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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2014年4月号

2014年4月号 (2014/04/12) 復活、お見合い

インダイアツーバ親和会 早川正満
 五十年前の「新移民さん」と呼ばれていた独身の頃、将来の定住を思い、近くのブラジル人の若者三、四人を雇用して、トマトの植え付けを拡大していた。
 当時、ブラジル人への賃金は、原則として金曜日払いだった。農業は作物の育成と天候によって滅茶苦茶(めちゃくちゃ)に忙しい時がある。だが、どんなに賃金を上げても彼らは土日には働いてくれなかった。
 彼らに「なぜ?」と問うと、「我々、独身者には土日は将来を賭けた大仕事があるからだ」と言う。
 「あなたも独身者だが、将来、結婚しないのか?」と逆に聞かれた。
 「もちろん、結婚して家庭を持つつもりだが…」。
 「だが、土日も働いて、いつ、相手を見つけるのだ?」
 「日系コロニアの社会には、真面目で将来性のある人物と知られていくと、年長者が俺に相応しいと思われる女性を紹介してくれるシステムがあるのだ。会う時にだけは仕事を休んで会い、双方が納得いけば、それから交際が始まり、ナモーラ(恋愛)の感情にたどり着けば結婚するのだ」。
 「へぇ、ジャポネースの社会には上手いシステムがあるんだな。俺の今の彼女にはだいぶ金を使ったのに、まだ、家にお呼びでないんだ。あんたはいいねぇ。それを待っていればいいんだから」。
 だが、今日の日系コロニアには、いつの間にかお見合いがなくなってしまった。仲人という世話役の善意を逆恨みする人も出たりして、仲人が人前から身を引いてしまったからだろう。
 男女の縁は仲立ちがあって、効率が倍増する事は年長者の皆さまはその長い人生経験からよくご存じのはず。
 当然、「老壮の友」に投稿するのであるから、今の若者向けにお見合い話をしている訳ではない。親から当然のように離れていく兄妹の内で、老親を見限る事ができず、一人代表のように看続け婚期を逃し、親亡き後は孤独な悲哀を味わう事になる。
 「兄弟が見捨てることはないでしょう」という人もあろうが、私の経験から言っても、そんな事はない。親亡き後は、義務を怠り、権利のみを主張する者がたとえ一世であれど、私の身近にもいますから。
 老友の皆さん、もし、あなたの近くにこのような未婚の男女がいたのなら、祭りなどを利用し、ピルア(相乗り車)一台ぐらいの五、六人の少人数でのお見合いらしきものを企画して、せめて親の健在の内に心の通える異性を紹介してやって欲しい。
 この人々は親を見離さなかった心のやさしい人ばかり。良い意味でのお見合いを復活させようではあるまいか。
 お見合いという言葉に抵抗があるのなら、「紹介してチャンスを与える」でも良い。
 なかなか良縁にたどり着けずに悩む人やその親は多いように見受ける。これらの人々は若くしてすぐ結婚し、またすぐ分かれて子供に悲運を与える者よりはるかに完璧な家庭を作れる事であろう。そして、これらの人々が日系コロニアのこれからの百年を押し上げて行く原動力になると私は思う。


