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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2014年9月号

2014年9月号 (2014/09/14) 文協に一言

熟年クラブ清談会 永田敏正(一世、七十四才)
 八月二日、文協にて安倍総理の歓迎会が行われた。一番前の席に座って、質問会でもあったら一番に話そうと思い十三時に待っていた。
 とにかく立って待っているのはひどかった。それでも一時間ほど経ったら、インダイアツーバから来たという若い婦人の方と雑談ができた
 そこへ二人の婦人が増えて、急きょ、座談会となった。
 二人のモジの壮年が「あれっ! もう来ているの」と、一番を狙ったらしく、輪になって座談会に入った。待つ苦しみはどこかへ消えてしまったのである。
 ポリシア(警察)が車で警察犬のシェパードを二匹連れて来て、打ち合わせをしていた。玄関の階段に赤ジュータンを敷いているので、「どこかの業者ですか?」と聞いたら、「文協の者です」との返事。消防隊員の服装をした青年が見張りをしていたので、「何をしているのか?」と、尋ねると、なんだかんだと説明してくれたが、意味が分からなかった。デモ隊でも来た時の警備かと感じた。
 二時半に入場開始というのに、先頭の列の塊が十人ぐらいになった。そこへニッケイ新聞の編集長が取材に来た。「誰が一番か?」「ハイ、私です」と答えて、取材が始まった。そこにサンパウロ近郊の町の市長であるブラジル人が紹介され、一緒に写真に納まった。紙上にて紹介されたのは初めてであった。
 そうこうしている内に時間が来て、入場開始となり、団体名は「熟年クラブ」と言ったら、すぐ名簿リストを見て、名前を確認して胸に緑のシールを張って大講堂に入り、整理係の着席指示を待った。
 なかなか指示がないため、中に入って探したら、椅子に「老人クラブ」と書いてあった。熟年クラブと言ったから通じなかったのだと思い、大きな声で「熟年クラブ! 老人クラブの方はこちらですよ」と係でも無いのに、案内役をやってのけた。つい、癖が出て世話を焼いた。二十人の指定席に五十嵐会長も座って、六人だけが熟連関係で、あとは一般も混ざってしまった。
 とにかく案内人から受付まで要領が悪く、混雑して時間がかかったのは文協の手際の悪さが原因だろう。
 それと、総理の到着時間と司会者との連絡も悪く、ウロウロであった。一時間以上もの待ち時間で、観客が退屈にならないようにどう誘導していくか。これは文協と司会者のつとめであり、観客への思いやりでもある。
 会長は総理と同行して不在だから、副会長なり、実行役員が責任者となり、折角一千人以上もの人が集まったのだから、その席上で「空調もこのような設備にしました」とか文協から離れた日本人の心に対して、活性化のために「このような新規格を持っています」とか宣伝すべきチャンスがたくさんあったが、一言も会員獲得の話が無かった。
 司会者もベラベラとポルトガル語で話しっぱなし。男女二人の歌手を呼んで、前座をつとめていたが、歌謡曲を聞きに来たのではないのだ。日本の総理大臣の話を聞きに来たのである。
 到着が遅れるのは当たり前であり、慣れている事だ。要は、責任者は日系団体を紹介したり、婦人部のコーラス発表をするなり、指揮者とかピアノ演奏者の紹介をするのが礼儀である。
 会場の盛り上がりに重要な役目である進行、司会者の訓練が大事である。文協の活性化への熱意が見られなかったのは残念であった。


旅行は楽しいけれど疲れるもの!

