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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2014年12月号

2014年12月号 (2014/12/15) 徒然なるままにカナダでの日々

サンパウロ中央老壮会 篠崎路子
 シニア館には大きな作業室があり、絵画、陶器、編み物、パッチワーク、手織りなど充分に趣味を楽しむ場所が用意されてます。食堂では昼食が実費で用意され、ティータイムもあって一日の大半の時間を充溢して過ごせるようになっています。
 各教室で製作されたものは展示即売のコーナーに市価よりも良い物が安く手に入れることが出来ます。私はお目当てのパッチワークのベッドカバーを女の孫二人に求め、孫の喜ぶ顔を想像してはワクワク。大収穫でした。
 滞在中にシニア館でのファッションショーにも出かけました。ちょうど娘の友だちの母君も日本から来ていたのでお誘いしました。ホールのテーブルには花がアレンジされ、ピンクのナフキンと紅茶、お土産のチョコレートまで箱に入ってセットされています。女性のピアノ、男性のギター演奏によりショーの開始です。洋裁グループによる本人お手製のドレス、スーツで颯爽(さっそう)と花道に登場。万雷の拍手。口笛、投げキッスまで。そのあと、ビンゴの抽選が続き、言葉も分からないのですが、同世代という気安さからでしょうか。退屈もせず、二時間余りを心地よく過ごせました。
 先進国カナダでの老後は長年、もろもろの高い税金を払った見返りとして、十分な年金、交通手段、レストラン、買物などのシニア料金により手厚く保証されているのは羨ましい限りです。
 さぁ! ダウンタウンに出かけましょう。娘の住むノースバンクーバー地区は山をバックに前方は湾に隔(へだ)てられていますので、市民の足はもっぱらシーバスというフェリーを利用することになります。バスのターミナルとフェリーは直結されていますから、ラッシュアワーを避ければ、乳母車は無論、コーヒーカップ片手の若者は自転車で乗り込んできます。フェリーは全長三十メートル程もあり、ガラス張り、すわり心地のよい座席で対岸のダウンタウンの発着所まで十五分。前方に高層ビルのダウンタウン。後方は残雪の山を見ながらちょっとしたクルージング気分です。バスの運行並びに二隻のフェリーが行き来しますので、一時間半通用のチケットで、バス、フェリー、地下鉄がシニア料金で一ドル五十セントでダウンタウンまで行け、ショッピングも可能です。改札口はあってもほとんど係員を見ることはなく、無賃乗車しようと思えば「どうぞ…」ですが、ある日、ある時刻に抜き打ち検札にあったら、警察の調書を取られる由。幼少時から学校や家庭でモラルを厳しく躾(しつけ)られるカナダ人気質には不正は考えらないようです。
 バスの乗車の際に切符ボックスがあり、時間が記入される仕組みになっています。フェリー発着所はそのままダウンタウン、ビジネス街に続いています。湾内にはクルーズ用の大型客船がアラスカ航海に向け一時停泊、客待ち顔です。
 サンパウロ、パウリスタ大通り同様、総ガラス張りの超モダンなビルが立ち並ぶビジネス街に向かって歩き出しますが、一八〇〇年代の石造りのビル、教会も大事に保存されて健在しているのを見ると、イギリス統治時代の歴史を感じさせられます。 
 今日は娘とデート。目指すはアメリカ系デパート「シアス」です。ブランド品の高級ブティックコーナーへ。見るからに高そうなワンピース、スーツ、バックなど。「誰が買うの?」。娘曰く「中国人よ」と。カウンターで支払いをするのは金持ち風な中国人親娘です。両手にいくつもの紙袋を提げた香港からの新移住者です。香港が英国から返還された際、多数の中国人富裕層がカナダに移住。そのためにカナダの不動産が値上がりしたとか。私と娘はこのコーナーにそぐわぬTシャツ、ジーンズ姿。早々に退散することにして五字過ぎにはダウンタウンで働く婿と孫二人(ティーンエイジャーの男の子と女の子)と待ち合せ、中国人経営の鮨レストランに。
 「所変れば品変る」といいますが、ここカナダで食べる鮨は、我々の考える日本鮨とは「月とスッポン」ほどの違いに驚きます。マンゴ、アボガド、鳥の照り焼き、海老の天ぷら、カニカマ、キャビア風魚卵、マグロフレーク等々。ケーキ風だったり押し鮨風に型取られた鮨ご飯にケーキのデコレーションよろしく彩りよくバラエティーに富んだネタが飾られます。孫たちの目当てはそんな変り鮨。私と娘、婿は定番の握り鮨、鉄火巻き、かんぴょう巻きです。デザートはアイスクリーム店で焼きたてのワッフルに好きなトッピングをし、お婆ちゃんのおごりで支払いを済ませ、帰途に着きます。
 フェリーに乗る前に新聞スタンドで週一回発行の日本語新聞を求め、日英語のタウン雑誌も。二、三日は日本語活字に飢えている私がむさぼるように隅から隅まで読み込みます。
 七月から九月頃まで夏休暇に入ります。白夜まがいに夜十時近くにならないと暗くならないので、気をつけねば睡眠不足の日が続き、のっぴきならぬことになります。今日はここまで。またの機会に。


