移民百年祭
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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2014年8月号
2014年8月号 (2014/08/10)
徒然なるままにカナダでの日々
サンパウロ中央老壮会 篠崎路子
五月六日、遥かに残雪の残るロッキー山脈を見渡せるバンクーバ空港に私たち三人は降り立ちました。三人というのは、娘の義母、友人のT子さん、そして私の三人で、バンクーバーで共同生活をしようと、アパートを借りたのです。
七十歳代の三人。各々が個性豊かで性格的にも問題なく、誰もが高齢者である自覚など無く、まるで女学生時代に戻ったような楽しい時間が過ごせるよう願ってスタートが切られました。
娘が用意してくれたアパートは、大通りから百mばかり入った四階建ての三階。広い公園に面し、サーラ(リビング)の窓を開ければ巨大なクリスマスツリーのような樅(もみ)の木が何本もうっそうと茂り、手入れされた芝生は緑豊かに緩やかな起伏で、申し分のない景観です。一寝室、台所、サーラには二脚のソファー。一脚はダブルベッドに早変わりします。骨董品めいたランプスタンド、小机、壁には古めかしい風景画の額が掛けられ、テレビはNHKまで入るようになっています。冷蔵庫、ガス台、台所用品、食器類もすべて備え付けられ、冷蔵庫には当座の食品も娘が差し入れてくれていたので、買い物に走る事もなく、夕食はうどんという事でメニューを決め、到着当日から良い幕開けです。
翌日、起床は六時半。T子さんの指導よろしきを得て公園で気功とストレッチを小一時間。うっすらと汗をかいた後は優雅なカフェです。クロワッサンにトースト、ママレード、ヨーグルト。季節の果物はイチゴ、桃、ブルーベリー等々。水道水はミネラルたっぷりの雪解水でイングリッシュティー。味も香りも良く、気分は最高です。十時頃からいよいよ行動開始。娘の勤務する図書館見学です。あらかじめ購入しておいたシニア料金のバスチケットを手に公園前のバス停から乗車。シニア料金は一ドル七十五セントで一時間半乗り降り自由。ベビーカー、車イス、自転車もバス前頭部に括り付けられており、海沿いの草花、植木に彩られた住宅街をおよそ三十分走って図書館に到着。先進国のカナダでは図書館の存在価値は大きく、市民の生活に重要な位置を占めています。児童室、コンピュータ室、プライベートな授業が出来る個室、隣接するシニアハウスから毎日ご出勤?のお年寄り室など行き届いた空間が用意されています。税金、消費税、共に決して安くはありませんが、間違いなく納税する国民の生活に還元されているのです。
時には五月の爽やかな風に吹かれて二ブロック先の家庭菜園までお散歩です。市役所からの借用地に十m四方の一区画に芥子(けし)、矢車草、パンジー、牡丹、ベゴニア、などの花が咲き乱れ、サラダ菜、人参、さやえんどう、インゲン豆、チンゲン菜などの野菜やイチゴ、ベリーなどの果物類も熟するのを待つばかり。出入りは自由。誰一人花を手折る者はなく、作物を失敬する人もいません。むろん、どの家も垣根は低く、各々に好みの草花や植え込みがあり、道行く人の目を楽しませるように工夫、手入れされています。庭の手入れに精を出す老夫婦の姿も良く見かけられ、微笑ましく感じました。
豊かな自然環境に恵まれたカナダは実に自然と人間の生活の調和がとれて、人間は自然から沢山の恵みを受け、自然界に住まわせてもらっているのを感じます。
