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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2014年5月号

2014年5月号 (2014/05/13) 寿命までの老後

サンパウロ中央老壮会 谷口範之
 四月一日で八十九歳を迎えた。昨年末頃から急に体力、思考力の衰えを覚え、もう二年生きることが出来れば、実父と同じ齢で逝けるのだがと、弱気が芽生えてきた。
 というのは、実父は八十八歳の時はまだしっかりしていて「無量寿」と大書して掛け軸に仕上げ、私たち兄弟六人に一幅ずつ贈ってくれている。その後、目に見えて衰え、九十一歳で亡くなったからである。
 一方、家内の祖母は亡くなる日の午後、「腹が減った。なんぞ食べさせておくれ」と部屋から出て言った。祖母の面倒を見ていた家内の弟が、有り合わせのものを用意すると、茶漬けを一杯だけ食べて「あぁ、美味しかった」と言い、部屋に戻った。
 夕食時、何度声を掛けても出てこない。覗いてみると、ひっそり息を引き取っていた。九十四歳であった。
 こんなことを考えたり、思い出したりするのは衰え方が尋常ではないからだと気付いた。病気で家族の手を煩(わずら)わしたくないのである。
 午前と午後の二回の昼寝が欠かせない。文章を書いたり、短歌を考え始めて、十分か十五分も過ぎないうちに字がぼやけ、意味不明な文字が並ぶ有様である。
 二、三十分間眠るとすっきりして、しばらくは思考力が正常に働く。しかし長続きはしなくて、テレビかDVDを観て気分転換し、また、取り掛かる。そんなことで文章会の四枚位の原稿が十日も二週間もかかる。体力だけでなく、頭脳の働きがこれほど急に衰えているようでは、心頼みのあと二年の寿命も危なっかしい。
 そこで、昨年の健康診断表を見直してみた。一昨年まで十三か十四であった血圧が昨年、十七に上がり、一時的であるが二十をマークしたことがある。腎臓と前立腺に異常が認められるともあった。前年までは無かった症状である。
 一人の医師の所見は「薬を飲んで血圧を正常にすること。体内に爆弾を抱えているようなものだ。暴発(ぼうはつ)してからでは遅い」とある。もっともだ。
 もう一人の医師の所見は「八十九年も生きてきたんだから、体中が衰えるのは当たり前だ。心配しなくていい。手術するほどの大病をしていないから、食事や睡眠など日常生活に気を付けて、無理をしないように」である。
 そこで生まれて以来の病歴を振り返った。幼少期。十歳までの生命と医師に診られたそうだが、死ななかった。入隊前、満州で風土病にかかったが、これの治療薬がなくて三か月余りの闘病の後、幽体分離現象を経験して現世に引き返している。拘留中は急性大腸カタルを患い、医者も薬もないまま生死の間をうろついた。九月初めの氷点下以下の気温の中で床板の上にすり切れた毛布一枚を掛けられて放置されたが、ここでも死ななかった。取り立てて頑丈な体ではなかったのに生還した。
 そしてブラジルに移住した後、痔病と脱腸の手術を受けたほか、腰部椎間板(ついかんばん)ヘルニア五コの疼痛(とうつう)激痛で長年苦しんだが、これも七年前から軽快に変わっている。
 前記した後者の医師の所見で年齢相応の衰えであることが理解できた。これからは寿命を天命と心得、家内との短い歳月を穏やかに過ごし、自然体で生きてゆこう。
 そして短歌を詠み、文章に思いを託して、心豊かに寿命までの老後を全うしたいと思う。論語の一節に「楽しみて以(もっ)て憂を忘れ、老いの将に至らんとするを知らず」とある。読んで清々しい気持ちになった。


