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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2014年6月号

2014年6月号 (2014/06/13) 紀行文「山陰・北陸駆け歩き」(3)

サンパウロ名画クラブ 津山恭助
 十三日(日)。台風が近づいているというのでテレビの気象情報は毎日のぞく。私の伯父の次女K子は宮崎市内で結婚。年齢も近く同じ高校に通っていたこともあって訪日する度に会っているのだが、彼女の姉のY子は七年前に亡くなっていた。昼食を共にしたが、彼女には長年難病を患う長男がいて、その面倒を見ていて「疲れてしまった」という愚痴を聞かされて話もはずまないままで別れざるを得なかった。
 夜はH中学の同窓生が十四、五名集まって歓迎会を開いてくれる。訪日の度に幹事役のT氏が声をかけて駈けつけてくれるのだが、私を含めて皆さん年をとってしまった。おそらく今回が最後となることだろう。
 十四日(月)。ホテルを引き上げ再び鹿児島へと走る。新幹線の上りに乗って熊本へ。豊肥線で阿蘇駅へと向かう。阿蘇ホテル一番舘に宿泊。温泉風呂が付いており、噴火口を取り巻く五つの山が一望出来る仕組みになっている。
 十五日(火)。タクシーでひとまわりするもあいにくと霧が深くて写真も撮れない。二、三日前まで灰が降っていたという。阿蘇神社というのがあり、参拝する。山陰地方に足を伸ばしたいので熊本から新幹線をつかんで新山口から山口線で津和野経由で益田へ抜けたかったのだが、駅員からの情報では大雨のため途中不通になっている箇所もあるので、岡山まで行って伯備線を利用した方が良いでしょう、との助言を得たのでそのまま次の新幹線にとび乗る。
 十六日(水)。岡山から特急〝やくも〟で出雲へ。台風の影響か三十分の遅延。指定席も満席で取れなかったため三十分ほど立ったまま、高梁備中でようやく座れた。新見に近くなると鉄道に沿って川が流れていて、車窓の景色に変化を与えてくれる。松江に近づくにつれて窓から宍道湖が見え隠れしてくる。出雲市着は十二時十分。小さな観光町という感じだ。伊勢神宮のスケールと比べるとかなり小規模である。お土産はアサリ、シジミにする。
 平成二十年のNHKドラマ「だんだん」は島根県が初めて舞台になったとあるが、女主人公の双生児姉妹(三倉茉奈、佳奈)の父親・忠(吉田栄作)が宍道湖のシジミ漁師という設定だったのを思い出す。鳥取行き特急〝おき〟は二輌編成で指定席と自由席。しばらく走ると車窓に日本海が見えてくる。私にとっては生まれて初めて見る日本海である。夕陽が落ちたのは五時頃。車内で知り合った中年の夫妻(新潟県)と話がはずみ、別れを惜しんでくれる。鹿児島のホテルでたまたま知り合った老夫妻も私たちがブラジルから観光に来ていることを聞くといろいろと情報をくれて楽しい思いがした。ブラジルから一時帰国した人が口を揃えて嘆くことに日本人旅客の愛想のなさ、冷たさをあげるが、確かに新幹線の乗客にはあてはまることだが、ローカル線には結構話好きな人も多かった。鳥取駅近くの東横インは満席でAPAホテルに決める。APA系のホテルも多い。夕食は駅の構内で蟹の押し寿司にする。
 十七日(木)。タクシーを拾って鳥取砂丘に向かう。三十分ほどの距離。砂丘のスケールが小さくて失望。ブラジルのリオ・グランデ・ド・ノルテ州ナタールのドゥンナの方がはるかに大きい。砂丘会館というショッピング店があり、多少のお土産を求める。十時四十分の特急白兎で京都まで行く。一区間(智頭~上郡)がJRでないために二人で三五四〇円の割り増し料金を支払わされる。二時前に京都駅着。天井がすこぶる高い設計で独特の建物である。京都からはサンダーバード特急で一路金沢へ。指定席を取ってあったのでゆっくり乗り込む。琵琶湖を右に見ながらかなりの距離を走る。福井県に入って最初の大きな町が敦賀。福井市も過ぎて石川県に入り加賀、小松と通過して金沢に着いたのは四時過ぎ。やはり地方都市という感じで静かで落ち着いた雰囲気。東横イン香林坊に宿をとる。
 十八日(金)。ホテルを出て少し歩くと市場があり大きな蟹が並んでいる。ズワイにはロシア(オホーツク)産とある。二匹ずつ入れた箱を二人の義兄あて宅急便で送る。武家屋敷街もあったが、これは約十軒ほどが並んでいて観光客もかなり多い。タクシーで兼六園へ。日本三名園の一つにも数えられているのだが、期待したほどのことはなかった。しかし、石川県と金沢市では金沢城跡、兼六園などを構成資産とする「城下町金沢」の文化遺産群と文化的景観の世界遺産登録を目指して文化庁に申し込んでいるという。北国銀行で初めてドルの両替。
 十九日(土)。富山へと向かう。黒部峡谷鉄道は宇奈月からはトロッコ電車となる。深い峡谷を縫うように走ること約二時間。車内の観光アナウンスは富山県出身の女優・室井滋の声の出演である。欅平が終点となり、ここまで来るとかなり下界からは離れていることが実感出来る。空気からして異なる。一時間ほど休憩。
 夜は富山駅前の〝舞膳〟という割烹に入って蟹のうまいのをと注文すると、三十分ほど待たされてズワイの釜あげ(六千円)を出してくれた。ブラジルから観光に来ていると話したらいろいろとサービスしてくれた。(続く)


