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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2013年2月号

2013年2月号 (2013/02/13) ホームレスとなって

サンパウロ中央老壮会 匿名希望
 日本移民もすでに百年以上がたち、戦後移民も六十年になろうとしている今、私はホームレスとなっている境遇であります。
 私は伯国で三十年、その後、日本へ出稼ぎに行き二十年を過ごしました。
 昨年六月、日本での就労中に熱中症になり、二度ほど入退院を繰り返しました。
 その時、どうしても最後は伯国の土になりたいと手持ちの金をはたき、首つりを覚悟で帰ってきました。
 帰っては来たものの、収入も蓄えもない老人は家族の厄介者(やっかいもの)。
 妻が今まで以上に小さくなり、片身の狭さに耐えている姿を見るに忍びず、色々あった末、家を出ることにしました。
 しかし、家を出ても高齢者には仕事もなく、夜はチエテのロードビアリアで寝、昼間はセアザの残り野菜で警備員に見つからないよう煮たきをして暮らしていました。
 こんな生活を一か月ほどした時、パッチオ・デ・コレージオ校で弁当をもらえると聞きました。
 セ広場に差しかかったとき、一人のホームレスの青年にみかんをあげ、「弁当はどこでもらえるか」と尋ねると、彼は下の方へ行って、弁当を二つ持ってきてくれました。彼もバイアから仕事を探しに来ているということでした。もう、数ヶ月間この生活をしていると言います。色々と話してくれるのですが、ポ語がまったく分らずモタモタしていると、私の重い荷物を持ってくれ、「付いて来るように」と言います。多少、不安ではありましたが、ワラにもすがる思いで付いて行きますと、無料病院、無料一時宿泊所、三か月無料のコインロッカー、ガード下の日中待機(たいき)所と教えてくれました。そして、「今夜はイタリア移民の収容所に泊まるといい」と言ってくれました。そこは「食事も良く、多国籍の人が入居(にゅうきょ)しているから、居やすいだろう」と言うのです。係りの人と話をつけ、青年と別れました。列に入り、順番を待っていると、私の三番前の人まで来た時、「今日はもう一杯になったのでここまで」と、切られてしまいました。
 雨は降り始めるし、途方に暮れてしまいましたが、とりあえず、さっき教えてもらったガード下の日中待機所へ重い荷物を引きづってたどり着きました。
 雨にぬれた老人を見て、職員は名前を記入するとすぐにシャワー室へ案内してくれ、温かいシャワーを使わせてくれました。一か月ぶりのシャワーで生き返った心地になりました。
 その後、簡単な聞き取りがあり、二十年間日本へ出稼ぎに行っていたこと、その金を全部女につぎ込んでしまい、家にもいられなくなったこと。一か月路上生活をしていることを話しました。係りの人はあまり細かい事は聞かず、ここに泊まれる事になりました。この宿泊所は二段ベッドになっており、シーツもカバーも新しく、久しぶりにカーマ(ベッド)にゆっくりと寝ることができました。
 朝は六時半に起床(きしょう)。パンとレイチ(牛乳)の朝食。八時に昼食の出る日中待機所へ移動。夜十時には宿泊所へ戻るという生活を一か月ほどしていましたが、ある時、風邪をひき、咳と痰がひどくなり、プロントソコーホ(救急病院)へ行くことになりました。ポ語が分からない私のためにカイオ氏はつきっきりで面倒をみてくれます。先のホームレスの青年といい、今の職員たちといい、良い人ばかりにめぐり会い、先祖に心から感謝し、手を合わせました。
 十一月になって、この日中待機所の主任ドナ・ジュリアーナは私が高齢者なので、常宿所に入れるように手続きを急いでくれ、十二月には常宿所に入ることができました。自分のベッドがあるという安心感で食事も美味しく、日中は空き缶を拾ったり、セアザに行ったり、障害者の面倒をみたり、感謝で毎日を過ごしています。今は本を読む時間もできました。妻にもここに落ち着いたことを話し喜んでもらいました。
 それにしてもブラジルは良い国です。自業自得(じごうじとく)とは言え、こんな私にも手を差し伸べてくれるのですから。