モンゴル

サンパウロ名画友の会 三谷堅一
 昨今、日本の相撲はモンゴル出身の力士が大活躍で、日本の国技と言いながら、日本人力士の影はますます薄くなるばかりのなさけない状況です。
 さて、歴史をさかのぼって、鎌倉時代後期の一二七四年に日本は蒙古(もうこ)の侵略(しんりゃく)を受けました。すなわち、文永(ぶんえい)の役(えき)。そして七年後に弘安(こうあん)の役と、二回襲われましたが何とか撃退(げきたい)しました。
 当時のモンゴルは、建国の祖・チンギス汗はすでに亡くなって、孫の代でしたがその勢力はますます増し、ついに世界を制覇(せいは)。とくに中国などはモンゴルに完全に支配されて、国名も「元(げん)」となって、約百年続きました。
 日本は地理的には割と近い国でしたが、直接支配されることもなく、独立を保ちました。しかしながらそれから約七四〇年経た今日、相撲界は完全にモンゴルに屈してしまいました。
 日本に旅好きな知人がいますが、それだけに今までにも世界のあちこちを訪れています。数年前に会った折り、「君が今までに訪れた地で一番印象に残っているところはどこ?」と聞いたところ、少し考えてから「モンゴル」と答えました。
私は「モンゴルってそんなに良い所?」と聞くと「良いか悪いかは各人によって異なるけれど、自分には良かった旅の一つと思っている」と。「一体、モンゴルにはどんな良い所があったの?」とさらに聞くと「何もない所よ。何もないのが返って自分には良かった。要は大自然のままという所かな。町から遠く離れた地方に行った時、一応はホテルとなっている『ゲル』という移動用のテントに泊まったが、夜九時になると発電機は止めて、真っ暗に。それで非常用に懐中電灯が渡される。トイレはもちろんテントの外の野外であまり遠くには行かないようにとの注意が。「どうして?」と聞いたら「狼に狙われるから」。
 モンゴルは名高い騎馬民族なので、子供の時から乗馬は日常の事。広大な草原の中、草を求めて常に移動する遊牧民なので、学齢期になった子供は親と離れて町の寄宿舎生活で勉強。それで学校の長期休みの時には移動している親たちの所へ帰るのに二~三人の仲間と一緒に馬で、時には一週間も費やして行くそうです。モンゴルには当然、馬に関係する行事も多く、中には子供だけの競馬も。参加する数も六百頭を超すほど。この競馬は男女の別なく、十歳前後の子どもが主体。中には五、六歳、いやもっと小さい子も混じっている事もあり、約四十キロメートル、一時間以上も駆け続けるのです。ゴールには親たちが待っていて声援するのだが、地平線のかなたにやっとゴマ粒のような姿が見えて来る。やがて馬ともども息を弾ませた子供たちがゴールに飛び込んでくるのだが、中には乗り手が落ちていなくなって、馬だけが駆け込んでくることもあるそうです。先頭と最後では二十分以上も開きがあり、当然、小さい子どもたちが後半に、どんなに小さくても馬と一体になって乗りこなす、その乗馬技術と度胸にはまさに圧倒されるのみとの事でした。
 ロシアと中国の大国に挟まれたモンゴルですが、かつて征服したこれらの国はその時の恨みを七百年以上経た現在でも根に持っているようで、何かにつけて苛(いび)っている感があります。中国に至ってはその国土の三分の一近くも分捕(ぶんど)って、内モンゴル自治区として自国に併合しています。チンギス汗が知ったら、さぞ地下で嘆いていることでしょう。
 さて、ここで日本では一部にあの源平時代の英雄だった源義経とチンギス汗が同一人物だったという奇想天外(きそうてんがい)の説があります。義経が生まれたのは一一五九年とはっきりしていますが、チンギス汗の方ははっきりとした記録は無いのです。義経は一一八九年、衣川で戦死したことになっていますが、三十一歳でした。そしてその五年後位からチンギス汗の活躍が始まり、その後の事は歴史上思ったよりはっきりと記録に残っています。そして、チンギス汗の戦い方は戦(いくさ)上手と言われた、義経とそっくりだったという事です。さて、信じるかどうかは皆さんの自由になります。


紀行文「山陰・北陸 駆け歩き」(2)