デマ

サンパウロ中央老壮会 鷲見(すみ)和弘
 「文芸春秋」の創刊九十周年記念号のページをめくっていたら、デマという題で、松下幸之助の随筆が載っていました。日本を代表する国際的大企業・パナソニック(旧松下電器)を一代で築き上げた、経営の神様と言われた松下幸之助の文章です。
 内容は彼が七十歳の頃の話ですから、すでに名を成し、功を遂げてからの出来事です。
 「ある会合に出席するために大阪商工会議所に到着し、車を降り、玄関へ入ると多くの新聞記者が『アッ、来た、来た!』と言って、駆け寄ってきたのである。『何事か?』と呆気にとられていると、そのうちの一人が『松下はん、あんた生きてたんでっか』と、とんでもないことを言う。トッサのこととて、私には何が何だかわからない。『何やいナ。バカ言うたらアカン。ぼくはこの通りピンピンしてるがナ』『ヘエー、よろしおましたナ。あんたが危篤やいうウワサでしたんで…』。横からまた言う。『いや、死なはったいう話で…』。今度はこちらが『ヘエー』である(後略)」。ざっとこんな話です。
 実は私にもこれに似た体験があるのです。今から三年前の東日本大震災のあった年(二〇一一年)に、長年続けてきた商売を辞め、その店舗を貸し、自由の身になったのを機に日本にある父母、先祖の墓参りを決意し、故里へ出かけました。
私の生まれ故郷の隣町に住んでいる娘の家に着き、ホッと一息ついていると、突然、電話のベルが鳴り始めました。応対した娘が「パパイによ!」とのこと。「俺が今、日本へ来ている事など誰も知らないはずだがな。変だな」と訝(いぶか)りながら、受話器を取ると、突然「おい、かっちゃか?ほんとに、すみのかっちゃか?」と大きな声が耳に飛び込んできました。一瞬、間違い電話ではないかと疑い、突っ立っていました。電話の主は六十年前に小学校へ一緒に通った森岡の正信くんだったのです。
 彼の話によれば、「私が既に死んだことになっているぞ」と言うのです。
 「冗談じゃないよ!俺は今、ブラジルから着いたばかりで、この通りピンピンしているよ」と応えますと「今から本当に生きているのか、間違いなく脚のある本物の鷲見か、確かめに行く」と言い出し、否応もなく跳ぶようにして娘宅へ駆けつけて来ました。そしていろいろ話し合ううちに仔細が分かって来たのです。
 数年前に我が出身県の移住百周年の記念式典がサンパウロで行われました。その式典に参加するために母県からは県知事をはじめ、県出身の政財界人や留守家族の人々数十名が訪伯しました。
 そのメンバーの中に一市会議員がおりました。この市会議員は私の小学校時代の同級生の光男くんの義弟で、日本を出るとき光男くんが「ブラジルのサンパウロには鷲見くんがいるはずだから、出来たら消息を尋ねてきてくれ」と頼まれたそうです。そこで、その議員さんは県人会主催の歓迎パーティーで、ある役員さんに聞いたところ、「スミ君はもう亡くなりましたよ」と言う返事だったそうで、それが日本へ帰って言い伝えられたのが真相のようです。
 全くの罪な話で、びっくり仰天でしたが、私が元気なのを確かめた正信くんが早速近くに住む同級生に電話し召集してくれ、その晩は十人ほどで歓談し心行くまで杯を飲み交わしました。さらに一週間後、子供の頃から世話好きだった正信君がさらに多くの学友に呼び掛けてくれ、男女合わせて三十名程の同級生と共に長島温泉ヘ一泊二日の小旅行に出かけ、旧交を温めました。
 六十年前には素足で校庭を駈けずり回っていた洟垂(はなた)れ小僧も、今では髪が真っ白か剥げ、お腹はビール腹。いつもめそめそ泣き、おかっぱ頭でひ弱な少女もどこかのマダムかと思われる体型に変身、何が起こっても動じないというほどの貫禄になっていました。
 松下幸之助の場合は『死んだ』と言うウワサが流れると途端にパナソニックの株価が下落したそうですが私には縁のない話。しかし、「『松下はん、まあよろしおますがなア。死んだと言われたら、今までの分だけ、さらに長生きできるという言伝えがありますから、あんたももう七十年、長生きできまっしゃろ』となぐさめる人も出てきて、みんな大笑いになったのであった」とあり、実際彼は九十四歳の長寿を全うしたのです。
 私も既に七十歳を超えました。言伝え通り、今の倍長生きできるのなら、せめて長生きだけはあやかりたいものだと思う今日この頃です。