巻頭言「飛躍の年」

連会長 五十嵐司
 今年は干支(えと)で巳年(みどし)、蛇(へび)は年を経て脱皮(だっぴ)し、環境(かんきょう)の変化に耐えて強く生き延びる。わが連合会もこの年頭を期し、旧来の殻(から)を破って飛躍(ひやく)すべく、三十七年あまり慣れ親しんだ名称を改め、清新の気をもって活動に入ることとなった。
 日本内地の老人クラブも割り合いは少ないがやはり同じく会員数の減少(げんしょう)に悩んでいる。共通する原因は、年齢意識の若年化とパソコンなどの情報過剰(じょうほうかじょう)による個人趣味の蔓延(まんえん)での家庭内への引きこもりである。わがブラジルコロニアではそれに加えて超高齢化と新移住者の停止による日本語人口の激減(げきげん)が追い討ちをかけている。その結果が会の戦力激減に つながっている。昨年は正会員の数が二〇〇〇を割り、十年足らず前の三〇〇〇人あまりから一〇〇〇人以上減った。毎年平均五~六%の減少に歯止めをかけないならば、十年後には一〇〇〇人足らず、十五年後には五〇〇人もいなくなる惨状となり、会館の維持、職員の雇用(こよう)も困難(こんなん)となると予想され、強い危機感(ききかん)に暗然(あんぜん)たる思いに駆(か)られる。よそを見ても、従来(じゅうらい)の日系社会の主要団体は概(おおむ)ね同様な曲がり角にあり、それぞれ が新しい戦略(せんりゃく)を練っている。あるものは日本語使用を犠牲(ぎせい)にした企画を作り非日系会員の獲得(かくとく)に力を入れ、あるものは一般ブラジル社会を対象とする付帯事業(ふたいじぎょう)や大きなイベントを展開して経営戦力(けいえいせんりゃく)の増強を図るなど必死の努力をしている。
 しかしながら私たちのクラブはそのような性格ではなく、日本語で語り合うことを通じて、日本の文化・文芸・芸能を守り伝え、コロニア伝来の価値観(かちかん)を共有するものが、互助(ごじょ)・親睦(しんぼく)を図ることを目的とする団体である。したがってこの危機を幾らかでも脱出する方法は一にかかって、同一の考えの層を広げるほかはない。
 「老人」と言う今はあまり使われなくなっている古い文言を「熟年」と言う老壮年あるいは中高年を意味する比較的新しい言葉を選んだのは、やや若い人や、年はかなり取っていても気は若々しい人を呼び込めればの思いからである。そしてこの句だけがポルトガル語の正式名称との乖離がなく、法律的に問題を生じないとされるからである。
 賽(さい)は投げられた。あとは会員増強の大キャンペーンに全員が力を合わせて奮闘して頂きたくお願い申し上げる。日系社会で最良の会を残して下さった先輩たちの期待に応え、後に続く後輩たちに立派なバトンを渡したいと心から願うものである。


