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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2013年3月号

2013年3月号 (2013/03/15) 可哀そうな姉の最後

サンパウロ中央老壮会 上原玲子
 先日のカルナバル休日の最後である十二日、日本の甥から電話があり姉の死を知らされた。昨年の訪日の目的の一つだったこの姉の八十八歳のお祝いは、転んで大腿骨骨折と、転倒の原因であった腸検査の結果がガンで、その手術とで入院中の為実現できなかった。その後転移もなく無事退院したとの報に喜んでいたのだが、二週間前に飼い犬に転ばされ胸を打ち、痛み止めを処方されて養生していたとの事。実は出血していたのが解らず、肺に徐々に血が溜まっていったのだとか。周りの人は日薬で治るだろうと思っていたようだが、本人は苦しさが増すのを感じていたのかもしれない。甥は単身赴任で留守、主婦である甥の嫁も勤めで昼間は一人の暮らし。その日は隣家の友達が様子を見に来たのに、苦しいと言いながら話しただけで、夕方になって嫁が帰ってきてからも病院にも行こうともせず我慢していたらしい。これが実の娘だったら、無理にも病院へ引っ張って行ったかもしれないが、いかんせん昔の女なので自分からは決して言わなかったのだろう。夜十二時に家族が見た時には既に床の中で冷たくなっていたとの事だった。枕元には「もう駄目のようです。皆さんありがとう。さようなら」と書いてあったそうで、誰にも看取られずに死出の旅に発って行ったのである。
 私はこの年になって思いもかけず初孫に恵まれ、前日母子が嫁の実家から一月半ぶりに帰って来たので、お祝いに“栗おこわ”でも作ろうかと用意していて、涙にくれながら蒸し始めた。しかし、最後まで不幸だった姉の生涯を思いながら上の空でやっていたので、布巾を濡らすことも打ち水をすることもすっかり忘れていた。何か焦げ臭いにおいに気がついて慌てて水を打ったが、お陰で中は栗おこわになったが、底は全部布巾にこびりついてバリバリのおせんべいになってしまい、折角日本から買ってきた蒸し器専用の布巾は、ボロボロでの繊維になってしまった。
 この姉は大正の最後に大家族の長女として生まれ、戦中戦後は男手を失った家族の為に父と二人で下肥を担ぎ、その後南洋で漂流して帰還した親戚筋に当たる旧家の長男に嫁ぎ、大家族の中でさんざん苦労し、夫にも早く先立たれ、昨年まで一〇三歳の姑を看ていた。看護の苦労から解放されて、たったの八カ月で自身の怪我と病気に悩まされた末の死である。おまけに息子のいない家では近所でも鬼嫁と名高い嫁さんにいじられ、独り暮らしの私はどんなにブラジルに連れて来たかった事か。
 私が小学校の頃は、お祭りの時など、大火事で焼失してしまった母の実家の代わりに、この姉の婚家に招待されて妹とよく遊びに行ったものである。沢山のお客様の接待に追われる姉を見ながら、庭先で踊って見せる獅子舞に夢中になったりしてご厄介になった。一体いつ寝たんだろうと思うほど姉は夜も朝もいつも働いていて私達と話す暇もない位だったが、よく来たねーととても喜んでくれた。
 義兄が町会の役などしていたので、姉は他の人を頼んでほとんど一人で本業のリンゴ園も切り盛りしていた。普段どの姉も婚家では忙しいので、実家でやる冠婚葬祭の際など式服を持ってきて、そこで夜遅くまでアイロンをかけたり、愚痴を言い合ったり、どれを着たら良いか等姉妹皆でワイワイやっていて、私は当日よりも嬉しかったものである。
 姉は愛子と言う名なので、皇太子様の愛子様が生まれた時は、「いつも遠慮しているが今年は大いばりで過ごせるね」と笑っていた。私と違いすらーとしてきれいな姉であった。
 昨年病院に他の姉と三人で見舞った時、「長居は出来ないからもう帰るね」と言ったら、「玲子もう帰っちゃうの…」と泣き始めたので、私も涙声になって言い訳していたら、他の姉が「玲子の事だからまた来年も来るよ」と心にもない事を言ってくれたので、笑って別れることが出来た。本当に未だ会えるものと思っていたので、残念で無念で仕方がない。
 果たして本人の一生は幸せだったんだろうか。県内には二人の娘も嫁いでいるから、私が案じる程ではなかったのかもしれない、などと思いながら涙にくれている。私も高齢になって近頃は親しい人が次々に逝き本当につらいが、自分の最後はどんな場面になるのだろうか。母も姉も八十八歳だったから、私も日本人の平均年齢位で逝くことが出来るかもしれない、一人取り残されることだけはごめんだ等と考えている。


