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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2013年9月号

2013年9月号 (2013/09/14) 史跡と商人の国、トルコ

サンパウロ中央老壮会 栗原章子
 異国情緒たっぷりの国、トルコ。透き通るように青い海のマルマラ海やエーゲ海の素晴らしい景観。
 オスマン帝国の栄華を偲ばせる史跡の数々。
 世界に名だたるトルコ商人の商魂を見せつけたキャラバン隊の旅の先々にあるキャラバンサライ(隊商宿)。
 トルコに多く見られる岩だらけの地形の片鱗に自生している赤い可憐なケシの花や刺々しい感じがするアザミの花。人間の生への執着が感じられて鳥肌が立った追われキリスト教徒が隠れ住んだ暗い洞窟や迷路のような地下の街。新しい発見、楽しい思い出がいっぱいのトルコ旅行だった。
 一番印象に残ったのはトルコ人の写真撮られ好きだ。手製??のレース編を売っている街商のオバさんに美しいレースの写真を撮りたくてジェスチャーで意図を示すと「ちょっと待って」とのジェスチャーが返り、やおら、レース編みの道具を袋から取り出してポーズ! 絨毯工場でまゆから絹糸を取り出して糸をつむいでいたので、また写真を撮りたいのジェスチャーをすると、糸つむぎ娘ならぬ糸つむぎ男がスター顔負けのポーズ。
 オスマン王朝時代の大宮殿で素晴らしい宝石の数々、金銀の食器、ピカピカの武具などを見て、手入れの行き届いた大輪のバラの花が咲いている庭園を旅行仲間とおしゃべりしながら出ると、アラビアンナイトの登場人物を思わせるような装束を着た髭のオジさんが観光客にニコニコ顔で写真を撮らせていた。大抵の観光地では何ドルかで民族衣装を着た男女が写真を撮らせてくれるのだか、このオジさん、タダで観光客に大サービス!
 イスタンブール、首都のアンカラ、カッパドキア、コンヤ、クシャダスやその他の観光地を見て回った。
 トルコは到るところにモスクとミナレットが見られ、「ああ、イスラム教徒の国なのだなあ」と改めて思い知らされた。ミナレットはモスク周辺に建てられている塔で、ガイドさんの説明だと、その地域の権力者がその力を顕示するために建てるので、一般市民の手で建てたモスクには塔が建っていないとの事。
 旅行中はずっと天候に恵まれ、毎日晴れて真っ青な空が見られ、風がそよそよと吹き、それほど暑くも感じられないことが多かった。
 イスタンブールのブルーモスクでは入り口で靴を脱ぎ、与えられた履物に履き替え、女性はベールかスカーフで頭を覆わなければいけなかった。中は大きな堂があり、座り込んで敬虔(けいけん)にお祈りしているトルコ人の姿もあった。二階に上がると、美術史などでよく見かけるモザイク創りのマリア様像などが飾ってあったり、親指を指定の場所に抑え、掌を一回りすることができたら願いが叶うという柱もあったりして、結構楽しめた。残念ながら、もう少しというところで、掌を一周させることはできなかったのだが…。
 首都アンカラは人が多いのと交通規則がいい加減なで、車の運転が乱暴で、何だかブラジルの町々と似ていると思わせる以外、特に何も印象に残らなかった。
 トルコ旅行のハイライトといえるカッパドキヤは、サンパウロの五チャンネルのテレビドラマ「Salve Jorge」で度々見せていた景観よりずっと素晴らしかった! 私たちのツアーの一行が乗る予定の熱気球は前日事故を起こし、ブラジルの家族などはニュースで六十代のブラジル人女性二人が死亡したというのをテレビで見て、心臓が止まるほどびっくりしたそうだ。ブラジルで家族が大騒ぎをしているのを余所目に私たちは事故の翌日だったらもっと気をつけて熱気球を運行するだろうということで、暢気に天空からのカッパドキヤの遊覧を楽しんだ。朝早くのほうが風がなく、安全に運行できるということで、私たちも四時ごろ起きて、熱気球を飛ばしている所に出かけ、大きな熱気球に二グループに分けて乗った。あちらこちらから色んな会社の熱気球が朝日を浴びて色とりどりに空いっぱいに飛んでいるのを眺めたり、白っぽい穴だらけの奇岩、深い谷間やブドウ畑などといった普通では見られない景色は圧巻だった。同じ日に見学した奇岩を掘ってキリスト教徒が隠れ住んだ洞窟や地下に広がる迷路の街など見るもの聞くもの全てが珍しかった。
 その後、クシャダスに行き、マリア様が晩年を過ごしたという山にバスで登り、そこでお土産に聖なる水をペットボトルに汲んだり、願いが叶うという壁では、レストランで失敬してきた紙ナプキンの切れ端に願い事を書き、壁に結んだりして楽しんだ後、エフェソスの古代の町並みの遺跡を見に行った。
 さすが世界遺産に指定されているだけあって、古代の遺跡がゴロゴロ散在していて、一日では見切れないほどであったが、ガイドさんの案内で観光メインといったような箇所、大邸宅のお風呂跡、図書館の建物の跡、競技場跡などをサラっとサッサと見て回った。
 最後にまたイスタンブールに戻り、何百年も続いているというグランドバザールで言葉巧みにスペイン語、日本語、英語などを少々話す売り子さん相手にお土産品を値切ったりしながら買い物を楽しんだ。
 トルコは一見の価値がある異国情緒を楽しませてくれる国だった。現在、政情不安で、国民が騒いでいるのが心配だが。