【全老連創立50周年記念講演】「いま、日本に求められるもの」

作家 童門冬二
 昨年の三月十一日の東日本大震災で私が感じたのは大きな無常観でした。入間のカ、科学のカ、あるいは宗教のカ、そうしたものでは津波も地震も止めることはできない。そして、東京の仕事場にいる私には何もできないという無力感でした。
 そんな私の励ましになったのは、避難場所の体育館で被災者のためにメモを渡したり配給物資を届けたりする雑用に駆け回っている、明るい少年の姿でした。
 その中学生はテレビの中で、「ぼくはおばあちゃんに『今しなくてならないのは、今いる場所で、与えられた仕事を手抜きをしないで一生縣懸命にやることだよ。それが今、懸命になって復興に尽くしている入たちへの励みになるんだよ』と言われて、みんなのために元気よく動き回ることがぼくの使命だと考えるようになった」と話していました。
 その子を突き動かしたのは、おばあちゃんの一言だったのです。やはりお年寄りは、いつの時代でも、危急の時にこそ、役に立つ知恵と経験を持っているということであります。
 私が歴史を学んだかぎりでは、日本で最初に老人問題を政治の世界で取り上げたのが八代将軍(しょうぐん)徳川吉宗(よしむね)です。この吉宗が、神田に住む町医者が提出した「江戸の町には身寄りのない年寄りがたくさんいる。もし病気にかかって放り出されてしまえば、そのまま死んでしまう。どうかお上の手で何とか療養所(りょうようじょ)をつくってほしい」という意見書を取り上げ、江戸町奉行(まちぶぎょう)大岡越前(おおおかえちぜん)守忠相の協力を得て開いたのが、今は東京都文京区の小石川植物園になっておりますが、そこにあった小石川養生所でした。言ってみれば、国立の老人診療所です。
 この小石川養生所の運営は、いわゆる税金で賄(まかな)われていました。いわば、これは公助(こうじょ)であります。私は公助とともに、他人の力に頼らない自助、世の中の全体が互いに助け合う互助、その三つが相まってこそこの社会は成り立っていくのだと思いますし、その三つを大切にする社会でありたいと思います。
 吉宗の孫で、当時福島県の白河の藩主(はんしゅ)を務めていた松平定信(さだのぶ)は、地震、火山の爆発(ばくはつ)、旱魃(かんばつ)が相次いだ天明(てんめい)の大飢饉(ききん)の際、城下町(じょうかまち)の年寄りを小峰城の大広間に集めて、その危機を乗り切るための意見を聞いております。そのとき、松平定信は集まった老人たちに対して、「皆さんのしわとしわの問にはさまっている経験という宝石をいただきたい。その宝石をつまみ出して、この私のために役立、ててもらいたい」と語っております。そして、老入たちの知恵と経験を生かして、何とか食糧を確保することができたのです。
 『論語』には、孔子が弟子の子貢に「これを守り通せば、人の道に反することなく生を全うすることができる文字があったら教えてください」と問われて、「其れ恕(じょ)か」と答えたということが書かれています。子貢は「恕」とは「常に相手の立場に立ってものを考える、やさしい思いやりのことだ」と理解し、「恕」の一字を一生大切に守り抜きました。
 孔子ののちに生まれ、孔子を敬っていた孟子は、その教えを継いで、「忍(しの)びざるの心が大切である」と説いております。「忍びざるの心」というのは、「他入の悲しみ、苦しみ、危難、それらを見るに忍びない。見たときには、それを何とかしてあげようという気もち」です。そして、「忍びざるの心」は、人が常に持つべき心であるということから、それを「恒心」と名づけました。
 また、孟子(もうし)は「恒産なくんば恒心なし」とも言っております。「恒産」はある程度の収入・財産をいいます。一定の収入や財産がなければ、定まった正しい心はない。生活が安定しなくては、心の安定はないということです。
 今日、ここにお集まりの皆さま方が、各地でリーダーとしてご活躍なさっているのは、すべてこの「恕」の精神と「忍びざるの心」に基づいてのことでございましょう。
 コンスタンチン・ゲオルギュというルーマニアの作家は、スターリン体制下で、非常に制約の多い国民生活の一日は二十五時に等しいとして『25時』という小説を書きました。その末尾で、ゲオルギュは「しかしわれわれは絶望しません。たとえ世界の終末が明日であっても、私たちは今日もリンゴを植えます」と書いております。
今日お集まりの皆さまは、そのリンゴの木を持っていらっしゃる。そして、それぞれの地域で、営々としておいしい果実を作っておられる。実った果実は惜しげもなく他人に、社会に差し出していらっしゃる。それこそまさに「恕」の精神であり、ヒューマニズムそのものでありましょう。
 どうか今日を契機に、これからも営々と努力を続けていただけるなら、こんなに嬉しいことはございません。本日は、本当におめでとうございました。
【童門冬二(どうもん・ふゆじ)本名は太田久行。昭和二年東京生まれの作家。「上杉鷹山」「伊藤博文」「西郷隆盛」「織田信長」「情の管理・知の管理」「吉田松陰」「前田利家」「多読に学ぶ人間学」など著書多数。】(全老連二〇一二・十二より)