日曜日は婿殿の運転する車で三十分程の距離にある日系コミュニティを訪ねました。日本語学校、移民資料館、婦人部、武道部などが併設されているのは、サンパウロの文協と変わらないのですが、隣接する広い敷地内に二階建てのケアハウスがあります。利用者、訪問客が共に会食できるレストランも運営され、和食のメニューもありました。ケアハウスから市内に通勤し、現役で働く人もいるとの事。シニア料金と言って、週に二回、レストランで特別料金があったり、月に一回のショッピングセンターでの買い物デーがあったりして、高齢者に優しい国で、未来の大人である子どもたちにも何かと手厚い保護があります。
これから八月末頃までは、昼の時間が長い白夜で、夜九時過ぎまで明るいので、つい就寝時間をうっかり忘れてしまうのですが、夕食を早めに済ませた家族連れや若いカップルで大通りは賑わいます。フリーマーケットでは各国の珍しい食べ物の屋台が出て、舞台ではダンスやバンドに興じる人々が…。
三人の共同生活も、明日にはT子さんが息子さんの住むロサンゼルスに向かいます。バス、フェリー、地下鉄を乗り継いで一時間足らずなので、散歩がてらに飛行場まで。婿の母上と私はまだ暫くアパートでの生活が続きます。カナダの生活のあれこれをまた続けることにしましょう。今回はここまでとします。
移民の慕情
インダイアツーバ親和会 早川正満
海外で生活し続けるという事は、当然、日本語との接点が希薄になるという事だ。やむを得ないと解かっているが、年寄りになるに従って、日本語に対し無性に思いが強くなるのは一世なるが故と気付いてきた。
最近あった名文のひとつを紹介したい。
人間は食うために生きるのではなく、生きるために喰っているのです。稼ぐのは目的ではなく、楽しむために稼ぐのです。
なるほど、たったこれだけの文で人生哲学の一講座を聞いたような気がするのだから、日本文の奥深さが分かる。
最近、日会や知人以外から、「身内の葬式は仏式でしたいからお経を少しでもあげれる人はいないか」との依頼が続いている。それを詩調に綴れば、
異国の地に眠る 移民の君に
正信偈(しょうしんげ)の経に添えて送る
私の名は移民僧
帰命無量から往生安楽國まで
素人でも心を込めて 同胞の集団より遠く
祖国からはとうに忘れ去られる民達の
最後の安らぎは
親族と一輪の花と涙で濡れた手で
埋葬された墓の土をなぞられる時
移民僧の経は死者より残されし子等の
未来の背を押すように唄い続ける
もうひとつ。これはすでに宇野博先生から「老壮の友」に紹介された当親和会の一場面。
美人の異人妻を娶り、ブラジル社会で生活を謳歌してきた人々が、日系老人クラブの集会をちょっと覗き、紳士然として入ってくる。
若き時は日系集団から垣根越しの接触で近づき難く、白人妻も望まなかったことだし、己も日系社会より一歩先を走っていたような気がしていた。だが、年寄りになり、日本語の混じった大声で酒盛りをしている集団を目にした時、日系であるもう一人の自分が背を押すようにここに来てしまった。子供移民でも老いて目覚める。過ごした人生が違えども、集まるメーザ(テーブル)は同じって事か。そう。孤独で老いるより、同胞の皆と老いて行く方が楽しいさ。
さあ、君の椅子もここに用意してあるよ。
詩「田舎者の誇り」
ラバペイと云う蟻がいる。
砂を盛り上げただけの城を持っている小蟻だが、
毒は体の十倍も持っている。
城に足を振り落すと、名そのままのように
足を洗う如く這い上がってくる。
田舎を知らぬ田舎者がよく被害に遭う。
田舎の危険は、そこに留まって、
見慣れると危険が不思議な別世界と思われてくる。
移住してその住民と認められるには、