日々思うこと、コロニアへの提言

サンパウロ中央老壮会 柏木成一
 二十五年ぶりにブラジルの生活を楽しんでおります。
 以前と比較して人々の生活が豊かになったせいもあるのか?体格が良くなったのに驚いております。市内も歩道は人々で、車は車道で満ち活気に溢れております。そんな中での「日系社会は?」というと、以前と比較して進出企業の多くが過去の物凄いインフレと、日本国内の景気の長期にわたる悪化の為か、撤退していて多くの日本人がブラジルから去りました。
 日本人街も東洋人街と名前が変更され一抹の寂しさを感じるのは私だけでは無いと思います。以前のように再び多くの日本企業が戻って来る様な事は無いと思いますが、多くのブラジル人が日本の文化・食に関心を持って日本語の勉強をしている事を知りとても嬉しい限りです。
 しかしながら、彼らに勉強してもうらための施設とか人材が少ないような気がします。これはブラジル人に限らず、日系人への日本文化の継承にも大きな問題を抱えていると思います。
 過去、多くの出向者・移住者・彼らの子弟に対して行われていた教育・交流の場所として、各県人会ごとに建てられた施設などが日系子弟の減少よって、運営がままならない状態に立たされた県人会施設もたくさんあるようです。
 日本人の性癖からか、出身地区ごとに人々のつながりは強いのですが、国単位となるとうまく行かないようです。残念ながら、ここが中国人と違うところです。
 そこで一度原点に立ち戻って、以前は移住者、日本人、日系人とその子弟との交流を対象にしていたものを、もう少し門を広げてブラジル人にも開放したら如何でしょうか?
 今、彼らの間で関心を持たれているアニメにしても、食にしても、もっと興味を持ってもらい、日本文化はとても奥が深いんだということを知ってもらい教えられる施設が必要だと思います。
 いつまでも交流を日本人、日系人だけに拘っていると、日本国内同様に結婚しない若者が増えている現在、しかも日本文化を十分伝え切れていないブラジルの日系社会はいずれブラジル社会に飲み込まれてしまうような気がします。これを避けるためにも各地に散らばっている多くの施設の運営を一本化して、もっと深くブラジル人にも知らしめて欲しいです。
 その他、毎年恒例のジャバクアラ地区で開催されている日本祭りも今ひとつ、盛り上がりに欠けています。
 いつも日本・日系社会からブラジル人に提供するだけでなく、もっとブラジル人の参加を求めるべきだし、参加しやすいようにすべきだと思います。屋台での日本食の販売もいいですが、彼らは興味があって来るのですから、料理教室などを併設して、健康管理などの面を含めて広めたら如何でしょうか?より一層、興味を持ったら自分たちで食材を買い求めるようになると思います。
 日本食は寿司・刺身に代表される高いものばかりではありません。カツ丼・親子丼・天丼・牛丼・オムレツなど低価格で十分満足のいく食べ物がたくさんあります。郷土色豊かな各地の食もあります。
車等の新車展示も良いのですが、各業者間の垣根を取り払い、新車や電気自動車の試乗会、メンテナンス教室なども開いたら如何でしょうか?
 アシモに代表されるようなロボットの展示、ウォシュレットの展示即売…。若者のファッションの展示および映像。その他、優れた施設・機械の展示パネル…リニアモーターカー、人工衛星…ハヤブサ、海水ろ過装置など沢山有ります。
 太鼓・三味線等も聞いて貰うだけで無く、来場者に参加して貰い、自分で体験出来る様にしたら如何かと思うのですが…。
 アニメ映画の試写会、漫画家の招待と漫画が出来るまでの語り。弁論大会のようなもの、盆踊りと屋台村(金魚すくい・輪投げ・射的等)、日本の音楽が大好きな若者も多いですから、歌合戦とかの開催。日本からのミュージシャン招待等。
 各施設が独自に開催しているだけでは、大きな企画の運営は出来ないと思いますが…。如何でしょうか?


紀行文「山陰・北陸、駆け歩き」(1)

サンパウロ名画クラブ 津山恭助
 二〇〇一年(平成一〇年)の訪日旅行が最後と思っていた。ところが、二〇一一年のあの忌まわしい東日本大震災である。
 私の妻は福島県の出身で、兄二人(浪江町、大熊町)の消息を心配して毎日のように電話したのだったが、ようやく通じて二人とも無事だと判明したのはおよそ三ヶ月も後のことだった。二人とも津波の被害こそなかったものの福島第一原発の水素爆発に伴う放射能汚染が始まり、原発から半径二〇キロ圏内の住民に対しての避難指示の対象となっていた。上の兄Kは当初は娘の嫁ぎ先である新潟に住んでいたが、のち福島市内の仮設住宅(笹谷)で暮らしており、下の兄Sも娘夫婦の住む栃木県宇都宮市から少し離れた鹿沼市にいることを知った。
 母親の心配を気にかけた娘二人は、それなら一層のこと思い切って見舞いを兼ねて日本へ出かけるようにと勧め、旅費と小づかいを負担してくれたものだった。心臓、腎臓、糖尿病等の持病をかかえる妻にはかなりの決断だったらしいが、最悪のケースも覚悟しての旅だった。出発は昨年一〇月一日のETIHAD便、サウジアラビア国(アブダビ)経由は初めてで待ち時間を含めて三十二時間のきつい長旅となった。
 成田にはS夫妻が迎える。Sは妻のすぐ上の兄で私より四才ほど若く、十四年間のブラジル生活を体験している苦労人。日本へ帰ってからしばらくして福島第一原発への労働者を斡旋する仕事を始めて順調に発展した会社を一人息子に譲って、本人は好きな釣り三昧の生活を送っていた矢先での被災だった。彼は東電から三キロの大熊町に豪壮な邸宅を構えてこれが完成したばかりの時に爆発があって、殆ど着のみ着のままの状態で避難を余義なくされ、八台もの車も置きっぱなしで逃げた様子だった。以来、放射能が拡がった実家には帰れないまま現在に至っているのだ。
 しかし、よく聞いてみると政府からの補償はなかなかいき届いており、海外に住む我々が懸念するほどの悲惨さはなく、元気な生活を送っていて安心した。例えば被災者全員に対しては月々一人十万円が支給されているほか、幹線道路を利用する場合には東北六県内での高速道路の上り下りを利用すれば一切無料。また、決まった額の燃料費まで東電は支給してくれており、想像していた以上の優雅な暮らしぶりであった。住いの方も借家の家賃は東電が負担してくれているが、彼は近いうちに鹿沼市内に新居を求める計画だという。福祉国家日本の一側面を見せられる思いだった。
 十月五日(金)。東北自動車道に乗って北へと走る。この道路は青森まで続いており、二車線だが快適そのもの、無論どこかの国の道とはまるで異なり、穴などあるはずもない。那須高原を過ぎると福島へ入り、白河、郡山、南相馬などの標識が目に入る。高速を下りてしばらく走ると、震災後に放射能汚染の地として広く知られることになった飯舘村の中心部を通過する。車窓から青いビニールシートに覆われたいくつもの汚染土の山が見える。引受け先もないまま放置されているもの。また、希望に応じて住居の除染はやってくれるそうだが、これとて裏山まではとても手がまわりかね、雨が降れば、汚染土は流れるままに土に染み込んでいくのだから、気安めの作業に過ぎないものだろうか。少なくとも放射能汚染の危険はない岩手、宮城の津波被災地の復興は着々と進んでいる中に、故郷を追われ県外に避難した福島県民の数は三万人に上っていると言われ、目に見えない魔物に翻弄され続けているのだ。
 午後、福島市の仮設住宅に一人で住んでいるK兄(八十二歳)を訪う。娘たちはそれぞれに結婚して皆近くに住んでいるようだ。
 初めて見る仮設住宅だが、こぎれいに建てられており、冷暖房も完備しているのだが、壁は薄く両隣の声は筒抜けのようなものらしい。福島駅でレールパス(一週間)の発給手続きをやってもらう。全国の県庁所在地の駅でやってくれている。