尻(シリ)コーネ

インダイアツーバ親和会 早川正満
 親和会仲間で病気上がりのM君にスーパーの車庫で会った。たしか前に会った時は、娘さんの付き添いがあったはずだが、その日は一人である。
 「おや、 今日は一人かい。大丈夫?」
 「うん、まだちょっとキツイが、今日は娘が乳房にシリコーネを入れる手術をする予定があるので、がんばって一人で来てみた」
 「手術? 今、テレビなどで色々と問題視されているシリコーネをいれるあの、手術かい?」
 「うん、でもうちの娘は自分の尻の一部の肉を入れるので、問題はないそうだ」
 「それなら自分の身内だからすぐに馴染んで良いだろうね」と会話した。
 M君の細君は非日系人だし、当然、家庭内はブラジル語だろう。長らく建設の営業部長を勤めた人だから、私よりブラジル語は堪能であるし、私は彼の話に納得して家へ帰り、二世の妻に話をした。
 すると、「まだそんな方法はできていないわよ。また一世の頓珍漢(とんちんかん)なブラジル語を日本語的に解釈したんでしょう」と言われてしまった。
 普段の彼がそのような冗談を言える人ではないだけに、彼も私も尻(しり)コーネと判断したお話です。
 子供を育てるのに夢中の年までは、ブラジル語を丹念に覚えていたものだが、息子が難しい外交を引き受けてくれるようになってからは、自分の好きな日本文学に触れる機会の方が多くなり、次第に妻の言う頓珍漢なブラジル語の解釈が多くなったようである。
 最近、日本の老夫婦が「同じ年金暮らしなら外国で・・・」などと報じられることがあるが、夫婦共その移住先の言葉が堪能なら別だが、片方がそうでないなら、病気になった時は悲劇だと知っておくべきだろう。
 サンパウロでの病院のような所を利用できる日系移民はごく一部だという事を肝に銘じた方がいい。地方の日系移住者はまだ、古き日本的習慣が残り、助け合っているが、他方から突然来たり、日本から富裕層と思われる人が入り込んでも、ただ、戸惑うというのが現実だと思う。


