を持っておられるようだから、ひとつお願いがあります。毎年恒例の日本文化祭りが近づき、協力者、賛同者を…と、きた。「解った、そこまで」と、我が手で制した。彼の言わんとしている事は手に取る様に解った。「百もガッテン、二百も承知」でありました。彼の素晴らしい活躍には定評があり二世乍ら、大変である事は解っている。
 世の東西を問わず、国際的にも、我が地域もご同様、不景気は年々止る所を知りません。特にコロニアの文化活動には直接の利点が薄いとかで、出来る事なら知らんぷり。物心共に協力を名乗り出られない。その上、今日まで日本文化の良き理解者であった尊い先駆者一世諸氏は、段々高齢化が進み、少数派となり最早「阿吽の呼吸」成るものは日系コロニア社会内では通用しなくなっている。
 しかしながら、日系コロニアの民俗文化向上を継承すべく、奉仕精神でご協力下さる方々無くしては、到底成功は覚束(おぼつ)きません。そのような中で今日まで伯国市民と調和を図り、誠の融和を保って来られたのは若くて尊い二世、三世諸氏、現役役員の働きと努力のおかげでありましょう。
 特に私は彼らのような方々を尊敬の念と羨望をもってお付き合い願っております。「素晴らしい日系民族の子孫」ではありませんか。
 私は「阿吽の呼吸」ではないが、会長に対して即座に了解いたしました。
 会長は「一世会長以上に日伯文化交流に重点を置き、一世独断時代は終わり二、三世は市役所、市長に社交性を発揮し、日伯文化の有為性を強調し、全市民にあらゆる機会を利用。誇り高く日本人の心意気で楽しい催しを行う事こそ日本民族のなすべき必須条件で有ります」と嬉しい事を言ってくれました。
 私はそのような人達が大好きです。即座に「同感であります。大賛成です」と、今日(こんにち)、全伯的に認められてきたものを、これから先も守って戴かねば成りません。それが我々日系人の義務と申し上げても過言にはならないと思いました。
 その為には一、二、三、四世を問わず「素直に協力を厭(いと)わず要請に応える事こそ」人道と心得るべきであります。「同胞として人間として」誇りを継承し、流石(さすが)日本人と称されたい。私は多少齢は取っておりますが、出来得る限りお役に立たなければと考えました。
 私に出来る事と云えば、「私とお付き合い下さっておられる中から『阿吽の呼吸』をご理解下さる方々を尋ねる事から始めたい」と、ご返事申し上げました。が、こればかりはご先方の思惑次第、如何様に相成りますか?
 それに付けても「刎頚(ふんけい)の友」が私に如何ほどおられるやら…。一度口にしてしまった事は取り返しはつかないが「さて又早ばしり」「早とちり」の繰り返し。わが家の家内に「性の無い人」となじられましたが、こんな事は「年がら年中」「サッポに水掛け」の繰り返し。馬鹿は死ななきゃ直りません。
 さて結果は大成功。理解者も多かったが催しにお手伝いなされた方々の働きや心意気には頭が下がるやら、感心させられるやらで来場者が何と二万人。
 カンピーナスはごった返し。関係者一同は嬉しい悲鳴で、日系人の素晴らしい文化活動を伯人社会に強烈にアピールできたようで、万々歳で終わりました。これが日本民族の誠の誇りでございましょう。
 と思いきや、後日跡かたづけの会話の中でお聞きしたことだが、世間にはやはり身勝手で「へそ曲がり」が常に何人か居られる。協力出来るだけの資産と財力を常日頃から世間様に自慢げに吹聴されながらも一文も協力されなかったご人を知らされ、「やはりネ」と、内心、かわいそうに感じた事でした。
 真実、他人様どころではない方達がおられますが、そのような方でもそれなりに「そっーと」控えめに出されるお気持ちは清々しいと言うか、尊敬に値する素晴らしい方と感服させられました。
 人類は霊長の生き物と云われます。「喜怒哀楽」を理解されてこそ人道に通じる。人の生業は修練に依り輝きが値千金であると信じて止みません。
 このような人こそ「千金に値する」と世間様は称えられます。誠に同感の至りです。 
 私は幸運な人間でした。これまで色々な方々と多数お付き合いを戴いて来ました。何事を催すにもお願いすれば過分な「物心両面のご協力」をして下さり、身に余る面目躍如に繋がり、幸運な人生を日々送らさせて戴き感謝の毎日で有ります。