物忘れ

サンパウロ中央老壮会 谷口範之
 老妻と昼食をすませた。毎日のパターンである。茶碗、皿を台所へ下げようとして持ち上げると、皿の下から錠剤が一コ、姿を現した。
 毎朝一番に服用する降血圧剤である。飲んだはずなのに、なぜ、皿の下に隠れていたのか分からない。
 物忘れがひどくなって一年余りになり、今年の初めには、忘れたでは済まされない失態を二度もやってのけている。
 援護協会恒例の、血液検査による高齢者健康診断で、高血圧、腎臓、前立腺ともう一か所に異状がある。専門医の検査を受けるように、との注意があった。三年続けてである。
 毎年、老妻と並んで恩恵を受けているが、老妻には異状がまったくなくて、私にだけ異状が出る。同じものを食べているのに不思議でならない。時に私の血圧は通常十七。時々二十を表示するのだが、まったく異常を感じないから放っておいた。
 そのことを郡部で、薬局と薬の調合を兼ねている末娘に何となく告げた。半分呆れた彼女は「三年間も放っておいて、何を考えてるの。すぐに病院で再検査しなさい」と大変な見幕(けんまく)だ。
 老いては子に従え、である。
 市内に住む長女に病院へ連れて行ってもらった。結果は同じである。処方箋には六種類の薬名が書かれて、続けて服用の言葉もある。
 薬局と薬剤調合をしている娘は、早速、薬を届けてくれたのはありがたいが、注意書きに「一緒に飲んではいけない薬」「時間をあけて飲む薬」など丁寧に指示してある。
 午前は朝、最初に降血圧剤と○○剤、朝のカフェー後、一時間半に××剤とビタミン剤。午後は夕食前か後の一時間半に××剤。夜は△△剤と◇◇剤となっている。
 やってみると、ボケ加減の脳はその通りに働いてくれなかった。飲む薬と時間を混同してしまった。飲むのを忘れることもあり、これではいけないと、表を作り飲むたびに印をつける事にした。万全の策である。
 ところが飲んで印をつけ忘れて、二度飲みをする。書き物や作歌に夢中になっていたり、時代劇のDVDを見ていたりすると、薬を飲むことを忘れて、折角の表を無駄にする始末である。
 夕食のテーブルについて、ふと右端を見ると、小粒で茶色の錠剤が一コ目についた。手に取って眺める。なんと、今朝飲んだはずの降血圧剤ではないか。この前も同じことがあったな、とぼんやり考える。
 体中を駆け巡って血圧を下げているはずの薬がテーブルの上に転がっているのだ。不思議な国に放り込まれた気持ちになる。
 何日かして、朝一番の薬を飲んだ後、しばらくして下唇に何かくっ付いている感じがする。何だろう? と手に取ってみると、飲み込んだはずの降血圧剤が飲まれるのはイヤだ、とばかりにくっ付いていた。なぜ、そんなことになったのか? どう考えても思いつかなかった。
 脳をはじめ、体中の感覚が鈍くなっているせいだろうが、不思議である。
 この鈍さ加減はますます加速するだろうから、いつか来るはずのお迎えが来ても、当のご本人は気づかないまま、彼岸に渡っているかも知れないと思うこの頃である。


