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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2014年2月号 (2014/02/14)
世間に翻弄されないで生きたい
サンパウロ清談会 永田としまさ
新しい年を迎えたのが七十四回目になった。過去の出来事は大して覚えていないが、一九四五年、五歳で迎えた敗戦後の地獄の苦しみは忘れられない。
それから十五歳で新制中学を卒業するまで勉学に励んだ。
親から小遣いなど貰えないため、八百屋の手伝い、赤ん坊のこもり、鉄くず・ガラス破片集め、牛乳配達、マンガ本貸し、炭・薪屋の細切り仕事など何でもアルバイトをやっては稼いできた。近くに金津(かなづ)と呼んでいた赤線街があった。
自転車で運べるだけのマンガ本を持って、昼間は休憩中の「おやま」と呼んでいた、綺麗なご婦人たちに声かけをして歩いたものだった。
ヤクルトによく似た乳酸菌入りの牛乳配達仕事も大変だった。新規開拓をするのに「腹の調子が良くなるよ」と営業して歩いたので、他人に話しかける度胸がついた。
これら貧乏が生んだ少年時代の「独り立ち」の精神が社会に出た後のサラリーマン時代、会社設立後の仕事ぶりに厳然(げんぜん)と現れ、好成績に結びついた。
病気のため仕事を辞めた後の日系社会での団体活動においても、友好活動においても、誰よりも積極的に行動できたのは、筋金入りの性格が生きている証拠であると誇りにしている。
夢と未来を描きながら、自分の信念に忠実に生きると、毎日が楽しくてならない。一歩外に出たらものすごい勢いで情報があふれている。新聞、NHKを見ても清談会でのアマチュア評論家論議でもインターネットなどでもさまざまな世界情勢が入ってくる。
身近な「年金が減る」とか「ブラジル開催のW杯で競技場が間に合わない」とか「一時的でもブラジル市民は政治改革に燃えた火種が消え失せたわけではない」と予測している人もいるし、「日本の友好国アメリカは中国寄りで日本を助けるどころか無視してしまうだろう」との予想をする人も多数いる。日本はようやく安定政治となり、アジア、アフリカ、中東、欧州、ロシアとの経済協定を「積極的平和主義」の旗を揚げて突進している現状を楽しみとして生きたい。
移住地の窓を開ければ
インダイアツーバ親和会 早川正満
日本と同じような雀はいるが、それを上回る体と声を持つサビアが窓下で騒ぎ立てている。その声に誘われてか、池の方から嗅ぎつけてベンチビーが数羽、仲間に加わり、にぎやかになって来た。
ブラジルの田舎は自然がいっぱいである。でも三つほどの丘の向こうで、隣町に近い丘に出来た別荘集団地では昨年の年明けに花火を一時間ほど上げっぱなしで騒いでいた。
三年前までは十数キロ離れている町で上がる花火ぐらいだったから、NHKの除夜の鐘、それも故郷の豊川稲荷でも映っていれば再度見て、大みそか気分を味わっていられたのだが、最近ではすっかり異国風に押されて、何となく騒がしく年が明け、正月を追い上げられているようだ。
ブラジルでは「ナタール(クリスマス)の余韻を残して賀正かな」って感じである。
前に書いた「尻(シリ)コーネ」を読んで下さった老友がおられるかと思うが、そのモデルの望月君が亡くなった。
私の息子たちが仕事の関係で、ある非日系の奥さんに「葬式に日系人を呼びたいが方法が分からないのでどうしたらよいか?」という相談を受けた。すぐ親和会の今西正子会長(二世)に電話を入れ、話を聞くようにお願いした所、日系人との付き合いはマリード(夫)のみだったので何も知らず老人会にお願いするが、宗教団体の関連は困る。ただマリードは日本からのブッジスタ(仏教徒)だと聞いていたので、団体に関係ない方法なら良いと決まったと会長から再度電話があり、「早川さんはお経が読めたわよね」と、移民僧(移住地ではお坊さんを呼べない時代、移住者の中に一行でもお経が挙げられる人が葬式を勤めていた。それが移民僧)を責務され、「それでは」と老人会の四、五人の素人おくりびと集団で葬儀が行われた。会葬者の半数は非日系人だったが、無事、日系人の心意気のある葬式が見せられたと自負している。
