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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2013年4月号

2013年4月号 (2013/04/11) ご先祖さま

アルジャー親和会 佐藤ユキエ(85歳)
 一九四五年、終戦間近の五月、当時、大阪市の近く布施(ふせ)市に住んでいた私はその日、近鉄電車で大阪梅田駅に向かっていました。
 東京から空襲(くうしゅう)を避けて、岡山の田舎の親戚に疎開して来た弟妹に会うため、十七歳の女学生の一人旅でした。
 黒いモンペに防空頭巾(ぼうくうずきん)を肩にかけ、左胸には住所、氏名、年齢そして血液型を記した白布を縫い付けていました。これは戦時中、どこへ行くのにも、絶対に付けてなければならないのでした。
 「爆撃を受けて死んでしまったら、こんな物、何の役にも立たないのに…」と思うほど、死といつも隣り合わせの日々でした。
 やっと着いた梅田駅は高台にあり、長い階段を上がって駅のホームに出て、右手を見てびっくり。生まれて初めて見た大都会。ぎっしり詰まった家々。遠く地平の果てまでも続く家並みに驚嘆してひたすら右手に見える大都会を眺め見下ろしながら長いホームを歩き、いつの間にかホームの最後のあたりまで行っていたのでした。
 その時、突然(とつぜん)警戒警報(けいかいけいほう)のサイレンが鳴り響き、人々は我先にと階段に向かって走りながら「こんな大きな駅はB29の標的(ひょうてき)にされる! 危ない! 街の反対側の防空壕(ぼうくうごう)に逃げろ!」と、どなり声や悲鳴(ひめい)でごった返しているのにホームの一番奥まで行ってしまった私は、もう周りにほとんど人影はなくなっていました。元の階段までの何と遠かったことか。はや空襲警報(くうしゅうけいほう)のサイレンに変わり、ゴーゴーとB29の編隊(へんたい)が近づく音がはるかに聞こえてくるのでした。
 やっと駅から一番近い防空壕にたどり着いたのに中はいっぱいの人で「これ以上つめられるか!」「いや、もう少しつめろ」などと怒鳴り声はしているが、私が入る余地もなく、体は半分以上、壕の入り口からはみ出たままでした。
 やがて頭上から焼夷弾(燃焼材を浸み込ませた小型爆弾)が落ちてきました。日本の木造家屋をこれで焼き払うのでした。まだ、明るい昼間の空から炎をあげて雨あられと落ちてきて、あたりは煙ですっかり夜のようになり、ザアザアと大雨のように落ちてくるのでした。私はあの日の大雨のような音が今でも耳に残っています。
 その時、「あっ、駅に戻ろう」と、とっさに思って走り出したのは覚えているのですが、その後の事は何もわからないのです。若い娘が気でも狂ったと思われたことでしょう。
 どれ位の時間が過ぎたのか、気がついた時はすっかりもとのように昼の明るさを取り戻し、ぞっとするような静けさでした。
 私は梅田駅の階段を上ったばかりのホームに投げ出されたようになっていました。そしてただ茫然(ぼうぜん)として、何があったのか、何を見たのかまったく分らないままボッーと座り込んでいたのだと思います。
 やがて列車が入って来て、走って乗り込もうとする人や怒号は聞こえるのに、私は立ち上がる気にもならないままでした。と、突然、一人の兵隊さんがいきなり私を抱きかかえるようにして一番先の列車の中に入り、私を窓際の席に座らせて、そのままどこかへ行ってしまわれ、それきり姿が見えなくなりました。茫然としていた私でしたが、憲兵(けんぺい)の腕章(わんしょう)をしておられたのが、目に残りました。
 やがて夜になり、身動きもできないほどの人々を乗せて列車は動き始めました。車窓(しゃそう)の近く線路を囲う鉄線がくくられた太い杭(くい)が延々と炎をあげて燃えているのを窓近くに見ながら、列車は速度を上げて行きました。やっと人心地ついて、ああ、田舎の草生の家に向かっているんだと、意識が少しずつ戻って来たようでした。
 あの空襲の中、一番危ないと言われた駅に戻ろうと、突然思い、走り出したところで記憶はなくなり、何も分らなくなってしまったのでした。
 私は満四歳になる前に母が亡くなり、祖母に育てられましたが、常に「お前はお母さんが守ってくれている」と何度も聞かされていました。あの日、意識がはっきりしてきた時、母に助けられたんだと、心底思ったのでした。祖母や母、そしてご先祖さまが救って下さったと、誰が何と言おうともその信念と感謝の気持ちを持ち続けて、この齢まで命を頂いて参りました。
 ちなみにアメリカでは日本に上陸したら軍隊や物資などの輸送のため、幹線(かんせん)鉄道を京都や奈良のように残しておくと決めていたとの事を戦後耳にしました。そのため、大阪梅田駅などは一番、安全な場所だったわけです。そんな事とは誰も知らず、避難した防空壕に爆弾が落ちて、命を落とした方もたくさんありました。また、当時、色々な方が不思議な体験で助けられたと聞いております。