春を告げる鳥、サビア

サンパウロ中央老壮会 栗原章子
 春も過ぎ、夏時間も終わり、これから寒い季節に向かっていくのだと思うと、憂鬱な気分になる。それと同時に温暖な春や海辺で過ごした夏の日々が既に思い出の中にうずまっていくのもさびしい。そこで、過ぎてしまった春の思い出、サビアについて書いてみようと思う。
 ブラジルを代表する鳥として知られているサビア。その姿、格好はさして美しいものではないが、澄み切った美しい鳴き声で知られ、ブラジルを代表する多くの詩人、作家、作曲家によって賞賛されている。春先の八月末から夏時間が終わる十月中旬の早朝に美しい鳴き声が聴かれるサビア。
 サンパウロのような喧騒と公害の町でもそのさえずりで目が覚めると何だかさわやかな気分になり、「ああ、春なんだなあ」という実感がわいてくる。
 田舎に住んでいた頃は、ロリニャ(小さめのはとのような茶色の小鳥)よりやや大きめのサビアをよく見かけたが、町の中ではさえずりは聞いてもその姿は見かけない。つまり、都会では、「声はすれども、姿は見えず」といったところか。
 昨年の十月頃、サビアのさえずりで目覚め、小さなアパートに所狭しと置いてある鉢植えの花が咲いているのを見て、ふと、亡き両親がよく作っていた俳句のことを思い出して、「サビア鳴き花咲きほこる春の朝」という稚拙な句をひねり出し、NHKの全国俳句大会に応募した。その後、応募を勧めてくれた知人から「入選していましたよ」知らされ、びっくり。たぶん、ブラジルからの応募ということで「その他大勢の句」として取り上げてもらえたのだと思うが、ちょっぴりルンルン気分にさせられた。「ルンルン気分」ついでにふと、父や母が愛した俳句に関して、移住者の方々がブラジルにどのように普及し、日本を懐かしんで俳句を詠み続けたかを書こうと思っている。いつの日になるかわからないが…
 そう思い立ったのは、父の俳句仲間であり、私が通っている(といっても休むことのほうが多くて、迷惑をかけ続けている)老人会のコーラス仲間の香山和栄様から俳句に関する資料をいただいたのも一つのきっかけといえる。
 ブラジルの風物詩の一つといえるサビアはブラジルの俳句では春の季語となっている。そのサビアの取り持つ縁でいつの日が何か書けたらと思う年輪に私も到達してしまったのかと思うと感慨深い。


