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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2014年3月号 (2014/03/13)
若松先生の提案に賛同
イタペチ万寿会 檀正子
〃お地蔵さんに愛称を〃というブラジル書道愛好会会長であり、熟連書道教室のご指導をしておられる若松如空先生の提案文を拝読させて頂き、誠に同感で、ぜひ「ぽっくりさん」の親しみやすい愛称を付けて頂きたく思います。
福島県の会津若松の近くにある寺に設置されているという「抱きつき柱」なるものは無理としても、本部に立ちあそばすお地蔵さんに「ぽっくりさん」の愛称を付けて、老人が誰でも願い望むぽっくり死をお願いする事は、とても素晴らしい案だと思います。
さて、我が家には小さいものですが弘法大師の仏像があります。この仏像は私の実母が若い頃、病気になり、子供を連れて実家に帰って療養している時、祖母が毎日お大師様にお祈りしてくれ、快癒したのは大師様のお陰と、仏像を記念に母にくれた形見だそうで、母はこの弘法大師の仏像をいつも磨いておりました。
そして、毎日手を合わせ、私たちの幸せと迷惑をかけないで死ねますようにと祈っていました。
そのご利益のお陰で、母は九十六歳まで歩行器で歩き、死ぬ十日前まで自分の汚れ物は自分で洗い干し、夕方取り入れに行っていました。
私どもはこの母を亡くなる八年前に我が家に引き取り、死ぬまで面倒をみました。主人もよく面倒をみてくれて、立派なお葬式までしてくれました。
母が幸せな最後を迎えることが出来、長患いをする事もなく、あの世に旅立てたということは、やはり弘法大師様へお祈りしたお陰だと思います。
私は母が形見として残してくれたお大師様を母に習って毎日手を合わせ、家族の安全、幸福、そして家業繁栄をお祈りしていますが、これからはさらに〃ぽっくり死〃を一つ増やしてお祈りせねば、と思っています。
お大師様は「さてさて、願い事の多いことよ」と言っておられるのではないかと心配ですが。
ともかく、ぽっくり死することは、熟連全員の願いなのですから、お地蔵様にぽっくりさんの愛称を付けて、お参りさせていただく事は、大変意義あることだと思います。それにぽっくり死をお願いするのですから、お賽銭も弾まざるを得ません。今までよりもお賽銭も増えることでしょう。
またぽっくり死する人が増えると、ぽっくり地蔵様は有名となり、お参りする人も増え、会員の増加になり、五十嵐会長念願の会員増加にも繋がるのでは、と思います。
私もぽっくり地蔵様が待っておられたら、熟連へ度々行かせて頂き、ぽっくり死をお願いしに参りたいと思います。どうかよろしくお願い致します。
熟連の皆さん、みんなであの世にポックリ行きましょう!
最後に百一歳の姑の事を少々述べさせて頂き終わりと致します。
姑は約八年前に足を骨折し、ベッドの上で生活をしています。
百一歳の今でも病気をする事もなく、体の痛い所もなく、床擦れもなく、そして何一つ不足を言った事はありません。我が家の誇りであり、快挙です。
パナマ運河
サンパウロ名画友の会 三谷堅一
日本からの移住者で太平洋を横断。俗に東周りで渡伯された人たちは必ずパナマ運河を通過しています。
私も当時、若干二十歳代後半の若者でしたが、船上から見た運河の通過時のことは、今でも鮮明に記憶しています。
今回、パナマからカリブ海の旅というクルージングに参加する機会を得ました。
まず、パナマシティまでは飛行機で行き、パナマシティは太平洋岸なので、バスで約六十五㎞、ゆるやかなパナマ地峡の峠を越えて、大西洋岸のコロン
市に移動しました。
パナマ運河に沿っての道ですが、バスから運河の気配はほとんど見ることもなく、コロン市まで来て、やっと大中小のたくさんの船を目にしました。
大半は運河を通るのに順番待ちをしている様子。私たちも同行者八名、このコロンで客船に乗船。早々に船は出港。まずはコロンビアのカルタヘナに寄港。ついでカリブ海の島々を八日間の船旅です。ボネール島のクラレンダイク。次はアルバ島のオラニエスタッド。最後はキュラソー島のウイレムスタッドなどをめぐってコロンに戻り、再びバスでパナマシティへ。
ただしコロンからパナマシティへの道は前に通った道とは異なり、運河をはさんで反対側の道で今度はバスの窓から断片的に運河を見ることが出来ました。
そして最後に約五時間、運河博物館などを見学しました。この博物館は運河の建物の一部でもあり、屋上から運河の閘門(こうもん)を通過する船の様子が目前に見ることが出来ます。五十八年前、大阪商船の移民船に乗って、今、真下に見える運河を私は通りましたが、今日はその同じ所を通る船を、地上から眺める事になろうとは、いささか感慨深いものでした。
さて、全く偶然でしたが、今回の旅に出る十日前にニッケイ紙上にパナマ運河の特集記事が出ました。世界川物語と言うシリーズで上下と二回の記事でしたが私はこの記事で色々な新しい事を知る事が出来ました。いわく、パナマ運河は全長約八十㎞、その完成は一九一四年八月十五日。当初、スエズ運河を完成させたフランス人のレセップスが工事を始めたが困難の続出で挫折。その後、アメリカ政府が引き継いでやっと完成。その後、運河はアメリカからパナマに全面返還されました。