鳩(はと)

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 ときどき一週間か十日くらいプライア・グランデのアパートに一人で遊びに行く。朝と夕方、海岸へ歩きに行く。疲れるとベンチに座って鳩に南京豆をやる。
 はじめは二、三羽だが、連中にも情報網があるらしく、遠くの方からもバタバタとやって来る。自分が取ろうとして、他を突っつく。羽を広げて威嚇(いかく)する。他の鳩の背中を乗り越えて喧嘩(けんか)する。
 中でもボスみたいなのが居て、他を追い散らして、自分だけ食べる。少し遠くに投げても走って行って食べる。意地悪をして殻(から)ごと投げてもくわえて目を白黒させてのみ込む。あまりにも憎らしいので「お前にはやらないよ」と病気らしい鳩に投げてやる。この鳩はいつも仲間にやられているらしく、オドオドと逃げてばかりいる。「あんたにあげたのよ」と言っても、ビクビクしているうちに他の鳩に取られてしょんぼりしている。怒った私が他の鳩を追い散らし、病気の鳩にだけ豆をやって、見張りをすると、味方が出来たと思って心強くなったのか、他の鳩が寄ってくるとクークーと胸をふくらませて精一杯怒る。一袋くらいの豆は私の口に入らず、鳩の餌になる。三日くらいすると、私の姿を見ると、寄って来るようになった。「今日は何もないよ」と知らん顔をしていると、あきらめてどこかへ行ってしまう。
 私がサンドイッチを食べていると、図々しいのが隙(すき)を狙って横取りに来る。
 ある夏、娘と孫を連れて遊びに行ったら、「鳩は病気を持っているから、そんな事をしてはいけない」と二人にしかられた。そんな事、知っているけれども面白いんだもん、と口の中でブツブツ言いながら、鳩をからかうのはやめた。