人生の思い出の一齣(1)

スザノ福栄会 杉本正
 私は戦前移民として、幼少の折に親と共にブラジルに来た。当時から親たちとて、子供の教育の大切さは熟知しており、町に学校があることも知ってはいたが、事実上、通う事は不可能だった。
 父が若くして逝ったため、若年で社会人となり、人生を歩み始めた。そして多くの方に遠慮なく聞き教わりして、一応の知識を得る事はできた。一介の百姓生活でありながらも、何とか一家を支えてこられた。
 こんな程度の教養の浅い未熟者でしたが、日系コロニア諸団体の役職を務めさせて頂いた。
 ある時、友人の大浦文雄氏から日伯援護協会の監査役を推薦され、途方もない話だと堅く辞退したが聞いてもらえず一九七七年度の監査役に着任したのが今から三十六年前の事。その頃は援護協会の事業活動範囲からみて、私でも何とか務まった。現在の援協のように大規模化した事業の監査を務める方は十分な専門教育を受けた人でなければ難しいと感じる。
 ところで去る日の邦字紙に援協の老人ホーム創立三十周年が発表されたが、どのような経緯で老人ホームが生まれたのか、援協の役職にあって、最初から携わってきたので、その裏話は控え、多少、参考になればと、記してみたいと思う。
 まずは土地を寄付したのはスザノ福博村在住の内谷忠雄氏だった。当時は私も面識がなく、たまたま新聞の広告に「土地を売りたし」と出ていました。
 現在、援協病院のある場所、ビラ・パルケ・ノーボムンドの土地は一九七九年ごろはJICA(国際協力機講)の持ち物であった。これはどういう経緯かというと、その当時、日本から多くの進出企業や工業移住者がブラジルに来ていた。ブラジルの実情を説明サポートする必要性から同地に工業移住センターを設立したのだが、日本とブラジルの国情の変化により、多くの企業が逆に引き上げる事となり、その地がもはや不要となって、JICAから援協へ委譲するという話が出た。金額にして四百五十万クルゼイロと言われたが、当時の援協としては莫大な金額で、とても購入は無理。理事会としては、「無償でもよさそうなものだが」との意見も出た。一応、交渉に当たったが、当時の大蔵省では無償では「認めず」との事にて、中に入っていたJICAも困り果てて、審議を重ね、何とか纏まった案は、時の帳簿価格で、支払い方法も援協に任せるという内容だった。
 新聞記者が毎日のように来ていたが、決定事項は極秘のため、記者の目に付かない場所でということで、日曜日にリベルダーデの日本料理店で理事や監査役などへの経緯説明となり、その一部始終の説明をされた。話がそこまで進んでいると、反対者はなく、「引き受けを承認する」と決まった。
 三十四年前のこのような経緯はすでに当時、共に働いた役員の多くが鬼籍に入り、今ではご存知の方は原沢さん、建築技師の笠原さんと私ぐらいかもしれません。


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