 これから先も末長く「吻頸の友」大事に「阿吽の呼吸」で参ります。感謝。感謝。世の中に九拝。


被災地を見て

サンパウロ中央老壮会 上原玲子
被災地を見に行くこと
 私は昨年の東日本大震災以来、どんなに心を痛めても、少しの寄付以外何も出来ない自分に苛立っていた。せめて怖がっている友人に、ブラジルへの移住を勧めたりしたが、もとより先方も口だけで本気ではない。方々で熱心に行った募金も、もうやったのだからそれで良いとなったし、文協での一周忌の法要の際も募金箱も置いてなかった。私は例え少しずつでも毎月寄付を集めたらどうかと思っていたので、かなりがっかりした。そこに県連の「東北被災地応援ツアー」が発表されたので、早速応募し、二、三の知り合いを誘った処、「気の毒な人を見に行くのか」「手伝う訳でもないのに行って何が出来る」「そんな悲惨な所は見たくもない」など、思いもかけない言葉が返ってきて、私の方がおかしいのかと思い悩んだ。しかも既に一年半も日が経っているし、直接被災者に会うことはないらしいと聞けば、行くだけの価値があるだろうか等色々考えたが、でもやっぱり現状を見たいので参加することにした。
 こうして行ってきて、今自分は何をすれば良いのか、疲れと風邪で寝込みながら考えた。大方は報道で知っているし今更という声も多い。結局、力もない私は見聞きしたことを話すのが使命だと思い、出来るだけ思い出して書いてみることにした。 
現地に行って
 七〇歳から八七歳までの一六名の参加者は、一〇月一四日夜、コロニア御三家代表の挨拶に送られて出発し、一六日夕成田に到着。ドバイ周りのエミレイツ航空は、幾らか座席も広く食事も良くて乗り心地は悪くない。またJALとの連携とかで後半は日本人客室乗務員もいて色々教えて貰う。ホテルに着いて日本最初の夕食は既に九時過ぎの上、明日に備えて荷物送り出しや整理で余り休む暇もない。そのためか翌朝食後早立ちで東京駅に向かった際、恐れていた腹痛が第一日目から始まってしまった。脂汗をかきながら必死に歩いて新幹線に乗る。約二時間半で盛岡着。ここから被災地に入る旅が始まった。代表者が県庁を訪ねている間、団員は駅で見物と買物。店には被災者が作った品物などが特産物と一緒に並んでいて、あれこれと物色するがやはり思った以上に高い。この度は円高レアル安で換算はかなりきつい。でも作った人の名前入りの品物などを見ると、その人の為にと思い帰りの荷物の量を思いながら不要の物まで買ってしまう。
 バスに乗り換え左右に被災地の荒涼たる有様が出て来たのに、疲れと時差ボケで眠っている人も多く、起こしても又すぐ眠ってしまう。日が射すからとカーテンまで閉めて、疲れているのは解っているが、何をしに来たのか分からない有様で、一生懸命説明しているガイドさんにとても申し訳なかった。普通日本では時差ぼけは感じないと言うが、なぜか今回は多くの人が夜眠れなく、私も二時間位眠ると後は焦るばかりで熟睡の出来ない日が続いた。
 こうして岩手県(釜石市・陸前高田市)、宮城県(石巻市・女川町・名取市)、福島県(いわき市・原発立ち入り禁止区域・風評被害地)の被災地に入って関係者に説明を聞き、花輪を捧げてお参りし、道中も窓外にずっと被災地を見ながらの八日間だった。そこにはブラジルで毎日見続けたNHKの画面そのままの光景が目前に開けている。どこでも「ここは全部家や商店が建ち並んでいました」と説明されるが、他県出身で初めて来た私には、その光景を想像でしか見れず大変申し訳ない思いだ。既にかたずけられているところが多いので、一面更地になっている広い野原の向こうに穏やかな海が見えるが、一区画毎の敷地跡がはっきりしていたり、点々と残されている立派な大きな屋根の下は、一階も二階も全部筒抜けでぼろが下がっていたり、水浸しになっているところも多い。これが満潮時だとかなりの水かさだとか。泊まったホテルの周りも水の引いた跡が歴然としており、応急処置を施した建物が多かった。
