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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2014年7月号

2014年7月号 (2014/07/14) 級友、池本幸司君

サンパウロ中央老壮会 谷口範之
 「おい、谷口じゃあないか」。
広島弁訛でふいに後ろから呼びかけられて振り向く。見違えるはずのない池本幸司君が立っていた。中学時代の五年間、剣道部で稽古に励んだ仲である。
 「生きていたか」と彼。「貴様もか」と私。
 卒業以来五年ぶりの再会であった。
 シベリア探奥のラーゲリから一か月あまりかかって、北朝鮮北部の仮収容所へ転送された翌日の事であった。
 痩せ衰えている私を見つめていた彼が「食物はあるか」。
 「ない。今日で二日間、水だけだ」。
抑留中、二、三日間の移動にはいつもの薄粥の支給さえないのが当たり前であった。
「そうか。俺、白高梁(こうりゃん)を持っている。食べさせるぞ。来い」。
 ひこばえが出ている大きな切り株の根本に私を引っ張って行った。そして大き目の缶に袋から白高梁をザーと入れて、水筒の水を注ぎ石を積んだかまどにかけて、枯れ枝を押し込みマッチで火をつけた。
 やがて煮立った匂いに胃袋が収縮し目がくらんだ。炊き上がると一つまみの塩をふりかけ「食べろ」と勧めるのであった。飢えた犬が餌をガツガツと飲み込むように一粒も残さず、夢中でかっ込み、人心地がついたところで初めて彼にたずねた。
「こんな貴重品をどこで手に入れるんだ」
「俺たちの部隊は物持ちでな。一週間毎に食料やマッチなど支給してくれるんだ」。
 強盗まがいに何でも強奪したソ連軍相手に、部隊幹部はどんな手を打って必要物資を確保し続けたのか? 理解を超える話であった。翌日彼は部隊と共に収容所を去っていた。
 あの逆境の中で、一椀の飯を振る舞ってくれた暖かい友情は、言葉では言い尽くせないほど嬉しく、忘れ得ない思い出である。
 復員してからは、激しい悪性インフレ、父母の死、結婚と目まぐるしい三年が過ぎた頃、抑留と復員後の無理がたたって、足腰が立たなくなる。どうにか回復すると、手遅れになっていた痔疾の出血が止まらなくなった。入院し、手術を受ける。二週間の入院予定が二か月過ぎても手術の傷が癒着しない。医師はもう一か月、入院を続けろと言うが、入院費用が払えなくなっていた。
 進退極まった時、どこで聞いたのか、池本幸司君が見舞いに来た。聞けば、私より一船早く帰還したという。
 彼は私の窮状を知ると、剣道部の先輩を回って金を借り集め、救ってくれた。その上、親を説き伏せ、病院に近い住居の二階の一部屋に私たち夫婦を住まわせ、通院治療が楽に出来るようにしてくれた。そんな彼の思いやりにただ感謝するばかりであった。お蔭で手術の後も癒着して、もとの町に戻る事が出来た。
 朝鮮戦争の特需景気の余波で私たちの暮らしも人並みになった頃、彼は結婚した。時々会っては酒を飲むような付き合いが続き、「女の子が出来たんだ。可愛いんだ」と相好をくずしていた。しばらくして、「育児の事で母と妻の間がこじれたんだ」と浮かない顔を見せた。その後、仕事にかまけて二か月も会わなかったが、ふいにやって来た彼が
「離婚したんだが、娘を引き取って母が育てている。辛いんだ」と情けない表情で私に泣き言を言った。
 それから一年も経った頃、彼がポツンと私に告げた。
「また、結婚した」。
 つかず離れずの付き合いが数年続き、私はブラジルへの移住を決心する。彼は
「行くなよ、と言ってももう、止められないよな」と俯(うつむ)いてつぶやいた。
 渡伯三十年後、初めて訪日し、真っ先に彼を訪ねた。ところが彼の住居は区画整理にあって無くなり、街並みはすっかり変わり果てていた。移転先を知る人もなく、区役所で調べると、彼の住所は元のままであった。電話局に事情を告げて、「電話番号を教えて欲しい」と頼む。が、「個人情報は教えられません」の一言で断られた。三十年の空白を埋める術(すべ)もなく帰伯した。
 彼は私の逆境の時、救いの手を伸ばしてくれたが“助けてやったぞ”と恩着せがましい事は一度も言わなかったし、態度にも見せなかった。俺、貴様の間柄をいいことにしたわけではないが、彼に一度も「ありがとう」と言った覚えがないのである。
 残り少ない人生の今となっては、彼との再会も感謝の気持ちも伝えることが出来ない。心残りの一つになった。