春餅(チュンピン)そして満州

インダイアツーバ親和会 早川正満
 実は私は満州少年です。つまり少年時代を旧満州で過ごした引き上げ者で、成人した日本より、なぜか故郷として思い出されるのは、七十歳を過ぎた今となると満州なのです。
 ブラジルへの戦後移民には満州からの引き揚げ家族が多くいます。当時の子供引き揚げ者が今は七十、八十歳代になり、当地方にもかなりおられます。話を聞いてみると、多くは記憶があいまいな所があります。中には満州と言うと、悪い印象しか話さない人もいます。私も文章として残すのは出来るだけ避けていたのですが…。
 古い文藝春秋を読んでいると、森繁久弥氏の長女の和久昭子さんの『パパ森繁の満州家族記』という証言記に出合いました。
 それを見てから私の体に潜(ひそ)んでいた満州少年が「忘れぬうちに何でも良いから一つでも書き残しておけ」と騒ぎ出したのです。中でも和久さんの文中の春餅の話を目にした時、一挙(いっきょ)に七十年をさかのぼり、満州少年だった私が、丸く厚い鉄板に満人が練り粉を薄く広げているのを見ている風景が浮かんできたのです。
 「少子、今日は豚の炒め煮を巻くかい?」 「うん、そうしてよ。本当に春餅はおいしいね」 「そうか、そうか」。そんな会話さえも聞こえてきたのです。
 ブラジルには餃子、中華饅頭、ビーフンなど中国料理が数多く定着していますが、春餅だけはまだ見たことがありません。でも、私の体は春餅の名前だけでなく、その香ばしい香りとそれがある風景を忘れてはいなかったのです。これはあるいは中国の東北、旧満州の風景なのではないかと今となっては思うのですが…。
 終戦日を境に満州の日系人は、悲惨な状態となりました。終戦までの満州は実にうまくいっていたと思われるのですが…。
 一例として、満州建国当時の国家に「人民三千万」と歌われていた人口が数年にして四千万にも増大。これは主として中国本土より出稼ぎに来た人たちが民族協和と王道楽土の土地に永遠の安住を求めた結果のあらわれではないかと思います。日本人があの悲惨な状態から脱出できたのも、同胞の力だけではなく、かの満人たちの力も大でした。中国の人々の温情に感激して、無事、日本へ戻れた人が多くいたのも事実です。何でも日本が悪かったと、日系子弟の頭の歴史に刻む前に二人の有名な中国人の逸話(いつわ)をここに記しておきます。
 かつて、毛沢東は「日本軍と南京政府が戦って、共倒れした、。その間に中国共産党が実力を得て、新国家を創り得ました」と言って、訪中した日本社会党の佐々木更三氏にお礼を述べたそうです。
 また、終戦時、蒋介石は「もし日本がなかったら、満州はソ連の領土となり、中国には還って来なかったろう」と感謝し、ポツダム宣言やカイロ宣言での日本国土の分割案に、一人反対を貫き、現在の日本の原形を守ってくれたのです。
 ブラジルでも日系以外の人々に助けられる事が多いのは皆さんも実感しているかと思います。これは私が言うまでもないことですが…。
 そういえば、満州のきゅうりは長く、五十センチはあった覚えがあります。それを束ねて荷車に直に積んで輸送していましたっけ。


シネマ放談(16)