田舎で生活を完成することが一番だ。
日系コロニアをマイス(さらに)百年
押し上げるのも田舎者の日系人だ。
小さくても元気なラバペイのように。
紀行文「山陰・北陸駆け歩き」(5)
サンパウロ名画クラブ 津山恭助
二十七日(日)。宇都宮市内の福田屋なるどでかいスーパーに足を入れる。衣類を少々買い求める。隣の電気商会でポータブル・DVDプレーヤーを見つけて買ってしまう。
夕方、群馬県境に近くの足利市の〝あしかが・フラワー・パーク〟を見学。小さな無数の豆電球で色とりどりの模様が描かれている。特に紫の藤棚、山の中腹にしかけられたサンタ・クロースの橇、お城などは豪華なもので見栄えがする。人出もかなり多く、珍しいものでは日系ブラジル人若夫婦の出しているシュラスコのサンドイッチとグァラナ(五百円)で早速味見する。十年ほど前からやっているのだそうだ。
二十八日(月)。S兄の案内で那須高原に遊ぶ。好天に恵まれて快適な高原の秋を満喫する。紅葉を見るのが目的だったのだが、今年は暖かさが続いていて色づくのが遅れているらしい。それでも部分的にはちらほら見事な紅葉も見られてカメラを向ける。昼食は田舎風の食事処「茶屋卯三郎」というので大いろりを囲んでの凝った店だった。午後もステンド・グラス博物館などを回ったが面白かったのは那須戦争博物館で栗林白岳(八七歳)という御老人が館長。パンフレットによると一万五千点の品物が展示されている。零戦エンジン、陸上戦闘機、B29エンジン、ほか各種軍装、満州開拓団に関する資料、武器などがところ狭しと並べられている。あの、先日他界された小野田寛郎氏も理事の一人として名が連ねられている。たまたま栗林老人が館内で休んでいいたので二、三言葉を交わして小野田氏がブラジルで牧場を経営していることを告げると、日本にいる方が多いと語っていた。今日の宿は那須サンバレー・ホテルというデラックスなもの。ホテル自慢のバイキング料理は滞日中でも最高級の豪華版で記念すべき接待となって印象に残った。二百人ほども収容できそうな大食堂なのである。勿論温泉もありサウーナの設備もついていた。
二十九日(火)。日光の観光は昔一度行っているので止めて鬼怒川沿いに帰途につく。途中日光花いちもんめ(花と緑の楽園)で小休止。ハウス内での花、観葉植物類の展示、販売場だが大したものでもない。夜はブラジルとの電話も通じて娘との対話。そろそろ里ごころも湧いてきた。
三十日(水)。あと二日を残すのみとなった。午後S兄に頼んで再び宇都宮市の中古品スーパーに走ってもらう。DVD映画、四、五本を求める。夜は鹿沼市内の料亭〝一銚〟での食事。マグロのネギトロに泡盛を二杯。部屋に入ってからは全てコンピューターによる注文でゆっくりできる。成田空港へ四個のトランクを宅急便で送っておく。
三十一日(木)。プロ野球の川上哲治氏(九三歳)死亡のニュース。日本の最後の日でもあるので思い切って東武線で新鹿沼駅から浅草へ向かう。特急で一時間二十分。春日部、栃木、北千住、東京スカイツリー、浅草となる。スカイツリーで下車して写真を撮る。階上に行くには一時間半ほども待たされるというので止めにした。浅草まで足を伸ばして仲見世を見物しお土産などを少々。四時前にはS兄宅に戻る。夜の日本シリーズ第五戦、楽天―巨人(四―二)は延長戦にもつれ込んだが、勢いは断然楽天にあり、巨人の不甲斐なさのみが印象に残った試合だった。
十一月一日(金)。午前中は先だって鰻を御馳走になった大芦川の河畔を散策。午後二