流し雛「ながしびな」

サンパウロ中央老壮会 香山和栄
 「三天人」(さんてんにん)と箱書(はこがき)きされた中のお雛さまは、昭和六年、私の誕生日祝いに贈られたものである。
 まん中にに冠を(かんむり)つけ扇をかざして舞う女雛(めびな)は、小野(おの)の小町(こまち)か、坐って歌を吟じている男雛(おびな)は在原(ありはら)の業平(なりひら)ではないか、そして筆を持って何やら短冊に書いている白髭(しらひげ)の翁(おきな)は藤原の行成(ゆきなり)と勝手に決めて、毎年雛まつりには蔵(くら)から出して雛壇(ひなだん)に飾ったものである。
 しかし、四十八年前、ブラジルへ移住する時、木箱に詰(つ)めて船で運ばれ、そのままガラスのケースに入れて飾っているうち、気が付いてみるといつか衣(ころも)は色褪せ(いろあせ)、も裾(すそ)の廻りに薄く粉が散っていた。サンパウロに移り住んで二十八年経(た)っていた。雨季と乾季のはっきりした大陸の気候と四季のはっきりした島国の日本と、そして雛まつりの時だけ年に一回飾られるのと年中飾られているのとでは、雛にとっては大変な差異である。やむなく二十年前の雛まつりのあと、移民街道に面した小さな川にお雛さまのうたを歌いながら流したことである。
 「流し雛大西洋に続く川」その時詠んだホ句である。チエテ河の先には七つの海が待っているし、太平洋があり、日本がある。
 今、雛まつりには、お内裏(だいり)さまの掛軸(かけじく)を掛け可愛いい内裏雛によもぎ餅とあられ菓子を供えて老婆の気持ちだけの雛まつりである。


一期一会「お世話になっています」

カポエイラ ヴァジアソン 本岡真由子
 こんにちわ。私の名前は本岡です。愛媛県出身でみかんが大好きなので、ポルトガル語のあだ名はミシリカです。ただ今老ク連に宿泊中です。
 今回、私は始めてブラジルにやって来ました。旅の目的はカポエイラを学ぶこと。先生である久保原さんと一緒に四月二日まで、サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロ、サルバドールのカポエイラのイベントを巡ります。
 二月十九日に到着して今日まで、一度も日本に帰りたいとか、日本食が食べたいとか全く思わないくらいに毎日が新鮮で充実しています。主に久保原さんと行動していますが、一人でカポエイラや楽器のレッスンに行くこともあり、ポルトガル語のあまり話せない私は、出会う人皆に助けられています。皆様の長い人生に比べれば、まだ僅かな私の人生ですけれど、その人生の中でこんなにも沢山「有難う」「obrigada」と言った事は有りません。本当に人の優しさを心から感じている毎日です。いつの日かこの感謝の気持ちをお世話になった沢山の人達にお返ししたいと思っています。
 実はブラジルへ出発する前にも、沢山の仲間たちに助けられているんです。日本にいるカポエイラの仲間、友達、職場の人、色々な人が旅行に必要な物をプレセントしてくれたり、バスの乗り方やおいしい食べ物、観光地の紹介をしてくれたり「ブラジルに行ってらっしゃい会」をしてくれたり。感謝しきれないほどです。
 私は皆のために何が出来るのでしょうか?「ここに来て良かった!」と思うたびに、ふと考えます。ブラジルで本場のカポエイラを学べない人もいる中で、私がこうして学び体験できるからには此処での経験を伝えられるようにしておく事も大切です。
 まだ、旅の三分の一も終わっていないのに、書きたいことが有り過ぎて困ります。これだけは確かと言えるのは「今が人生で一番楽しい!」という事。これ、毎年言っている気がするんですけど・・・。旅は始まったばかり、最後まで気を抜かずがんばります。まだしばらく滞在しております、老クの皆さんともお話しする機会があればと思います。よろしくお願いします。


シネマ放談(15)