霊と話す

サンパウロ中央老壮会 佐藤整
 熟連に入っているくらいだから、皆、あの世に行くのも近い年齢なのに、さっぱり死後の話をしない。死んでからの事は分からないから、と考えておられるのではないか。
 では、なぜ釈迦とキリストはあの世に天国も地獄もおあると同じような情景を話していかれたのか。どうしてこの二人の聖人はあの世の事が分かったのだろうか?ブラジル人はゴーダマ、シッタルター(釈迦)は人間。キリストは神である。一緒にするな、と言い張るが、ヨーロッパのキリスト教と全く関係のない別派のキリスト教では私たちは神の子であると複数形で書かれているそうだ。
 この一行を見た瞬間、思わず、私は聖書もろくに読んでいないが私だけが神の一人児だとはキリストは絶対に行ってないことに気づいた。
 では釈迦とキリストはなぜ、あの世のことまで解ったのか?
 それは(神は人間でなく、霊である)と話したからであると私は思った。霊と話をするなど、眉唾ものではないかと思われる方がほとんどだと思いますが、人間一人ひとり顔が違うように我々は色々な才能を持って生れて来る。自分が分からないから人も分からないと思うのは己をもって人を計る愚かな考え方である。今から三百年前に万有引力を発見したニュートンの公式通りに今、人工衛星が地球の周りをまわるという。万有引力の公式を見ただけで私にはチンプンカンプン。猫の糞だが、しかし分かる人には解かるのだ。この男は神様の生まれ代わりかと思ったものだ。では、現在、霊とどのようにして交信するのか。
 赤子が生まれて、一、二週間すると、さざ波が立ったようにニッコリ笑う。これは赤子は皆、天国から生まれて来るからだ。まだ霊子線という線で繋がっていて赤子の魂の親類(類魂)がこの世での誕生を祝って祝福し、「この世で利己心ばかりで生きている人間にお前が悟りを開いて人心の救済をして帰って来いよと励まされ、頑張るよと笑顔で応えているのだ」と、高橋信次は言っている。その赤子が正調するにつれ、我欲に目ざめると自分自身で霊子線を切ってしまい、あの世との交信が止まる。
 我々は皆、子供の頃は聞こえたんだから切れた所を繋げば元通りに話せるようになると言っている。
 自分自身の体験談を話します。私が五十歳になった時は、日本に出稼ぎに行って、神奈川県の自動車工場で働いていた。会社の寮で夕食後何気なくテレビを見ていたら、宜保愛子さんの三時間特別番組をやっていた。寝ている時、金縛りになる方は神から霊感を与えられた特別の人たちです。霊が来た時はあなたに何か話したいことがあるから来ているのだから「私に何かできる事がありますかと聞いてあげなければならない」と話していた。ビックリ仰天。私にも霊感を与えられていたことを初めて知った。こんな人は統計を取ったわけではないが案外多く、五、六%位いるようだ。金縛りは霊の仕業だったことをこの時、初めて知った。金縛りと言ってもなった事のない人には分からないので説明すると、私が初めて金縛りになったのは三十代前後の時だった。寝ていても手も足も小指一本動かなくなるのだ。そんな馬鹿なと思い、一生懸命力を入れてもビクともしない。こりゃいかん、と思って誰かを呼んで起こしてもらおうと思って、声を出そうと思っても声まで止められてしまって出ない。正確にいうと、わずかながら声は出る。アッ、アッと細切れに少しずつ出る。こんな小さな声では人に聞こえない。もっと大きな声を出さなければと、息の続く限り繰り返していると、それを聞いた人は何か魔物にうなされているように聞こえる。誰も気付かず起こしてくれなければ、最後まで続く。隣まで聞こえるような大声が出るようになると、やっと布団をけっ飛ばせるようになる。起きるのに百メートルを全力疾走したぐらいに疲れる。
 両親が金縛りを全然知らないと、この話を親にしてみても寝言は寝ている時に言うのよと取り扱ってもくれない。子供は本当のことを言っているのに、誰も信じてくれないので人に話さなくなり。両親も精神病の一種ではないかと勝手に思い込んで、人に話そうともしない。
 ある家庭でこの話をしたところ、その家の長女は子どもの頃から金縛りになっていたそうだ。私の話を聞いた時はそこの娘はもう成人になっていたが、「私の言っていた事が本当の事だと解ったか」と、三度も母親を指さして言っていた。母親の方は自分の考え方が間違っていたことに気づいた。君子豹変する(徳のある人が自己の過失を改めることは豹の皮の模様が鮮やかなようにはっきりしている)したが、父親の方はそんな馬鹿げた事があるものかと未だに否定している。
 人間六十歳を過ぎると、自分の物差しにあわないものは皆否定して、人の言うことが聞けなくなる。霊の話は自分自身が霊と話してみなければ、信用できない。私と霊との交信の仕方を知りたいとお望みならば、次の機会に書いてみようと思っています。


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