読めない漢字

短歌欄選者 藤田朝壽
 私が二十歳の時であった。志津野花恵に短歌を見てもらいに行った時、花恵は部屋から一冊の短歌研究を持って来て、「読めない漢字がある。字典を引いても無い。朱線を引いた漢字はどう読めばよいのでしょう」と私の前に置かれた。「先生に読めぬ漢字が私に分るはずがありませんよ」と言って、紙面に目を落とすと、房総半島(ぼうそうはんとう)に隠栖(いんせい)した歌人・水野葉舟の一連の歌が両面に載っている。
 朱線の引いてある漢字は私も初見である。「翁鳥」。百姓読みすれば、「オウ」だが、それでは鳥の名にならない。
 「佳い歌があるのだけれど、鳥の名がわからなければ、鑑賞(かんしょう)も十分にできず、どうして『ふりがな』を付けなかったのかと、惜しまれてならない」と花恵は言うのであった。
 私は「家へ帰ったら、字典を引いてみます」と言ってお暇(いとま)した。
 家に帰ると早速、字典を引いたがない。数日経って、私は日曜日を利用して隣(となり)区のT君を訪ね、「調べたい漢字があるので、大字典を見せてほしい」と頼むと、彼は奥の部屋から「芳賀(はが)漢和大字典」を持ってきてくれた。
 私は鳥部の頁を調べて字典をめくり、鳥の十画を見たが無い。「一体、何という字を調べているのだ」と聞くので、「鳥に、頭山満翁(おきな)の翁という字だ」と言うと、彼は机の上に指で書いて見て、「初めての字だ。隣のO君も大字典を持っているから行ってみるとよい。家にいるはずだ」と言うのでO君を訪ねた。
 訳を言って字典を見せてもらう。箱入りで重たそうである。明解(めいかい)漢和大字典土屋鳳州(ほうしゅう)著(ちょ)とある。引いてみたが載(の)っていない。字源(じげん)・字鑑(じかん)の所有者も訪ねて引いてみたが載っていない。万事休(ばんじきゅう)す。お手上げである。
 後日、以上のことを私は花恵に告げた。三十数年の年月が経ち、私はスザノ郡内に住むようになった。スザノには八巻耕土がいて、短歌会を主催しているので入会した。酒井繁一の指導を受けるようになって一段とはずみがついた。酒井家を訪ねた時、「藤田いい時に来てくれた。実は某(ぼう)短歌会から『読めない漢字があるので教えてほしい』との手紙が来たのだが、私にも読めずに、字典にも無い。この漢字は何と読むのだろう」と渡された紙片を見て、私はアッーと心に叫ぶと同時に二十歳の青年にかえった。
 先生、この「  」は今から三十年前、短歌研究の水野葉舟の歌の中にあり、志津野花恵も読めなくて、それで私が大字典の所有者を訪ねて引いてみたが載っていない字です。しかし、私は今では何となく「たたき」と読むような気がするのです。「いや、儂(わし)もそう思って、新村出の字苑(えん)を見たのだが、「たたき」は載っていない。藤田が調べつくしても「無い」というのであれば、某歌会へ儂にも「分からぬ」と返信するほか無い、と言われるのであった。
 私は先生の家を出て、街で用事を済ませ耕土の店へ行った。耕土は相変わらず新聞を見ていたが、よき話し相手が来たと言わんばかりに得意の文芸談を聞かされた。
 話が終わったところで、私は「教えてほしい漢字があるのです」と言って、紙に大きく書いて見せた。「歌人の水野葉舟が房総半島に住んでいるときに作った歌で、年に一度渡ってくる鳥で嘴(くちばし)をせわしく叩き、主に東北地方に多い鳥のようです」と付け加えた。
 耕土はしばらく漢字を見ていたが、引き出しの中から福島県県庁(けんちょう)発行の色彩(しきさい)刷(ずり)の月刊誌(げっかんし)を見ていて、机上(きじょう)の岩波(いわなみ)国語辞典(じてん)をめくりメガネを近づけて、「朝日子、あったよ。『ひたき』と読むのだ。漢字も出ている。この鳥は福島県の県鳥になっている」と言って、渡された辞典を、見ると「ひたき」「  」と出ている。私は喜ぶより先に唖然(あぜん)とした。何ということだ。その昔、有名な大漢和辞典を数冊調べても載っていない漢字が今は携帯用といってもよい辞典に載っているのだ。三十数年読むことの出来なかった漢字が耕土のお陰で今、分かったのである。人には聞いてみるべきだ、と痛感した。
 私は耕土に礼を言って、再度、酒井家を訪ね、あの字は「ひたき」と読み、福島県の県鳥「キビタキ」もその仲間であること、耕土から教わった事を先生に告げた。
 先生はたいそう喜ばれ、「これで某歌会に知らせてやる事ができる。藤田、ありがとう」と頭を下げられた。
 故人となった先師花恵には知らす事はできないが、私の心は晴ればれとした思いで帰途(きと)につく事ができた。