サンパウロ名画クラブ 津山恭助
◇喜劇の長寿シリーズ・駅前もの
 「駅前シリーズ」は昭和三三年から約一〇年間続いた長寿企画で、合計二四本が製作された。第一作「駅前旅館」(三三年、豊田四郎)は井伏鱒二の原作だが、その後はほとんどがオリジナル脚本。駅前という」いかにも日本的な場所が設定されたところがミソ。高度成長時代を背景に、恐妻家のくせに遊び好きな男達が登場して地域社会で騒動を起こす。俳優では森繁、淡島、伴、フランキー、池内の組み合わせが最も多い。
 「駅前旅館」の舞台は上野駅前。生野(森繁)は旅館の番頭を三〇年つとめるベテラン。ライバルの高沢(伴)とは客引きでは張り合うが、仲のいい飲み友達でもある。
 馴染みの小料理店の店主はお辰(淡島)。本シリーズは粗製濫造なのでひどい作品も見られるが、その中からまあまあのものを選ぶとまずは初作。そして初期のものに面白いのが多いようだ。
 「駅前団地」(三六年)は東京郊外のマンモス団地。開業外科医の戸倉(森繁)と女医・小松原(淡島)との結婚、地主の成金農家・権田(伴)をはじめ駅前の小料理屋高砂亭の常連はマダムの君江(淡路)がお目当て。「駅前弁当」(三六年)は浜松市が舞台。駅前の老舗駅弁屋「互笑亭」は未亡人の景子(淡島)が弟の次郎(フランキー)と経営している。大阪の資本家・倉持(アチャコ)が店に出資しても」いいと云う。
 柳田(森繁)と堀本(伴)は景子の亡夫とは幼な友達で相談役的な存在。あわやという時、景子は昔の恋人の銀行員・村井(加東)とばったり、倉持が実は詐欺師であることを知らされる。二人の仲が戻り店は次郎が継いでいくことになる。
 「駅前温泉」(三七年)は福島県のある町の駅前温泉は奥の温泉場にデラックス・ホテルが建って以来さびれる一方。福屋の徳之助(森繁)と極楽荘の孫作(伴)は商売敵。幸太郎(夏木陽介)は極楽荘の番頭だが、実は孫作と愛人との間の息子で、徳之助の娘・夏子(司葉子)と愛し合っている。
 「駅前飯店」(三七年)。新橋の雷燕飯店主徳(森繁)と横浜のラーメン店主孫(伴)は大の仲好し。貿易商の周(フランキー)は孫の紹介で紅(森光子)の易占いで見てもらう。紅の夫・林(山茶花究)の悪企みのせいで周と徳は仲たがい。周の父親が不老長寿の聖梅酒を残しているとのニュースで大騒動。王貞治が特別出演。
 「駅前女将」(三九年)。両国の駅前酒屋「吉良屋」の徳之助(森繁)と柳橋の寿司店「孫寿司」の主人孫作(伴)は兄弟で女房同志(森光子、京塚昌子)も姉妹。徳之助のごひいき、錦糸町でバーを営む藤子(淡路恵子)の存在で両家とも家庭争議が起きた。おまけにかつての恋人・景子(淡島)が夫に死別して両国に帰って来ていると聞いて、徳之助は彼女に店を持たせようと奔走する始末。
 「駅前音頭」(三九年)。小田急線沿線のある駅の商店街。森田家呉服店(森繁)とB0N洋装店(伴)。PR広告社の次郎(フランキー)は二人の対抗意識を利用して稼いでいる。盆おどりを浴衣でやるかアロにするかでもめ、アロハとなり両店主の仲も悪くなる。民間文化使節として歌手を送り、ハワイからフラダンスのチームを招くことになった。ハワイに持って行った浴衣が好評で大量注文が押し寄せ森田も満足、皆でハワイへと出かける。「駅前満貫」(四二年)。駅前の麻雀屋・満貫荘(徳之助(森繁)は繁盛はしているものの、主人は妻の景子(淡島)に頭が上らない。発明狂の次郎(フランキー)はいつも失敗作ばかりでスポンサーの孫作(伴)の気をもませている。女癖の悪い亭主・三平(三木のり平)に愛想をつかした染子(池内淳子)が旧友の景子のところに転がり込んできて満貫荘は大騒動。やがて次郎の発明した携帯麻雀器が完成し香港に売り込んで大儲け、三平と染子も元のサヤに収まる。
 なお、他の十六作の題名は次の通りである。「駅前茶釜」「―怪談」「―天神」「―医院」「― 金融」」「―大学」「―弁天」「―漫画」「―番頭」「―競馬」「―学園」「― 探検」「―百年」「―開運」「―火山」「―桟橋」。


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