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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2014年10月号

2014年10月号 (2014/10/14) 花より団子

インダイアツーバ親和会 早川正満
 親和会主催で今年はアルジャー花祭りに行って来ました。当初は四十名程だろうと、市の福祉課にバスをお願いしていたのだが、二世の今西会長の人気もあって、六十名を超す参加者が集ってしまい一台では乗り切れない。会長は早速、市と交渉して、小型バスをもう一台出してもらう事に成功。希望者全員が行くことが出来た。
 私がアルジャー花祭りへ行くのは二回目で、前回は花に眼が集中して出店の面白さに気づかなかったのだが、今回、薬草屋に巡り合ったのが収穫だ。そこで草梅の乾燥したものを購入したのだが、ふと「これは血液をサラサラにする効果があるんですよね」と店主と話していると、近くにいた日系の四、五人から薬草の効果の質問が集中した。そこで「糖尿病や高血圧の原因の一つである血液のドロドロを少しでもサラサラの流れにすれば、効果があるはずですよ」と答えると、一斉に皆さんが買い求め、花場での団子の感がしました。
 『薬草屋』と書いた旗でも看板でも出して、薬草の説明ができる人を置けばもっと流行ったのではないかと思いました。さらに移民当初の開拓生活の多忙な中、日本食品を一から作り商品化したり、薬草の採集や利用をかなり詳細に行った日本人は改めてすごいな、と思いました。
 一緒に行った友だちは「薬草というより、ふるさとを思い出す」と言ってゲンノショウコの苗を一鉢買い求めていました。年寄の団体に於いては、あの出店は「花より団子」になると、私は感じました。
 詩『彼岸花』
祖国より持ち込まれた花の咲く時期が
季節の反転に合わせて
違うのが常
彼岸花だけが
今年も九月に咲く
両親が仲良く寛いでい云った両親の霊
今年も帰って来たよと
彼岸花で伝えるように
花に霊魂が宿ると云ったら
それは彼岸花かも
念仏を唱えて
合掌する


ことわざの日本文化

熟年クラブ清談会 永田敏正(一世、七十四)
 日本語の「話し言葉」は何が難しいといえば、話す側と相手側が、子供か大人か、男か女か、単数か複数か、肩書きが 同じか目上か、目下か、また関係度合いが深いか薄いかと言うような違いによって表現が変わるといことです。本を読んで身につけることです。
 古来から、親から子供、師から弟子などに「しつけ」、教育、訓練にあたる「ことわざ」すなわち伝言の一部を拾い上げてみました。
 日本文化にはこうした人間の品格、人柄を目指して「和」を重んじてきました。基本的には「思いやり」「おもてなし」という他人を尊敬する心です。
日本国土は、自然と環境に恵まれ、四季がはっきりしています。神の国とした神秘的な信仰心に陥り、独創的な発想力すなわち文化を育んで来ました。外来異文化でも、自分達に合ったものに改良して使ってきたのです。たとえば漢字でも中国からの文字を、簡素化し、ひらがなを創り、外来語にはカタカナを使って区別してきました。
 仏教の教義においても、僧侶という専門的学僧しか理解、修行できない難しさから、簡単に庶民でも修行できるように、念仏宗の「南無阿弥陀仏」だけにしたり、法華宗では仏法の究極は題目の「南無妙法蓮華経」の七文字」を唱え、人に勧めることであるとしてきたのです。
 これならば、頭の良し悪しに関係なく、日本語の通じない海外でも広めることができます。
 国の品格は国民一人ひとりの品格が総合されたものであります。精神的な文化醸成(じょうせい)には、長い年月の歴史があって初めて、結実するのです。日本人特有の財産でありますが、他国に見習うようにと押し付けても、簡単に浸透するものではありません。
 かといって無関心で放置しておくので無く、たとえ一つでも生活に取り入れて、人間向上に役立ち、地域や集団の繁栄に繋がっていけば、最後には国全体の改善になるのではないでしょうか。
 この使命に生きるのが日本人移住者の目覚めではないでしょうか。
 次に「ことわざ(人生訓)」の一部を紹介します。
◇人生は芸術
―創作、ドラマである。世界にあなただけの生き方なのだ
◇周囲から必要と思われる人に
―あなたの命、人生は貴重な存在だ
◇甘えを捨てる
―他人に頼り楽に頼るな。苦労は買ってでも貴重なものだ。
◇心を使わず心を開け
―その事だけにこだわらずに広げてみよう。
◇考え過ぎるな
―くよくよするな。時が解決する。
◇計画力実行力は無限
―まだほかに方法はある
◇自分の仕事に惚れ込め
―自信と誇りをもて
◇中心を掴め
―事の核心を知る
◇創意工夫する過程が楽しい
―答えが出るまで考えること事態が楽しい。
◇好奇心を育てよう
―珍しいと感じる気持ちから始まる
◇先祖崇拝
―先祖に感謝しその徳を得る
◇素直な心で接しよう
―疑う気持ちは後で
◇捨てれば開ける
―いつまでも持ち続けるな。心を空にする時も必要である。
◇目先の失敗で諦めるな
―その先の先もある
◇色々なことが面白い
―取り組む気持ちに愉快と楽しみを
◇自分の事は自分が決断する
―人に決めてもらうのではない
◇人の生命は、常に瞬間あるのみ
―今の瞬間を大事に
◇他人の人格を認める
―常に敬意を持つ
◇反省は休むに似たり
―これで良いか? と確認しながら進める
◇明るい方へ明るい方へ
―美利善の価値を高める
◇感謝を忘れずに
―周囲が自分を支えてくれている。
◇時代に適(かな)っているかを考えよ
◇慎(つつし)み心を忘れずに
―贅沢(ぜいたく)せずに、物、道具を大事に
◇使命感を持つ
◇真っ向一途(いちず)の信念
―命を掛けようとの真剣さ。
◇われもよし ひともよし
◇かんしゃくはすべてを失う
―怒ってはぶち壊しである。
◇その場その場に順応
―郷に入れば郷に従え。
◇周りに気を配る
―喜ばれているか、迷惑と思われていないか。
◇いつまでも強情を張るな
―言うだけ言って、聞かないならば引くこと。
◇自由と自分勝手とは違う
―自由とは自分も周囲も喜ぶが、自分勝手とは自分だけの満足。
◇もしや問題が起った原因は自分からではないか
◇誰にでも尊敬する気持ちを持つこと。
◇嘘(うそ)つきはどろうぼうの始まり。