あんな事こんな事

アルジャー親和会 佐藤ゆきえ
 アルジャー親和会では、両親や周りの人たちとか、自分の開拓当時の事などを、今のうちに書き残し、消えてしまわない様に子孫に残して、いくことに力を入れております。
 毎月交代で発表し、いずれは、ポ語に訳す予定で取り組んでおります。
 また戦後移民の私たちも、体験してきたことや、戦時中のことなど、覚えていることなども残しておくことをしなければ、と思います。
 先日もテレビでの座談会を見ていましたが、やっぱり、いろんな記憶があやふやになってきていると、感じております。私と同世代の方はまだ沢山日本にもいらっしゃるので、それぞれ残していらっしやるかたも多いと思いますが、私はわたしなりに、残しておきたいと、思っております。
 それは昭和十年わたしが小学校に、入った年でした。「サイレン、サイレンラッタラッタラッタタ」と、腰に手をあてて、スキップをしながら、校庭で、ダンスを習っていました。(このメロデーのとこだけ今でも頭に残っています。)
 当時、天皇家に内親王が、お二人か三入お生まれになった後で、その年はぜひ皇太子の御誕生をと、国中でお待ちしていた時だったらしく、もし皇太子だったら、国中のサイレンが鳴らされると云うことに、なっていたとのことでした。
 今か今かと大人たちは大変な熱気に包まれて、いたようでしたが、子供だった私たちは、何度も何度もラッタラッタと、踊っていました。そして国中で待ちわびたサイレンが、鳴り響きました。途端に大人たちの喜び感激は大変だったと思います。子供の私たちは、紅白のおまんじゅうを頂いたのでした。
 これが、今の天皇陛下のお生まれになった、国中待望の日だったのでした。
 やがて昭和十二年七月、支那事変、昭和十六年十二月八日、日米開戦、大東和戦争に突入、この日女学校に、行く電車に乗ろうと片足を車内に入れた時、駅構内のラジオから、勇ましい軍艦マーチが鳴り響き、日本海軍の真珠湾攻撃のニュースが聞こえてきました。
 その後は、女子挺身隊にかりだされ、勉強どころでは、なくなっていくのでした。本土空襲、ろくに食べるものも無くなり昭和二十年八月十五日をむかえました。
 天皇陛下の玉音放送があるので、全員ラジオの前に集まれとのことで、私は大人たちの一番後ろに、正座してひれ伏し、耳をすましていましたが、なにか雑音が高くよくわからないまま、すすり泣く大人たちの声で、戦争は終わったことが分かり、もう空襲はないのだと、ほっとしたものでした。
 それからが、大変でした。若い女たちは、髪を切って顔に炭をぬり、山奥に逃げろ、という通達があり、大騒ぎでしたが、なにもそんなことを、しないですんだのは、何事もなかったのか、進駐軍(アメリカ兵)は、紳士的だったのでしよう。初めて見たアメリカ兵は、大きくて顔が赤くて、まるで赤鬼のように見えたものでした。


紀行文「山陰・北陸駆け歩き」(4)