気楽なひとり暮らし

サンパウロ中央老壮会 安本丹
 今年で75歳になり、日本で言ういわゆる後期高齢者となる。これで本当に老人クラブに仲間入りした気がする。
 この年になるまで、一人暮らしを続けてきた。「ひとりで淋しくはないか?|とよく聞かれるが、確かに大家族の団欒(だんらん)やグループで愉快(ゆかい)に騒(さわ)いでいるのを見ると、うらやましく感じることはある。
 また、プロパンガスや水の大瓶(びん)を買ったり、家の修繕(しゅうぜん)を頼(たの)むときなどは、必ず家にいなければならず、病気や事故などについて、一抹(いちまつ)の不安はあるものの、これまで通り、気楽(きらく)で誰にも煩(わずら)わされない一人暮らしを続けるつもりである。
 小学生の頃は皆とよく遊び、学校の成績(せいせき)もかなり良かった。しかし中学生の頃から何となく人付き合いが面倒(めんどう)になり、部屋に閉じこもりがちになったので、成績も落ち始めた。
 二人の兄弟はすんなりと結婚したが、私は家族のごたごたを見てきたり、人から指図(さしず)を受けるのが嫌いだったので、一人住まいを続けた。それでも両親は誰かを押し付けようとしたので、我慢(がまん)できなくなって、ブラジルに逃げ出した。
 ブラジルでも友人はわずかであり、最小限(さいしょうげん)の付き合いに留(とど)めている。
 誰かに「いつも黙々(もくもく)としているので、話しかけるのが怖い」と言われたが、性格(せいかく)だから仕方がない。
 英国(えいこく)で一人住まいの老婦人が亡くなり、日記には「今日も誰も来なかった」とか「誰も電話してこなかった」と書いてあったので、社会問題(しゃかいもんだい)になった事がある。
 しかし、淋しければクラブやサークルに入るなり、奉仕(ほうし)活動をするなり、自分から積極(せっきょく)的に行動する必要があると思う。私は物売りや乞食(こじき)の訪問、あるいは間違い電話や宣伝(せんでん)とか寄付金の誘いを受けるのが嫌なので、干渉(かんしょう)されずに静かに暮らすのが好きなのである。
 先日、やはり一人暮らしの友人が亡くなった時、書置きがなかったため、後始末をした親戚が苦労をしたという話を聞いた。そこで、一枚の紙に色々と箇条(かじょう)書きにして、知り合いの日系三世の女性に何かが起きたら面倒(めんどう)を見てくれるように頼(たの)んだ。
 ところが、彼女から「用意周到(よういしゅうとう)な人ほど長生きするので、心配無用(しんぱいむよう)」と言われたのには参った。
 後は適度(てきど)な運動や健康な食事に配慮(はいりょ)し、病気や認知症(にんちしょう)にならないように細心(さいしん)の注意を払いながら、天命(てんめい)を待つだけである。それまでは読みたい本、勉強すべき材料、聞きたいCD、旅行の案内書などを大量に買い集めた。