人は「生まれる時も死ぬ時もひとり」と学を得意とする人はよく言うが、人は生まれる時と死んだ時(自分の葬式は自分ではできない)は、必ず他人の世話になるのだ。若くして死んでいった老友たちもその辺を深く考えなかったとみえて、残る人に誰も何も言い残していない。だからであろうか、老友の葬式に積極的に手伝わない姿を多く見かける。おくりびとは他人のためにすることではない。老人になればそう遠くはない自分の葬式を手伝っておこう。お礼を先に返す行為なのだ。あなたはそうは思いませんか? 都会では隣でも日系人の死を見落とすことが多いが、地方では日系人というだけで、非日系人の友人から紹介されることもある。葬式などのことも日系人同士で知らせ合う事もあり、こうした地味な行為こそが大切だ。それをもっと移民の記録として残しておくべきだが、そうした事を研究している自称文化人はあまりそういったところには目を向けていないようで残念である。
日本語を話す数は減っているが、出稼ぎ帰りが多くなったからか、二世、三世でも餅や雑煮で正月を迎える家が多くなっているとか。日系移民も何か変動期に入っているのかも知れない。
♪ 思い出の歌 ♪
サンパウロ中央老壮会 安田智子
「♪チュンチュク雀」の歌は私の父のたったひとつの愛唱歌です。明治生まれで普段は無口な父が飲めないお酒を一口、二口頂いた時、いつもこの歌を歌っていました。それも身振り手振りをつけて、私たち兄妹を笑わすのです。私はそんな父が大好きでした。
父は愛媛県で小学校の校長をしていました。父の若い頃の夢は広い満州にはばたく事でしたが周囲の反対にあい、叶いませんでした。
そして教師として定年まで勤め、一九六〇年、家族と共にブラジルへ移住しました。叶わなかった満州への思いをブラジルに懸けたのかもしれません。でも私はブラジル行きには反対でしたが…。
ブラジルに来てからは聖市郊外の田舎で、母共々日本語教師をしていました。その頃は父兄も日本語教育に熱心で、生徒も純真で「先生、先生」と慕ってくれ、父は幸せな晩年を過ごしたと思います。
十年は若返った
サンパウロ中央老壮会 安本丹
私は昨年七十五歳となり、いわゆる後期高齢者となった。ところが最近の老年学では前期高齢者は六十五歳から七十四歳まで、中期高齢者は七十五歳から八十四歳まで、後期高齢者は八十五歳以上と分類するようになった。
これで中期高齢者に逆戻りし、老ク連が熟連と名称変更したことにより、一挙に十年も若返った。しかし手放しで喜んではいられない。長寿者の増加に伴うさまざまなゆがみを是正するため、高齢者の意識を変えようとする当局の意図は明らかである。
たとえば、平均寿命が延び続け、掛け金を払う若者層が減少すれば、年金の支払いが膨れ上がり、危機的な財政赤字になるであろう。そこで定年に達しても現役を続け社会へ貢献し続けるために高齢者の分類を七十五歳以上にしようという提案がある。
もし年金の支給年齢を七十歳か七十五歳以上に延ばすと、六十歳前後で早々と引退し、年金で残りの人生を好きなようにすごす計画を立てていた若者は既得権益を主張するだろう。
高齢者の定義は様々で、国連は六十歳以上、国連保険機構(WHO)、老年学および日本の法律では公的年金の受給が開始される六十五歳以上、老人保健法では七十五歳以上である。他方、後期高齢者は国連およびWHOでは八十歳以上、老年学では八十五歳以上である。
また、内閣府が行った市民の意識調査では、高齢者とはおよそ七十歳以上というのが四九%で一番多く、年齢以外の見方では体の自由が利かなくなった時期が四〇%、年金を受領する時期が二三%、退職した時期が一二%、子どもに養われるようになった時期が一〇%以上であった。
しかし、法律や世論調査による年齢は減らないので、十年若返るのは気分的な問題に過ぎない。私も気分だけは若いつもりでいたが、最近は風邪をこじらせて治るのに三週間もかかったり膝が膨れ上がって歩けなくなったり、下痢が長続きしたり、歯が何か所も欠けたりすることが一度に重なり、やはり年には勝てないことを実感させられた。そこで「若いですね」とか「お元気ですね」と褒められると、外見は青々としているが、中はシロアリに食われて大風や大雨で倒れる街路樹と同じだと返事することにした。