サンパウロ名画クラブ 津山恭助
◇背中の唐獅子
 一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけて東映の任侠路線は始まり、高倉健、鶴田浩二の両人が大車輪の活躍を続ける素地が出来上がった。〝義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界…〟の主題歌にのって登場したのが「昭和残侠伝」シリーズ(全九作)だった。
 第一作(昭和四〇年)は終戦直後の浅草。新興やくざ岩佐(水島道太郎)の牛耳る新誠会が我がもの顔に振舞い、一般の露天商人をいじめていた。復員してきた清次(高倉健)は組の兄貴分江藤(菅原謙次)に勧められて神津組の三代目を継ぐ。新誠会の執拗な妨害が続く。完成したマーケットは不審火に包まれ清次は風間(池部良)とともに敵と対決する。
 「唐獅子牡丹」(四〇年)はシリーズでは出来のいい方。宇都宮石切場の権利をめぐる勢力争い。花田(高倉健)は渡世の義理で秋山(菅原謙次)を斬る羽目になる。出所後未亡人・八重(三田佳子)の力になり、のちに秋山を斬ったことを告白し、満州帰りの秋山の友人・風間(池部良)とともに左右田組(水島道太郎)に斬り込む。
 第三作は「一匹狼」(四一年)昭和初期の銚子。マグロを独占しようと企む網元川銀一家の銀五郎(河津清三郎)の悪どさに貸元・秋津も手をやいていた。一方、彼のところに住みついた武井(高倉健)は昔の親分の敵・竜三(池部良)への復讐の機会を狙っていた。銀五郎は仲買人の買収を企み、邪魔になる秋津を手下に殺させる。武井が惚れた小料理屋の女将・美枝(藤純子)は竜三の妹だった。銀五郎は浜徳の漁船の焼打ちにかかる一方、竜三に武井を斬るよう命じる。心ならずも竜三を倒した武井はその足で川銀一家に乗り込み、銀五郎を一刀のもとに斬り捨てて警官に引かれていく。
 「血染めの唐獅子」(四二年)昭和初期の浅草が舞台。東京博覧会会場が上野に決まり、鳶政は喜ぶ。阿久根一家(河津清三郎)は建設の権利を譲ってくれと頼むが断られる。花田(高倉健)は鳶政の後継ぎとなるが、自分の女のために組の纏を質に入れた音吉(山城新伍)の軽はずみの行動から阿久根に付け入られる。花田の嫁になる筈の文代(藤純子)は阿久根一家にいる風間(池部良)の妹。建設工事への悪質な邪魔も続いて堪忍袋の緒を切った花田は風間とともに敵陣へ乗り込む。
 「唐獅子仁義」(四四年)。蔵前一家の代貸し花田(高倉健)は雷門一家の親分を斬り、惨殺された親分と仲間の仇を討つ。風間(池部良)は渡世の義理から花田と対決、左腕を落とす。五年の刑を終えた花田は名古屋へ向かう。途中、負傷しておるい(藤純子)の手厚い看護を受ける。雷門の同族椛島一家の親分・岩蔵(河津清三郎)は国有林の入札をめぐって汚い手を使っている。
 「人斬り唐獅子」(四四年)は六作目。七年ぶりに出所した花田(高倉健)は浅草に帰って来た。皆川一家(大木実)と東雲一家が争っていた。大陸浪人の山村に唆かされて東雲の大河内(須賀不二男)は皆川の縄張りに手を伸ばす。雅代(小山明子)が共演。
 「死んで貰います」(四五年)の背景は関東大震災をはさんだ東京の下町の料亭。花田(高倉健)はその跡とりだが、父の後妻に妹が生まれると家を出てやくざ渡世に身を沈め、誤ってイカサマ師を殺して服役、震災後に出所してくる。実家は板前の風間(池部良)と叔父が支えており、花田も板前となって働くことになる。新興やくざ駒井(諸角啓二郎)の妨害で料亭の権利書が奪われ、風間と叔父が殺され花田の勘忍袋も切れる。
 「吼えろ唐獅子」(四六年)。金沢の町は三州一家(鶴田浩二)と稲葉一家(諸角啓二郎)が工事の入札をめぐって不穏な空気に包まれていた。花田(高倉健)は稲葉にワラジを脱ぐ。彼の昔の恋人・加代(松原智恵子)は三州の妻になっていた。文三(松方弘樹)とおみの(光川環世)を一緒にする条件で黒田(葉山良二)の罠とも知らず三州を斬った花田だったが…。
 最終作は「破れ傘」(四七年)。三年ぶりに出所した花田(高倉健)は郡山に一家を張る兄弟分の寺津を訪ねる。東北全体の制圧を図る会津若松の鬼首(山本麟一)。花田の初恋の女・お栄(星由里子)は今ではかたぎの代貸し風間(池部良)の妻となっていた。元天神法一家の渡世の掟で花田と風間は対決、止めようとしたお栄は斬られる。雪が舞う中、花田と風間は鬼首たちのこもる寺へ斬り込む。