またこの難工事に日本人技師も加わっていました。アメリカ人以外で運河建設の重要なポストについた唯一の外国人で静岡県出身の東京帝大土木工学科卒の青山工氏である。現在、パナマ運河は一年間に約一万四千隻以上が通過しており、運河に関係する就労者は約九万五千名を超えている。運河の最も狭い部分であるクレブラ・カット区間は約一二・六㎞で運河の全長の五分の一に相当。この地峡の石灰岩を堀削したが、その時に堀削した土石はピラミッドの六十三基分に相当。これを貨物列車に積むとその長さは地球を四周分。また運河の最高部ガトウン湖で海抜二六mの高さにある。
一九一四年の開通から九十六年後の二〇一〇年九月四日までに運河を通航した船は百万隻を越えた。
現在、運河は大拡張工事中で運河開通百年の二〇一四年、この工事は完成予定。予定通り完成すれば、新しい閘門の幅は現在の三三・五mから五五mに、そして船の幅も三二・九mから四九mまでの船が通過可能になる。
では最後にパナマ運河って川? 海と海を結んでいるから川ではおかしい? パナマ運河を流れているのは全て淡水で、海水はゼロ。運河にはワニもすんでおり、船底についたフジツボなどの海の貝はパナマ運河を通過する間に船底から剥がれ落ちてしまうとか。
パナマ運河は人間が作った川ということに。パナマ運河を再訪することが出来た私はその幸運に感謝している次第です。
シネマ放談(25)
サンパウロ名画クラブ 津山恭助
◇無責任男シリーズ「気楽な稼業サラリーマン」
一九五〇年代から七〇年代まで東宝のドル箱だった大衆的な喜劇に〝社長シリーズ〟がある。社長以下社員一同が和気あいあいと一致団結して厳しい経済状況を生き抜いていくという物語設定がほとんどで、浮気な社長、ヘマをやらかす社員、オッチョコチョイで結構ずるく立ち廻る課長といった常連の登場人物たちが、家族主義的な気分で会社を盛りたてるといった内容がおりからの高度経済成長期の、貧しいががむしゃらに働いて会社に生き甲斐を見出した当時の日本人の心意気がよく反映されていたものだった。
やがて日本人は仕事中毒だと言われ、猛烈サラリーマンなる言葉まで生まれるのだが、そんな風潮を痛烈に諷刺することで一世を風靡したのが「スーダラ節」その他の一連のコミック・ソングに代表される「無責任男」シリーズである。世間では皆、大真面目に努力しているが、俺はもっと要領よく世渡りするよ、といった調子のもので植木等の途方もなく楽天的キャラクターが大いに受けた。この人気に着目して同じ東宝で〝社長シリーズ〟に対する逆説のような形で企画されたのが、一連の植木等主演の「無責任男シリーズ」である。
「ニッポン無責任時代」(昭和三七年)。口八丁、手八丁の平均(たいら・ひとし)はいろんな会社にひょいひょいもぐり込んで、行く先々でとことんいい加減に振舞い悪びれないゴマスリのうまさと明るい調子の良さで周囲があっけにとられているうちにどんどん出世してしまう。失敗すればハイ、サヨナラであるが、いつか不死鳥のように帰って来て社長になっている。「ニッポン無責任野郎」(三七年)。真面目な野郎は損をする、嬉しがらせて儲けて逃げる、これが無責任男の人生観。天性のはったりとおとぼけで明音楽器に入社、次期社長の椅子を狙う王仁専務(犬塚弘)と常務(人見明)の間を縫って巧みにゴマをする。結婚式はちゃっかり千円会費制、新婚旅行は観光団体にまぎれ込んで飲めや歌えの大騒ぎ。
会社の未収金五〇〇万円を取り立てるや自分名義で預金し利息でちゃっかり金儲け。バレてしまえばハイそれまでよ。
「日本一のホラ吹き男」(三九年)。社長にとり入って損益電機に入社した初等(はじめ・ひとし)はミス損益電機の可那子(浜美枝)にもちょっかいを出す図々しさ。
あっという間に係長、課長の椅子に座ってしまう。強心臓を買われて大ボラと強引さ
は冴えわたり、ナイロニア国に発電機の大口売り込みに成功して部長昇進。そして可那子と結婚したまでは良かったが、予想に反したのは女房の尻にしかれたこと。
「日本一のゴマすり男」(四〇年)。ゴマをすらなかったばかりに万年係長で定年退職した中等一郎は息子の等に「ゴマをすらなきゃ出世しない」と説教。初めは現代は実力の時代と力んでいた等だったが、会社に慣れるにつれて思い当たり、考えを改めてゴマすり派に転向。日曜には海釣りの好きな係長のおとも、ゴルフが趣味の課長にも近づき、次のターゲットは部長。
このほかにも「日本一シリーズ」は「―色男」「―ゴリガン男」「―裏切り男」「―男の中の男」「―ワルノリ男」「―ヤクザ男」等と続く。
無責任シリーズの大ヒットの要因にはやはり植木等の抜きんでたキャラクターがあげられよう。高度経済成長下の管理社会での下級サラリーマンの悲哀を自嘲的に歌と身体で爆発的に表現したコメディ・タレントだった。のち、演技者への脱皮を図り、渋い脇役にいい味を出して活躍したが、平成一九年、八〇才で亡くなった。
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