サンパウロ名画クラブ 津山恭助
 六日(日)。鹿沼市内を散歩。本屋を見つけて四、五冊求める。昼飯はSのおごりで四、五キロ離れた大芦川のヤナで獲れた鮎の塩焼きと鰻のカバ焼きという豪華版。養殖鰻がほとんどというのに、ここのは天然という珍味で味を堪能した。近くの古峯神社に参拝。話によるとここ鹿沼市は栃木県県庁所在地の宇都宮市のベッドタウン的な存在で、昔から園芸用の鹿沼土(軽石)の採掘地として知られ、木工業の盛んな地だという。
 七日(月)。Sから一時間ほど離れた宇都宮駅まで送ってもらう。新幹線やまびこ二号で約一時間で上野駅だ。山手線で新宿駅まで、ここから小田急線で相模大野(神奈川県)に着いたのは十二時半。北口に妻の姪M子と息子T君が迎えに来てくれていた。
 M子も夫(警察官)と共に福島県浪江町での被災者で、放射能汚染のために避難を余義なくされて相馬市へ移っていたのだが、東電の補償で相模原市に小さなアパートを借りて教師志望の息子二人を育てている。
 この人も県内の小学校で三〇年以上の教師生活を送り、共稼ぎで頑張ってきていた。しかし、かの大震災はその平凡だが幸せだった彼女達一家に深い傷あとを残した。働いていた学校は授業が出来なくなったために先生たちは県内各地の学校を転々とたらい廻しに送られたが、移動先の学校は必ずしも温かく迎え入れたわけでもなく、むしろ明らかに引き受けるのを迷惑がっていたふしがあり、かなり精神的なショックを受けてM子は一時期ノイローゼ状態が続き髪の毛が抜けおちたりした末に辞職してしまったと涙ながらに語る。幸い夫の収入があったために財政的にはそれほどのダメージはなかったが、こんなところにも被災者の悲劇は及んでいたのかと暗たんたる思いであった。
 T君のインターネットを通じて通信販売のDVDの名作映画廉価版三巻を購入。これは一〇枚入りで二〇〇〇円以下とかなり安い。
 八日(火)。ビッグ・カメラ店でウォークマン(中国製)を見つけるが四〇〇〇円と手ごろ。夜は近くに住むM子の妹でこれも小学教師のY子夫妻が訪ねてきてくれて歓談。
 九日(水)。相模大野の駅構内の回転寿司、元気寿司で朝食。卓上に備えつけられている粉茶が中々おいしい。新横浜まで行って新幹線の岡山行きの乗り換え、四時ごろには神戸着。タクシーの運転手にたのんで三ノ宮駅付近のホテルを探し、東横イン・三ノ宮Ⅱに宿をとる。このホテルは日本全国の大都市に支店網を持っており、それも皆駅から徒歩で五分以内という至近距離という便利さ。おまけに値段も七、八千円と手頃なので大いに活用した。ランドリーがついているのも旅行者には有難い。夜は初めて二人で駅前のレストラン街をぶらつく。食事は概して安いものも多く安心する。
 一〇日(木)。妻は神戸東灘区に住む姪の娘を訪ねて行く。私の方は午後大阪の吹田市に住む叔父(母の弟)の家に向かったのだが、日本に着いてすぐ電話を入れたところ二ヶ月前に八二才で亡くなったことを知らされているので気が重い。この人には私も訪日の度に往き来していたので家族とも顔見しりになっている。眼の不自由な叔母は九〇才になりながら、病気のため片脚を切っていながらも車椅子で元気であった。
 息子と娘、私にはいとこにあたる訳だが歓迎してくれ線香をあげてきた。今回の旅で残念だったのは大工だったこの人が亡くなっていたことと、横浜に在住するU氏が認知症になっていて夫人の意志で会いに行くのを断念せざるを得なかったこと。U氏には就職のことでいろいろとお世話になっていたので一言お礼が述べたかった。
 十一日(金)。タクシーで新神戸駅へ十分ほど走る。着いてすぐ妻の薬箱をホテルの正面玄関でタクシーに積み忘れたことに気付いて慌てて戻ってみるとそのままの形で路上に置いたままでホッとした。新幹線さくらに乗ると四時間足らずで西鹿児島駅に着いてしまった。速いのはさすがだが、九州の沿線の景色というのは全く目に入らなくて味気ないことおびただしい。ホテルの前を懐かしや緑と黄色の路面電車がガタガタと走っていた。今一体どれほどの街に電車が残っているのだろう。
 「日本の路面電車」(写真集)によると、日本で最初に開通したのが明治二八年(一八九五年)の京都市電。大正時代には全国で一〇〇近くもの街々を走り、昭和初期には北は旭川から南は沖縄首里までその姿が見られたという。その後、自動車の急増に伴う都市交通の渋滞化により次第に姿を消していった。現在残っているのは二〇市に満たないという。
 十二日(土)。午後タクシーで鹿児島市内の城山公園、西郷墓地などを観光する。先だって噴火したという桜島にもカメラを向ける。今年になってからNHKのテレビで放映していたが、一〇〇年ほど前の規模の桜島の大噴火が今起きたとすると想像もつかないような大被害を県民に及ぼすことになろうと予測していた。
 鹿児島から私の郷里宮崎までは日豊本線を特急で約二時間。