結婚七十周年を迎えて

サンパウロ中央老壮会 纐纈蹟二
 去る七月十四日は子供たちが相談して、私たちの結婚七十年を祝ってくれた。会場に何か印になるものを、と思っていたが、当日の朝になり、その気になった。
 「十時に迎えに行くから、しみたれた格好はダメだ」と電話してきた。
 自分なりに一張羅(いっちょうら)を着こみ字幕を書いた。他からの依頼で「金婚式」だ「米寿祝い」は書いたことがあるが、自分の事は初めてだ。
 そして、何か感謝の言葉を書くことにして、稚拙(ちせつ)な短歌
 「七十の年輪刻み共白髪、皆に守られ今のしあわせ」
と、心を込めたつもりである。親戚や親しい人たちが参加してくれた。
 ビデオケというのを設置して、「パパイも何か唄え」と言うので、常磐炭鉱節とおこさ節を挨拶がわりに唄った。
 「良い声が出ますね」と拍手されておだててくれた。
 何しろ孫、ひ孫は日本語が判らず、話もできないが、抱きつきキスなどをして喜んでくれた。来客の中には「結婚七十年のフェスタは初めてだ」と言い、「二人とも自分の事は全部自分で出来るとは、めでたい」と。私の書いた字も「少しも震えていない」と褒めたのか、おだてたのか分からないが、悪い気持ちはしない。
 参会者よりお祝いを頂戴し、私たち夫婦の最良の日となった。長生きはするものだ。健康が何よりの宝だと思う。
 十六年前より癌(がん)を患い、不整脈(ふせいみゃく)の薬を飲み続けた甲斐があったとつくづく思う。
 熟年クラブを心の拠り所として、役員の皆様、そして職員の方々に大変お世話になりながら、ご恩に奉ずることも出来ずです。何しろ、九十二歳の半呆け親爺の事で、どうかご寛恕(かんじょ)をお願いします。


シネマ放談(21)

サンパウロ名画クラブ 津山恭助
◇性にめざめる頃
 「十代の性典」(昭和二八年)が大ヒットしたのは、私が高校一年の時だった。思春期の少女たちの性を当時としてはかなり大胆に扱った作品であり、続、続々とシリーズ三部作が製作され、出演した若尾文子、南田洋子両人も人気スターの仲間入りを果たした記念すべきものであるが、しかしのち大女優の一人に名を連ねるようになった若尾にとってはこの経歴はかなり屈辱的だったらしく、その後この作品に関しては決して人に語ろうとはしなかったと云う。
 ところで、このシリーズにはその前身とも云える二、三の作品が存在することを最近知った。まずは「乙女の性典」(二五年)で何とあの佐田啓二が主役を張っているからオドロキで、日本性教育協会の協力を得た青年子女の正しい性教育を説く異色映画といううたい文句がある。復員して教師となった立花(佐田)を慕う彼の恩師の娘・奈津子(月丘夢路)と不良生徒・三枝子(桂木洋子)が登場する。続けて同年に「新妻の性典」までも作られる始末。
 「花嫁の性典」(二八年)。牧江(左幸子)は新婚の夫・健作(片山明彦)との新婚旅行の初夜に恐怖をおぼえて林の中へ駈け込むが、見知らぬ男に暴行されそうになったところを駆けつけた夫の必死の格闘で救われ、初めて夫への激しい愛をおぼえる、という他愛ないもの。「若き日のあやまち」(二七年)。仲のよい女学生の三人グループの一人麻子(左幸子)の不良化を教師の道子(相馬千恵子)が自分の過失をさらけ出して反省を促し、麻子もそれにこたえる。
 「娘はかく抗議する(二七年)という勇ましいのもあった。高校生グループのハイキング一行が思いがけない嵐のため山寺への一泊を余儀なくされ、たまたま不良学生グループが同宿していたため間違い情報から学校で問題となる。女学生・圭子(紙京子)と同級生・美紀子(桂木洋子)の兄・亮一(高橋貞二)のからみ、それに露木(井川邦子)、小田切両先生(大木実)など共演の学園もの。
 さて「十代の性典」。生理日の不調から同級生・英子(若尾文子)の財布を盗んだ房江(南田洋子)。英子のラブレター騒動。不良グループとハイキングに出かけ新田(長谷部健)に暴行されそうになり、湖岸を走って身を投げるというもの。「続―」もキャストは同じ。二階に下宿する従兄・真人(根上淳)を秘かに慕う秋子(南田洋子)。真人が秋子の級友の夏子(若尾文子)の家庭教師となり秋子は孤独感に悩む。拾った時計を持主の大学生・依田(長谷部健)に届けるが、家に帰ると母と上田が抱き合っているのを見て錯乱した気持になり依田に身を投げ出す。妊娠に気付いた秋子は自殺を図るが一命はとりとめる。「続々―」。両親の勧める慎吾(根上淳)との結婚話を節子(南田洋子)は受け付けない。親友の圭子(若尾文子)らと湖畔にキャンプに出かけた節子はボートの浸水事故で危うく溺死しそうになり慎吾に救われる。しかしちょっとした過ちから節子は佐山(船越英二)に暴行を受けてしまい湖上で自殺を図る。
 このほかにも同じ内容のものが二、三ある。「十代の誘惑」(二八年)。高三の勢津子(青山京子)は開放的な性格で小説家志望。級友の光子(若尾文子)は無口で恥ずかしがりやで同級生の晴彦(江原達怡)に好意を持っているのだが、面と向かっては一言も言えない。 勢津子の姉は妹の奔放さが心配で光子に修学旅行中の見張りを頼む。「十代の秘密」(二九年)。佐枝子(南田洋子)
とマリ子(木村三津子)は親友同志。マリ子は野球コーチの大学生・信三(根上淳)に秘かに心を寄せていたが、佐枝子の誕生祝いの席で信三と彼女との婚約が発表される。
 「思春の泉」(二九年)の原作は石坂洋次郎で東北の農村が舞台。年中行事の草刈りには二人の婆さんがいて、今年はモヨ子(左幸子)と時造(宇津井健)をくっつけようとしているのだが…。
 だが、この手の映画は昭和三〇年代に入るとさすがに古めかしく、道徳観念が飽きられたものかすっかり姿を消してしまい、僅か一〇余年後にはポルノ映画全盛時代を迎えるに至ったのである。