サンパウロ名画クラブ 津山恭助
 二十日(日)。朝は小雨。富山駅での情報により特急〝はくたか〟に乗り越後湯沢まで約三時間。ここで上越新幹線を利用すると一時間ほどで東京。駅の構内のカレーライスで昼食。そのまま東北新幹線で宇都宮となる。ちょっとうとうとしていたら一駅乗り過ごして那須塩原まで行って引き返す。宇都宮からは急行で鹿沼へ、タクシーでS宅に着いたのは夕方五時前となっていた。それでも富山を朝発って夕方には栃木まで着いてしまうのだから、新幹線は有難い。
 二十一日(月)うかつだったが、宇都宮駅ではレールパスを発給していないことを知り、またS兄の好意に甘えて福島駅まで走ってもらうことになった。かなり時間はかかったがようやく出来上がり帰途につく。宇都宮市に立ち寄り、ガラクタ鑑定団なる中古品専門店をのぞく。中古品のデパートである。早速DVD映画の五百円相当のものを十本ほど求める。洋服、家電製品、レジャー用具何でも揃っている。
 二十二日(火)。宇都宮から北海道の観光へと出かける。やまびこ53号で仙台へ。ここからははやぶさ9号に乗り換えて新青森まで、次に〝特急スーパー白鳥〟で青函トンネルを通過。今はこの線路の下方に自動車道を建設しているらしい。午後三時函館着、東横イン朝市にチェックインしてすぐタクシーで五稜郭へ。雨がぱらつき始めた。夕方、函館山へ登り街の夜景を眺める。店ではお土産も買い込む。
 二十三日(水)朝市めぐりで品物は増える一方。駅に着くと土砂崩れのため札幌行きの列車は一部が通行止めとなっており、途中はバスに頼るほかはないというので、諦めて一旦青森まで引き返すことにする。函館の名物いかめし弁当は大したことなし。焼きとうもろこしなどを味見する。青森駅付近では海鮮市場でホタテ貝を選んで宅急便で義兄二人に送る。町には台湾からの観光客グループがあちこちに見受けられた。青森から奥羽本線の〝特急つがる8号〟で秋田へ向かう。途中弘前、大館などを通過。終点秋田へは夕方七時着、APAホテルが宿。日本のコンベニ、セブン・イレブン、ヨーカドウ、サンクス、ファミリー・マート、ローソン等は二十四時間営業しているので観光客にとっても非常に重宝な存在でとにかく弁当各種が手ごろな値段で入手出来て有難い。それにおでんなどは結構おいしいのである。
 二十四日(木)。ホテルの朝の窓から見える近くの公園の木々の葉が紅葉しかかっていて見事だ。秋田新幹線こまちで角館まで行く。武家屋敷と桜の名所とある。観光客用の人力車も走っている。町を一回りしてタクシーで田沢湖まで出かけてみる。この湖の周囲が二十キロ、そして日本一の深さを持つ湖であり、そのため真冬でも湖面が凍りつくことはないそうだ。魚は棲息していないという。湖畔には辰子像が建立されている。昼食は角館駅前の〝桜風亭〟で秋田名物のキリタンポを試食してみたが、お世辞にもうまいとは思えない。仙台から新幹線やまびこ15号で福島まで、僅か十分足らずで着いてしまう。ここでも深刻なホテル難に出くわす。例の放射能汚染の洗浄のための技術者などの出張が相次いでいて宿を借り切りのところが多いせいらしく、観光客にはいい迷惑。思い切ってタクシーに頼んで郊外の飯坂地区の赤川屋旅館まで連れて行ってもらう。外は雨になっている。
 二十五日(金)。朝から雨である。一か月を予定した滞日数も残り少なくなり、帰国の日が近づいてくる。K兄の住む笹谷の仮設住宅にタクシーを乗りつける。兄も八十二歳にしては元気である。三人の娘もやって来て二時間ほど歓談。次女のNの車で飯坂温泉へと向かう。今日は兄の接待であり湯左衛門という老舗の温泉宿。飯坂は鳴子、秋保(宮城)と並んで奥州三名湯に数えられる由緒ある温泉地。かつては六十軒ほども並んでいた宿も近年は観光客の激減により廃業が相次ぎ、今残っているのは二十軒ほどという。
 二十六日(土)。まだ雨が続いている。Nのガイドで郊外に出て吾妻総合運動公園が目的地。日本敬神崇祖自修団という神社でひと休み。福島県は日本有数の果樹生産地帯でもあり庭坂地区を走ると果樹園ばかり、二百~三百本規模で柿、林檎、梨、さくらんぼ、かりん、葡萄等が植えられており、直売場も設けあれているほか、果実狩りも行われていて活況を呈していたものだが、震災以来すっかり客足が途絶え淋しくなっている由。四季の里という大きな公園で小休止をとり、小雨の中を引き上げる。


人生の思い出の一齣(4)