サンパウロ中央老壮会 栗原章子
 今年も一月から八月、現在まで、誘われるままにあちらこちら旅行して、楽しく過ごしたが、少々クタビレテシマッタ。
 まず、一月三日から十二日までは妹の友達とサンパウロからアルゼンチンのブエノス・アイレスまでバス旅行。
 長時間バスに乗っていて腰が痛くなるのではないかと心配したが、早めにホテルに着き、毎晩ホテルでゆっくり休めたので、あまり疲れることもなかった。飛行機で真っ直ぐ現地に着くのとは違い、バスからゆっくり広大な大豆畑や牛がのんびりと牧草を食む光景や真っ赤な太陽がゆっくり木々の間に沈んでいく光景が見られ、心が和んだ。
 サンタカタリーナの町々を通り、地続きの国境を越えて、いつの間にかウルグアイに入り、モンテヴィデオで一日観光したり、スーパーへ行って、水やパンを買ったりした。アルゼンチンと違いウルグアイのスーパーでは、現地のお金(ウルグアイ・ペソ)しか受け付けていなかった。
 モンテヴィデオでは海だか河だか分からない水辺に夕日が沈むのが見られ、感動した。
 モンテヴィデオから真っ直ぐアルゼンチンに向かったが、国境を越えるのに書類を厳重に調べられたが、難なくクリア。旅行の最終地点のブエノス・アイレスではあちらこちらで国民がデモをしていた。官邸(カーザ・ロザーダ)の近くの広場ではフォークランド島でイギリス軍と戦った兵士達が「約束の給料を払え!」という抗議デモをしていた。簡単に遠くからやってきたイギリス艦隊に負けたのに今更「給料を払え」もないだろうと思ったのだが、本人達にしてみれば死活問題なのであろう。
 十日間のバス旅行から帰り、溜まっていた翻訳の仕事をしたり、日本語教師の仲間と毎月やっている勉強会の準備をしたりしているうちに、五月になり、今度は友達と二人で英語もあまり分からないままカナダのバンクーバーに旅行した。
 バンクーバーではお昼にほとんど毎日美味しいと勧められるままサーモン料理を食べたが、サンパウロのチリ産のサーモンと変わらない味がしてさほど美味しいとも思わなかった。ただ、ロッキー山脈の雪を被った山々は大変美しく、国立公園では真っ黒な大きい熊や美しい姿の鹿や狼(私は逃げていく狼の尻尾しか見られなかった)や可愛いリス、それにスキー場のゴンドラからは三匹の小熊などが見られ、自然を堪能することができた。
 八月十日から十七日までは姉の息子、そのお嫁さんと家族、それから私と妹の総勢七人でアルゼンチンのバリローチェに行った。若い子達が毎日スキーに興じている間、オジサン(甥っ子の舅)とオバサン(妹と私)は毎日マイクロバスで観光して回った。スキー場には二度ほど行ったが、ただ、見ているだけで、氷のように堅くなっている斜面では到底滑る気にはなれなかった。その上、スキー場を歩くだけで転んで膝を打って、痛い思いをした。ただ、小さな子供達が目もくらむような斜面をスイスイ滑っているのは見ているだけでも何だかゾクゾクして寒さのせいばかりではなく、鳥肌が立つ思いがした。
 大きな湖に囲まれ、雪を頂いたアンデス山脈のすばらしい景色を心行くまで楽しめて、柔らかいアルゼンチンの肉やピンク色した鱒の姿焼きもとても美味しく食べられ、とにかく楽しい旅行だった。
 バリローチェはここが同じアルゼンチンかと思うほど国民は大らかで、観光客も金持ちの子息のスキー旅行といった感じの若者が多かった。 ただ、道路を走っている車はサンパウロではあまりお目にかからないオンボロ車が目に付いたし、タクシーも乗っているのが恥ずかしくなるようなボロイタクシーが多かった。運転しているのも「退職後の内職にちょっと稼ごうかな?」といった感じのお爺ちゃんドライバーが多かった。
 旅行から帰り、いつものように溜まっている仕事を片付けるのにフウフウ言いながらも、さて、次はどこにしようかな、友達がどこか誘ってくれないかなあと心待ちにしながら、週二回(文協と熟年クラブ)の健康体操で、少々体を動かす日々を送っている。