人生の思い出の一齣(3)

スザノ福栄会 杉本正
 しばらくして同ホームの経営委員会が必要となり、まず、スザノ管内の人で構成する事となり、石橋初恵氏、広田氏、岡部清三氏、私・杉本(自分は援協役員を辞して、委員に加わる)他四名(記憶が薄れて名前を思い出せず)。特にモジの堀井文夫氏も加わって頂き、経営委員長は援協常任理事の原沢和夫氏になって頂いた。これより先は、経営委員会における活動記事がある訳ですが、特別事項のみ記します。まず、面積約六万平方の土地また鶏舎の建物の利用について、中でも樹木を植えるに当たっては、よく花が咲くことで祭りなどに利用できるよう、頭をひねったものでした。
 幸いにして、石橋さんは苗木栽培者であるから各地方を回って、あまり植えられていないイッペーの木を植えたらどうかと発案され、名前も「イッペランジャ老人ホーム」とする意見を出され、皆賛同の下に現在に至っています。
 このような事に関しても当時の委員会の方々はすでに鬼籍に入られ、生き残りの私のみが知っているだけとなりました。
 以後に新経営委員になられた方にだけでも名称の経緯については知っておいて欲しいと思っております。
 老人ホーム創立十周年は原沢和夫会長にて祝典が行われました。
 書き忘れてはならないことの一つとして、一九九四年、山形県出身の元援協理事を務められた藤倉恵三氏が仲介の労をとられて、山形県よりすぐれたダリアの球根を寄贈して頂いたことです。今日では同ホームにおけるダリア祭りでの収入は最良のものです。
 藤倉さんは畑違いの養鶏関係の仕事でしたから、ダリア栽培には日本の東京農業大学出身の武吉七郎氏にお願いしました。氏があってこそ、栽培が成功したものとよく知る私は、その長年の苦労に対して今回表彰されることが発表され、何かと相談される立場になって、協力をできた事は本当に良かったと思うのです。
 一九九五年頃、すでに養鶏業を行っておられた会員の方はご存知と思いますが、老人ホームを開設以来、鶏舎を改良して利用。入居して頂いておりましたが、いつの間にか白蟻が入り、鶏舎全般に及ぶに至りました。当時、福博村は養鶏業の盛んな時代で、四十家族が養鶏に携わっていましたが、一斉に同じような被害を受け、建て替えをしたものでした。