スザノ福栄会 杉本正(九十七歳)
 時の老人ホームの石橋聖哉経営委員長は入居者の住居の建て替えはともかくとして、せめて催しごとを行っている講堂を先にと、スザノ在住の人に援助をお願いし、建て直しをすることになりました。不足金は本部からの協力をお願いすることにして早速委員は援助願いの寄付周りをしたものでした。幸いにして、皆さんの協力と理解を頂いて、建設することが出来たのです。
 ちょうどその頃、同ホームの創立二十周年が間近に迫っており、祭典資金の問題もあったが、万やむを得ず、黙視。入居者の住居の建て替えについては、相当な費用が必要となる事から、当時の援協会長の和井氏が笠原建築技師の設計案による三十五万ドルの見積もり額を日本の財団三か所に協力をお願いできるように交渉に入っていると援協事務局長の山下さんから聞いていた。ほどなく本部から日本財団の職員がホームの視察に来るからとの連絡があって、立ち合いに行った
 別に私たちに質問されることもなく。さっと見渡しただけで提案額の三十五万ドルは「援助します」と言われて、かえってこちらが驚いたものであった。当時の日本財団の理事長は曽野綾子氏であった。聞くところによれば、曽野氏は単に文筆家のみでなく、世界各国を回られて、福祉に対しても大変造詣の深い御方であるという。
 二〇〇一年老人ホームの新築建設工事となて、私たち委員も毎日のごとく交代で出席をし、笠原技師からは種々の建設中の構造やその進み具合を聞くなど、委員たちも真剣なものでした。完成後のできあがあり姿を外から見て、なかなか瀟洒(しょうしゃ)にできたな、との感を受けたものである。
 さらに入居者が満足を得られる部屋など、一切の建物の完成を見て、一同は祝杯を挙げたものでした。
 次いでも部屋内に必要な諸設備品にあたっては相当な金額となるので、委員内でも今まで使用してきた古品でも使用できるものは利用しては…との話もあった。しかし、すでに本部では前もって、無償協力してくれる会社などを物色しており、幸いにも三菱商事会社が引き受けて下さり、部屋一切の備品を揃えて下さった。金額にして七万ドルにもなった。
 ホームも本格的に入寮者を扱うことになり、定員は三十二名。費用は一部屋二人入居の場合、一人の費用は四サラリオとして、今日でも継続されています。
 さらに入寮者が医療のためにかかった場合の費用は別途支払っていただくのが規定となっています。また、入寮者の方からご意見が出た場合、経営委員会は責任ある立場として、会議にかけて、十分審議することと規定されています。
 以上、拙文ながらイッペランジャ老人ホームが歩んできた過程について、簡単ではあるが記してみました。
 最後に私ごとですが、今回、老人ホーム創立三十周年を迎えるにあたって、経営委員会の委員長から委員の改選が行われた際、自分の年齢を考慮して除外してもらうことにしました。
 思えば、老人ホーム開園以来、三十年間、経営委員のひとりとして日々、楽しさと喜びを持って無事、務めさせて頂きました。日伯福祉援護協会に心から感謝を申し上げます。