♪思い出の歌♪

サンパウロ中央老壮会 野村康
 戦後、隣りの地区との婦人会の集まりには余興としてよく歌が歌われました。カラオケなどない当時ですから自分の番になっても持ち歌などなく、横に座った新移民の黒木さんがこの歌を素晴らしい声で歌いました。教科書で歌詞は見ておりましたが、初めて聞く曲にとても感動しました。

一、桜ほろ散る 院の庄 遠き昔を偲ぶれば
  幹を削りて 高徳が 書いた
  至誠の詩がたみ
二、君のみ心 安らかれと  闇にまぎれて
  ただ一人 刻む忠節筆の跡  めぐる
  懐古に涙湧く
 「天光勾践を空しうするなかれ時に范蠡なきにしも非ず」
三、風にさらされ 雨に濡れ  文字はいつしか
  消えたけど つきぬほまれの物語
  永久に輝く花のかげ


生と死

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 小さい頃の私は餓鬼(がき)大将(だいしょう)である。反面、本を読んでは物思いにふける内気な女の子だった。
 十歳で日本へ帰ってからは周囲に馴染(なじ)めずに無口な、部屋の隅でじっとしているような子になった。
 十代の後半、私は死に憧(あこが)れ、死の美学というか、どうしたら美しく死ねるかを真剣に考えた。
 葉の落ちた柿の木に赤い実が二つ、三つぶらさがり、木枯らし吹いて軒の燕(つばめ)ももういない。そんな夜電気を消した暗い部屋で自分の首を絞めたことがある。苦しくなって絞めるのをやめた。
 戦争中はいつでも死は傍(そば)にいた。少しも悲しくなかった。原爆で多くの友や知人が亡くなって、生き残ったのが申し訳なくて、どうして自分も死ななかったのかと何度も思った。
 二十二歳でブラジルに再渡航してからいつしか死から遠ざかった。
 子供が生まれてからは生活に追われ、生きるのに必死だった。楽しいことも多かったが、苦しいことはそれ以上にあった。もう死は考えなかった。私の周りには良い人ばかりいて、いつも励まされ、助けられて教えられて今日まで生きてきた。
 八十二歳になって死は再び身近にあらわれた。去年、心臓の血管手術をしたが、細い血管の一本は手術不可能で詰まったままだ。いつ発作が起きるか分からないので、薬と食事療法で抑えている。発作が起きても苦しまないであちらに連れて行ってくれるように死の神様にお願いしている。


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