伝記・三船敏郎

サンパウロ名画友の会 三谷堅一
 私が入会させて頂いている名画友の会では毎月、第二と第四土曜日の十二時半から邦画と洋画を一作ずつ上映しています。
 作品はすべてDVDディスコですが、その大半は会長の五十嵐氏、それに副会長の松平氏のコレクションされたもので、お二人の所有品を合わせると、何千枚というぐらいの数量との事です。
 当日は初めに邦画を見て、三十分ばかり休憩。この時、参会者の持ち寄りで頂いたご馳走をお互いに頂きながら、しばし、上映作品や主演俳優、監督等の四方山話をし、休憩後には洋画の上映です。
 過日、この四方山話の中で、三船敏郎の事が話題になりました。
 私も何かと聞かれましたが、知っているつもりでも実際にはほとんど何もわかっていなくて、かなり適当でない回答もして、正直、少々恥ずかしい限りでした。
 そこで帰宅後に参考資料等、調べてより詳しく分かりましたが、改めて友の会で話す機会もなさそうなので、このまま収蔵は残念と思っている時、幸いにも良いチャンスに恵まれました。
 前置きはこの辺でやめて、三船敏郎は大正九(一九二〇)年、中国山東省の青島(チンタオ)で父・徳造、母・センの長男として(一歳下に弟・芳郎、四歳下に妹・君子)出生。父の徳造は秋田出身。満州に渡り、大連で写真館を経営し、敏郎は少年期の大半を大連で過ごし昭和十五年、十九歳で陸軍に召集され、六年間の軍隊生活。この間、大半は航空写真から敵地の地図を作る作業に従事。終戦時は、熊本の特攻基地で、特攻の少年兵の教育担当。この軍隊生活中に東宝撮影部助監督の大山年浩氏と知り合い、映画界撮影所入りを誘われて、終戦後、東宝の砧(キヌタ)撮影所へ就職。しかし、本人の望んていたカメラマンのポストに空きがなく、他人から勧められて、ニューフェイスに応募したが、審査中の態度が悪く、さんざんで不合格。しかし、極端な風変りという事で、なんと、四千人の応募者の中から、補欠合格になった。
 この時、審査員の一人に高峰秀子がいた。三船は生家で身に着けた写真術と軍隊で修練した航空写真技術を生かす仕事を望んでいたが、ある日、電車で乗り合わせた谷口千吉監督から望まれて「銀嶺の果て」に初出演する事に。
 三船は「男のくせに面(つら)で飯を食うなど」と、極端に嫌がっていたが…。
 この作品を見た黒澤明に口説かれて「酔いどれ天使」に出演。それから三年経た時には、東宝が推すスター俳優の一人になっていた。以後、約十五年間、黒澤に次いで、溝口健二、稲垣浩監督の作品などに出演が続き数々の賞を受賞。海外でも「羅生門」でベネチア国際映画祭グランプリ。「宮本武蔵」でアメリカ・アカデミー賞。「無法松の一生」でもベネチアグランプリ。また、フランス政府から芸術文化勲章等と国際的評価を受けた。特に黒澤作品には十六作に出演など、生涯の出演作は百五十作にも及んだ。また、香川京子と九本、司葉子と八本も共演した。
 三船の性格は生まれついた潔癖(けっぺき)、生真面目(きまじめ)、律儀(りちぎ)、几帳面(きちょうめん)。一見、暴走(ぼうそう)と見えるぐらいの一本気。直情直行。豪放磊落(ごうほうらいらく)が目立った。
 その後、映画界はTVの普及で衰退(すいたい)。しかし四十二歳の時に三船プロダクションを設立。この頃、大映の勝プロ、日活の石原プロ、東映の中村プロ等が相次いで設立されている。
 そして昭和三十八(一九六三)年に東京世田谷区成城に約二千坪の土地を取得。スタジオとオープンセットを作り、自主製作を始める。この頃に三船はアメリカ映画にも出演。そのギャラは一本三十五万ドル(一億八百万円)。
 さて、世界のミフネになったが、その私生活は型破りで、ニューフェイス同期だった妻の幸子が家庭を支え続けた。特に女性出入りが激しく、数々の問題を起こしては、新聞、週刊誌の種にされた。度々の訴訟裁判を起こしたが、最後は認知症になり、死因は全機能不全で内臓はボロボロ。平成九(一九九七)年十二月二十四日、少数の家族に見守られて永眠。享年七十七歳だった。しかしこの少数の家族さえ、三船は判別不可能だった。


遠い日(1)

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 ♪エーサ、エーサ、エッサホイサッサ、お猿のかご屋だ、ホイサッサ。
 童謡を聞きながら、昔の事を思い出していた。
 七歳までマリリア市の郊外に住んでいた。私は色の黒い痩せた、お猿さんのような子だった。
 手も足も毛深く、髪の毛も多くて伸ばすと獅子頭になるので、いつもオカッパにしていた。
 日本に帰って小学校に入ると、クラスに色の白い子が長い髪をお嬢様刈りにしていて羨ましかった。
 昔、手足に生えた長い産毛が嫌で、剃ったり、軽石でこすったりしていたのに、気が付いたら今は手にも足にも産毛の一本もなく、頭髪も薄くなって、地肌が透けてみえるようになっていた。
 子供の頃は身軽で、木登りもドラム缶の上に上って転がすのも上手だったが、大きくなってやってみたら木にしがみついたままひと足も登れなかった。
 日本に帰って、いきなり小学校五年生に入れられたので、何も分からなかった。
 ただ、体操の時間に竹に登るのがあって、クラスの皆が苦労しているのに私はスルスルと登って、皆を唖然とさせた。
 本は好きでよく読んだが、書くのは駄目だった。当時、ブラジルは日本語を禁止していたので、近所の日本人の子ども十人ばかりが集まって、昔、先生をした人に読み書きと足し算、引き算を教わっていただけだったので、日本で算術、歴史、地理、理科などといっても何もわからなかった。戦争中なので、学校の授業はほとんどなく、勤労奉仕と学徒動員で女学校の卒業免状をもらった。考えてみれば、私がまともに勉強をしたのは、小学六年と女学校の一年の二年間だけということになる。


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