「素人芝居」後日談

サンパウロ中央老壮会 香山和栄
 老壮の友八月号に纐纈蹟二氏の書かれた「素人芝居」の中に「神崎与五郎(かんざきよごろう)東下(あずまくだ)り」を読み、私の故郷・岡山県津山市の事を懐かしく思い出した。
 「かんざけよかろう」と峠の茶屋で酔っ払いの馬子(まご)にからまれ、ならぬ堪忍(かんにん)するが堪忍をした、赤穂浪士(あこうろうし)四十七士の中の一人のお話である。
 五十年前、私がブラジルへ移住する時の市の助役(じょやく)は神崎という方であった。江戸時代は美作(みまさか)の国、作州津山(さくしゅうつやま)と呼ばれ、農作物はよく実り、美味で二刀流(にとうりゅう)・宮本武蔵の生国(しょうこく)でもある。作者・吉川英治(えいじ)によって、「山また山の奥」と書かれた在所(ざいしょ)である。私の級友には宮本さん、新免(しんめん)さんたちお馴染みの名前の人がたくさんいらっしゃった。
 蹟二氏とかしこまって書いているけれど、喜月(きげつ)さんと呼んで親しくして頂いている句友仲間でもある。以前、「和栄さんと自分は同じような国訛りだけれど、どうしてだろう? 私は岐阜県の兼山(かねやま)という所で育ち、そこには織田信長と共に『本能寺(ほんのうじ)の変(へん)』で殉死(じゅんし)した森蘭丸(もりらんまる)、力丸(りきまる)、防丸(ぼうまる)の居城があった所で、遠く離れた岡山県生まれの貴女が、大変な事や大きい事の表現に『ぼっこう、どえらい』と同じように言われるのが、不思議だ」と言われた。
 史実を見ると、森家には四男・長政氏がいて、豊臣秀吉の時代、津山鶴山(かくざん)城十八万石の城主に封じられたとあった。世は移り変わり、徳川時代、森家は四代で改易(かいえき)となり、その後、越後(えちご)の国から松平氏が入城親藩となった、とある。備前(びぜん)岡山の烏城(うじょう)池田氏は外様大名(とざまだいみょう)、近くにある倉敷は幕府直轄の天領(てんりょう)となり、米や種々の産物を入れる蔵が立ち並び、名も倉敷となったとある。
 津山地方には「神伝流(しんでんりゅう)」という伝統ある水錬(すいれん)があって、学校の必須科目であった。私たちの旧制女学校では体操の成績にも関係して、何メートル泳げるか競争であった。
 その泳ぎ方が喜月さんと同様に横向きに体を傾けて片方の耳元でバタフライのように掌足を伸ばし縮めて、すいすいと浪も経てずに水中を進んでゆくのである。まるで、忍者のように…。内田百閒(ひゃっけん)の随筆に「神伝流には免許皆伝(めんきょかいでん)があり、山奥のわずかな水でも、水は霧となり、雲と変じてさらっと水をかぶった位のところで何かするのではないか」と書かれている。私たちはクラス全員で市中を流れる吉井(よしい)川の上流で泳ぐ練習をしていたけれど、今では学校ごとに立派なプールが備わっている事であろう。これは終戦前の話である。
 終戦前後のあのひもじかった時代、姫路から津山を通り、新見(にいみ)へ行く姫新線(きしんせん)という鉄道があり、その汽車で美作(みまさか)高女へ通う美女がいて、「姫新線の女王」と呼ばれた。後年、千明しのぶと言われる女優となり、映画「宮本武蔵」の千恵蔵の相手役のお通となって出演された。ほっそりと面長の津山駅頭でひときわ目立つ女学生であった。中学生たちのあこがれの的でもあった。今はどうされたか。八十路(やそじ)も半ばである。往時茫茫(おうじぼうぼう)。私の前髪も真っ白くなり、後ろ髪はまだ半白になって残っている。