一期一会「Valeuブラジル、Valeuコリンチャンス」

平安山良太(へんざん・りょうた)
 初めまして。沖縄出身で大学は愛知県中京大学。現二十四歳の平安山良太と申します。
 五月中旬にサンパウロに到着し、熟年クラブにてお世話になっています。
 実はブラジルは二度目で以前はパラナ州クリチバ市に住んでいて「サンパウロは治安の悪い危険な都市だから気をつけろ」と言われていたので、正直、ビクビクしながら町ですれ違う人間をすべて「強盗ではないか?」と疑いながら歩いていました(笑)。
 しかし少し慣れてくると、熟年クラブの日本人、日系ブラジル人の方々、町で出会うブラジル人、コリンチャンスの仲間たち等みんな優しくて良い人でクリチバと同じく、好きになりました。
 もちろん、治安対策は欠かしていませんが、僕の周りには人間性の素晴らしい方々が多いみたいで、楽しくブラジル生活を送っています。この場をお借りして、感謝申し上げます。
 僕はサンパウロに来た時期が時期だけに、よく初対面の方から「W杯を見に来たんですか?」と聞かれます。そして、実際にW杯の試合を見に行ったりして、とても楽しませてもらっています。ですが、W杯があったのはたまたま偶然で、実はサッカーを〝やりに〟来ました。〝やりに〟来たとは言っても、僕は早くに怪我で選手としての航海を終えてしまっていて、現在は指導者として活動しています。
 ブラジルでお世話になっているチームは「SCコリンチャンス・パウリスタ」という二〇一二年には世界一にも輝いた名門です。世界一を決める大会は日本で行われ、数万人の熱いコリンチアーノは日本でもとても大きなニュースになり、一躍有名になりました。
 僕もコリンチャンスが世界一になった瞬間はスタジアムで生観戦していて、日本とブラジルのサッカー文化、レベルの違いをまざまざと感じました。
 コリンチアーノが作り出す日本にはなかった独特の雰囲気に影響され、多くの日本人が試合後にコリンチアーノになっていました(笑)。
 サッカーファンが言葉の分からない異国の地で、新たなサッカーファンを生み出す。「そりゃ言葉の分かる自国で毎日この雰囲気の中にいたら、サッカー王国にもなるな」と思わざるを得ない感動を届けてくれました。
 あれから一年半。すっかりコリンチアーノになってしまった僕はコリンチャンスの十歳から十五歳のチームに関わり、幸せな日々を過ごしています。〃コーチ〃として、本来は教える立場ではありますが、僕は研修生であり、何よりこのサッカー王国から色々と学ぶために来伯しました。日々一考、一歩前進。そんな日々です。
 W杯期間中は日本のメディアやサポーターのお手伝いを微力ながらやらせてもらって、生活費に当てています。日本のプロクラブにいた時の貯金も使っています。
 将来的には地元、沖縄のプロサッカーチーム、FC琉球を世界一にするのが夢です。かなり大変な道になるのは自分が一番分かっているつもりです。
 ブラジルのクラブとの協力、ブラジル人選手獲得、日系人の方々との交流。ブラジルから学び得た事を通して少しでも夢に近づきたいと考えています。
 これからも是非よろしくお願いします。


遠い日(2)

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 日本に帰って山口県と広島県の県境にある父の本籍地、和木村という所に家を建てた。川を挟んで対岸は大竹市で広島だった。大竹には潜水学校と海兵団があり、海軍の兵隊が大勢いた。
 和木村の村人は純朴で良い人ばかりだったけれども、母が田舎は嫌だというので、広島市に出た。
 私は新築の家に入りたかったけれど、広島市内の家は近くに広島師範や市役所があり、都心まで徒歩三十分ぐらいの便利な所だった。
 ここで私は生まれて初めて、町内子供会に出席した。会場は通りの奥にある大きなお屋敷で、本に出てくる大名の庭みたいな木がいっぱい植わっていて、鯉の泳いでいる池があった。その庭を眺めながら、歌ったり、お話を聞いたり、お菓子を食べたりした。
 原爆の後で行ってみたら、瓦礫の山でお屋敷も私たちの家も何もなかった。私の家の向かいにキリンビールの重役さんが住んでいて、綺麗な女の子が三人いた。後に仙台に引っ越して行き、音信不通になった。その隣は住友銀行の支店長の家で、よく芸者さんたちが出入りしていた。父は支店長さんの紹介で、その芸者さんから常磐津(ときわづ)を習っていた。
 時々、芸者さんが何人か「お母さん、コーヒー飲みに来ました」とやって来た。母は嫌な顔もせずにコーヒーを飲ませていた。
 当時の広島の川は水が澄んでいてシジミ貝がいくらでもとれた。子供たちは欄干から飛び込んで泳いでいた。
 夏になると学校から近くの川に泳ぎの練習に行き、帰校すると、生姜湯を飲ませてくれた。冷えた体が温もって、ほんのりと甘い生姜湯を今でも思い出す。時々、パン屋さんが一人に一斤の売り出しをしたので、一家総出で行列に並んで食パンを買った。女学校は市立高女に行った。市の役員や弁護士、会社社長や商店の娘などが通うお嬢様学校で、クラスで家の近くに住む子と仲良くなった。彼女の家に遊びに行ったら、彼女が着物で現れ、部屋に通された。本棚には世界名作が並び、日本人形や西洋人形、ぬいぐるみ、花が飾られ、女中さんがお茶やお菓子を持って来てくれ、やはり着物姿のお兄さんが彼女に優しく話しかけている。私は吉屋信子の世界に来たような気がした。


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