ひねりの利いた句

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山(95歳)
 或る句会で席題に「鹿―」という季題が出た。一俳人が「倒木を飛ぶとき鹿の胴長し」という句が高点句となったが、念腹先生の選には入らなかった。
 その一俳人が句会の後「『高点句』となった私の句のどこが悪くて先生の選に入らなかったのですか?」とねじ込んだ。
 先生は「ひねりが足りない」 と一語。今はあまり「ひねり―」という語を先生をはじめ皆も使わないようだが、それを念腹先生に昔の句から尋ねてみよう。
 腰帯に溜れる汗を落としけり
 噛みついて篭に草履に露の蟻
 藤の雨寒しと汚れシャツ重ね
 切株の焼えて地くぐる焚火かな
 仲悪しく旱の畑を嗤ひ合う
 ブラジルは世界の田舎むかご飯
 担ひ吹くラッパ上向蝶の昼
 飛行機の尻下りくる春の虹
 すみれには蝶来ペンチは今二人
 花圃を飛び来て孕み猫なりし
念腹先生のひねりの句に対し対照的なのは、星野立子先生の即興的な数多い句であろうと思われる。
 春の星奏でる如く電線に
 蓋あけし如く極暑の来りけり
 処女林の王なりし樹や冬の庭
 春寒や心忙しく日を過し
 草焼いて所詮は死ぬるわが身かな
 猫柳花田に出そめし頃が好き
 梅散らす風わが髪をさか撫です
 鴬や今日の着物のしつけとる
 この旅の思ひ出波に浮寝鳥
 ととのはぬ庭ただ掃かれ年迎へ
では、次に両先生の文章を比べてみよう。
 「捨て馬」 佐藤念腹
 捨て馬といふのは、馬肉を食わぬブラジルだけのものかと思っていたら、北海道にもあると聞いて驚いた。鰊(にしん)を運ばせるために昔の青森、岩手あたりから連れて来た馬を、鰊運びの用が済むと捨ててしまふ。翌年の漁場に来て見ると、その捨てられた馬がいろいろな困難に打ち勝って生き残っている。そこでまたそれを使ってまた捨てる。捨てたり、拾ったりしているうちにだんだんと野生の強い、しかし全然改良されないままに退化して、背の低い、頗(すこぶ)る見栄えのしないものになった。今では札幌あたりで豚の餌を集める車を曳(ひ)いているぐらいのものだそうだ。
 ブラジルでも捨て馬を手馴らした移民が大根馬などに使い、用が済むと捨ててしまう。が。老衰したものが殆どだから、北海道の捨て馬のように使い出はなさそうだ。移民といえばコロニアでも北海道生まれの人が自ら道産子(どさんこ)と名乗ったりするが、このドサンコとは本来は北海道在来の馬のことだそうで、寒気と粗食に耐えて生きた開拓者の子、耐久力があって、鼻っ柱が強くてというような意味のほかに、幾分(いくぶん)自嘲的(じちょうてき)な気持ちも含んでいるものらしい。話は馬に戻って、この老衰したのに乗ると、普通の馬のような反動がない。下駄みたいな馬で便利なところから、近頃はドサンコの改良などと云っているとも物の本に書いてある。
 下駄馬という名称は、アリアンサ移住地では北米から来られた移民さんが齎(もたら)したので、布哇(ハワイ)の移民地あたりからの伝来とばかり思っていた。が、ブラジル俳句の好材料として用いられる捨て馬も下駄馬も、北海道に昔から居るとなると、よほど気を付けないと嗤(わら)われることになろう。開拓者が原始林を伐って火をかける、ブラジル季題の樹海焼(山焼)なども、朝鮮や満州あたりで、そんなに昔でない頃迄やっていたそうだ。【一九七五(昭和五十)年七月】
 星野立子先生の文章は如何なる些事(さじ)もありふれたことも、先生によって清新な香りを放つ文章となるのです。先生の「笹目(ささめ)」と題する句集の最後の「跋(ばつ)」という文章を拝見することにしよう。
 「跋」 星野立子
 笹目ヶ谷というのは鎌倉三十六谷の一つであります。明治二十年頃、私の舅(しゅうと)、星野天知が住んだところの地名であります。そうしてその当時の古家に今なお私一家は住んでおります。天知は北村透谷、島崎藤村、樋口一葉等を詩友として、当時「文学界」という雑誌を出しておりました。この家には藤村や一葉や当時の文学者たちがよく出入りし、また、逗留(とうりゅう)したこともあります。
 その地名を取ってこの句集の名前としたのであります。
 「立子句集」「績立子句集第二」を経て、第四の句集であります。昭和十八年から二十二年までの五年間のものを九百句撰びまして、季題の順にこだわらず、出来た順に並べたものであります。
 福田平八郎書伯に表紙を描いて頂いたことは非常な光栄であります。なお、原口雨城、野村久雄両氏の御尽力を感謝いたします。【昭和二十五年七月二十五日】


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