時S兄宅を出発、途中ドライブ・インで休んで成田空港には四時半頃着く。宅急便を受け取り六時にはETIHAD航空の受付も始まり八時にゲートに入る。S夫妻との最後の夕食は四人で啜ったラーメンだった。免税店での買物はカラシ明タイコほか。機内はほぼ満席でアブダビでの待ち時間は約四時間。クンビッカ空港には十一月二日(土)の夕方五時であり、娘二人が出迎えてくれた。(完)
素人芝居
サンパウロ中央老壮会 纐纈蹟二
日本人会の書記で日語学校の教師だった人が毎月会報を出して、全会員に配布していた。その人が、急にパラナ方面に家族と共に引っ越して、後任を探した。
教師は見つけたが、書記役が見つからぬ。コーケツは俳句をやっているから、毎月の会報が書けるかも、と私を役員に引っ張り出した。
日本人会で敬老会を催す事になり、ひとつ会員で寸劇でもやるとお年寄りが喜ぶからと提案されたが、役員の中に「それでは私が」と言うのが出てこない。
少し遠方になるが、芝居の先生が会員だったのを聞きつけ、会長に「一幕の芝居をやれ。俺が道具一切を貸し出し、指導もするから役者を三人探しせ」という事で、今度は役者探しを私が担当して、若くて美男、芝居に一度出た事がある人を見つけた。
外題は「神崎与五郎東下り」。次に茶屋の婆様役も見つけた。次は汚れ役で憎まれ馬子を探したがどうしても見つけることが出来ず、折角の好意に応えることができないと、彼の家へ行き断ると「オイオイ、馬子役は見つかった。心配するな」と言う。ヘェーと驚く私を指差して「お前だ、やれ」と言う。遂に決心して、その役を引き受けた。台本三人分を書き、二人に渡し、本読みから始め、先生も来て所作を指導してくれた。これは昔流行った浪曲芝居で、浪花節に合わせて動き踊るような所作で行くので、テープをかけて練習を重ねた。
敬老会の当日は地元の人が芝居をやるというので、朝から超満員である。歌謡曲や舞踊が終り、いよいよ芝居である。
幕が開くと、背景の富士山を背に神崎がお茶をすすっている。そこへ左側より馬子が蔭に馬を繋いで「ババア、いっぺい呉ろ」と茶碗酒を飲み干してじろりと若い侍(さむらい)を見る。役者が侍に化けて江戸に行くと思い込み、つかつかと傍に行き、雑言を吐き散らす。怒って刀に手をかける。どうせ竹光と睨んでいるから平気。「ヤイ、サンピン。斬れるものなら斬ってみろ」と啖呵を切る。浪曲の聞かせどころ。『山科(やましな)出る時、大石が成る堪忍は誰もするならぬ。堪忍するが堪忍』とやる神崎は怒りを抑えて我慢する。見せ所。馬子はそれを横目に「婆さん、もう一杯」と酒を取り、酒の泡をぷっと向こうに吹き、一気に飲み干して侍の所へ行き、詫び証文を書かせ、漢字は難しいから仮名書を取り、それを舞台の正面で読み上げる。
「あさのぞうににかんざけよかろーはァ、白い紙に黒い墨の字はよいものだ。「あさのぞうににかんざけよかろか」と不敵な大笑いをして「箱根八里は馬でも超すが」と地声で唄って左から楽屋に入る。
舞台では茶屋の婆様が「お侍様、よくぞ我慢をされましたなぁ」。軽く頷いて、神崎は右手に消えて幕でチョンチョンという芝居だった。
或る人が芝居をやるからとひげをそって来ては「まずい。二週間もおくと、かなりな髭面になる。その髭一面に化粧をすると凄味が出て迫力が増す。つるつる顔にすみを付けては面白味が無いと言われて、頭を掻いた。
後日、婦人会を始め、関係者の慰労会で「茶碗酒を実にうまそうに飲んだが酒が入っていましたか?」と聞く。「無いものを有るように真似るのが芝居ですから、茶碗で飲むふりをしただけだ」と言った。毎日飲む酒を地でいっただけだった。
もう四十五年ぐらい前の事であるが、私も素人芝居の役者をやったこともある。一つの思い出である。
熱気球して来た!!