人生の思い出の一齣(2)

スザノ福栄会 杉本正
 さて、一九八一年の理事会にスザノ市在住の内谷忠雄氏より福博村の土地の一部を寄付したい旨の発表がありました。
 竹中会長は同村在住の私に「どう思うか?」と問われたので、「長い間養鶏業を行ない、人柄は誠実な人でよく存じております。村には日本人在住者が(当時)二〇〇家族おり援協が何か事業を行うとなれば、村民は協力を惜しまないはず。土地を頂くことに賛成します」と述べた。
 すでに国際協力事業団から引き受けた土地には、援協医療センターを設置しており、会員の便宜を図っているが、理事たちはまだ見ていないので一度見てみようと赴いたところ、立派な建物だったので、一同、驚いたものであった。
 帰途、竹中会長の車に便乗した際、竹中会長より内谷さんから「老人ホームを建てて欲しい」と申し込まれた、と言われた。「援協として貰い受ける以上、有効に活用させて頂く」とは申しましたが、まさか内谷さんから土地寄贈にあたって、条件をつけられるとは…。しかし、なぜ途中からこのように老人ホームを建てて欲しいとの話が出されたのか。さもありなんと。ある程度の家庭事情を知る私であるが今、書くことはもちろん、当時竹中会長にも意味合いのある事柄であって、話も出来ず、「理事会で審議されて決められるべきです」と申しました。
 当時の理事にも誰一人、老人ホームの建設の必要性を考えた者はなく、援協にしても私にしても同じでした。
 時を経て、内谷氏からのホームを設ける案について、理事会で審議され承認され、一九八二年五月十一日、理事会役員も参加し、竹中会長が代表とされ、内谷忠雄氏と土地譲渡署名が行われた。
 次いで一九八三年一月、「スザノ老人ホーム」(後にイッペランジャホームと改称)の開園にあたって祈祷をサンパウロ市のカトリック教会の宣教師によって捧げられる。参考までに当日出席された方々は竹中会長並びに役員一同、来賓の方々、藪総領事、相場真一文協会長、尾身倍一こどもの園理事長、武藤一郎希望の家理事長、渡辺マルガリータ救済会会長、スザノ市長、汎スザノ文協理事長、竹内直次氏以下でした。このような経緯で老人ホームが開園されたのです。


国旗と国歌

サンパウロ中央老壮会 香山和栄
 久しぶりに書棚の整理をしてみますと、三十五年以上も前に書き記した「ブラジル国歌の訳詞」が出てきました。黄色になったノートの切れ端に書かれたものです。
 訳者の古野(ふるの)菊生(きくお)氏は明治の生まれの方で、アントーニオ・ゴンサウベスジアスの有名な「望郷の詩(うた)」を名訳され、私たちも「わがふるさとに椰子ありてサビアひた鳴くその蔭に」で始まるその口調(くちょう)の良さに惹(ひ)かされました。 昭和一桁生まれの私にとって、輝くばかりの格調の高さです。
 六十八年前、終戦の年に生(せい)を受けられたある二世の方は、ブラジル学校で先生から「君が代」を教えられたと言われ、「日本の国家は美しく、メロディーも身が引きしまるようで好きだ」と仰られます。その学校では皆、一人ひとり生徒の親たちの祖国の国歌をそれぞに教えて下さったそうです。移民して幾多の苦難を乗り越えて、現在を築きあげた親たちの国旗と国歌を大切に思う事を教わったそうです。
 先だって、島根県人会会館で自然を愛する日伯児童合同画展を見ました。日本の子どもたちは真っ赤に燃えるお日様を描き、ブラジルの子どもたちは真っ黄に燃えるお日様を描いていてほほえましく思いました。私たちもブラジルの国歌の一番だけは覚えて歌いたいものですね。
 下記に作詞者、作曲家の指名とその年代を記します。
作詞 Joaquim Osario Duque Estrada(1870-1927)
作曲 Francisco Manuel da Silva(1795-1865)