遠い日(5)

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 一度、家の上でアメリカと日本の飛行機が空中戦をやり、空薬きょうがバラバラと落ちてきた。弟はそれを拾い集めて、友だちに見せ、自慢していた。
 戦争中で食料は芋の粉や大豆粕などを配給で貰っていた。
 家が畠に囲まれているので、食物があると思ったのか、兵隊さんが登って来た。お腹を空かしているので、お芋を蒸かしたり、お団子を作って食べさせたら、日曜日になると、友達を連れて来てだんだん人数が増えて、母が悲鳴を上げた。
 何日だったか忘れたが、潜水学校が空襲された。広島からも空が黒く見えた。早退をして家は無いものと思って汽車を降りたら、あたりは夕方のように暗くて煙に包まれているが、別に変わった様子はない。
 家に帰ると、「潜水学校で事務員をしている姉がどうなったか」と母が心配していた。姉は夜になって、無事に帰ってきた。
 日本の潜水艦がアメリカの飛行機にやられて、沈没するのをこちらから見ていた人たちが皆、泣いたそうだ。
 これは戦後だが、隣の大野浦の山の中に陸軍病院があった。ひどい台風が来た時、鉄砲水で病院が流され、白衣の兵隊さんの死体が何体も流れてきた。折角、行きて終戦を迎えて、元気になる日を待っていただろうにと、胸が痛かった。
 山の家は弟妹が学校に行くのも、下の井戸から母が天秤棒で担ぎ上げる水汲みも大変なので、町の郵便局の後に引っ越しをした。
 部屋が十二もある洋館で町では一番高く、汽車に乗っていても屋上が見えた。この家では姉も私も二つずつ部屋をもらった。父はこの家の手付金を私に大竹市の銀行に取りに行かせた。今でも覚えているが、四万円の現金を風呂敷に包んで自転車の荷台に括り付けて山の上に帰った。七十年前の四万円は大きかった。父も私も平気だった。父はよく「お前が男だったらなぁ」と言ったものだ。
 郵便局の家には地下室もあって、さつま芋、野菜、漬け物などの保存場所にしており、夏でもひんやりしていた。屋上には物置と選択物干し場があり、駅や海が良く見えた。
 母が干しイモを創るために蒸かし芋を並べると、私と弟は飴色のまだ半乾きの芋を選んで食べ、叱られた。
 通りを一つ渡ると、港があり、子供たちはそこで泳いだ。今の親たちは、子ども一人では水に入らせない人が多いが、あの頃は小さな子ども一人でも泳ぎに行った。私のすぐ下の妹が貝拾いに行って、気が付くと潮が満ちて来て、誰もおらず、彼女は片手に貝の入ったバケツを持ち、片手で泳いで浜にたどり着き、家に帰ったら、家族はちゃぶ台を囲んで夕食を食べていて、「お帰り」と言っただけで「誰も自分のことを心配していなかった」と今でも憤慨(ふんがい)している。
 山の家でも私が夜、暗い山道を帰るのに、家族は心配したことが無い。たぶん、戦争で男の人はいないし、悪い人もいなかったし、皆が大らかだったからだろう。
 夏になると、道の両側の家では縁台(えんだい)を出して、子どもたちは大人から怪談(かいだん)を聞き、大人たちは四方山話(よもやまばなし)や将棋(しょうぎ)を差したりしていた。昔の事だし暑いので、年寄りは褌をして裸なので、前を通る娘たちが下を向いて足早に逃げるように行き過ぎた。(つづく)


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