 陸前高田市の市民体育館では当時約三百人いたが、助かったのは天井の梁にぶら下がっていた四人だけで、そこには九一の遺体があったとか。同市では二万六千人の人口の内二千人弱が亡くなっている。このうち子供の数として犠牲者九一名、両親を亡くした子九六名、片親になってしまった子四七六名と、聞いていられない説明もあった。県庁や市役所、観光協会の人等がバスに乗り込んで説明して下さったが、やはり彼等も被災者で関係者を失くしているという。津波は波ではなく、真黒の二〇m程の高さの壁がすごい勢いで押し寄せたというし、寄せる波より引き波が強く、寄せる波が時速三〇~四〇kmに対して引く波は三倍の速さだと言う。ガイドさんの友人は、親戚十八人を失い、その内六人が未だ行方不明だと話される。  
 方々にある瓦礫の山の高さは想像以上だったが、どこでも大型機械が動いていて、側にはしゃがんで区分けしている人たちも沢山見える。田んぼは海水に浸かった塩害の上に、大事な表土が皆流されてしまって、いつ使えるか分からないと言うし、村を挙げて高台に移転する話もそう簡単には進まない。説明する人はそれでも皆前を向いて歩きだしていますと言うが、聞いているだけでも先が見えなくて気が滅入る。
 福島県の原発被害地域では、いつの間にか周りに人気もなく、たまに行き交う車には防護服ばかりと言う地域まで入って見せて貰った。無人の家々の周りや田畑には一面真黄色の花が咲いている。放射能対策に「ひまわり」の代わりに植えたのかと思ったら、放られた土地に「背高泡立ち草」という外来種の雑草がはびこってしまった結果だと言う。昔の菜の花畑のようで実にきれいなのが余計哀れを誘う。津波の被害はなくとも、この現状を受け入れなければならないこの村の人達は、どんなに辛いことだろう。
 しかし小学校の庭にある仮設住宅の中に作られた浜風商店街は、私たちが唯一被災者に直接会うことのできた機会だったが、皆さん揃って明るく気持よく迎えて下さり、反対に「入れないぎりぎりのここまで来て下さってありがとう」と言われ、今までの沈んだ気持ちが救われる思いだった。原発より三二キロだと言うが、デジタル化で買い換えたばかりの新しいテレビも皆盗まれたし、土を全部入れ替えて庭木を切って、毎日放射能の数値を図りながら暮らしているとの事。出来るだけ沢山買物をして、箱には寄付金も入れ「私達もブラジルに一人で行って苦労して今があるんだから、貴方達も力を合わせてなんとか元気を出してね」と言いながら涙で抱き合った。短い時間で残念だったけれど、少しは気持により添えた様な気がした。本当は私はこういう機会をとても切望していた。日本側はピリピリしているから直接被災者には会わせられないという事らしいが、歌も踊りも手伝いも出来ないけれど、女同志愚痴や悲しみを言い合うくらいは出来たのではないかと、今でも心残りである。
 奮闘した自衛隊員の働きは本当に素晴らしく、炊き出しのご飯は絶対食べずにいつも缶詰で、お風呂もどんなに勧めても入らなくて、寒いのに唯身体を拭くだけだったという。残骸のあちこちには「自衛隊さんありがとう」と書かれているとか。津波は陸に上るともっと高くなるのだそうで、女川は三〇m、石巻は二〇mの高さになったとか。女川町は一m沈下してしまったし、松島は胸まで水がきて今でも満潮時には歩く道に水がついている。また同じ海岸でも地形によって津波の来方に差があり、海のすぐ側に無事な家々が沢山あるのも見た。仙台空港も全滅の憂き目にあったが、アメリカ兵の働き等で一カ月で復興した。翌日の夜には、市内には赤々と電気がついて食事の出来る所もあれば、片方では寒さに震えながら七十二時間の限界に向かって必死に生存者を捜していた。スーパーは五時間並んで一人五品目だけが買えた。男性案内人が初めてラーメンが食べられた時には泣けた、等色々の話も聞いた。
 私たちはこれらの被災地の近くに存在する幾つかの観光地や、鉄の博物館、原発センターなども訪れた。それらも大小の差こそあれ皆災害の影響を受けていた。例えば松島湾に点在する島々も大きく崩れたり変わったりしたというし、多くのお寺やお宮でも塩水に浸かった木が盛んに切られていた。石塔は倒れ、高い屋根の間に大木がはまり込んでいたりした。どこでも海藻類や魚の加工品、主婦手作りの手芸品や食品などが売られていたが、帰途を思うと充分買って上げられないのが申し訳ない。皆見学と同時にお賽銭を入れて、一日も早い復興を祈って来た。