♪ブラジル国歌♪(古野菊生 訳)

イピランガ 静けき岸は聞きにけり
民がとどろの雄叫びを
時しも空にあやかなる
自由の陽こそ輝きし
逞しき腕もて獲(え)たる平等の保障にしあれば
おお自由よ!死をも何かせん汝(な)が胸に!
おお愛(いと)し崇(あが)むる祖国
栄(は)えあれ!栄(は)えあれ!

地に降る愛と希望のはげし夢
笑(ほほ)えみ美しき汝が曠野(こうや)
生命(いのち)満ち満ち我が森べ
我が命 愛ぞ溢れる汝が胸に!
おお愛(いと)し崇(あが)むる祖国
栄(は)えあれ!栄(は)えあれ!

汝が誇る星ちりばめし国旗こそブラジルよ!
久遠(くおん)の愛の表象(しるし)なれ
旗色の緑と黄とは語るなれ
未来の平和過ぎにしほまれ
逞しき正義の胸挙げられなば
闘争(たたかい)に誰か
面(おもて)をそむくべき
汝を崇むれば死も何かせん脱すべき

数多(あまた)なす国のさなかに
愛し祖国汝こそブラジル!国の子の優しき母 
愛する祖国ブラジル 溢るる光ブラジルよ!
笑えみて清(さや)けき 汝が空に十字星のかげ
輝くをさながらに! 
美けくもつよし
雄々しく大いなる 生まれたるままの巨人かな
汝が末裔(すえ)をうつし照らせる気高さよ
数多なす国のさなかに 
愛し祖国汝こそブラジル! 国の子の優しの母
愛する祖国ブラジル!

海を聴き また深き空の陽うけつ
はなやけき揺籃(ようらん)に
永遠(とわ)を横たわり おおブラジル
アメリカの花飾りよ
新しき国の日輪に照り映えつ!
豊けき地ぬち 花咲きまさる


不思議な烏賊

サンパウロ中央老壮会 纐纈蹟二
 月遅れの文芸春秋に面白い記事があった。
 中国への進出企業に赴任した人が書いたもので、着任早々建材を提供する現場を視察することになり、中国人の運転手に中国人のスタッフと出掛けた。
 浙江省(せっこうしょう)に入る所で昼食にすることにした。高速道路より降りて、レストランを探すと、田舎町に似合わぬ、小奇麗なレストランがあった。席に付いて、メニューを見たら中国語である。それに写真が付いている。中国人たちは思い思いのものを注文した。自分は韮(にら)の和物のようなものと白く写っている烏賊(いか)らしき物を注文し、早速、烏賊らしき物を口に入れたが、まったく歯ごたえが無いほど柔らかい。よく見ると、先端に黒いものがある。どうも口らしく見える。言葉が話せぬから、紙に「これは何か?」と筆談すると「蚕だ」と返事を書いてきた。以前、蛹(さなぎ)のから揚げを試食した事はあるが、蚕の幼虫を炒めたのは初めて。一匹は食べたが、食欲がなくなり、烏賊と思ったものは中国人たちに譲り、韮の和え物で一応、空腹を満たした、と書いてある。
 よく考えると、海まで何百キロもある山奥に烏賊など有るはずなし、と悟った。
 それで昔、ある有名人の随筆を思い出した。
 中国で特別の人たちが食する珍しくてすごく高値な料理を食べたという記事だった。
 中国の友人と卓に着くと、皿に出された物は小指ぐらいの桃色をしたもので、これが鼡(ねずみ)の仔で生まれたてに蜜を舐めさせたもの。それにタレを付けて、奥歯で噛むとキューと鳴くというが、よく噛んで呑み込むと、残りの味が口の中に広がる。そこで老酒(らおちゅう)の上物のシャンオンチューを舐めるようにして飲むのであるとの手記を読んだのを思い出した。それで中国では蚕の幼虫を炒めた物は一般向きで珍しい物のうちに入らないと思ったのである。


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