シネマ放談(14)

サンパウロ名画クラブ 津山恭助
◇文太、ふんばる「トラック野郎」
 菅原文太扮する星桃次郎、その相棒が愛川欣也扮するやもめのジョナサンこと松下金造。この二人の長距離トラック運転手のコンビが展開する笑いとペーソスを織りまぜた渡り鳥生活。独身の桃次郎は喧嘩と酒には強いが、情にもろく女に惚れっぽい。
 ジョナサンは年上の女房(春川ますみ)との間に七人の子持ちという設定。「男はつらいよ」の影響からか、各作ごとにマドンナを登場させるほか、ドラマの舞台も全国各地に及んでいる。監督は鈴木則文が全八巻を担当。
 「トラック野郎・御意見無用」(昭和五〇年)。桃次郎は家は持たず収入の大半をトラックにつぎ込んでいる。何かと世話をやいているのは同業の未亡人運転手のモナリザのお京(夏純子)だが、桃次郎は東北のドライブ・インで出会ったウエイトレスの洋子(中島ゆたか)に一目惚れ。捨子を拾って青森まで足を伸ばす。関門のドラゴン竜
崎(佐藤允)とのトラック競争。「爆走一番星」(五〇年)は文学少女・瑛子(あべ静江)に惚れた桃次郎が読書に打ち込む。長崎で母を亡くし出稼ぎに出かけた父の帰りを待つ姉弟、その父親が当たり屋となって桃次郎のトラックに飛び込む。ボルサリーノ(夏木勲)とのカーレースがサービス。
 「望郷一番星」(五一年)、北海道の牧場の娘。亜希子(島田陽子)は両親を亡くし女の身一つで頑張っている。彼女の可愛がっていた仔馬の看病をかってでた桃次郎は奇跡的に回復させる。「天下御免」(五一年)は四国が舞台。二人は巡礼姿の清楚な女性・和歌子(由美かおる)と知り合う。桃次郎は例によって彼女に夢中。桃次郎が臨月近い妊婦・千津(松原智恵子)を救い、和歌子の働くドライブイン〝風車〟に斡旋。和歌子の母親が倒れ、三〇〇万円の借金を返済するため桃次郎が宇和島名物の闘牛の賭けに勝ち賞金を得たが、千津の夫の交通事故による怪我の治療費として手渡す。
 第五作「度胸一番星」(五二年)。新潟の峠で二人は佐渡へ向かう水名子(片平なぎさ)に出会う。その幻の美女は佐渡の分教場の先生だった。譲治との死闘を制する桃次郎だったが、水名子は台風のため水死。金造が積んだ三千万円の鮮魚が重量オーバーのため彼は逮捕され、代りに桃次郎は仲間の協力を得て五時間以内に新潟まで運ぶことになる。「男一匹桃次郎」(五二年)。熊本でふぐ中毒となり解毒法で土中へ埋められた桃次郎の前に女子大生の雅子(夏目雅子)が。彼女は剣道の九州大会へ出場する。友人の保証人となって借金を負った袴田(若山富三郎)と別れた妻(浜木綿子)を見出して二人を結びつけようとする桃次郎、また彼は雅子と恋人・村松(清水健太郎)の仲まで取り持つのだった。
 「突撃一番星」(五三年)。桃次郎が夜の国道で鳥羽のイルカ島の美人イルカ調教師えり子(原田三枝子)に遭遇。彼女は同郷の玉三郎を桃次郎が助手に雇う。えり子には駿介(川谷拓三)という恋人あり。第八作は「一番星北へ帰る」(五三年)桃次郎が見合い。そして相手と付添いの未亡人・静代(大谷直子)と勘違いして一目惚れし、みちのく通いが始まる。ジョナサンがサラ金の保証人となってノイローゼとなり、仲間がカンパするもとても追いつかない。作太郎の案でバンバ・レースに出て、介添え役の桃次郎でみごと賞金を得、返済にあてる。
 「熱風五〇〇〇キロ」(五四年)は長野が舞台。桃次郎が当て逃げの犯人と間違われる。被害者の娘は夏(小野みゆき)。桃次郎は木曽運送の仕事を引き受けたが、そこの娘が夏。桃次郎とノサッブ(地井武男)とのなぐり合いは引き分けに終わる。最終作は「故郷特急便」(五四年)。高知へのフェリー船上で桃次郎は海へ落ちた地方廻りの歌手・結花(石川さゆり)の楽譜を拾ってやる。医者に脳血栓と診断され、自殺を企てたジョナサンは風美子(森下愛子)に救われる。闘犬大会の見せ場あり。アメリカのレコード会社のディレクターが大阪梅田コマ劇場に出演させるというのを振り切って、結花は桃次郎のトラックに便乗する。