一期一会「ブラジル雑感」

東京都在住 伊藤和明
 八月二十一日(木)午前八時、ガイドさんの車に乗ってイグアスに向かう。日本にいる家内が十年前に訪れたイグアスの大瀑布の素晴らしさをいよいよこの目で実際に確かめられるのかと思うとワクワクする。
 平日という事もあり、九時二十分に到着した時はそれほど混雑もしてなく、スムーズに入場することが出来た。
 遊歩道を散策しながら滝のカーテンを見上げるポイントに到着。亜熱帯性の密林に覆われた大地を豊かな水量をたたえて流れるイグアス河。その川面が大地の緑に飲み込まれ、はるか先からでも分かるほどの膨大な水しぶきの白煙を上げて世界最大の大瀑布を形成している。まさに到着したこのポイントは驚異的な迫力と神秘的な美しさ、なおかつ自然のパワーそのものをずぶ濡れになりながら感じることが出来た。
 さらに遊歩道を歩いて行くと、全長約四㎞の間に落差四〇から八〇mの大小約三百の滝が段を成して連なっている姿はまさに「これ、圧巻」。言葉に表現できない。ただただ唖然としか言いようがない光景。
 尽きることのない水の轟音(ごうおん)。人間の力など何も寄せ付けない自然のパワー。陥没した大地に吸い込まれる水の圧力。そして、流れ落ちる水のパワー。どれ一つを取ってみても一億二千年前から育まれてきた自然そのものの姿であることを実感した。
 二十二日(金)はアルゼンチン側からイグアスを見ることが出来た。遊歩道を進んで行くと、川の上、滝の前まで張り出している橋がある。この先端まで進むとイグアスそのものと言ってもいい迫力ある眺めを望むことが出来た。残念ながら「悪魔ののどぶえ」は洪水のため展望台が流され見ることは出来なかったが、目の前に落ちる滝、また、展望橋の下に押し寄せる滝。これでもか、これでもかと叩きつける水量にはただただ圧倒された。「これぞ!イグアス」と叫ばずにはいられない。本当に生涯の思い出に残る一シーンを見ることが出来た。
 さて、今回はからずも篠崎路子さんのお世話でブラジルを訪問することができた。日本にいる時は「う~ん、ブラジル。日本の反対側にある国」などと漠然と思っていた。
 しかし、サンパウロの地を踏み、人、町、施設、自然に接しているうちに様々な事を感じることが出来た。
 その一つは先住民と白人、ポルトガル人やイタリア人、ドイツ人、そして日本人など数多くの移民を受け入れてきた土壌の中で、混然となって社会が形成されている事。二つ目に会って挨拶を交わしたすべてが本当に心から親切な声を掛けて下さった事。日本社会には見られないあどけなさ、朗らかさ、鷹揚(おうよう)さなどが横溢(おういつ)している事などである。
 アチバイアで花の栽培をなさり、パークゴルフを手ほどきして下さった小林さん。アチバイアまでの車の運転をして下さった斎藤さん。朝のラジオ体操ですがすがしい挨拶を返して下さった皆さん。一つひとつがブラジルでの良き思い出となる事が出来た。家内共々感謝している次第です。
 またいつか来てみたいな…。このブラジルの空。ブラジル町。そしてブラジルの人…。


遠い日(4)

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 山の家に住んでいた時、私は休日はいつも裏山に登って海を見ていた。厳島(宮島)が目の前に見えて、漁師の舟がてんてんと漁をしていた。
 年の暮れに父がしめ縄を作っていて、「ウラジロを取って来い」と言った。裏の谷に行って羊歯(しだ)を取ってきたら、「いつも山に行っているのにウラジロも知らんのか」と叱られた。私はしめ縄にぶら下がっているのは羊歯だとばかり思っていた。
 ウラジロとは、羊歯の葉の裏が白いのだそうだ。
 雪が降ると、汽車の線路まで母が雪を踏み固めてくれた。線路を超すと、片側は崖(がけ)道で道の下は田んぼになっている。
 ある秋の日、台風の予報が出ていて、学校は半日で下校した。かなり風の強い崖道を歩いていて、あっと言う間に田んぼに吹き飛ばされてた。どんな風にして落ちたか分からない。気がついたら私は田んぼの中に立っていた。幸い稲刈りが終わった後だったので、ケガはしなかった。戦時中だったので、汽車は時間通りに来たことが無い。来ても満員で、デッキにぶら下がるか、機関車の後か貨物の上によじ登るかで、貨物の上に乗った時は屋根もなく、トンネルでは煤煙(ばいえん)と煙(けむり)で息も出来ない。汽車を降りたら、真っ黒になっていた。
 各学校で汽車の車両を決められていて姉は前の方。私は後だったから私が改札を出たら姉はもういなかった。いつも「怖い、怖い」と言うので、「どうして私を待たないの?」と聞いたら、「あんたが乗っているかどうか分からない。一人になるのはいやだ」と言う。私が改札を出る時は一番最後なので、誰もおらず、一
人で歩いた。汽車が遅れるので帰りはいつも夜だった。駅から三十分ぐらいの所に 隧道(づいどう、現=トンネル)があり、電気も付いてなく真っ暗でここは走って通る。 隧道を出たら、漁師の家があり、家と家の間に私道があって、山道にかかる。私はいつも歌を怒鳴りながら帰った。
 家の裏に竹藪があり、祖母の仕事部屋の納屋があった。よく藁(わら)で草履(ぞうり)を編んでくれた。戦時中なので、靴などは貴重品で田舎の子は藁草履を履いていた。


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