サンパウロ中央老壮会 大久保純子
W杯が日本もブラジルも今ひとつパッとしない結果に終わって間もない七月。十八日から二十八日にかけて、聖州リオ・クラーロ市で南米初の第二十一回熱気球世界選手権が開催された。
ここで見事に日本の藤田雄大さん(二十七、栃木)が優勝。二位はドイツのウーベ・シュナイダー氏、三位はブラジルのルペルシオ・リマ氏と日独伯が入賞を果たした。
熱気球の世界選手権は二年に一度開催され、次回は日本の佐賀である。競技は定められたターゲットに風を読んでいかに近づくかが競われる。従来、欧米系が強く、世界選手権で日本人が一位に輝いたのは初めての快挙になる。今回の世界選手権では二十二カ国、五十八機が参加。日本からも選ばれた五人のパイロットが出場した。
私も大学時代に熱気球をやっていた縁で、児玉義実さん(五十一、栃木)のチームのお手伝いに加わった。
久々の気球は、GPS(全地球測位網)が導入され、地上の追跡にはグーグル・アースというインターネット上の地図も活用。様々な熱気球用ソフトや機器が導入され、十七年の時の流れを感じる。
だが、一番機械化されて欲しかったゴンドラや球皮の仕舞い込み、運び込みなどの力仕事にはほとんど機械化の要素が見当たらない。さらに笑ったのが、大きな扇風機で球皮に風を吹き込ませるのだが、その扇風機が途中でガス欠で止まってしまった。すると、突如パイロットの児玉氏が隣に来て、バタリングと呼ばれる球皮を上下にバタバタさせて、風を送り込ませ始めた。一瞬、何が起きたのか?頭が真っ白になる。
そう、確かにあった、バタリング。これは、学生内でも特に一年生の時にやるような腕が痛くなる作業なのだ。しっかりと補充しておいたガソリンをどこかに使い込んだブラジル人技師を恨みながら少ない人数で死ぬ思いでバタリングを開始。まさかこの齢で、ブラジルで、世界選手権で、バタリングをすることになるとは思わなかった。
実は今回のブラジルでの世界選手権は様々なケチが付いて、キャンセルしたりボイコットした選手が多かったそうだ。W杯とまったく同じで、始まるまでの前評判が悪いこと悪いこと。だが、始まってしまうと、なぜかちゃんと出来てしまうブラジル。どうして最初からできないんだろう?
日本から参加して下さった人たちも「心配したけれど、来て良かった」と一様に言ってはくれた。
あとはブラジルで大金を使ってしまった皆さんのクレジットの支払い日に円が高くなっていて、余りお金が引き落とされないようにと願うばかりだ。
遠い日(3)
サンパウロ鶴亀会 井出香哉
私が女学校一年の十二月に大東亜戦争が始まった。
父は最初から「この戦争は負ける」と言って、いち早く大竹市の一つ手前の玖波町に疎開した。海の向こうに宮島が見えて、何回か島巡りもした。朝早く船に水や食料を積んで、島の裏側の浜辺へ行き、網を引いて魚を捕ったり、貝を拾ったり、ご飯を炊いて食べ、泳いだり、大人は酒を飲んだりして一日遊び、帰りは神社を回って帰った。
疎開した家はアメリカ帰りの人が別荘にしていたとかで、表には大きな桜の木と紅葉、松の木があり、春になると桜は見事な花を咲かせた。家の裏にはツツジ、牡丹、石楠花(しゃくなげ)、金木犀(きんもくせい)の花畑があり、家の三方は小高い山で左側と家の前は畠になっていて、ミカン、柿、梅、栗の木、杏(あんず)の木が二十本ばかりあり、裏山は一部が湿地になっていて、百合の花が咲いていた。祖母が百合根を炊いてくれたが、ホコホコして美味しかった。
水は井戸水なので、母が水汲みが大変だろうと、竹を切って、山から樋(とい)を引いたがあまり水は出なかった。
畠の左手の土手の段に蛇の穴があり、夏の暑い日は、土間に青大将がとぐろを巻いていた。
私の家は山の中腹の一軒家で、麓(ふもと)には漁師の家が十軒ばかりあって、間に汽車の線路があり、土手にはスミレ、タンポポ、ツツジ、月見草の花が咲いた。今ではセメントで固められている。
私は学校の行き帰りは汽車通学をしていたので、家までの三十分あまりを本を読みながら歩いた。
何しろ私は何も分からない山猿なので、誰とでも話ができるように友だちが「歌」と言えば歌の本を、「画」と言えば画の本をと、あらゆる本を読んだ。
そのお蔭か、広島放送局が声優の募集をした時、十人に一人の難関を突破することができた。
志は達成できなかったけれど、私の青春は充実していた。
戦後、日本へ行った時、玖波の従兄弟(いとこ)を訪ねるのに汽車が昔の我が家の前を通った。昔の儘で懐かしかった。
何も彼も思い出。胸が痛くなるような二度とかえることのない日々。遠い日。
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