追想の一齣から(3)

スザノ福栄会 杉本正
 始めて監事職に就いたのは、一九六八年で、全伯の農業組合が政府からの組合改正法令によって、改正を余儀なくされ、コチア組合も内部制度を十二単協組合に分割して、単協組合ごとに活動する事になった時でした。共に監事になったのはジュンジャイ部落の小林次男氏(故人)で、学識豊かにして奇才に富んだ方でした。小林氏に「今後理事会に出席する立場として、何が大切か、一つだけお聞きしたい」と尋ねますと、小林さんはいとも簡単に「なぁに、出席して煙草でも吸って黙って聞いていればいい」と申されたが小林さんらしいと思ったものです。
 協議内容は多種多様でしたので、記憶力に自信のない私は組合員から内容についての質問を受けた場合の事を考えて、自治団体の役員時代からの癖もあって、筆記できる範囲で備忘録に書き留めたものでした。定期総会で理事会が提出する事業報告書など、承認する監査意見書の内容文はさほど難しいものではありませんが、必ず一年間の業務監査を纏めた監事所管を述べなければなりません。四十年前に述べた所感文を見て、備忘録がどれ程役立ったのか、決して無駄ではなかったと思いますが、別に人様に進めは致しません。
 老ク連の理事会の構成につきましても以前は総会において、会長、副会長のみを選出し、業務担当理事は三役にて任命され、以って常任理事会となし、別に非常勤理事の十四名が各老人クラブにはかり理事会の構成員とし、理事会を開催していました。
 協議事項の内容については各クラブから選ばれて理事者であっても、別に報告する義務はありませんでした。従って、会員は「老壮の友」を読んでいる方のみ、理事会での協議内容を知る事でした。
 会員と理事会との会合は定期総会で、理事会からの年中業務報告および協議の審議、会員からの提案事項などは総会以外になく、時には行事を行うにあたって、特別に会員を招集して会議を行っていました。理事会で審議される内容について、当時は別に会員から不服などの意見はなかったものです。このような老ク連運営の時代に偶然にも副会長の職に押され、常任理事の一員となって、会議のあり方について考えらせられました。
 かつて組合に在職中、部落の運営に当たって評議員とせる代表責任者をおき、毎月、評議員会を開催し、理事会から組合運営についての内容の発表からこれについての忌憚ない審議を行うなど評議員は有する権限を持って会議に出席されたものでした。而して戻ってからは部落会を開催し、評議員会での内容を組合員に発表する。従って組合の運営については充分知る事ができます。このような方式の適用を考えてみてはどうか、との下に老ク連も各老人クラブから代表者を選出させ、毎月代表者会議を開催し、理事会と運営内容について協議することを各老人クラブに発表します。
 会員も当日の協議内容を良く知る事ができ、理事会も各老人クラブの実情も知る事ができます。このことを審議してもらうよう理事会に提案し、承認され実施に入ったものです。
 歳月の流れは早く、これが実施されてからすでに十年近くも経ったのですが、今日に至っても代表者会議制度について苦情の意見もありません。ですが、時代の流れの移り変わりに従って会議のあり方も変ってくる会もあると聞いており、老ク連においてもご意見のある方は遠慮なくご提案下さっても、何等やぶさかな思いはありません。


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