 その後自由行動の一週間で各々故郷に帰ったりして私用を果たし、十一月四日予定通り無事に帰伯した。今でも買って来た写真画報等を見ると涙が出てしまうが、ブラジルの災害のない、明るく人の多い街に住んでいることを本当に幸せだと思う。


追想の一齣から(上)

スザノ福栄会 杉本正
 世の人々の人生の歩み方は千差万別なれど、皆それぞれに幾度かの喜怒哀楽の波に遭遇せるも、乗り越えてきたものだったと存じます。
 今日、お互いに老境の身に至りて、移り変わりの人生を振り返りみて、おそらく懐かしい思い出を回顧されることもあるかと存じます。
 私も九十五歳になり、人並みに歩んできた人生を時折振り返る事があり、特に日系社会の諸団体で務めさせていただいた活動を懐かしく思い出します。
 当時、団体活動を楽しくなされた同僚の方々の在りし日の姿も懐かしく思い出し、悲喜こもごもなれど、老ク連に関する記事からは外れますが、思い出の中から一齣投稿させて頂きます。
 子供の頃は、親が行くところはどこへでも喜んでいくもので、十四歳の折(一九三一年)両親に伴われて当国に移り来て、サンパウロ市在の知り合いに土地を探して頂き、親たちは気候も良く、将来、子供の教育にも、また、農業生産物の市場となる大都市の近くなので、良いだろうと同年十一月二十六日にスザノ群の一角、ゴイアベイラに入植しました。地名の由来は野生のゴイアバがたくさんあったからとの事です。
 入植当時、近所にはまばらに同胞の方たちが五家族居られ、一九二〇年以前に入植された西岡隆一氏。第一回笠戸丸移民の中村善三郎氏、ジュキア地から移転されて来られたとの事。後に福博村の創設者と言われた原田敬太氏などがおられました。
 父たちはお互いに集まって交流を深めようとの事から、日曜ごとに集まるとし、さらに農業者でありながら、作物の栽培についてはあまり知識がない所から、時折サンパウロ市に行っては農業資材販売店主から話を聞いてきては発表するなどし、栽培を研究。さらに生産資材の共同購入なども行う事になり、これには責任者も必要との事から日曜会との名称を設けられたそうで、当村での「会」と証する始まりとなったものです。
 一九三三年末に至って、将来の村の発展基礎を考えられて、「恵比寿会」と改名し、本格的に役員を構成し、活動に入りしと記録には残っています。
 時をおいて、村の名称も福博村と決められた事から、協議の上、福博日本人会に改組されたとあります。当時の日本人には「三人集まれば会を作る」との揶揄があったようですが…。
 以上の記事は短命にて逝きし父が残した日誌からの抜粋であります。当時の村の足跡を記録したのはこれ以外には皆無に等しいであろうという思いがします。
 当時の事を思い偲べば、すでに八十年も前のことであり、その頃に入植された方々の親は皆、すでに逝去されております。私は子供心にも親たちは良く集まって話をしているなぁとは思っていましたが、特に関心は持っていませんでした。ですが、自然と話は入るものです。父亡き後、大人たちが真剣に村の行く末に取り組んでいる姿をおぼろげながらでも知る者はすでに私のみとなってしまいました。
 ただ気がかりなのは村の歴史を書き残すにあたって、間違いないようにと願うのみであります。父は村の発展に力を注いでいた矢先、突然に他界。私は幼少より福博村に育ち成長し、父亡き後、己の仕事について、特に考える間もなく、一家を守る為に父のあとを継ぎました。父と働いたわずかな期間で覚えた作物の栽培方法を踏まえ、好きな農業に取り組み、一介の農業者に過ぎないけれど、終生、誇りを持って今に至っています。
 これも幼少の頃から福博村の恵まれた環境とよき先輩、後輩諸氏に支えられたお陰であります。学識もない非才の身ながら、日系社会の諸団体の役職を勤めさせて頂いた事は、九十五歳の老境深まったと言えども、忘れる事は出来ません。


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