それでもサミュエル・ウルマンの「青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方を言う。年を重ねるだけでは人は老いない。理想を失うとき、初めて老いる。頭を上げ、希望の波をとらえる限り、八十歳であろうと人は青春にして己む」という詩は忘れないようにしている。
シネマ放談(24)
サンパウロ名画クラブ 津山恭助
◇円月殺法まかり通る
柴田錬三郎の〝眠狂四郎無頼控〟が週刊新潮に連載され始まったのは昭和三一年のことである。転びバテレンの異人と武士娘との混血という出自を持ち、虚無的な剣士は、平然と人を斬り捨てる残虐性、身を投げ出す女人は容赦なく非情に犯す冷血漢、罠と知りつつ敵の本拠地に乗り込む度胸の良さ、幾度となく死地を切り開く鋭い勘ばたらきなども相まって新しい時代劇のヒーローとして忽ち一世を風靡した。
市川雷蔵主演の眠狂四郎シリーズは十二本作られているが、第一作は「眠狂四郎殺法帖」(昭和三八年)で加賀前田藩が豪商銭谷五兵衛と結んだ密貿易で巨富を築くが、公儀への発覚を怖れて銭谷を処断する。
前田の間者、千佐(中村玉緒)の誘惑、少林寺拳法の陳孫との死闘が見せ場。「―勝負」(三九年)では私利私欲に溺れる高姫(久保菜穂子)一派の策謀から、清蓮潔白な老勘定奉行・朝日奈(加藤嘉)を守る活躍。
「―円月斬り」(三九年)。将軍の世子の座
を狙う野望の母と子、片桐(成田純一郎)は新刀の試し斬りに河原で百姓を殺し、太十(丸井太郎)は復讐を計る。豪商山崎屋はこれに便乗して片桐に経済的な援助を与え娘の小波を未来の将軍の御台所の夢を託す。
「ー女妖剣」(三九年)は幕閣深く金力を武器に勢力を伸ばす豪商備前屋(稲葉義男)が送って来る数多の刺客を超人的な剣で次々と倒す狂四郎。兄を救うために身を投げ出してバテレンと寝る小鈴(藤村志保)。
備前屋の手先で偽切支丹のびるぜん志摩(久保菜穂子)宿敵陣孫(城健三朗)との対決は相うちに終わる。第五作「―炎情剣」(四〇年)は藤堂藩家老の跡部(安部徹)と鳴海屋(西村晃)とのかけ引きに狂四郎が巻き込まれ、謎の悪女ぬい(中村玉緒)は最後に斬られる。海賊の末裔、おりょう
(中原早苗)もからむ。
「―魔性剣」(四〇年)。大名の家に妾腹の鶴松を守る狂四郎。彼を兄の敵と狙う手裏剣の名手おりん(嵯峨三智子)、独蛇使いのお艶(長谷川待子)、比久の青葉院尼(若松和子)等が色を添える。「―多情剣」(四一年)。乱行が過ぎて江戸を追放された将軍息女の菊姫(毛利郁子)は部下に狂四郎討ちを命ずる。武州疾風組の首領典馬(中谷一郎)。茶屋女おひさ(水谷良重)がからむ。「―無頼剣」(四一年)では狂四郎にそっくりの円月斬りを使う強敵愛染(天知茂)が登場。大塩平八郎の残党が江戸を火の海にしようと企む。女芸人勝美太夫(藤村志保)がお色気をふりまく。「―魔性の肌」(四二年)。天草四郎ゆかりのマリア像をめぐって邪教集団の攻防に巻き込まれる狂四郎。黒指党の首領・右近(成田三樹夫)と対決する。狂四郎と旅を続けるうちに彼に惹かれていく武家娘・ちさ(鰐淵晴子)。
「―女地獄」(四三年)は第一〇作目。密使暗殺を目撃した狂四郎が小夜姫(高田美和)をめぐる権力闘争の佐伯藩・城代家老の采女正(小沢栄太郎)と国家老・外記(安部徹)の争いの渦中に巻き込まれる。
狂四郎を誘う罠の女には渚まゆみ、三木本
賀代。剣客は辰馬(田村高広)と甚内(伊藤雄之助)だが、伊藤のとぼけた味が絶妙である。
「―人肌蜘蛛」(四三年)。将軍家斉の血を引く狂女・紫(緑魔子)、家武兄妹との対決。狂四郎と同じ黒ミサの子・兵吾(寺田農)も絡む。お色気担当は三条魔子、三木本賀代ら。
最終作(一二作)は「―悪女狩り」(四四年)で大奥で将軍の子を身ごもった側室の環とお千加の派閥争い。そして悪事の数々全ての汚名を着せられる狂四郎。贋者の周馬(江原真二郎)との対決。兄周馬の悪行を妹の小夜(藤村志保)は辞めさせようと哀願するのだが…。
ところで、眠狂四郎シリーズは雷蔵以外にも鶴田浩二で三本、松方弘樹で二本が映画化され、またテレビでも田村正和、平幹二朗、片岡孝夫などが演じているが、いずれも雷蔵の魅力には遠く及ばないようである。
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